2014年6月8日日曜日

独楽

独楽

日本の独楽
独楽(こま)は何らかの塊を軸を中心として回転させて遊ぶ伝統的な玩具の一種。軸の先は細くなっており、周りにバランスをとるための重りがついている。
目次 [非表示]
1 独楽の分布
2 歴史
2.1 日本における歴史
3 独楽の型
3.1 一般の独楽
3.1.1 回し方
3.2 複雑な構造の独楽
3.3 空中の独楽
4 独楽の運動
4.1 一般的な独楽の運動
4.2 空中の独楽の運動
4.3 特殊な運動
4.4 機械的にあり得ない運動
5 遊び方
5.1 回す
5.2 競う
5.3 曲芸
5.4 賭ける
6 主なプロの曲独楽師
7 関連
7.1 独楽の種類
7.1.1 特殊なコマ
7.1.2 特定企業が開発したコマ
7.2 地域の独楽
7.3 応用
7.4 その他
8 参考文献
9 外部リンク
独楽の分布[編集]

木製の独楽(スロヴェニア)

Spinning tops
独楽は世界各地でみられ、英語ではTopまたはSpinning top、ドイツ語ではKreiselと呼ばれる。「独楽」は中国語表記。日本では古くはコマツブリまたは古末都玖利(コマツクリ)と呼ばれた。世界各地にそれぞれ独自に発生したものと思われ、独特なものが各地に見られる。
一般には子供の遊びと考えられているが、マレーシアのガシンのように、地域によっては大人も巻き込んだ楽しみになっている場合もある。賭ゴマは大人の遊びである。また、日本の曲ゴマや中国の空中ゴマなど、芸能として認められている。
日本では、独楽作りは各地の民芸品、木地玩具としても作り続けられている。現在では淘汰が進んでしまったが、地域の名を冠する各地に固有の独楽はまだまだあちこちに残っている。特に九州には多くの独楽が知られている。
歴史[編集]

『L’enfant au toton』Jean-Baptiste-Siméon Chardin (1735年)
独楽は極めて古い歴史を持つ。ひねりゴマが最も簡単なこまで、これが初めであると考えられるが、実質的な証拠としてはぶちゴマが古くから存在したことが確認されている。エジプトでは紀元前1500年ごろの独楽が発見されているが、これは木製で円柱の下を逆円錐に削ったもので、ぶちゴマと考えられる。古代ギリシャにもぶちゴマやひねりゴマに関する記述が見られる。
ぶちゴマは、胴を横から鞭で叩いて回す独楽であるが、回し始めの時には先ず紐を巻いてそれを引くことで回すものがある。どうやらこれが紐で回す投げゴマの起源となったらしい。ヨーロッパでは17世紀頃から投げゴマに関する記述や絵が見られるようになる。そこで見られる独楽は投げゴマとぶちゴマが半々程度である。19世紀末からは、工業の機械化や加工技術の進歩によって、より複雑な独楽が工夫されるようになった。また、コマの性質を工学的に応用したジャイロスコープもこの頃実用化された。
日本における歴史[編集]
日本では6世紀ころにぶちゴマのような木製の出土品があるが、確実にぶちゴマだとは言い切れない。また、平城京跡や奈良県藤原宮跡などからも7~10世紀ごろのものと思われる独楽、または独楽型の木製品が出土している。平安時代ごろにはすでに大陸から伝わっており、独楽を使って遊んでいたと言う記録がある。これもぶちゴマであったらしい。また、宮廷の儀式などにも使用されていた。14世紀、『太平記』にはこまという言葉が出てくるが、これはこまつくりを略したものである。また、東北地方では、すぐりなどと、最初の2文字を略していた。
18~19世紀にかけてヨーロッパでは独楽が流行したが、日本でも江戸時代には独楽が大進歩を遂げた。博多ではそれまでよりはるかに精密で長く良く回る独楽が作られた。これは博多ゴマと呼ばれ、この独楽を使って曲芸を見せるのが現在まで伝わる曲ゴマの始まりとなった。元禄年間にその記録がある。しばしば禁令も出されたようである。
江戸の子どもたちは巻貝を加工した小さな独楽の回しっこをしていたことが伝えられており、これが明治中期に金属となって現在のベーゴマになった。ベーゴマも当初はぶちゴマであったらしいが、次第により強く回せる投げゴマに変化したらしい。ぶちゴマは江戸中期に次第に投げゴマに取って代わられたようで、明治以降には日本国内ではあまり見かけられなくなり、昭和後期には商品としては皆無といってよい存在となった。それに代わって投げゴマが日本では独楽の標準の位置についた。子どもの遊びにもこれが使われ、天保年間には喧嘩ゴマとしてより強くなるように胴の外側に鉄輪をはめた鉄胴ゴマが作られるようになった。この形の独楽は永く残り、昭和末まではどこの駄菓子屋にも置いてあったものである。今治市の生産業者は、最盛期には年間200万個も生産したと言う。
しかし、昭和末より次第に投げゴマはすたれ始める。恐らく、子供が外で遊ばなくなり、また、戸外で独楽を回す環境が成立しなくなったためと思われる。駄菓子屋で独楽が山をなした風景は現在では見ることができない。代わって室内で機械式の回転装置をもつ独楽がよく見掛けられるが、室内遊戯である。1999年にベイブレードが出て子供の間でブームになったが、やはり投げゴマではなく回しやすい機構を備えている。
2011年から全国の中小製造業が自社の誇りを賭けて作成したコマを持ち寄り、一対一で戦うコマ大戦が行われ、2012年2月2日には、横浜みなとみらい21地区「テクニカルショウヨコハマ2012」にて、第一回全国大会G1が開催された。第一回全国大会G1にて優勝したコマは、株式会社由紀精密のコマで、レプリカモデルが販売されている。 コマ大戦にて使用されるケンカゴマは直径20mm以下、一円玉より小さいコマで、その小さなコマを製造業が本気で設計し、プロの機械を使用して自社の持てる技術を全て注ぎ込み作成したものである。
当時、心技隊という団体が運営していたが、現在は全日本製造業コマ大戦協会が運営している。
2013年2月7日に、横浜みなとみらい21地区「テクニカルショウヨコハマ2013」にて、第二回全国大会G1が開催された。第二回全国大会G1にて優勝したコマは、有限会社シオンのコマで、ミニレプリカモデルが販売されている。
独楽の型[編集]
一般の独楽[編集]

佐世保独楽
独楽と呼ばれるものには実にさまざまなものがあり、ドングリや巻き貝をそのまま回すもの、木の幹を切り落とし、先をややとがらせただけのものから、内部に複雑な構造を持つものまである。いずれにせよ、地面や固い基盤の上で本体を回転させて遊ぶもので、その回転軸が変わらないように、とがった先端を持つ。胴体の中心に軸を突き通した姿が日本では一般的であるが、必ずしも世界中に通じるわけではない。
回し方[編集]
指でひねる
最も簡単な独楽は、指でひねって回すものである。胴体は比較的小さく、軸も短い。回転速度もさほど上げられないので、ごく簡単なもの、単純なものが多い。このような独楽は、ひねりゴマと呼ばれる。
手のひらで回す
細くて長い軸を持ち、これを両手で挟んで、手のひらをすりあわせることで回転させるものである。回転が足りなければ繰り返してすりあわせる。手よりゴマと呼ばれ、日本の曲ゴマはこの型である。
紐を使う
大きくは2つの方法がある。
軸に巻き付ける
いわゆるいと巻きゴマと言われるもの。独楽本体から上に伸びた軸に、細い紐を巻き付ける。軸の一部には、管がかぶせてあるなどの工夫がしてあり、この管を持って紐を引けば保体が回り出すしくみである。
胴体に巻き付ける
いわゆる投げゴマである。胴体の底面の逆円錐の部分に下から紐を巻き付け、紐の片方を持って胴体を投げ出して、紐を引くことで回転をつける。
鞭を使う
ぶちゴマといわれる。普通は軸を持たず、円筒形の胴体の下が逆円錐に削られた姿で、立てておいて、簡単な鞭のようなもので胴体を叩いて回転させる。別名を無精ごまとも言う。叩かないと動かないとの意である。
専用の道具を使う
最近増えてきた型で、独楽上面にかみ合わせがあり、ここに専用の回転を与える装置をつける。装置の中にはバネなどが仕込んであり、ここに力を蓄え、上の面のボタンを押してはじき出すなどの方法を採る。
複雑な構造の独楽[編集]

いわゆる地球ゴマと同等の独楽
一般の独楽は円盤形か円錐形の胴に軸があるもので、胴は固くて中が詰まっているものだが、ここに特別な仕掛けを持つものがある。
音の鳴る独楽
胴が内部に空洞を持ち、胴の側面に穴が開いていれば、独楽を回転させたときに音が出るようにすることができる。ビンの口を吹くのと同じである。
形が変わる独楽
胴の側面に溝があり、そこに羽根が折りたたまれているもので、回転させると遠心力で羽根が伸び、独楽が大きくなったように見える。独楽を急に止めると勢いで羽が畳まれる。ゴムが仕掛けてあって、回転が遅くなると畳まれるものもある。
軸受により枠に保持されたもの
地球ゴマのように、コマ本体が軸受により枠に保持されたものは、回転している間でも外枠をさわっていられる。外枠が中の弾み車を完全に覆っていれば、更に簡単である。一般に独楽は回した途端に手を放さなければならず、子供にとってはここが難しい。それを楽にするための工夫でもある。
空中の独楽[編集]
上述のような基盤の上で回すのではない独楽も存在する。日本では九州を中心として愛知県以西に伝承があるちょんかけ、またはちょんがけ、あるいは掛けゴマというのがそうで、円盤状の胴体の中心の片方に、先が太くなった釘が打ち込んである。回す場合には、胴体が垂直になる方向、回転軸が水平になる方向で回転させ、細長い紐を釘の根本にかけて、空中で紐を引き、独楽を紐に乗せたままで回転させる。また、中国の雑技団の芸にもある空竹は、円盤形の胴体二枚を鼓の胴のような軸でつないだもので、紐を軸の中央にかけ、やはり空中で紐を引き、紐の上で回転させる。同様のものが、ヨーロッパではディアボロと呼ばれる。これらは、独楽とヨーヨーの中間のようなものである。
他に、平らな円盤形で、底面の中央のくぼんだ部分にとがった棒に乗せ、その棒の先端で回転させる、皿ゴマというのもある。
独楽の運動[編集]
一般的な独楽の運動[編集]
まず、最初に与えられた回転が持続するのは、フライホイールとしての働きである。
続いて、一般的な、軸を持って基盤上で回転する独楽の運動には、一定の型がある[1](ここでは基盤が水平な平面の場合のみとする)。
回転を与えられ、基盤の上に置かれると、一般に完全に垂直に置くことはできないので、独楽はやや傾いて回転を始めるが、直後より回転軸の傾きの方向が次第に変わってゆく。これはジャイロ効果#ジャイロモーメントによるものである。あわせて、軸の先は台の上で円を描いて、下端から回転軸方向の上方に伸ばした線のどこかに静止する点があるような運動をする。後者はジャイロ効果とはされない。両者をあわせてみそすり運動というが、前者のみを指すこともある。前者は地球の歳差運動と力学的に同様のものである。
多くの場合、回転軸が鉛直方向を取るように、次第に立ち上がる[2]。それにつれて、軸先端の描く円は次第に小さくなり、やがて完全に鉛直となる。独楽は、自転運動と軸の先の摩擦により位置を微動する他は静止したようになる。静止した独楽が安定するのはジャイロ効果#回転軸保存性による。
やがて回転が遅くなるにつれて、その回転軸が傾き、再びみそすりを始める。やがて軸が傾いて胴体が土台に触れた途端、独楽はこれまでのみそすりと反対方向へ回ってその動きを止める。
なお、正確に作られていない独楽は、回転が収まらず、軸の先ががりがり音を立てたり、軸がぶれたりする。これを独楽が暴れるという。これは、摩擦の影響と、軸がそもそも慣性主軸からズレているために起こるもので、回転の中心と床との接触点のズレのために、自由歳差運動が止まらなかったり、コマが丸ごとブレるためである。よくできた独楽では、直立する姿勢を取ると、一見回っているようには見えないほどになり、これを「独楽が眠る」と表現することもある。
意図的に(自由歳差運動ではない)みそすりが継続するよう作られた独楽[3]や、回転軸がどんどんズレて逆立ちするような独楽もある(後述)。
空中の独楽の運動[編集]
一般的な独楽がみそすりをするのと同じで、独楽を紐に乗せて空中に持ち上げれば、独楽全体がゆっくりと回転する。同じように、皿形の胴の片面から軸が出た構造のちょんかけゴマは、紐の上で回転させると全体が向きを変える。そのままでは紐がねじれてしまうので、一回りする前に紐を掛け替えてやらねばならない。
ディアボロや空竹は軸の両端に同等の胴が着いているため、ねじれることなく、回転の方向を維持する。
特殊な運動[編集]

逆立ちゴマ
逆立ちゴマでは、回転するにつれて独楽の回転軸がずれ、次第に底面が上を向き、最後には軸先端を下にして回り始める。回転が止まると再び底を下に向けて安定する。
機械的にあり得ない運動[編集]
機械力学の範囲ではあり得ない運動をする独楽もある。あり得ない運動とは、絶対に止まらない独楽や、空中浮遊する独楽などである。もちろん魔法などではなく、電気仕掛けや磁石を利用している。空中浮遊する独楽は市販されている。ただし、実際に浮遊させるのは難しい。
遊び方[編集]
回す[編集]
単に回すだけでも面白いものである。恐らく、独楽の発生はそこに動機があると思われる。ひねりゴマを回すことは幼児にとってはなかなかの関門である。投げゴマは小学校低学年にはよい努力目標となるだろう。掛けゴマとなれば、回すだけでその難易度は更に高い。
多くの場合、独楽には模様があって、回転する様子を見ているだけでも、その色の変化など、見飽きないものがある。
また、単に回すのではなく、回し方に凝る場合もある。たとえば投げゴマでは、投げたものを自分の手のひらにのせて回すとか、両手の間に紐を渡し、その上に乗せて回すなどの芸が伝えられている。空中で回す独楽では、非常に多彩な芸が知られる。
競う[編集]
回転する時間を競う
同時に回して、速く倒れた方が負け、といったものである。ひねりゴマを始めた子供がよくやっている。マレーシアのガシンという独楽は、胴に分厚く金属を巻き付け、これを太い紐を巻き付けて投げるように回し、更に専用の台に移して回転させ、回転時間を競う、れっきとした大人の競技である。回転維持時間は軽く五時間を超える。
ぶつけ合う
土俵を決めてそこで回転させ、互いの独楽をぶつけてはじかれたら負け、といったもの。ひねりゴマでは相撲取りの模様をつけ、小さな土俵型の円盤で遊ぶ相撲ゴマ、投げゴマやベーゴマがそれである。佐世保独楽は木の塊の胴体に金属の釘を突き刺しただけの構造で、これを互いにたたきつけ合い、相手の独楽をかち割る。
技を競う
さまざまな回し方を互いにやってみせる。
投げゴマの技
特定の場所を決めて投げる、いったん遠くへ投げつけておいて手元に引き寄せる、自分の手のひらの上に投げる、綱渡り、その他。
空中ゴマの技
投げ上げる。他人との間で投げ合う。綱渡り。紐昇り。その他
曲芸[編集]
日本の曲独楽は演芸として独楽を専門に使う点で世界に他に例がない。一般に心棒が細い鉄芯の手より独楽を使う。
以下は寄席芸として演じられた曲独楽、三増流 三世 三増 紋也の寄席演目の一例である。
1手より独楽を使用する演目
末広
扇を広げた状態で地紙の中央に乗せて回す。 他の流派では、地紙止めと称することがある。
刃渡り
日本刀の刃の上から切っ先で回す。 三増流は、まっすぐ構えるが、他の流派は横に構える。
綱渡り
開始地点から終点までの距離3Mから5Mほど、釣り糸程度の細い糸の上を渡らせる。 他の流派では、糸渡りと言うこともある。
小手調べ。
10cm程度の独楽から始まって、30cmの大きな独楽を片手でひねって回転させる。 やなぎ女楽は、独楽しらべと言っていた。
2投げ独楽の演目 投げ独楽直径15cmほどの胴体、鉄の心棒17cm程度の独楽を、長さ3M位の紐を巻き、投げて回す。 投げ回した独楽を手で受け止め、演技に入る。
要止め
独楽を長さ1Mの煙管の火皿に乗せ、扇を開いて要の部分に投げ移す。
行灯
吊るし行灯から垂らした紐に掛ける。独楽は行灯の仕掛けを開き、垂れ幕が出る。
衣紋流し
独楽を長さ1Mの煙管の火皿に乗せ、曲独楽師の着ている羽織が小道具になる。 始点は左袖、首の後から右袖、終点の煙管の先端まで一気に通らせる。 袖がらみといって、最後まで回転が落ちていない時には、左の袖口で回す。 やなぎ女楽は、晩年、衣紋の独楽と言って、投げずにもみ独楽で回して左袖に乗せ、衣紋流し とは違う演じ方をしていた。
江戸時代後半から明治にかけて、足芸やバランス芸、水芸と共に曲独楽として、多くの興行があった。 今後の歴史研究に期待する。
欧米ではディアボロがジャグリングの中で使われ、中国の空中ゴマも雑伎団の演目に含まれる。
賭ける[編集]

賭けゴマ
賭博の対象を独楽にするものである。先に挙げたような競う場合はこの対象になり得る。他に、賭けのために作られた独楽もある。
大きく2つの型がある。一つはひねりゴマの側面が多角形、たとえば六角柱型の胴の独楽で、それぞれの側面に数字や絵柄があるものである。回転が止まったときに倒れれば、どれかの面を上にするから、それを当てるものである。もう一つは丸い台の中心に柱を立て、その先端で独楽を回すもので、先端には独楽の軸のはいる孔があり、独楽の軸は先が膨らんで、胴との間に切れ込みが入っている。独楽が回転を止めると横に倒れるが、このとき台の先端の縁と軸とがかみ合って、独楽が柱から落ちずにある方向を指すようになっている。台の方には方向ごとに数字を書いてあって、独楽の先端の指す方向を巡ってルーレットのごとくに賭博を行うものである。

再生核研究所声明 148(2014.2.12) 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
100割る0 の意味を質問されたが(なぜ 100÷0は100ではないのか? なぜ 100÷1は100なのか… 0とは何...aitaitokidakenimoさん)、これは、定義によれば、その解、答えが有るとして、a と仮に置けば、 100=a x0 = 0 で矛盾、すなわち、解は、答えは存在しないとなる。
方程式 a x0= b は b=0 でなければ 解は無く、答えが求まらない。(特に、bが0ならば、解 a は 何でも良いと言うことに成る。)
解が、存在しなかったり、沢山の解が有ったりすると言う、状況である。
そこで、何時でも解が存在するように、しかも唯一つに定まるように、さらに 従来成り立っていた結果が そのまま成り立つように(形式不変の原理)、割り算の考えを拡張できないかと考えるのは、数学では よくやることである。数学の世界を 美しくしたいからである。
実際、文献の論文で 任意関数で割る概念を導入している。
現在の状況では、b 割るa の意味を ax – b の2乗を最小にする x で、しかも x の2乗を最小にする数 x で定義する。後半の部分が無いと、a が0の場合 x が定まらない。後半が有ると0として、唯一つに定まる。この意味で割り算の意味を考えれば、100割る0は 0 であるとなる。 
上記で もちろん、2乗を最小にする の最小値が0である場合が、 普通の割り算の解、
b 割るa を与える。
もちろん、我々の意味で、0割る0は 曖昧なく、解は唯一つに定まって、0となる。
f 割る g を ロシアの著名な数学者 チコノフの考えた正則化法 と 再生核の理論 を併用すると 一般的な割り算を 任意関数g で定義できて、上記の場合は、100割る0は 0 という解に成る。
すなわち、解が存在しなかった場合に、割り算の意味を 自然に拡張すると 唯一つに解は存在して それは0であると言う、結果である。
上記で、ax – b の2乗を最小にする x で、と考えるのは、近似の考え方から、極めて自然と考えられるが、さらに、x の2乗を最小にする数 x とは、神は、最も簡単なものを選択する、これはエネルギー最小のもの、できれば横着したい という 世に普遍的に存在する 神の意志 が現れていると考えられる(光は、最短時間で到達するような経路で進むという ― フェルマーの原理)、神が2を愛している、好きだ とは 繰り返し述べてきた(神は 2を愛し給う)(http://www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf)。
これで、0で割るときの心配が無くなった。この考えの 実のある展開と応用は多い。
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―
以 上
文献:
Castro, L.P.; Saitoh, S. Fractional functions and their representations. Complex Anal. Oper. Theory 7, No. 4, 1049-1063 (2013).


再生核研究所声明154(2014.4.22) 新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明148で 結構詳しい状況について説明し、特異点解明:100/0 =0,0/0=0 として 詳しい状況はブログなどでも公開、関係文書は保管されている。2月2日考えを抱いた日としているので、まだ、3か月足らずである。
簡潔に回想して、問題点と今後について、考察し、今後を構想したい。
まず、あまりにも基本的な問題で、全く予期しない それこそ驚嘆すべき結果なので、茫然としてこれは何だと、あたかも憑かれたかのように夢中で取り組み、相当な研究者、共同研究者と交流し、相当なメールと印刷部が溜まっている。経過、成果などきちんとしておくべきと考えて、2か月で、2つの論文の出版を確定させて、ちょうど良いタイミングもあって、一つは4月早々に既に出版されている。
まず結果は、分数を拡張して、自然に100割るゼロを考えると、何でもゼロで割れば、ゼロで、面白いのは、どの様に考えを一般化しても、それに限ると言うことが証明されたことである。導入、動機、一意性、すなわち、それ以外の考えが無いこと、それらが、高校レベルの数学で、簡単に証明されたと言う事実である。 出版された論文は、高校生にも十分理解できる内容である。具体的な結果は、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである
と宣言している。すなわち、 1/0=0 である。
グラフを想像して、そんな馬鹿な、信じられない、そのようなことは考えるべきではないとは、結構な数学者の真面目な意見であった。 そこで、
その実態を追及して、ムーア・ペンローズ一般逆の考えがあることを認識して、いわば奇妙な、変な逆として、分数を拡張しているが、永年研究してきた チコノフ正則化法の神秘力 によってそれらは 数の実体である と認識した。
との信念を持って研究を進め、共同研究者には、割り算の意味から、当たり前だとか、計算機は(:アルゴリズムは)そのように解釈する、物理的な楽しい説明さえ現れて、実数の場合には 論文も出版されたこともあり、既に当たり前で 今後 物理的な応用などに関心が移っている。― 要点は、上記双曲線は、原点で猛烈な非連続性を有し、爆発や衝突、駒で言えば、 中心の特異性などの現象を記述していることが分った。
上記2件の論文出版の確定をみて、4月1日:
複素解析学では、1/0として、無限遠点が存在して、美しい世界です。しかしながら、1/0=0 は 動かせない真実です。それで、勇気をもって進まざるを得ない:― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。― 再生核研究所声明148.
私には 無理かと思いますが、世の秀才の方々に 挑戦して頂きたい。空論に付き合うのはまっぴらだ と考える方も多いかと思いますが、面白いと考えられる方で、楽しく交流できれば幸いです。
として、公表して 複素解析に取り掛かった。
上記で、予想された難問、 解析関数は、孤立特異点で確定値をとる、が 自分でも予想しない形で解決でき、ある種の実体を捉えていると考えたのであるが、この結果自体、世のすべての教科書の内容を変える事件であるばかりではなく、確立されている無限遠点の概念に 新しい解釈を与えるもので、容易に進められる状況ではない。
念をおしたいのは、 ゼロで割る新しい結果は、従来の数学に 何ら矛盾するものでは、なく、従来ゼロで割るときに避けてきたところに、ある種の新しい結果が得られるということである (複素解析学では、無限遠点が有るので、少し意味あいが変わる)。 すなわち、 従来の数学に、新しい数学が加わると言うことである。その新しい数学が、実が有って、物理的な意味や、従来の数学に好ましい影響を与えるかは、多くは、今後の問題である。ある変な島を発見した。つまらなそうだから、関心ないは 当然有り得る態度である。
そこで、今後の姿勢は、世界観の問題に大きく影響されるのではないだろうか。ゼロで割ればゼロになり、割り算を自然に拡張すれば、それに限るという、何か裏に大きな、凄い世界が有るのではないだろうか、と構想している。― 1/0 は 無限大、無限遠点である、それは良く分る、しかしながら、無限大、無限遠点は 数ではないではないか、矛盾ではないか?  他方、数学は 1/0=0と一意に定めている、何か有るのではないだろうか? どうして、南極と北極がくっ付いているのか? どうして、原点と無限遠点がくっ付いているのか? 神の 人類に対する意地悪、隠しごと? 人類の知能検査か?
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory.(in press).



再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
(5月28日、宿舎から研究室に向っているとき、芝生の先に 木立ちが有り、その先に 入り江が見える情景を見て、エデンの花園のように感じた. そして、この声明の原案とエデンの花園の声明構想が閃いた。)
ゼロで割るを グーグルで調べると、2014.5.28.13:35現在
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1. ゼロ除算 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/ゼロ除算
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ゼロ除算(ゼロじょざん、division by zero)は、0 で除す割り算のことである。このような除算は除される数を a とするならば、形式上は a⁄0 と書くことができるが、数学において、この式と何らかの意味のある値とが結び付けられるかどうかは、数学的な設定に ...
‎算数的解釈 - ‎初期の試み - ‎代数学的解釈 - ‎ゼロ除算と極限
2. 数学で「A÷0」(ゼロで割る)がダメな理由を教えてください ...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp › ... › 数学
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14/05/2007 - maru_i_nekoさん. 答えが ないから。 たとえばー 5÷0=Bとしましょうか。B×0=いくつに なりますか。 ゼロですよね。 とゆーことは、Bはゼロ?と思っちゃいますが、それだったらゼロ×ゼロが 5になってしまいます。おかしいですよね。
となっていて、290万件あるが、非常に当たり前の議論が多く、いわば、常識的な議論が多く、考え方などが幼稚であると考えられる。なを、6番目に再生核研究所の最近の成果が述べられている:
1. 再生核研究所声明154(2014.4.22) 新しい世界、ゼロで割る ...
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Yoshinori Saito
21/04/2014 - 再生核研究所声明154(2014.4.22) 新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方 再生核研究所声明148で 結構詳しい状況について説明し、特異点解明:100/0 =0,0/0=0 として 詳しい状況はブログなどでも公開、関係文書は保管されている。2月2日考えを抱い ...
そこで、 その問題から、 数学的な考え方と、創造的な精神について触れたい。
まず、どうしてゼロで割れないのか、という疑問が、繰り返し問われているが、これは世に問われている多くの問題、神の問題などと同様に、論理的に 発想そのものが 相当おかしな議論と言える。
これは、割り算の定義をしっかりさせないで、ふらふら議論している、神の定義もしないで、神のことについていろいろ議論を繰り返している。問題にしている、問題の意味を理解しないで、論じている訳であるから、まことに奇妙な議論であるが、世に多いと言える。注意したい。( 逆に言えば、難しい問題とは、問題の意味さえ分からないとも言える)。
次に、真面目に議論して、割り算、分数の定義に基づいて、 不可能である という議論が多い。それは、それで正しいが、ここで、重要な数学の考え方を指摘したい。
数学で不可能である、できないということは、数学のそういっている数学の理論体系では不可能であるといっている事実である。 数学上の不可能は、そういっている理論体系では 不可能であることをいっている。これは、裏からみれば、それを可能にする理論体系、数学が、考え方が、有るかも知れない という発想に繋がる。上記、グーグル、あるいは人類の歴史上、そのように発想しなかったのは、人類の愚かさであり、永い間の盲点であったと言える。― 実際、数学者が、可能にする考えは無いか と問うのは当たり前のことであるが、ゼロ除算は できないという、 先入観で考えなかったのではないだろうか。 しかし、 その問題は、物理学では ブラックホール現象や、ニュートンの万有引力の法則に 深刻な問題を提起してきている、事実もある。― 実際に、自然に割り算の定義を拡張して、簡潔な結果、ゼロで割れば、何時でもゼロであるという結果が導かれた。それらは、高校生レベルの数学で十分であった:
再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
数学については、上記声明の中で、発見の詳しい状況、位置づけなどについても触れているが、 新しい結果は、予想できない、驚嘆すべき結果を述べている。複素解析学では、1/0 は無限遠点、無限と考えられており、実数でも ゼロを小さな正か、 負の数でゼロに近づくと考えれば、正の無限大や、負の無限大に発散すると考えるのが、世の常識である。 それが突然、ゼロであるとして、強力な不連続性を示しているからである。 上記声明の中で、世に有る爆発や接触などの強力な不連続性を示す、 基本的な現象の型を与えるのではないかとの明るい、予想を展開している。 ここで、触れたいのは、全く、新規な現象が現れたときの 我々の取り組む姿勢、精神の問題である。
まず、人間とは何者であるかを確認したい:
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―
人間は何でも知りたい、究めたい、それが本能である。 しかしながら、そんなのはつまらない現象であると理解して、考えない英明な方は、それも もちろん良いのであるが、いろいろ考えると楽しいと想像するのが、真理を追究する人間の姿勢に合っているのではないだろうか。ユニバースには 何でもありで、いろいろ裏があると考える方が、人生や研究を豊かにするのではないだろうか。 ユニバースと数学は どのように成っているのか、知りたいと考える。
新しい割り算の意味の位置づけ、評価は 世界史が明らかにするわけであるから、どのような影響を 世界史に与えるかは、もちろん、直ぐには分らない(再生核研究所声明 41:  世界史、大義、評価、神、最後の審判)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
以 上

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