2014年11月30日日曜日

天体物理学(てんたいぶつりがく、英語:astrophysics)

天体物理学(てんたいぶつりがく、英語:astrophysics)
2014年11月30日(日)
テーマ:数学
天体物理学
Question book-4.svg
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2011年11月)
天体物理学(てんたいぶつりがく、英語:astrophysics)は、天文学及び宇宙物理学の一分野で、恒星・銀河・星間物質などの天体の物理的性質(光度・密度・温度・化学組成など)や天体間の相互作用などを研究対象とし、それらを物理学的手法を用いて研究する学問である。天文学の中でも19世紀以降に始まった比較的新しい分野で、天文学の近代部門の代表的な分野と目されている。
例として、宇宙論の研究は、理論天体物理学の中で最も規模の大きな対象を扱う学問であるが、逆に宇宙論(特にビッグバン理論)では、我々が知っている最も高いエネルギー領域を扱うがゆえに、宇宙を観測することがそのまま最も微小なスケールでの物理学の実験そのものにもなっている。
実際には、ほぼ全ての近代天文学の研究は、物理学の要素を多く含んでいる。多くの国の天文学系の大学院博士課程の名称は、「天文学 (Astronomy)」や「天体物理学 (Astrophysics)」などまちまちだが、これは専攻の学問内容よりもその研究室の歴史を反映しているに過ぎない。
ある物理学者は、NHKのドキュメンタリー番組「神の数式」第4回で、宇宙物理学を研究する意義について、「なぜ我々は存在するのか、この宇宙で生きる意味は何なのか、その答えを探しているのです。」と述べた。
目次 [非表示]
1 歴史
2 観測天体物理学
3 理論天体物理学
4 天体物理学の諸分野
歴史[編集]
天文学の歴史は人類の歴史そのものと同じくらいに古いが、天文学は長い間、物理学とは区別されてきた。アリストテレス的な世界観では、天は完全な世界であり、天体は完全な球形であって完全な円軌道上を動いているとされていた。一方、この地上は不完全な世界であり、これら二つの世界は互いに無関係であると考えられていた。
太陽や惑星は地球の周りを回っているという一見常識的な見方(天動説)についても、何世紀にもわたって疑問が投げかけられることはなかった。しかし16世紀になってニコラウス・コペルニクスが、地球と他の全ての惑星は太陽の周りを周回する太陽系を形作っているというモデル(地動説)を提案した。ガリレオ・ガリレイは定量的測定を物理学の中心に据えたが、天文学での彼の観測は、まだ天体物理学的な意味は持っていなかった。
やがて精密な観測データが得られるようになると、観測された天体の振る舞いに対して理論的な説明を追求するという姿勢が生まれてきた。初めのうちは、17世紀初期に発見されたケプラーの惑星運動の法則など、場当たり的な経験則が見出されるにとどまっていた。しかし、17世紀の終わりになるとアイザック・ニュートンが、地球上の物体の力学を支配する法則と同じものが惑星や月の運動をも支配していることを発見し、ケプラーの法則とガリレイの力学とを橋渡しすることになった。これが天文学と物理学とを統合した最初の仕事である。
アイザック・ニュートンが『プリンキピア』を出版した後、航海術の分野に変化が起こった。1670年頃から、近代的な緯度測定器具と当時最高精度の時計を用いて、世界中で自分の位置が測定されるようになったのである。航海の必要性が高まるにつれ、より高精度の天文観測や観測器具を求める動きが次第に増してきた。この流れを背景にして、天文学者はより多くの質の良い観測データを得るようになった。
19世紀の終わりには、太陽の光を分光すると多数のスペクトル線(光が弱い、またはほとんど見られない領域)が見られることが発見された。実験室で高温のガスを分光すると同じような線を見ることができ、各々の線はそれぞれ一種類の元素に対応している。この方法によって、太陽のスペクトルに見られる元素(主に水素)と同じ元素が地球上にも存在していることが証明された。実際、ヘリウムは、まず太陽のスペクトルの中から発見され、後になって地上で見つかった。ヘリウム (Helium) という名前はここに由来している。20世紀には、天文学や実験物理学の実験・観測結果の理解に必要な量子物理学が出現したことによって、分光分析学(上記のようなスペクトル線を研究する学問)が発展した。
観測天体物理学[編集]
多くの場合、天体物理学的な物理過程は地球上の研究室では再現できない。しかし、電磁波のスペクトル全体を見渡せば、膨大な種類の天体を見ることができる。これらの天体からデータを受動的に集めることによって研究を行うのが観測天体物理学の目的である。
天体物理現象を研究するのに必要な装置や手法には様々なものがある。現在関心を持たれている天体物理現象の多くは、非常に先進的な技術がなければ研究できなかったり、ごく最近まで現象自体が知られていなかったものである。
天体物理学の観測の大半は電磁波スペクトルを用いて行われている。
電波天文学はミリ波やそれよりも長い波長の放射を研究対象とする。電波は普通、星間ガスや分子雲など低温の天体から放射される。宇宙マイクロ波背景放射はビッグバンの光が赤方偏移を起こしたものである。パルサーは最初マイクロ波で検出された。これらの電波を研究するためには非常に大きな電波望遠鏡が必要となる。
赤外線天文学は可視光よりもずっと波長が長く電波よりは短い領域の放射を研究対象とする。赤外線の観測は通常、普通の光学望遠鏡と同種の望遠鏡で行われる。恒星よりも温度が低い天体(惑星など)は一般的に赤外線で観測される。2013年にはジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡をラグランジュ点(L2)に打ち上げて、最高の環境でビッグバンの残り火としての微弱な赤外線を観測する計画が推進されている。
光学天文学は天文学の中では最も歴史が古い。観測方法により位置観測、測光観測、分光観測に分けられる。望遠鏡と冷却CCDカメラ、分光器が最も広く使われる装置である。光学観測は地球の大気によっていくらか妨げられるため、可能な限り質の良い画像を得るために補償光学や宇宙望遠鏡が使われている。この波長域では恒星は非常によく観測でき、恒星や銀河、星雲などの化学組成を研究するために多くのスペクトル観測が行われている。
紫外線・X線・γ線天文学は連星パルサーやブラックホール、マグネターなど、非常に高エネルギーの物理過程を研究対象とする。これらの種類の放射は地球大気をほとんど透過しないため、RXTE やチャンドラX線天文台、コンプトンγ線天文台のような宇宙望遠鏡で観測されている。
電磁波の放射以外では、宇宙の遠方からやってくるもので地球から観測できる対象は限られている。重力波天文台がいくつか作られているが、重力波で観測するというよりは、検出が極端に困難な重力波を検出するのが当面の目標である。ニュートリノ天文台も主に太陽を研究する目的で建設されている。非常に高エネルギーの粒子からなる宇宙線が地球の大気と衝突する現象も観測可能である。
天文観測では、その時間スケールにおいても様々な違いがある。ほとんどの光学観測には数分から数時間単位の時間がかかるため、これよりも短い時間で変化する現象は容易には観測できない。しかしいくつかの天体については数百年、あるいは千年以上にわたって歴史上の記録に残されているデータを見ることができる。一方で、電波観測では数ミリ秒の時間スケールのイベント(ミリ秒パルサーなど)を見たり、数年にわたるデータを重ね合わせて調べたりする(パルサーの減速の研究など)ことができる。こういった異なる時間スケールの観測から得られる情報は非常に異なった様相を見せる。
太陽の研究は観測天体物理学の中で特別な位置にある。太陽以外の恒星は全て非常に遠距離にあるので、太陽は他の星とは比べ物にならないほど詳細に観測できる唯一の恒星である。太陽の性質を理解することは、他の恒星を理解する助けとなる。
恒星がどのように進化するかという恒星進化論の話題は、恒星のタイプの違いをヘルツシュプルング・ラッセル図の上の個々の位置の違いで表すことが多い。この図は恒星の誕生から崩壊までの星の状態を表現していると見ることができる。
理論天体物理学[編集]
理論天体物理学者は観測結果を再現し、新たな現象を予測するモデルを構築・評価する。彼らは解析的モデル(例えば恒星の振る舞いを近似するポリトロープなど)や計算物理学的な数値シミュレーションといった様々な道具を用いる。
これらの過程のいくつかの例は以下の通りである。
物理過程 実験の道具 理論的モデル 説明/予測
重力 電波望遠鏡 自己重力系 恒星系の形成
核融合 分光学 恒星進化論 どのように恒星が輝くか
ビッグバン ハッブル宇宙望遠鏡, COBE 膨張宇宙 宇宙年齢
量子ゆらぎ インフレーション理論 平坦性問題
重力崩壊 X線天文学 一般相対性理論 アンドロメダ銀河の中心のブラックホール
理論天体物理学で研究されるトピックとしては以下のようなものがある。
恒星系力学と恒星進化
銀河形成
宇宙の物質の大規模構造
宇宙線の起源
宇宙論
天体物理学の諸分野[編集]
天体測光学
天体分光学
理論天体物理学
恒星物理学
太陽物理学
恒星大気物理学
恒星内部物理学
恒星進化論
宇宙空間物理学
電波天文学
X線天文学
γ線天文学
重力波天文学
ニュートリノ天文学
宇宙論

Announcement 179: Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics
\documentclass[12pt]{article}
\usepackage{latexsym,amsmath,amssymb,amsfonts,amstext,amsthm}
\numberwithin{equation}{section}
\begin{document}
\title{\bf Announcement 179: Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics\\
}
\author{{\it Institute of Reproducing Kernels}\\
Kawauchi-cho, 5-1648-16,\\
Kiryu 376-0041, Japan\\
E-mail: kbdmm360@yahoo.co.jp\\
}
\date{\today}
\maketitle
{\bf Abstract: } In this announcement, we shall introduce the zero division $z/0=0$. The result is a definite one and it is fundamental in mathematics.
\bigskip
\section{Introduction}
%\label{sect1}
By a natural extension of the fractions
\begin{equation}
\frac{b}{a}
\end{equation}
for any complex numbers $a$ and $b$, we, recently, found the surprising result, for any complex number $b$
\begin{equation}
\frac{b}{0}=0,
\end{equation}
incidentally in \cite{s} by the Tikhonov regularization for the Hadamard product inversions for matrices, and we discussed their properties and gave several physical interpretations on the general fractions in \cite{kmsy} for the case of real numbers. The result is a very special case for general fractional functions in \cite{cs}. 
The division by zero has a long and mysterious story over the world (see, for example, google site with division by zero) with its physical viewpoints since the document of zero in India on AD 628, however,
Sin-Ei, Takahasi (\cite{taka}) (see also \cite{kmsy}) established a simple and decisive interpretation (1.2) by analyzing some full extensions of fractions and by showing the complete characterization for the property (1.2). His result will show that our mathematics says that the result (1.2) should be accepted as a natural one:
\bigskip
{\bf Proposition. }{\it Let F be a function from ${\bf C }\times {\bf C }$ to ${\bf C }$ such that
$$
F (b, a)F (c, d)= F (bc, ad)
$$
for all
$$
a, b, c, d \in {\bf C }
$$
and
$$
F (b, a) = \frac {b}{a }, \quad a, b \in {\bf C }, a \ne 0.
$$
Then, we obtain, for any $b \in {\bf C } $
$$
F (b, 0) = 0.
$$
}
\medskip
\section{What are the fractions $ b/a$?}
For many mathematicians, the division $b/a$ will be considered as the inverse of product;
that is, the fraction
\begin{equation}
\frac{b}{a}
\end{equation}
is defined as the solution of the equation
\begin{equation}
a\cdot x= b.
\end{equation}
The idea and the equation (2.2) show that the division by zero is impossible, with a strong conclusion. Meanwhile, the problem has been a long and old question:
As a typical example of the division by zero, we shall recall the fundamental law by Newton:
\begin{equation}
F = G \frac{m_1 m_2}{r^2}
\end{equation}
for two masses $m_1, m_2$ with a distance $r$ and for a constant $G$. Of course,
\begin{equation}
\lim_{r \to +0} F =\infty,
\end{equation}
however, in our fraction
\begin{equation}
F = G \frac{m_1 m_2}{0} = 0.
\end{equation}
\medskip

Now, we shall introduce an another approach. The division $b/a$ may be defined {\bf independently of the product}. Indeed, in Japan, the division $b/a$ ; $b$ {\bf raru} $a$ ({\bf jozan}) is defined as how many $a$ exists in $b$, this idea comes from subtraction $a$ repeatedly. (Meanwhile, product comes from addition).
In Japanese language for "division", there exists such a concept independently of product.
H. Michiwaki and his 6 years old girl said for the result $ 100/0=0$ that the result is clear, from the meaning of the fractions independently the concept of product and they said:
$100/0=0$ does not mean that $100= 0 \times 0$. Meanwhile, many mathematicians had a confusion for the result.
Her understanding is reasonable and may be acceptable:
$100/2=50 \quad$ will mean that we divide 100 by 2, then each will have 50.
$100/10=10 \quad$ will mean that we divide 100 by10, then each will have 10.
$100/0=0 \quad$ will mean that we do not divide 100, and then nobody will have at all and so 0.
Furthermore, she said then the rest is 100; that is, mathematically;
$$
100 = 0\cdot 0 + 100.
$$
Now, all the mathematicians may accept the division by zero $100/0=0$ with natural feelings as a trivial one?
\medskip
For simplicity, we shall consider the numbers on non-negative real numbers. We wish to define the division (or fraction) $b/a$ following the usual procedure for its calculation, however, we have to take care for the division by zero:
The first principle, for example, for $100/2 $ we shall consider it as follows:
$$
100-2-2-2-,...,-2.
$$
How may times can we subtract $2$? At this case, it is 50 times and so, the fraction is $50$.
The second case, for example, for $3/2$ we shall consider it as follows:
$$
3 - 2 = 1
$$
and the rest (remainder) is $1$, and for the rest $1$, we multiple $10$,
then we consider similarly as follows:
$$
10-2-2-2-2-2=0.
$$
Therefore $10/2=5$ and so we define as follows:
$$
\frac{3}{2} =1 + 0.5 = 1.5.
$$
By these procedures, for $a \ne 0$ we can define the fraction $b/a$, usually. Here we do not need the concept of product. Except the zero division, all the results for fractions are valid and accepted.
Now, we shall consider the zero division, for example, $100/0$. Since
$$
100 - 0 = 100,
$$
that is, by the subtraction $100 - 0$, 100 does not decrease, so we can not say we subtract any from $100$. Therefore, the subtract number should be understood as zero; that is,
$$
\frac{100}{0} = 0.
$$
We can understand this: the division by $0$ means that it does not divide $100$ and so, the result is $0$.
Similarly, we can see that
$$
\frac{0}{0} =0.
$$
As a conclusion, we should define the zero divison as, for any $b$
$$
\frac{b}{0} =0.
$$
See \cite{kmsy} for the details.
\medskip
\section{In complex analysis}
We thus should consider, for any complex number $b$, as (1.2);
that is, for the mapping
\begin{equation}
w = \frac{1}{z},
\end{equation}
the image of $z=0$ is $w=0$. This fact seems to be a curious one in connection with our well-established popular image for the point at infinity on the Riemann sphere.
However, we shall recall the elementary function
\begin{equation}
W(z) = \exp \frac{1}{z}
\end{equation}
$$
= 1 + \frac{1}{1! z} + \frac{1}{2! z^2} + \frac{1}{3! z^3} + \cdot \cdot \cdot .
$$
The function has an essential singularity around the origin. When we consider (1.2), meanwhile, surprisingly enough, we have:
\begin{equation}
W(0) = 1.
\end{equation}
{\bf The point at infinity is not a number} and so we will not be able to consider the function (3.2) at the zero point $z = 0$, meanwhile, we can consider the value $1$ as in (3.3) at the zero point $z = 0$. How do we consider these situations?
In the famous standard textbook on Complex Analysis, L. V. Ahlfors (\cite{ahlfors}) introduced the point at infinity as a number and the Riemann sphere model as well known, however, our interpretation will be suitable as a number. We will not be able to accept the point at infinity as a number.
As a typical result, we can derive the surprising result: {\it At an isolated singular point of an analytic function, it takes a definite value }{\bf with a natural meaning.} As the important applications for this result, the extension formula of functions with analytic parameters may be obtained and singular integrals may be interpretated with the division by zero, naturally (\cite{msty}).
\bigskip
\section{Conclusion}
The division by zero $b/0=0$ is possible and the result is naturally determined, uniquely.
The result does not contradict with the present mathematics - however, in complex analysis, we need only to change a little presentation for the pole; not essentially, because we did not consider the division by zero, essentially.
The common understanding that the division by zero is impossible should be changed with many text books and mathematical science books. The definition of the fractions may be introduced by {\it the method of Michiwaki} in the elementary school, even.
Should we teach the beautiful fact, widely?:
For the elementary graph of the fundamental function
$$
y = f(x) = \frac{1}{x},
$$
$$
f(0) = 0.
$$
The result is applicable widely and will give a new understanding for the universe ({\bf Announcement 166}).
\medskip
If the division by zero $b/0=0$ is not introduced, then it seems that mathematics is incomplete in a sense, and by the intoduction of the division by zero, mathematics will become complete in a sense and perfectly beautiful.
\bigskip

section{Remarks}
For the procedure of the developing of the division by zero and for some general ideas on the division by zero, we presented the following announcements in Japanese:
\medskip
{\bf Announcement 148} (2014.2.12):  $100/0=0, 0/0=0$  --  by a natural extension of fractions -- A wish of the God
\medskip
{\bf Announcement 154} (2014.4.22): A new world: division by zero, a curious world, a new idea
\medskip
{\bf Announcement 157} (2014.5.8): We wish to know the idea of the God for the division by zero; why the infinity and zero point are coincident?
\medskip
{\bf Announcement 161} (2014.5.30): Learning from the division by zero, sprits of mathematics and of looking for the truth
\medskip
{\bf Announcement 163} (2014.6.17): The division by zero, an extremely pleasant mathematics - shall we look for the pleasant division by zero: a proposal for a fun club looking for the division by zero.
\medskip
{\bf Announcement 166} (2014.6.29): New general ideas for the universe from the viewpoint of the division by zero
\medskip
{\bf Announcement 171} (2014.7.30): The meanings of product and division -- The division by zero is trivial from the own sense of the division independently of the concept of product
\medskip
{\bf Announcement 176} (2014.8.9):  Should be changed the education of the division by zero
\bigskip
\bibliographystyle{plain}
\begin{thebibliography}{10}
\bibitem{ahlfors}
L. V. Ahlfors, Complex Analysis, McGraw-Hill Book Company, 1966.
\bibitem{cs}
L. P. Castro and S.Saitoh, Fractional functions and their representations, Complex Anal. Oper. Theory {\bf7} (2013), no. 4, 1049-1063.
\bibitem{kmsy}
S. Koshiba, H. Michiwaki, S. Saitoh and M. Yamane,
An interpretation of the division by zero z/0=0 without the concept of product
(note).
\bibitem{kmsy}
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on $100/0=0$ and on $0/0=0$,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
\bibitem{msty}
H. Michiwaki, S. Saitoh, M. Takagi and M. Yamada,
A new concept for the point at infinity and the division by zero z/0=0
(note).
\bibitem{s}
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. Vol.4 No.2 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
\bibitem{taka}
S.-E. Takahasi,
{On the identities $100/0=0$ and $ 0/0=0$}
(note).
\bibitem{ttk}
S.-E. Takahasi, M. Tsukada and Y. Kobayashi, Classification of continuous fractional binary operators on the real and complex fields. (submitted)
\end{thebibliography}
\end{document}
アインシュタインも解決できなかった「ゼロで割る」問題

90年間不明の名画、映画『スチュアート・リトル』に映り偶然発見

90年間不明の名画、映画『スチュアート・リトル』に映り偶然発見
2014年11月28日 12:02 発信地:ブダペスト/ハンガリー
90年間不明の名画、映画『スチュアート・リトル』に映り偶然発見
写真拡大×ハンガリー・ブダペスト(Budapest)で、ローベルト・ベレーニュ(Robert Bereny)作「黒いつぼと眠る女性(Sleeping Lady with Black Vase)」を前に米映画『スチュアート・リトル(Stuart Little)』のキャラクターぬいぐるみと一緒に取材に応じる美術史家のゲルゲイ・バルキ(Gergely Barki)氏(左)ら(2014年11月27日撮影)。(c)AFP/FERENC ISZA 【メディア・報道関係・法人の方】写真購入のお問合せはこちら

【11月28日 AFP】90年間所在不明だったハンガリーの前衛画家の名作が、小さなネズミの活躍する米ファミリー映画『スチュアート・リトル(Stuart Little)』(1999年)の小道具として使われていたことが偶然発覚し、このほど母国に里帰りした。テレビ放映された映画を見た美術史家が、背景に映り込んだ絵画に気付いたという。
 ハンガリー国立美術館の美術史家ゲルゲイ・バルキ(Gergely Barki)氏(43)は2009年、娘のローラちゃんと一緒にテレビでこの映画を見ていた際、ローベルト・ベレーニュ(Robert Bereny、1888~1953)作「黒いつぼと眠る女性(Sleeping Lady with Black Vase)」が画面に映っていることに気付いた。
「(ミスター・リトル役の)ヒュー・ローリー(Hugh Laurie)の後ろの壁にベレーニュの失われた名画が掛かっているのを見て、自分の目が信じられなかった。危うく、ひざの上のローラを落っことすところだったよ」と、バルキ氏は27日、AFPの取材に語った。
「黒いつぼと眠る女性」は1920年代から所在が分からなくなっていた作品で、バルキ氏もハンガリー国立美術館で1928年に開催された展覧会で撮影された古い白黒写真でしか見たことがなかった。しかし「研究者たるもの、クリスマスに自宅で映画を見ているときでも仕事からは目をそらしていられないんだ」と語るバルキ氏は、一目見てその絵が行方不明の名画だと分かったという。
 そこでバルキ氏は、映画の制作元であるソニー・ピクチャーズ(Sony Pictures)とコロンビア・ピクチャーズ(Columbia Pictures)のスタッフに宛てて手当たり次第、電子メールを送った。そして2年後、ついにソニー・ピクチャーズ元従業員の美術スタッフの女性から返答を得た。
■米古美術店で二束三文で売られていた
 女性の説明によれば、問題の絵画は彼女が自宅の壁に掛けていたものだったという。「カリフォルニア(California)州パサデナ(Pasadena)の古美術店で、タダ同然の値段で買ったもので、前衛的な雰囲気がスチュアート・リトルの居間にぴったりだと思ったそうだ」(バルキ氏)
 ソニー・ピクチャーズを退社した後、この美術スタッフの女性は「黒いつぼと眠る女性」を個人収集家に売却していた。現在、この収集家がハンガリーの首都ブダペスト(Budapest)に作品を持ち込み、12月13日に競売会社ビラグ・ユディト(Virag Judit)がオークションに掛ける予定。予想落札価格は11万ユーロ(約1600万円)前後という。
 ローベルト・ベレーニュは第一次世界大戦前のハンガリーで起きた前衛芸術運動の中心的人物で、1919年に短命に終わった共産主義革命のポスターをデザインした後、ドイツ・ベルリン(Berlin)に逃れた。バルキ氏によると、ベルリンでは女優マレーネ・ディートリッヒ(Marlene Dietrich)や露ロマノフ王朝最後の皇女アナスタシア(Anastasia)とのロマンスが伝えられているという。(c)AFP

再生核研究所声明152(2014.3.21) 研究活動に現れた注目すべき現象、研究の現場
今回、100/0=0,0/0=0の発見と研究活動で いわば、研究のライブの状況が明瞭に現われたので、研究の現場の状況として纏めてみたい。多くはメールや文書で 時刻入れで 文書が保管されている。一般的に注目すべきことはゴシック体で記そう。
まず、発見現場であるが、偶然に 印刷された原稿を見て発見したと言うことである。思いがけないことに、気づいたということである。言われてみれば、当たり前のことで、気付かない方がおかしく、馬鹿みたいなことになるだろう。たわいもないものの類である。しかし、結果が尋常ではないので、大事だと 説明されても、原稿を見せても そんなものは駄目、全然価値が無いと結構多くの人が大きな批判を寄せてきたのは 大いに注目に値する。わざわざ複数の外国からメールがいわば上司にきて、批判して、研究内容について意見を求めるメールさえ するのを禁じられた程である。予断と偏見によるもの、が大部分であると判断できる。それから 価値観に本質的な違いがあること を露わに実感した。原稿を見て、これは 面白いと捉えて 研究を発展させて素晴しい論文を書かれた者がいる一方 そんなの 駄目だ で、ただ批判して傍観している者。これは 研究者の素養として、能力として極めて大きな問題ではないだろうか。研究内容の、良い、悪いが判断できない、興味、関心が無い。愛が無ければ見えない、進まないは 基本では? 研究において、最も大事なのは、愛が有るか、関心が有るか、価値を認められるか、好奇心が有るかではないだろうか。 これらが無ければ、幾ら宝のようなものに出会っても、探し出せないのではないだろうか。あることに 高い価値を見出し、情熱的に追及して行く精神は、研究者としての素養として大事ではないだろうか。良いか、悪いか評価できなければ、判断出来なければ、唯 夢中で何かの延長を 他を意識して進めるだけになってしまう。良いものを 良いと評価できる能力は、理解力、解決力、創造力などと共に大事な能力ではないだろうか。場合によっては、人格の高潔さにも依存する要素も多い。意図的に無視するは 世に多いからである。
それから、新しい考え、発想が無意識の内に湧いてくる ものであるという、事実である。目を覚ましたら解けていた、新しい考えで 突然目を覚ましたと繰り返して書いてきた。それから、それらは精神状態によるのであるが、コーヒー、茶、特にジャスミン茶で 大いに興奮して、どんどん考えが湧いて来るのを実感した。結構、そのようなものの影響も無視できない。
それから研究活動で大事な要素は 積極性である。今回、多くの人が 研究に参加されたが、意外な人が 意外な才能を発揮して、意外な視点を 指摘され、発展させてくれたという顕著な事実である。全然興味を懐かないような人でも 話すと興味を示し、大きな貢献をしてくれた。現在のように忙しく、論文を送られてきても読む暇も、関わる余裕も無いは 世に多い現象であるが、直接話すと 本質を理解されて、興味を懐くは 世に多い。直接交流の重要性を指摘しておきたい。メールなどでも、交信からいろいろな刺激を受け、考えが湧く素に成るのは多い、精神が鼓舞される場面も多い。それから、凄い発見を事実上していても、理解が難しい、あるいは批判を恐れて 追求を諦めてしまう、主張を避けて諦めてしまうのは 世に多いのではないかとも感じられる。良いものを発見しても、認められるまで、努力するのは そう簡単なことではないように感じられる。
最後に 研究の最も大事な心を 2014.3.11ブログに書いた記事を編集して記して置こう:
特異点解明の歩み100/0=0,0/0=0:関係者: 独断と偏見、人類の知能
ふと思い浮かんだ: 天才少年の質問(再生核研究所声明 9: 天才教育の必要性を訴える ):
0.999…. = 1 の意味は、何か
当時8歳の少年でした。私は だれをも納得させる明快な解答を与えたが、相当な、国内外の相当な数学者に尋ねたが これまで誰からも満足する解答を得なかった。これは 知識で、学んでいて 理解が薄っぺらなことを言っているのではないだろうか。少しも、真智を求めては来なかった:
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。― 再生核研究所声明148.(もっとも何でも は 究められない)
それ故に、ゼロで割る考えが 思い浮かばなかったのでは。人類の知能は その程度である。真智を求めている者は 世に稀であり、多くは断片的な世界に閉じこもり、埋没し、自己さえ見失っている。また、日常生活に埋没していると言える。
以 上
ゼロ除算100/0=0, 0/0=0の意義:
1)西暦628年インドでゼロが記録されて以来 ゼロで割るの問題 に 決定的な解をもたらしたこと。
2)ゼロ除算の導入で、四則演算 加減乗除において ゼロで割れないの例外から、例外なく四則演算が可能である という 美しい構造が確立された。
3)2千年以上前に ユークリッドによって確立した、平面の概念に対して、おおよそ200年前に非ユークリッド幾何学が出現し、特に楕円型非ユークリッド幾何学ではユークリッド平面に対して、無限遠点の概念がうまれ、特に立体射影で、原点上に球をおけば、 原点ゼロが 南極に、無限遠点が 北極に対応する点として 複素解析学では 100年以上も定説とされてきた(注参照)。それが、無限遠点は数では、無限ではなくて、実はゼロであったという驚嘆すべき世界観をもたらした。
4)ゼロ除算は ニュートンの万有引力の法則における、2点間の距離がゼロの場合における新しい解釈、 独楽の中心における角速度の不連続性の解釈、衝突などの不連続性を説明する数学になっている。ゼロ除算は アイシュタインの理論でも重要な問題になっていたとされている。
5)複素解析学では、1次変換の美しい性質が、ゼロ除算の導入によって、任意の1次変換は全複素平面を一対一onto に写すと美しい性質に変わるが、 極である1点における不連続性が現れ、ゼロ除算は、無限遠点を 数から排除する数学になっている。
6)ゼロ除算は、不可能であるという立場であったから、ゼロで割る事を 本質的考えてこなかったので、ゼロ除算で、分母がゼロである場合も考えるという、未知の新世界、研究課題が出現した。
7)複素解析学への影響は 未知の分野で、専門家の分野になるが、解析関数の孤立特異点での性質について新しいことが導かれる。典型的な定理は、どんな解析関数の孤立特異点でも、解析関数は 孤立特異点て、有限な確定値を取る である。佐藤の超関数の理論などへの応用がある。
8)特異積分におけるアダマールの有限部分や、コーシーの主値積分は、弾性体やクラック、破壊理論など広い世界で、自然現象を記述するのに用いられている。面白いのは 積分が、もともと有限部分と発散部分に分けられ、 極限は 無限たす、有限量の形になっていて、積分は 実は、普通の積分ではなく、そこに現れる有限量を便宜的に表わしている。ところが、その有限量が実は、 ゼロ除算にいう、 解析関数の孤立特異点での 確定値に成っていること。いわゆる、主値に対する解釈を与えている。これはゼロ除算の結果が、広く、自然現象を記述していることを示している。
9)中学生や高校生にも十分理解できる基本的な結果をもたらした:
基本的な関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである
すなわち、 1/0=0 である。
10)既に述べてきたように 道脇方式は ゼロ除算の結果100/0=0, 0/0=0および分数の定義、割り算の定義に、小学生でも理解できる新しい概念を与えている。多くの教科書、学術書を変更させる大きな影響を与える。

インターネット普及率1位はデンマーク

インターネット普及率1位はデンマーク
2014年11月25日 20:54 発信地:ジュネーブ/スイス
IT
インターネット普及率1位はデンマーク ×米ニューヨーク(New York)で、スマートフォンを見ながら通りを歩く女性(2014年11月13日撮影、資料写真)。(c)AFP/Don Emmert 写真写真拡大をみる 写真購入のお問合せはこちら
【11月25日 AFP】国連(UN)の専門機関、国際電気通信連合(International Telecommunication Union、ITU)の24日の発表によると、携帯電話での接続を含めたインターネットの普及率でデンマークが韓国を抜き、1位になった。
ICT(情報通信技術)の分析を専門とするITUによると、普及率はデンマーク、韓国に続き、3位スウェーデン、4位アイスランド、5位英国と欧州勢が上位を占めている。アジアで最も普及率が高い香港(Hong Kong)は、世界順位で9位。米国は14位となっている。一方、下位にはアフリカ諸国が並び、最下位は中央アフリカ共和国だった。ITUの報告書によれば、世界全体のインターネット利用人口は今や30億人を超えている。一方、インターネットを利用していない43億人の9割は開発途上国に住んでいる。ただし14年の途上国での利用率の伸びは、先進国の3.3%を上回る8.7%となっている。(c)AFPhttp://www.afpbb.com/articles/-/3032676


再生核研究所声明35(2010/04/23): 社会と個人の在りよう―細胞の役割
声明 33:民主主義と衆愚政治 の中で、民主主義
( : 諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制 ― 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 )
の在りよう、 特に一般選挙で代表者を選出する方法、及び多数決で決定する方法 について考察し、民主主義の問題点を考察した。 そこで、(1)まず、代表者の選出過程、重要事項の決定過程に 多くの労力を有し、時間と手間がかかること。(2)投票者が 代表者の行使する行動について、良く理解できず、適切な代表者の選出ができず、いわば考えている代表者とあべこべの代表者を選出する可能性が高いこと。(3) また、代表者の本来の要務以外の能力で、たとえば感じがいいから等で、代表者を選出しがちであること。(4)また、候補者に名演説などで いわば騙されてしまうこと。(5)何でも多数をそろえて、政治その他を推し進めようとなりがちなこと。(6)会議で、多数決で議事を決定する際、投票者が議事に対する理解と公正な判断能力を有しないために言わば数の結果で悪い決定がなされる。(7)さらに、難しい問題を多数の人が理解できるか、判断できるかという観点。 難しい問題を素人の多くの人に判断を求めるのは 逆に無責任で、危険であるということ。
として、次の時代には、より進んだ政治体制が考えられなければならないが、当分は適切に適用できる方法が現実的に見当たらないから、現状の体制を維持するとして、民主主義の弊害を少なくするために、運用の在りようについて:
1) 代表者の選挙については、 選挙の広報をきちんと行うのは当然であるが、 投票しない権利を明確に認め、いわゆる投票率を上げるような行動は慎むこと。 これは投票に興味と関心を有する人に参加して頂き、興味や関心を持たない人に無理に投票して頂くのは 無責任につながりかねないからである。特に政治や社会に関心のない人への勧誘による投票は慎むべきである。投票の案内は当然であるが、投票しましょうという勧誘は良くないと考える。これは、いわば真面目な投票人による選挙を意図していて、いわば無責任な人の投票を排除しようとする意図があることを肯定するものである。
2) 代表者の身分が民主主義ゆえに不安定では 責任ある政治を行うことができないから、在任中は特に厚く身分を保証して 本務に専念できるように配慮すること。
3) 代表者は 広い視点に立って、自分の立場より、公の立場を優先させて考え、評価については 近視眼的ではなくて、歴史的な評価を大事にすること。
4) 代表者の投票者(有権者)は 日ごろ研鑽を行い、投票に責任が負えるように努力すること。
5) 特に 代表者の選出過程や代表者の立場が、マスコミの影響を受け易いのが、民主主義の特徴であるから、マスコミ関係者は 高い見識を持つように 特に努力して 報道の5原則にいつも留意すること。
とした。そして、民主主義は何時でも衆愚政治 に陥り易いので、 衆愚政治に落ち入らないように努力して  より良い政治の下で良い社会を築いて行こうと呼びかけている。
上記考察のうちで、政党政治の形をとるのが 民主主義の必然的な形態と考えられるが、政党政治は本来もつべき国家や社会についての大きな視点から、 往々にして、政党間の競争、あるいは無用の権力闘争に陥り易い弊害があることも指摘されなければならない。 本来考えるべき国家や社会の問題をないがしろにして、権力闘争に明け暮れるさまは 戦国時代と何ら本質的に変わらない形相と云える。 いわゆる派閥や仲間を作り、公の立場よりも、そのような派の利害を優先した行動がとられ、民主主義が空洞化してしまうのはよく見られる現象である。 また、公人を選出するのに 自己の利益や自己の所属する集団の利益の観点から、代表者を選出しようとするのは、本質的な間違いであるのに 多くの人はそれすら克服できない恥ずかしい状況にあると言える (衆愚政治とは、有権者の大半が知的訓練を受けずに参政権を得ている状況で、その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな合意が得られたりする状況をさす。 また有権者がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。)  さらに、各個人の属する社会の中での 自己の立ち場に対する配慮 (保身) から、あるいは無気力や自分の専門や仕事に 埋没した多くの人が、自己の意見を表明せず、民主的な多数の意思が、実際には多数の意思を反映せず、一部の強い意見がまかり通ることが結構多いと危惧される (アビリーンのパラドックス)。  バブル崩壊後の新しい特徴として、社会の厳しさが、生活や生きていくことの困難性を生じせしめ、社会や国家について深く想いをめぐらす余裕を失ない、 国家や社会についての理解や論調が 軽薄になっているとみられる。
そこで、国家と個人は、社会と個人は 如何にあるべきかについて、 2010年4月18日 朝、
人体と細胞のように在るべきである
という考えを抱いた。 国家や社会は人体のように全体として、統一のとれた主体的な存在であるが、個人は細胞のようにそれぞれの役割をもって、国家や社会に調和する存在であるべきであるという考え方である。 個々の意思は中枢に反映され、中枢の指示は個々に反映される。 それは細胞のなす、おのおのの器官を通して 全体に調和する形でなされなければならない。 この理念を社会に活かすには、人はそれぞれに希望する形で社会に参加して、1)項のように 強制的でなく、 自発的、自由な意思での参加方式をとるのがよいと考える。
これは社会が複雑になり、人びとの関心と興味が多様になり、一律全体が との形が 逆に大きな弊害をもたらす事実をさけて、 いろいろな役割によって全体に参加することにしようと提案しているものである。 中枢の個々への指示は明瞭であるが、個々の中枢への意思の表示については尚検討の余地があるが、現状の在りようで基本的にはよいと考える。 この声明の趣旨は 人体と細胞のように国家と個人は、社会と個人は有機体の存在として、 調和ある存在 になろう ということにある。実際、一個の人間の存在は 細胞が生体の中で有機的な存在であるように、本来社会の中で有機的な存在ではないだろうか。生体が病んでしまったら、個々の細胞の存在はどのようになるかに 想いを致したい。 
実際、人類の生存は、如何なるものをも超えた存在である(最も大事なこと:声明13)。
以 上

再生核研究所声明85(2012.4.24)食欲から人間を考える ― 飽きること
あらゆる生物の最も基本的な本能は、外部から取り入れるという、食の本能である。生きている顕著な営みであると言える。 この基本的な本能から、人間の基本的な要素を分析、考察し、人生の基本を理解したい。 
認識できる人間は 自己の生命が求めていることを、欲求や欲望、求める、欲しいという感覚で自覚するが、求める、欲しいの 最も基本的なものは、空腹を満たし、食べたいという、欲求である。もちろん、苦痛からの解放など、生存を脅かす状況からの解放は当然である。
このことから 既に、人間が有限の存在であることを知る。食欲といえども食を無限に頂くことはできず、どんな好物でも やがて、飽きるだろう。有限のものを取り入れている存在であると言える。何を頂くか、何を頂きたいかは、我々の生命が何を要求しているかの 要求の自然な表現として現れていると考えられる。基本的には 好きなものを好きなだけ頂くのが 健康にも良いと考えられよう。 その原理は多様な食から、変化を持たせて、適度に頂くが基本ではないだろうか。すなわち、多様性の原理とそれを実現させる 飽きるという重要な感覚がある。 飽きるという感覚が無ければ、食に偏りを生じ、複雑な生命活動を維持するのに支障が生じるだろう。
この声明の趣旨は、ちょうど食欲の状況のように、外部からの情報を取り入れて 豊かな精神活動を展開しようという観点に思いを至らしむことにある:
1) 我々は有限のものしか受け入れられない、制限があること
2) 我々の生命が 心が何を求めているかを 注意深く絶えず、己が心に尋ねること;
生きたい、死にたくない、良く暮らしたい、それらを越えて、生きるということは どのようなことか、自らに問うて行きたい。
3) 何事集中しすぎると飽きてくるので、間を考え、適度に変化を持たせること
4) 生命作用は複雑な存在だから、幅広い世界、情報に接するように配慮すること
5) 年齢、健康状態、環境などに影響をうけること
6) 慣れる、習慣、学習効果などにも配慮すること。
近年、インターネットの普及で、名曲や名画、映画の名場面など繰り返し、繰り返し楽しむことができる時代を迎えている。また、知識や情報が幾らでも入り、友人、知人、友達など幾らでも増やせる自由な時代を迎えている。それゆえに逆に、自己の世界をきちんと整理、制御して、取捨選択をきちんとして行かないと、いたずらに情報に振り回されて、適切でない食生活が健康を害するように、我々の精神を害することになるだろう。大いに気を付け、配慮して行きたい。
食も、飽きるものと、飽きないで、基本的に続けられるものが在ることにも注目したい。確かに定食など永く続けていても 適当な間隔で頂けば、飽きないで永続できるものがある。水やエネルギー源などは 基本的に必要であり、精神活動でも適度な刺激、変化、発見など、同様に基本的に心がけなければならないものが有り、また、いくら続けても、求道、芸術や研究活動などの創造活動のように 続けられる分野 が有ることに注目したい。
したがって、そのような永続するものを しっかりと受け止めて、適当に揺らぎを取り入れた生き方が、人生を豊かにする秘訣であると言えるだろう。
個人にはそれぞれの才に器が有り、生命作用は内部から、湧いている。教育の原理は その生命作用を補助することにある。 日本の公教育の現状は 個人の食欲を弁えず、一方的に強制して与えすぎで、消化不良と分裂、混乱させ、不健康な人間を大量育成している状況が有るのではないかと危惧している。これは、2500年も前に 中国古代で、既に注意されている事実である(再生核研究所声明2:教育方法では、学生の過誤を未発のうちに防止することを予という。学生の学習状況に応じて、ちょうど好い時に教えることを時という。学生の(受容能力の)程度を越えぬようにして授業することを孫(順当)という。 学生が互いに注意して言行を善美にしてゆくように指導すること、これを摩(磨)という。 これらの四事は、教育の効果を大きくする善法である。)。
美しいものをみたい、聞きたい、義に生きたい、人生の意味を知りたい、真相を知りたい、世の法則を知りたい、道を究めたい などなどは、食欲と同様、我々の生命が求めているのである。 実際、我が生命は 何を求めているのか と 絶えず、自らに問うべきである。 これは 人生の基本定理 を内から表したものである(再生核研究所声明 12:人生、世界の存在していることの意味について)。
以 上
再生核研究所声明182(2014.11.26) 世界、縄張り、単細胞、宇宙
(初秋、猿の家族が2日間 20頭くらい訪れ まだ渋い 3本の甘柿を食べ尽くして 近くの山に姿を消した。2014.11.9 仕事の区切りがついて、研究室から山を眺めていて 今頃どこで何をしているだろうかと気遣って 人生を想って構想が湧いたが、焦点が絞れなかった。)
猿の1団には 生息領域が 相当にしっかり有ると言える。人間でも、江戸時代以前では概ね、終日歩いて行ける距離 概ね半径40キロメートル以内くらいに 普通の人の生活圏は限られていたと言えよう。生涯でもそれを越えた世界に立ち入るのは、希なことであったのではないだろうか。婚姻なども その範囲に多くは限られていたと言える。 多くの動物には 縄張りなどの生活圏が存在していると言える。
そこで、一人の人間Aの存在範囲に思いを巡らしたい。A の存在し、想像し、活動する世界全体を Aの世界Bとして、それは、B の世界、宇宙と考えよう。勿論、B はいわゆる外なる大きな 世界と複雑に関係しているが、A が認知できる一切の世界を Bと考えよう。
何が言いたいのか。それは、大きな世界に於ける 個人の存在の小ささである。特に、個人が大きな世界、人間社会に与える影響は 普通は極めて小さいと言うことである。基本的に次のように捉えられる:
再生核研究所声明 35: 社会と個人の在りよう ― 細胞の役割
再生核研究所声明85: 食欲から人間を考える ― 飽きること
言わば、個人の物理的な制限である。
歌の世界で例えてみよう。 日本には素晴らしい歌があって、歌謡界のレヴェルは高く、愛好者も実に多く、歌については 日本は世界最高の文化ではないだろうか。俳句や、生花、盆栽、折り紙などについても言えるのではないだろうか。 
そこで、Aの好みであるが、美空ひばり様の多くの歌などは、多くの日本人を感動させるだろうが、好みには個性が有って、人それぞれ、また、好みはA 自身でも時や、状況、年代でも変化して、 共感,共鳴出来る人、真の理解者は ほとんど探せない状況ではないだろうか。 これは同じく、共感、共鳴している間でも微妙に感じるところが 違うのではないだろうか。言語、文化、習慣の違う外国人などには、美空ひばり様の歌の受け止め方は相当に違っている。 そう、この声明の趣旨は見えてきた:
世界B は Aにしか分からず、本質的に人間は孤独であり、己の世界をしっかりと捉える(治める)ことの重要性 の確認である。
しかしながら、人間は本能的に、共感、共鳴し、群がりたい存在であるから、自分の世界と相手の世界の調和、相性、関係をよく捉えて、 交流を図るべきである。 その時の鍵は 社会は多様であり、個性は様々であるから、相手の選択が大事だという視点である。
声明の題名にある縄張りとは、2つの世界が交流するときの お互いの干渉に於ける、相手の世界に与える影響の微妙な評価に対する気遣いである。― これは要するに、自分の価値観や世界観を押し付けないという配慮である。
そこで、類は友をなす諺のように、いろいろ気の合う仲間による いろいろな絆を大事に育てて行くのが、人生であるとも言える。
以 上


デザインとおとぎの国 デンマーク (地球の歩き方GEM STONE)/著者不明
¥1,728
Amazon.co.jp
3日でまわる北欧in コペンハーゲン (Hokuo Book)/森百合子
¥1,728
Amazon.co.jp
世界一幸福な国デンマークの暮らし方 (PHP新書)/千葉 忠夫
¥778
Amazon.co.jp
なぜ、デンマーク人は幸福な国をつくることに成功したのか どうして、日本では人が大切にされるシス.../ケンジステファンスズキ
¥1,512
Amazon.co.jp
世界で最もクリエイティブな国デンマークに学ぶ 発想力の鍛え方/クリスチャン・ステーディル
¥2,138
Amazon.co.jp
デンマークの光と影―福祉社会とネオリベラリズム/鈴木 優美
¥1,944
Amazon.co.jp

秘密保護法:「福島再び」広がる懸念 来月10日施行 

秘密保護法:「福島再び」広がる懸念 来月10日施行 
毎日新聞 2014年11月28日 10時51分(最終更新 11月28日 10時58分)

1枚の地図に驚き、怒りを覚えた。東京電力福島第1原発事故から2週間後の2011年3月25日、福島県の南相馬市役所内で政府高官から見せられた。桜井勝延市長は「見たこともないものだった」と振り返る。
第1原発周辺の放射線量を測った汚染地図だった。浪江町や飯舘村の30キロ圏外でも、線量が高いことを桜井氏は初めて知る。南相馬市の一部は30キロ圏にかかり、住民が多数圏外へ自主避難していた。何も知らされず、より線量の高い地域へ逃げた住民もいた。「住民に必要な情報をきちんと伝えるべきだ」と、高官にいらだちをぶつけた。
東日本大震災と原発事故は、日本にとって一種の「有事」だった。実際、現地に自衛隊が派遣され、米軍も艦船約20隻、航空機約160機、兵員2万人以上を投じる「トモダチ作戦」で協力。多数の被災者が救われた。しかしその際、放射性物質飛散を予測するシステム(SPEEDI)による試算結果を、政府は米軍には原発事故から3日後の3月14日に提供。国民への公表は12日後の23日と遅く、住民の無用な被ばくを招いたとして批判を浴びた。
     ◇
衆院選の投開票4日前の来月10日に、特定秘密保護法が施行される。特定秘密になりうるのは、防衛▽外交▽スパイ防止▽テロ防止--の4分野で、漏えいには最高で懲役10年を科す。
過去、同法制定を公約に掲げた政党は、自民党を含めて一つもなかった。種をまいたのは第1次安倍内閣だ。有事に備え07年、米国と安全保障情報を共有する協定を結び、秘密保護法制整備が事実上の対米公約となった。その後、福田、麻生内閣で検討を進め、途中で民主党に政権交代。野田内閣は法案を準備したが、提出には至らなかった。2年前に返り咲いた第2次安倍内閣が自ら刈り取る形で昨年10月、法案を国会に出した。
     ◇
続く法案審議で、原発と特定秘密の関係を巡り論戦があった。当時の森雅子・特定秘密保護法担当相らは「原発事故の情報は特定秘密にはならない」と強調した。ただ、原発はテロの標的となる恐れがあり、その場合、住民の安全にかかわる情報が特定秘密となる可能性は否定できない。http://mainichi.jp/select/news/20141128k0000e010167000c.html
再生核研究所声明 66(2011/06/18):
言論の自由を篤く保障し、実りある議論のできる社会に
 近年、果たして、日本に言論の自由が保障されているかについて 疑わしめる状況が起きている。最近も、原発反対を表明したら、仕事を変えざるを得ないような状況に追い込まれた、と報道されている。このような場合、言論の自由は表現の自由として、人権のうちでも中枢をなすものとして、日本国憲法はおろか、世界人権宣言にも著しく反するものであることは 天下周知の事実であるから、明白な形をとらず、虐めのような、間接的な抑圧として現れる極めて、陰気な形をとるのが特徴である。そこで、まず、言論の自由について、日本国憲法にしたがって確認しておきたい:
日本国憲法
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。 通信の秘密は、これを侵してはならない。
また、世界人権宣言は:
世界人権宣言 (1948年12月10日第3回国際連合総会採択)
第19条
すべて人は、意思及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。(「ただし」とか「公共の福祉の場合を除き」といった例外的制限が無く、絶対的な人権として採択されている点に注意。)
また、直接関与する新聞倫理綱領には:
新聞倫理綱領 (2000(平成12)年6月21日制定)
 21世紀を迎え、日本新聞協会の加盟社はあらためて新聞の使命を認識し、豊かで平和な未来のために力を尽くすことを誓い、新しい倫理綱領を定める。
 国民の「知る権利」は民主主義社会をささえる普遍の原理である。この権利は、言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される。新聞はそれにもっともふさわしい担い手であり続けたい。
 おびただしい量の情報が飛びかう社会では、なにが真実か、どれを選ぶべきか、的確で迅速な判断が強く求められている。新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によってこうした要望にこたえ、公共的、文化的使命を果たすことである。
 編集、制作、広告、販売などすべての新聞人は、その責務をまっとうするため、また読者との信頼関係をゆるぎないものにするため、言論・表現の自由を守り抜くと同時に、自らを厳しく律し、品格を重んじなければならない。(以下略)
と、一様に言論の自由の重要性を謳っている。芸術や創造活動など生命の叫びとして、いろいろな表現は人間の生きている証であるから、それらの自由を保障するのは 人間存在の本質に迫る問題である。 しかしながら、具体的に問題が露わになるのは、社会の在り様についての見解、意見で言論の自由が問われる場面が生じる(哲学者のアレクシス・ド・トクヴィルは19世紀初頭のアメリカで人々が政府による報復への恐怖からではなく、社会的圧力のために自由に話すのをためらうのを観測した。個人が不人気な意見を発表するとき、その人は彼の共同体からの軽蔑に直面するか、または乱暴な反応を受けるかもしれない。このタイプの言論の抑圧を防ぐことは政府からの抑圧を防ぐよりさらに難しい: 言論の自由 - Wikipedia)。また、人を傷つける表現、ポルノなど、社会を乱す表現、あるいは事実と異なる発表などなど、法と倫理に関わる難しい問題が生じる(一方でマスコミによってしばしば行なわれる私人の醜聞の暴露、宮内庁による天皇皇族の動静の「代表取材」要求や「写真お貸し下げ」を無批判に受け入れる行為は、言論の自由を自滅させる行為であるとする強い批判もある。前者に関しては、一部のブロガーがそれを真似た行為に走り、さらにはネット掲示板にもその情報を広めて非難を浴びることがあるが、元はと言えば既成マスコミのセンセーショナリズムが一般市民にも発信可能になったということに過ぎない: 言論の自由 - Wikipedia)。これらに対応するには 次の公正の原則を参考にすれば 多くの場合対応できるのではないだろうか:
 平成12 年9月21 日早朝、公正とは何かについて次のような
考えがひらめいて目を覚ました。
 1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。
 2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。
 3) それはみんなに受け入れられるか。
 4) それは安定的に実現可能か。
 これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して
諒となれば、それは公正といえる。(再生核研究所声明1)
しかしながら、上記、3基本規定は 言論、表現の自由は 最大限保障するように心がけていこうとの 高い精神を謳っているものと理解したい。その本質は、多様な意見、多様な表現が世界を大きくし、世界史を豊かにするという、人間存在の原理から由来するが、他方、社会の在り様や、政治に対する意見などについては、対立する多様な意見の中に 実は価値ある見解が含まれる可能性があるという、観点が大事になる。
例えば、福島原発についても、その危険性を鋭く指摘された 国会での質疑が記録されている。― もし、それらの意見を真剣に受け止めて対応していれば、何十兆円も超えるであろう、国家的な損失を避けることができただろうと残念に考えられる。―
もし、言論、表現の自由が保障されず、束縛されれば、世の意見は偏り、視野は狭くなり、独善に陥り、結果として、貧しい暗い、社会になるだろう。 
更に重要な観点は、幾ら言論、表現の自由が保障されたとしても、それらの伝達が適切に行われるかが 重要な問題である。 幾ら価値ある意見、表現でも世に上手く伝えられなければ、世に活かされない、無視されることになるからである。そのような意味でのマスメディア、出版業界など関係機関の見識と役割は、インターネットの普及で改善される傾向が出ているものの依然として重要な役割を果たしている。 実際、日本で、言論の自由がそれほど大きくないとの評価は、マスメディアなどが 偏った見解を一方的に流し、価値ある見解を無視している、反対意見を無視しているとの観測から出ているものと考えられる。
更に、問題点を具体的に指摘すれば、上記新聞倫理綱領に反するように
1) 政府、検察、大企業、軍関係との癒着が深く、独立性が保てず、どこかで検閲のようなことが行われ、新聞が一様に申し合わせたような在り様に感じられること
2) 社説なども高い見識、良識、公正な立場を保てず、視野の狭い、偏った質の低いものになっていて、社会的に大きな影響を与えるようなレベルにはない
3) 一方的な報道が見られ、反対意見や少数意見の中の貴重な意見などを探し、世に活かそうなどの高邁な精神に欠けている
4) 世論調査などを公表して、逆に意図的に世論を誘導しているような恣意が強く出ている。 積極的な不当な政治介入とも理解される
5) 幅広い意見を紹介せず、社の都合の良い意見を多く採用、掲載していて、幅広い意見を世に紹介しようとの精神に欠けているように見える
6) 日本の新聞界、マスコミが如何に弱体化、退化しているかは、福島原発事故における対応、特に所謂メルトダウンの真相が、事故発生後2ヶ月も経って明らかにされた事実から、明白である。これは、世界史に残る日本の醜態である。放射能汚染状況などは 日本のマスコミを信じず、海外のメディアを参考にしている有様である
7) 個人の過ちに寛容でなく、社会的に傷つけるような 弱い者 虐めの感じを否めない。情報環境に対する配慮も求められる
8) 上記新聞倫理綱領に書かれている、基本的な在り様の精神に 全体的に欠けているような状況は、マスコミ批判として、相当強い世論になっていると考えられる。マスコミには 世の批判に謙虚に答える姿勢に欠けているように見える、まるで、大きな権力を有しているような、尊大さが見られる。 ― 世の問題は そんなに難しいものではなく 上記 公正の原則 に従えば 容易に改善できるものであると 考える。―
さて、現在大きく対立する意見として、原発の是非の問題、財政、経済、増税の問題、政党支持の問題、外交、防衛問題などがある。そこで、それらの問題に対する言論の自由からの考え方について、簡単に触れたい。
 原発の是非の問題: 飛行機の是非の問題は 世界的に問題となっていないようである。 原発も原理は同じではないだろうか。原発を十分制御できて、総合的な評価において採算が取れれば、利用したいと考えるのは道理である。飛行機でも全滅の現実は起きており、被害の状況が是非を決定することになると考えられる。問題は、それらの評価が、大部分の人が素人で分からない状況であるという現実である。分からないのに感覚的に、賛成、反対を表明したり、国民投票で決めようというのは如何なものであるかと考える。 まるで、あれも霞と民主主義 以外のなにものでもなくなってしまう。 多数で決めれば良いとはならないと考える。 専門的な総合的な判断が不十分では、投票、それ以前の、議論すら、意味がないのではないだろうか。また真実ではない、一部の利害に基づく見解では、さらに混乱を世に巻き散らすことになる。いわゆる御用学者などと言われる言葉が広まっているのは、真理を追究する研究者にとっては 恥ずべきことである。専門家として、研究者としての信頼を欠いている現象とみられる。 そこで、第三者の客観的な評価、意見の表明が重要になって来る。 財政、経済、増税問題なども基本的に 素人には分からない難しい問題と言える。
 政党支持の問題、外交、防衛問題など: これらの問題は、自由に意見を表明、また働きかけて、日本国のために どうすれば良いかを 真面目に考えるべきである。特に残念なことは、見解が違うと、相手を決めつけて、実り有る議論ができず、対立のための議論になってしまいがちなことである。 これは より良い道を選ぼうとする基本精神を失い、論争のための議論、あるいは勢力争いの、また利害のための議論に陥っているからである。これでは 良い意見が出ても採択されたり、活かされないので、空しい議論になってしまう。 現在の政党のように、あるいは派閥のような 単なる、争いのための議論が横行しているのは残念である。 背後に有るべき、国にとってどうしたら良いか、社会のためには どうしたら良いかの基本精神を失っている状況と言える。 野党は 政府のあらさがしに夢中で、 相手を追い詰めるのが仕事のように錯覚している場面が多く、単なる権力争いに明け暮れていて、国家、国民のことを なおざりにしているようにも見える。 これでは、自分たちのことより、国のためにはどうしたら良いかの、 基本を見失った、本末転倒の在り様である。
これは 日本国の文化としても言える。 議論をしながら、より高い知見を得よう、高まっていこうの精神が欠落していて、実りある議論ができない、視野の狭さが根付いている。 多様な意見、考えが自由に述べられ、議論、交流によって、より高い、より広い視点に立って高まっていけるような社会を 目指すべきである。対立する意見が出たら、自分の見解がより高い視点にいける可能性があると 積極的に歓迎すべきである。― 実際、研究者は何時でも いろいろな考え方、見方、批判を歓迎している。
言論、表現の自由を篤く保障して、自由な議論、交流ができる、明るい、社会を築きたい。
広い視野を持ちたい。それは人間存在を豊かにする基本的な原理でもある。
日本では、周りに気遣いばかりして、いろいろな発言が出にくい環境、文化を有しているが、それでは、賢明な在りようや、活力ある社会を創造できず、結果として、貧しい社会になってしまうだろう。 
以上

再生核研究所声明38 (2010/05/22):  
ロッキード事件のもみ消しについて
下記に添付のようなニュースが報じられ、 沖縄返還に絡む密約とともに、また真相の一部が明らかにされた。 この件について、政治家の在りようや国家の在りようについての問題点を考察したい。 今後の在りように活かすように期待する。
1) 先ず、 このような情報が 日本国では明らかにさられず (闇の世界の存在)、アメリカの情報公開法で明らかになったという事実は 重要な問題を有していると考える。 アメリカでは真実を明らかにするシステムが確立している (素晴らしいことである) にも関わらず、日本国では、国会などでも大問題として大きく取り上げられたにも関わらず、真相を明らかにできず、 日本の検察庁、マスコミなどの弱点を露呈していることである。 当然、 検察庁が独立機関として法と正義の下に、真剣に取り組めば、本来、明らかにできた事件である。 欧米では時間を越えて 真理、真実を追求しようとする文化がある (これは神の前に出るときには 清い心で望みたい という宗教が背後にあるように感じられる) のに比べて、日本には 誤魔かしたり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに 深く根ざしているとも言える。
下記のニュースの
結果的に、事件の資料は、原則として公表しないことを条件に日本の検察に提供された。(奥山俊宏、村山治)
の部分は、アメリカと検察庁が秘密を共有しているということで、 重要な意味を持つと考えられる。 また検察庁は提供された資料から 真相を知っていたということになる。
2) 日本国の法を、真実を、 重責ある公人が堂々と無視しようとした政治家の働きかけは、重罪に値すると考える。 もしそれを許せば、いくらでも理由をつけて、自分の権力や、政党の利益を図れるからである。 次の 公正の原則 (声明 1)を参照:
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか.
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか.
3) それはみんなに受け入れられるか. 
4) それは安定的に実現可能か.
3) 特に、外国の力を借りてとなれば、国家を超えた力を利用したことに当たるから、その罪はより重く、 国民と国家を裏切っていることに通じ より本質的な問題を含んでいると考える。 
実際、与野党いずれも政府に真相解明を要求。 三木首相は2月18日、「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた という首相の方針と国会の精神にも背信していると考えられる。
4) 外国に対して、秘密の保持を求めることは、それだけ何かと弱みを握られ、結果として、国家的な不利益を受ける危険性が大きく、このような弱みを握られていては、独立国の指導者の在りようとして、はなはだ本質的な問題を有する。
5) 時効の観点から、犯罪を問えないとしても、上記のように極めて重要な問題を有しているから、国会も、検察庁もマスコミも真相を追及して、やがて日本国の正しい歴史にしっかりと記録に残し、このような事件を今後決して許さないという教訓を国民レベルで共有すべきである。 政治家は近視眼的な評判や評価を気にするのではでなくて、歴史の評価に耐えるように 大義をもって、努力すべきである。 それには 真相は、アメリカのように、必ず、後には明らかになるという前提が必要であり、またそのような信念の共有がなければならない。 従って、アメリカにおけるような情報公開法の検討が求められる。 (過去のことは過去のこと、と片付けるならば、我々は、未来まで片付けてしまうことになる - ウインストン・チャ-チル)
以上
                                                  
参考資料:
ロッキード事件をめぐり「MOMIKESU」との要請が記載された米政府の公文書=米ミシガン州のフォード大統領図書館:
 ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があったと報告する公文書が米国で見つかった。裏金を受け取った政府高官の名が表に出ると「自民党が選挙で完敗し、日米安全保障の枠組みが壊される恐れがある」という理由。三木武夫首相(当時)は事件の真相解明を言明していたが、裏では早期の幕引きを図る動きがあったことになる。中曽根事務所は「ノーコメント」としている。
 この文書は76年2月20日にジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写し。米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管され、2008年8月に秘密指定が解除された。
 ロッキード事件は76年2月4日に米議会で暴露されたが、ロ社の裏金が渡った日本政府高官の名前は伏せられた。
 与野党いずれも政府に真相解明を要求。三木首相は2月18日、「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた。
 文書によると、中曽根氏はその日の晩、米国大使館の関係者に接触し、自民党幹事長としてのメッセージを米政府に伝えるよう依頼した。中曽根氏は三木首相の方針を「苦しい政策」と評し、「もし高官名リストが現時点で公表されると、日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」「できるだけ公表を遅らせるのが最良」と言ったとされる。
さらに中曽根氏は翌19日の朝、要請内容を「もみ消すことを希望する」に変更したとされる。文書には、中曽根氏の言葉としてローマ字で「MOMIKESU」と書いてある。中曽根氏はその際、「田中」と現職閣僚の2人が事件に関与しているとの情報を得たと明かした上で、「三木首相の判断によれば、もしこれが公表されると、三木内閣の崩壊、選挙での自民党の完全な敗北、場合によっては日米安保の枠組みの破壊につながる恐れがある」と指摘したとされる。
 文書中、依然として秘密扱いの部分が2カ所あり、大使館関係者の名前は不明だ。
 結果的に、事件の資料は、原則として公表しないことを条件に日本の検察に提供された。(奥山俊宏、村山治)
     ◇
 東京地検特捜部検事時代にロッキード事件を捜査した堀田力弁護士の話 米国への要請が事件発覚直後で、しかも「日本の政府がひっくり返るかもしれない」とブラフ(脅し)みたいな言い方なのに驚いた。私は法務省刑事局の渉外担当参事官として2月26日に渡米し、資料入手の交渉をしたが、それを阻止するような動きがあるとは察してもいなかった。


再生核研究所声明 33 (2010/04/02):  
民主主義と衆愚政治
民主主義( : 諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制 ― 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 )の在りよう、 特に一般選挙で代表者を選出する方法、及び多数決で決定する方法 について考察し、問題点を露にし、より良い政治、決定が行われるように注意を喚起したい。
まず、このような方法をとる原理は、重要決定について 関係者がすべて平等に固有なる権利を有するから、その固有の権利の行使として、一般選挙を行い、選出された代表者も同じような考え方から、多数で決定すること、及びそのような過程、方式で多くの意見を基に討論して、みんなで決定する考え方である。この際、少数意見でも適切な意見である可能性があるから、それらを尊重して議論し、最終的には多数決で決定する(少数意見の尊重)というところも 民主主義の重要な点である。現在世界的に考えられている政治権力の決定方式である。それに対して、中国古代で考えられた いわゆる天子様による政治は、絶対権力を有する天子様が一部の人の意見を参考にして、決定していく方式であるが、多くの王政も日本の幕藩体制も大体同じような政治体制と考えられよう。これらの問題点は、権力者のいわば大義名分、すなわち、なぜ、天子や王や将軍が権力を有するのかという理由付けに難しい点がある。また、そのような権力者の決定に本質的な問題がある。しかしながら、そのような大義名分の問題があるものの、良き天子や王の下で、理想的な政治が行われた時代は 世界の各地で見出される。
民主主義の問題点は、まず、代表者の選出過程、重要事項の決定過程に 多くの労力を有し、時間と手間がかかることである。 そこで、多くの政治家、代表者は選出されるために膨大な労力を使い、本来の政治や仕事に取り組むためのエネルギーを費やしている。 また、有権者の支持を取り付けるために、構成員のためにならないようなことであっても、約束するような状況が多々起こり得る。 顕著な例として、日本国における膨大な借金と慢性的な財政赤字が挙げられよう。国民の支持を取り付けるために、必要ではあるが、課税を強化できない状況をもたらしている。このようなことを続ければ、国家破産を迎えるのは必然ではないだろうか。民主主義の失敗例に 日本国の場合が記録される可能性を有する ゆゆしき問題である。
民主主義の問題点は、投票者が 代表者の行使する行動について、良く理解できず、適切な代表者の選出ができず、いわば考えている代表者とあべこべの代表者を選出する可能性が 高いという、事実にある。 また、代表者の本来の要務以外の能力で、たとえば感じがいいから等で、代表者を選出しがちである。また、候補者に名演説などで いわば騙されてしまうことなどは、よく有りがちである。しかしながら、選んだのであるから、それは選出者の責任であるという観点は 良く理解できる大義名分である。
みんなで、選出し、みんなで決めたことであるから、如何なる決定でも納得できるは 確かに大事な大義名分であるが、これを誤解すると何でも多数をそろえて、いわば多数の力で、政治その他を推し進めようとなりがちな弊害を生むことになる。多くの会議で、多数決で議事を決定する際、投票者が議事に対する理解と公正な判断能力を有しないために   言わば数の結果で悪い決定がなされるのが むしろ多いのが現状であろう。これは原理的にも本質的にそうなる傾向がある。一般に良いものから順に並べれば、多数の決定とは 中間くらいの決定になるのが世の法則だからである。多数による決定とは 決定の便法であり、適切とか、公正とが、正しいという種のものではないことに留意しておく必要がある。( 数学のゼミナールで討論すれば、議論している数学の結果に対する真偽を多数決で決めるのは 何の意味もなく、誰が真実を述べているかによって、自ずから客観的に決定するのとは大きな違いがある。)
さらに、難しい問題を多数の人が理解できるか、判断できるかという観点も大事である。 沖縄返還に伴う外交問題で、いろいろ密約をしていた状況が露になったが、状況を露にすると国民の反対が出て外交がうまく行かないという、高度な政治判断が行なわれたのは顕著な例である。 憲法改正や、国防の在りようなども同じように難しい問題がある。それらを素人の多くの国民に判断を求めるのは 逆に無責任で、危険であるという面も有する。
次の時代には、より進んだ政治体制が考えられなければならないが、当分は適切に適用できる方法が現実的に見当たらないから、現状の体制を維持するとして、民主主義の弊害を少なくするために、具体的に運用の在りようについて提案したい:
1)いわゆる代表者の選挙については、 選挙の広報をきちんと行うのは当然であるが、 投票しない権利を明確に認め、いわゆる投票率を上げるような行動は慎むこと。 これは投票に興味と関心を有する人に参加して頂き、興味や関心を持たない人に無理に投票しても貰うのは 無責任につながりかねないからである。特に政治や社会に関心のない人への勧誘による投票は慎むべきである。投票の案内は当然であるが、投票しましょうという勧誘は良くないと考える。これは、いわば真面目な投票人による選挙を意図していて、いわば無責任な人の投票を排除しようとする意図があることを肯定するものである。( 高校時代の世界史の 尊敬する先生の 授業中に述べられた ひっとした言葉が 今鮮やかに蘇り、ここに成文化したい: 私は、よくよく考えて 1票を投じているのに、よく考えないで投票する人と 同じ1票かと思うと 考えてしまう という嘆きの言葉です。)。
2)代表者の身分が民主主義ゆえに不安定では 責任ある政治を行うことができないから、在任中は特に厚く身分を保証して 本務に専念できるように配慮すること。
3)代表者は 広い視点に立って、自分の立場より、公の立場を優先させて考え、評価については 近視眼的ではなくて、歴史的な評価を大事にすること。
4)代表者の投票者(有権者)は 日ごろ研鑽を行い、投票に責任が負えるように努力すること。
5)特に 代表者の選出過程や代表者の立場が、マスコミの影響を受け易いのが、民主主義の特徴であるから、マスコミ関係者は 高い見識を持つように 特に努力して 次の報道の5原則にいつも留意すること:
 (2010年01月31日)
原口一博氏がtwitter でつぶやいたという報道の5原則:
原則1「推定無罪の原則」
…….(最初から有罪であるよう印象づける報道はしないこと)
原則2「公正な報道」
…… (検察の発表だけをたれ流すのでなく巻き込まれた人や弁護人の考えを平等に報道すること))
原則3「人権を配慮した報道」
…….(他の先進国並みに捜査権の乱用を防ぐため、検察・警察の逮捕権、家宅捜索権の行使には、正当な理由があるかを取材、報道すること)
原則4「真実の報道」
……(自主取材は自主取材として、検察・警察の情報は、あくまでも検察・警察の情報である旨を明記すること)
原則5「客観報道」
…… (問題の歴史的経緯・背景、問題の全体構図、相関関係、別の視点などをきちんと報道すること)
                                         
みなさん、民主主義は何時でも衆愚政治 に陥り易いので、 衆愚政治に落ち入らないように努力して より良い社会を築いて行こうではありませんか。
                                                          以 上
注:
衆愚政治(しゅうぐせいじ、Ochlocracy)とは、多数の愚民による政治の意で、民主政を揶揄して用いられる言葉。有権者の大半が知的訓練を受けずに参政権を得ている状況で、その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな合意が得られたりする状況をさす。 また有権者がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。知的訓練を受けない民が意思決定に参加することで、議論が低廻したり、扇動者の詭弁に誘導されて誤った意思決定をおこない、 誤った政策執行に至る場合などをさす。また知的訓練を受けた僭主による利益誘導や、地縁・血縁からくる心理的な同調、刹那的で深い考えにもとづかない怒りや恐怖、嫉妬、見せかけの正しさや大義、あるいは利己的な欲求などさまざまな誘引に導かれ意思決定をおこなうことで、コミュニティ全体が不利益をこうむる政治状況をさす。 また場の空気を忖度することで構成員の誰もが望んでいないことを合意することがある(アビリーンのパラドックス)。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。
欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。 
GHQから「日本の将棋は取った相手の駒を自分の兵隊として使用するので、これは捕虜の虐待ではないか」と問われた升田は次のように反論する。
「冗談をいわれては困る。チェスで取った駒をつかわんのこそ、捕虜の虐殺である。そこへ行くと日本の将棋は、捕虜を虐待も虐殺もしない。常に全部の駒が生きておる。これは能力を尊重し、それぞれに仕事場を与えようという思想である。しかも敵から味方に移ってきても、金は金、飛車は飛車と元の官位のままで仕事をさせる。これこそ本当の民主主義ではないか」
格好良すぎるぞ。升田幸三!
名人に香車を引いた男―升田幸三自伝 (中公文庫) [文庫]
升田 幸三 (著)