2014年7月31日木曜日

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「コロンブスの卵」

日本人がよく耳にする「コロンブスの卵」(Columbus's Egg)は、欧米人にとってはあまり耳慣れない言葉らしい。
*以下に「現代英語教育」(大修館:1993年5月号)という本に鈴木 哲 氏(当時、伊藤機工株式会社に勤務)が寄稿された「Columbus's Eggの秘密」から一部を抜粋、加筆して紹介しています。(2004.09.02追加)
1.「Columbus's Egg」の収録について
「Columbus's Egg」という英語表現は、「Brewer's Dictionary of Phrase and Fable」のほかにも「The Facts On
File Encyclopedia of Word and Phrase Origins」に見ることができる。しかし、以外にもこの2種類のほかには
「Columbus's Egg」はいかなる大冊の英米辞書にも見出すことができなかった。
32種類の主要辞書を挙げ、このような慣用表現がどの辞書に収録されているかを示す「Idioms & Phrases
Index」も、先のBrewer'sのみを示すにとどまっている。
.
2.「コロンブスの卵」の収録について
一方、日本語の「コロンブスの卵」は、わずか2万3千語収録の福武書店(現 ベネッセ コーポレーション)「チャ
レンジ小学国語辞典」をはじめとする児童用国語辞典がよく収録し、「玉川児童百科大辞典」第16巻にも説明
がある。
また、児童向き伝記に「コロンブスの卵」が挿絵入りで紹介されていることも特徴的である。
例えば、ポプラ社「コロンブス」(柴野民三 著:1969年)には挿絵入りの「コロンブスのたまご」という章があり、
解説で川崎芳隆 氏が「コロンブスの卵」は第1回目の航海後の1493年春、バルセロナのことである、としてい
る。
日本の辞書で「コロンブスの卵」に「Columbus's Egg」をあてているのは、「学研カラー図解英語百科辞典」のほ
かに、「外来語辞典 第2版」(角川書店)、「広辞林 第6版」(三省堂)、「コンサイス外来語辞典 第4版」(三省
堂)などがあったが、根拠は不明である。
ちなみに、「新和英中辞典」(研究社)で「コロンブスの卵」を引くと、内容から「生卵」となっているが、我が国で
紹介される逸話としては「ゆで卵」が多い。また、「最新日米口語辞典」(朝日出版:サイデンステッカー・松本
道弘 編)には、「Columbus's Eggといっても欧米人にはピンとこない」と記している。
.
3.尋常小学国語読本の「コロンブスの卵」
我が国の「コロンブスの卵」の説話は、戦前の1921年発行の第3期「尋常小学国語読本」第8巻 第19章に
4年生用教材として登場し、1933年からの第4期にも第8巻 第22章に収録されたが、1941年からの第5期
には削除されている。
下表に1928年版での記載内容を示します。(一部、表記を変更しています)
.
おそらくは、この70年ほど前の国語読本が元で、子供向け伝記作家が「コロンブスの卵」を再生産し、辞書編
集者の目にとまり、項目に加えるようになったのではないかと考えられる。
第十九 コロンブスの卵 (「尋常小学国語読本」より)
コロンブスがアメリカを発見して帰った時、イスパニヤ人の喜んだことは非常なものでした。
一日祝賀会の席上で、人々がかはるがはる立つて、コロンブスの成功を祝しますと、一人
の男が「大洋を西へ西へと航海して、陸地に出あったのが、それ程の手がらだらうか」とい
つて冷笑しました。
之を聞いたコロンブスは、つと立つて、食卓の上の「うで卵」(ゆで卵)を取り、「諸君、こころ
みに此の卵を卓上に立ててごらんなさい」といひました。
人々は何の為にこんなことをいひ出したのかと思ひながら、やつて見ましたが、もとより立
たうはずはございません。
此の時コロンブスは、こつんと卵のはしを食卓にうちつけ、何の苦もなく立てて申しました。
「諸君、これも人のした後では、何のざうさもない事でございませう」
.


4.「コロンブスの卵」の「コロンブスの卵」
物理の世界における「コロンブスの卵」には、1960年8月号の「文藝春秋」に丹羽小弥太 氏による「コロンブスの
卵」と題する一文のほか、中谷宇吉郎 博士(1900~1962:雪の結晶を発見した学者)の「立春の卵」(1947)
が興味深い。
中谷氏は、1947年2月5日の「立春の日」に中央気象台で成功した10個の卵を立てる実験などを紹介した上、
卵は立春に限らず、生卵でもゆで卵でも「もともと立つような形であるのを」、「世界じゅうの人間がコロンブス以前
の時代からこんにちまで」立たないものと思っていた、と説いた。
卵を立てる実験については、1947年2月5日と6日付けの朝日新聞に紹介されている。ちなみに、最近では、津
野正郎 氏という「立卵家」がいて、100個以上の卵を同時に立てるといい、また、集中力を高める「コロンブスの
卵」という名の玩具も市販されている。
5.「Columbus's Egg」は慣用表現か (一部のみを抜粋)
筆者(鈴木 哲 氏)が「コロンブスの卵」について42人の日本人成人に尋ねたところ、39人が「耳にしたことがあ
る」と答え、一方、7人の英米人に「Columbus's Egg」について尋ねたところ、1人の英国人が「聞いたことがある
ような気がする」と答えたほかは、「表現もエピソードも耳にしたことがない」と回答した。
新大陸到達500年を越えた今日、英語「Columbus's Egg」は、日本語の「ブルネレスキの卵」に近い通用性しか
持っていないのかもしれない、と筆者(鈴木 哲 氏)は感じている。



「コロンブスの卵」と「ブルネレスキの卵」

・ここでは、「コロンブスの卵」以前からあった話とされる「ブルネレスキの卵」について掲載しています。もしかしたら「コロンブスの卵」話のルーツかもしれません。ただし、この話も実話かどうかは疑わしいものとされています。(*2004.09.02追加)
コロンブスの卵
「コロンブスの卵」は、「誰にできることでも、最初にするのが難しい」という意味で使われる。
1492年にアメリカ大陸(西インド諸島のサンサルバドル島といわれている)を発見したことで有名なコロンブス。
その功績を祝う晩餐会で、ある男が言った「西へ西へと航海して陸地に出会っただけではないか」と言った皮肉に
対して、コロンブスは卵を取り上げ、「この卵を卓の上に立ててごらんなさい」と言った
だれも立てられないのを確認するとコロンブスは、卵のおしり(気室のある鈍端部と思われる)を食卓でコツンとた
たいて立てて言った。「人がした後では何事も簡単です」
日本でも、戦前の小学校の教科書に取り上げられ、「コロンブスの卵」が定着した。ただし、これは16世紀ごろに
作られた話らしいとされている。(この話は、後にイタリアのベンゾーニがコロンブスの偉業を脚色するために自身
の著書に書いた作り話といわれている)
.
ブルネレスキの卵
「コロンブスの卵」の話は16世紀ごろ、イタリアのベンゾーニがコロンブスの偉業を脚色するために自身の著書に
書いた作り話とされている。さらにこの話の元になったのが、コロンブスと同時代のイタリアの建築家フィリッポ・ブ
ルネレスキの話である。
ある寺院を建築するにあたって、彼は図面も模型も見せずに「私に建築させてください」と提案したが、他の建築
家たちが大反対。そこで彼は「大理石の上に卵を立てた人に任せてはどうか」と提案する。他の全員立てられな
かったが彼は卵の底を潰して立てたのである。
当然批判されたが、「最初にやるのが難しい、もし図面を見せたらあなた達は真似をするでしょ」と言い返したので
ある。

再生核研究所声明171(2014.7.30)
掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?
(2014.7.11小柴誠一、山根正巳氏との会合で、道脇裕氏の 割り算と掛け算は別であり、ゼロ除算100/0=0は自明であるとの考えを分析して得た考えを纏めたものである。)
ゼロ除算100/0=0は2014.2.2 偶然に論文出筆中に 原稿の中で発見したものである。チコノフ正則化法の応用として、自然に分数、割り算を拡張して得られたものであるが、歴史上不可能であるとされていること、結果がゼロであると言う意味で、驚嘆すべきことであること、さらに、高校生から小学生にも分る内容であると言う意味で、極めて面白い歴史的な事件と言える。そればかりか、物理学など世界の理解に大きな影響を与えることも注目される。詳しい経過などは 一連の声明を参照:
再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
しかるに いろいろな人たちと広く議論しているところであるが、世界の指導的な数学者でさえ、高校生でも理解できる発表済みの論文 その後の結果について、現代数学の常識を変えるものであり、受け入れられない、と言ってきている。まことに不思議なことであり、如何に驚くべき結果であるかを示していると言える。
多くの数学者は、内容を理解せず、100/0=0 は100=0 x 0 =0 で矛盾であると即断している。しかるに論文は 100/0 は 割り算の意味を自然に拡張するとゼロの結果を得るのであって、ゼロ除算の結果は 100=0 x 0 =0を意味しないと説明している。 逆に、無限大、無限遠点は数と言えるかと問うている。
ところが面白いことに 既に3月18日付文書で、道脇裕氏は 掛け算と割り算は別であり、ゼロ除算100/0は 自明であると述べていた。しかし、その文書は、一見すると
矛盾や間違いに満ちていたので、詳しく分析してこなかった。しかるに上記7月11日の会合で、詳しい状況を聞いて、道脇氏の文書を解読して、始めて道脇氏の偉大な考えに気づいた。結論は、ゼロ除算100/0は分数、割り算の固有の意味から、自明であると言うことである。これはチコノフ正則化法や一般逆とは関係なく、分数、割り算の意味から、自明であるというのであるから、驚嘆すべき結果である。千年を越えて、未明であった真実を明らかにした意味で、極めて面白い知見である。またそれは、割り算が掛け算の逆であり、ゼロ除算は不可能であるという長い囚われた考えから、解放した考えであると評価できる。
原理は日本語の表現にあるという、掛け算は 足し算で定義され、割り算は 引き算で定義されるという。割り算を考えるのに 掛け算の考えは不要であるという。
実際、2 x3 は 2+2+2=6と繰り返して加法を用いて計算され、定義もできる。
割り算は、問題になっているので、少し詳しく触れよう。
声明は一般向きであるから、本質を分かり易く説明しよう。 そのため、ゼロ以上の数の世界で考え、まず、100/2を次のように考えよう:
100-2-2-2-,...,-2.
ここで、2 を何回引けるかと考え、いまは 50 回引いてゼロになるから分数は50であると考える。100を2つに分ければ50である。
次に 3/2 を考えよう。まず、
3 - 2 = 1
で、余り1である。そこで、余り1を10倍して、 同様に
10-2-2-2-2-2=0
であるから、10/2=5 となり
3/2 =1+0.5= 1.5
とする。3を2つに分ければ、1.5である。
これは筆算で割り算を行うことを 減法の繰り返しで考える方法を示している。a がゼロでなければ、分数b/aは 現代数学の定義と同じに定義される。
そこで、100/0 を上記の精神で考えてみよう。 まず、
100 - 0 = 100,
であるが、0を引いても 100は減少しないから、何も引いたことにはならず、引いた回数は、ゼロと解釈するのが自然ではないだろうか (ここはもちろん数学的に厳格に そう定義できる)。ゼロで割るとは、100を分けないこと、よって、分けられた数もない、ゼロであると考えられる。 この意味で、分数を定義すれば、分数の意味で、
100割るゼロはゼロ、すなわち、100/0=0である。(ここに、絶妙に面白い状況がある、0をどんどん引いても変わらないから、無限回引けると解釈すると、無限とも解釈でき、ゼロ除算は 0と無限の不思議な関係を長く尾を引いている。)
同様に0割る0は ゼロであること0/0=0が簡単に分かる。
上記が千年以上も掛かったゼロ除算の解明であり、 ニュートンやアインシュタインを悩ましてきたゼロ除算の簡単な解決であると 世の人は、受けいれられるであろうか?
いずれにしても、ゼロ除算z/0=0は  既に数学的に確定している と考えられる。そこで、結果の 世への影響 に関心が移っている。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. Vol.4 No.2 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAMT/


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欧米の算数教育では19までの数とそれ以上の数をどうしても     分離して教えざるを得ない言語的理由がある / 日本語(および 朝鮮語、ハンガリー語)には、その様な『欠陥』は無い!!

欧米の算数教育では19までの数とそれ以上の数をどうしても
    分離して教えざるを得ない言語的理由がある / 日本語(および
朝鮮語、ハンガリー語)には、その様な『欠陥』は無い!!

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 福岡県の小学校教諭のS先生は、小学校1年生の数の指導で、学習指導要領では1年
生は19迄の指導を「10といくつ」というやり方で指導することになっているけれど
も、10ずつの固まりを子どもたちに作らせて、どんどん大きな数を数えさせるように
工夫をして指導したところ、子どもたちがみんな何でもかんでも数えたがるようになり、
「20までの数」という指導要領の制限を軽く越えて、500前後の数までみんなが一
気に数えられるようになった、という驚くべき教育実践を報告しています。
 日教組第60次教育研究集会数学教育分科会レポートから部分的に引用させて頂きま
す。
<S教諭のS先生のレポートからの引用開始>
1.はじめに
 現任校に赴任して7年目を迎える。高学年の実態を目にして、1年生のときから数の
概念を丁寧に指導することの重要性を改めて認識した。そこで、1年生を担任して入門
期からの数との出会いを大事にしたいと考えた。
[数範囲を『60』までに広げる
 教科書では、『10』までを指導した後、『20』までに区切って指導する。『20』
までの数であると、『9,10,11,12,13,...』と一続きに数えれば分か
るので、10のまとまりをつくる必要はない。だから、10ずつかためて数える良さを
実感することができない。
 子どもたちは、『50』以上の数を生活の中で唱えて遊んでいる。『20』までの数
では、数える楽しさを味わうことができず、子どもたちの学習意欲を高めることもでき
にくい。そこで、数範囲を『20』までに区切らずに、『60』ぐらいまでに広げるこ
とを考えた。
[手作りカウンターを作り、位取りを教える]
 教科書では、『20』までの数の指導において、『10とあといくつ』という数の構
成を捉えさせる内容になっており、位取り記数法を扱うわけではない。これでは、子ど
もたちには表記の意味はわからない。
 そこで、指導にあたっては、紙粘土でたこ焼きをたくさん作らせ、10穴のうずらの
たまごパックに詰めて、パックの個数を手作り<+>カウンターに表していく。その後、
ばらを<->カウンターに表し、両者を接続して、位取りへと結びつけていくようにし
たい。
(柴田の注:要するに、『手作りソロバン』ですが、それを、子どもたちが喜ぶように
たこ焼きと、それを詰め込む穴あきのうずらたまごパックで実現したところが、小学校
の先生でないと思いつかないような生活臭あふれる教材。)
[百の位を数えて、500前後まで数えさせる]
 新教科書では、120前後の読み書きは扱うが、百の位は教えていない。子どもたち
は、一の位、十の位は、すでに学んでいるので、「十」が10個で「百」を学ぶときに、
百の位を教えるのが好機であろうと考える。数える体験として、120前後にとどめず
に、500前後の身の回りにある具体物を数えさせていきたい。
[十ずつ、百ずつまとめて数える体験を重視する]
 子どもたちは、数えることそのものに興味をもつ。たくさんの物を目の前にすると、
自然に数え出す。そこで、子どもたちの興味に即し、身の回りにある様々なものをでき
るだけ多く準備することで、10ずつ、100ずつ数える活動を仕組んでいく。10ず
つまとめる道具として、ぴったり10個入るケースを使う段階、10個数えて自分で閉
じる段階、10個を別物と置き換える段階、動かない物を10個ずつ囲む段階へと発展
させていくようにしたい。
(中略: 授業の実際の様子が、豊富な写真と絵図で詳しく解説されています。『たこ
焼きやさんごっこ』楽しそうですよ!)
5.成果と課題
 ●10ずつまとめて数えるという体験があまりないこどもたちにとって、たくさんの
数を数えることを楽しんだ体験が、かたまりを実感しながら数をとらえていくことにつ
ながり、本当の意味での理解につながるということを痛感した。
 ●手作りカウンターを作って位取り記数法を捉えさせることを重視したことによって、
どの子にも理解を助けることとなった。さらに、数が苦手な子が自分の力で位取り記数
法をとらえていく手助けとなり、手作りカウンターは大変有効な手だてであると感じた。
 ●1年生で数の学習を進めていく際に、指導主事が「20までのかずで『10といくつ』
の数の構成をおさえた後にそれ以上の数を扱うという順番は替えられない」と断言した
が、この実践を通して十進位取り記数法のしくみを初めから丁寧に扱っていけば、あえ
て『10といくつ』の数の構成を扱わなくても十分理解できることが明らかになった。
<S先生のレポートからの引用、終わり
 うーん、すごい! 驚くべき実践報告ですね。いや、本当に恐れ入りました。『目か
ら鱗が...』という感じです。
 ところで、最後の方に書いてある、指導主事が「20までのかずで『10といくつ』
の数の構成をおさえた後にそれ以上の数を扱うという順番は替えられない」と断言した
のはなぜでしょうか。それは、もちろん、学習指導要領に、そのように教えろ、と書い
てあるから、「変えられない」わけです。それではなぜ、学習指導要領には、そんなお
かしなことが書いてあるのでしょうか。それはもちろん、日本の数学教育研究者が、そ
んな愚かなことを猛烈に主張しているからです。それではなぜ、日本の数学教育研究者
は、そんな愚かなことを主張しているのでしょうか。それは、欧米の数学教育研究者が
そのように主張しているからです。「欧米は進んでいるが、日本やアジアは遅れている
から、欧米から学ぶのだ」と、欧米の『権威』に盲従して、欧米人の書いた研究論文や
ら指導書などを引用して、カッコウを付けて(権威を付けて)いるのです。
 ところが、欧米の数学教育研究者がそういう教え方をせざるを得ないのは、彼らの言
語に、アラビア式位取り記数法とは相容れない困った『欠陥』があるからなのです。日
本語や朝鮮語、そしてチョムスキーの主要部パラメータの値が『後置』になっているハン
ガリー語には、そのような『欠陥』が無いのです。そして、アラビア式位取り記数法を
用いているのだから、もちろん、アラビア語にはそのような『欠陥』はありません。と
ころが、そのアラビア語の主要部パラメーター値は、なんとヨーロッパ言語と同じ「前
置」なのです。えーっ、それならどうしてヨーロッパ言語みたいな『欠陥』が発生しな
いのですか、と思うでしょう? 思わない人はチョー鈍感。
 だから、生きている言語はものすごく不思議で面白いのです。その秘密をこれから順
番に解説してゆきます。
 前回の「言問いメール513号 / 児童の学習における算数の計算順序とチョムスキー
普遍文法理論の主要部パラメータ値との間の緊密な関係」で図示したように、西洋言語
(ハンガリー語を除く)では、11から19までの数詞は、1から9までの数詞を用い
       11  12  13   14   15  16 
------------------------------------------------------------------
英語: eleven twelve thirteen fourteen fifteen sixteen
ドイツ語: elf zwelf dreizehn fierzehn funfzehn sechzehn
フランス語: onze douze tre'ze quatorze quinze seize
ポーランド語:jedenas'cie
dwanas'cie
trzynas'cie
czternas'cie
pie,tns'cie
szesnas'cie
フィンランド語:
yksitoista kaksitoista
kolmetoista neljatoista
viisitoista
kuusitoista
のように、「1の位の数詞の主格」+「10を足すことを表す接尾辞」という構成になっ
ています。太古の人類は、おそらく10までの数詞があれば、日常生活には十分だった
ことでしょう。それに、十までの数であれば、手の指を使っても計算できますから、便
利です。それで、各国の言語では、1から十までが基本数詞(複合語ではない)となっ
ているのでしょう。そして、英語、ゲルマン系諸語、ラテン系諸語、スラブ系諸語の基
本数詞は明らかに音韻的な類似が認められますから、これらの数詞が誕生したのは、ま
だこれらの言語が分離する以前だったように見えます。ただし、フィンランド語は明ら
かに違う音韻系統ですし、実際、言語分類表でも「ウラル・アルタイ系の内のウラル語
族」とされています。どちらかと言えば、アジア系の言語です。
 ところが、だんだんと人々が生活する集落の規模が大きくなってくると、10までの
数では必要がまかないきれなくなります。人間も生活物資も数が増えて来たからです。
そこで、新しく、大きな基本数詞を作ったかというと、そうではなくて、既にある基本
数詞を用いて大きな数を作る、という『智の省エネ』をやったわけですね。そのときに、
主要部パラメーターが『前置』になっているヨーロッパの人々は、主要部である1の位
を前置させて、例えば英語の14ならば、「fourteen」=「4(four)」+「10(teen 
= ten)」のように結合させたわけです。
 ところが、ところが、さらに集落はふくれあがり、人も物もどんどん数が増えてゆく
と、20あるいはそれ以上、もっと大きな数が必要となってきます。そこで人々は、さ
らに大きな数を人工的につくりました。大きな数は位がたくさんあるので、先ず、どの
くらい大きいかが聴いていてすぐに聞き分けられる方が良いので、当然、大きい位の数
から言ったり書いたりすることになります。日本人は、それでちっとも困らないのです
が、ヨーロッパ人にとっては非常に困った事態になったわけです。英語の例で言うと、
「14」と「40」が、いずれも「4」+「10」で表されることになったわけです。
「フォーティーン」と「フォーティー」の違いだけですから、これを一度に教えると、
子どもたちは、よほど利口で注意深い子どもでないと、何が何だかわけが分からなくなっ
てしまうことになります。日本語なら、「じゅうよん」と「よんじゅう」を聞き間違え
ることは、まずありません。
 ヨーロッパ言語では、20以上の数が人工的に作られた時代には、11から19まで
の数の呼び方は既に日常生活に定着してしまっていたので、いまさら語順を変更すると
返って混乱が増大するのではないか、という危惧から、昔通りの数詞が維持されたもの
と推測します。そこで、19迄の数の呼び方と20以上の数の呼び方が、完全にひっく
り返っているので、どうしても一度には子どもたちに教えることが出来ないわけです。
まず、19までの数の呼び方をしっかりと定着させた後でないと、20以上の数が教え
られない根本的な理由がここにあるわけです。これは、主要部パラメーターが『後置』
になっている日本語、朝鮮語、ハンガリー語ではまったく考えられない現象です。我々
の言語では、1から無限大に至るまで、数の表し方は完全に首尾一貫していて、これら
の言語では、数を教える際に「19まで」と「20から」なんて区切る必然性は皆無で
す。
-----------------------------------------------------------------
       11  12  13   14   15  16 
------------------------------------------------------------------
ハンガリー語:tizenegy tizenketto
tizenha'rom
tizenne'gy tizenot tizenhat
御覧のように、10 (ti'z) を格変化させて tizen にして、後ろから
  egy, ketto, ha'rom, ne'gy, ... (= 1,2,3,4,...)
を後置しています。
-------------------------------------------------------------------
 すなわち、我々(日本人、朝鮮人、ハンガリー人など)は、主要部パラメーターが
『後置』である言語の母語話者ということで、数の理解においても、大きな数の足し算
・引き算においても、圧倒的に優位な立場に立っている、世界の少数派民族なのです。
 これまでの算数教育は、そのような決定的弱点を抱えた欧米式の教育方法を強制する
ことによって、潜在的には才能があったかも知れない子どもたちを大勢落ちこぼれさせ
て来たのではないでしょうか。算数で落ちこぼれてしまうと、進学や就職において決定
的に不利になり、ひいては、社会のセーフティーネットからもこぼれ落ちて、悲惨で短
い生涯を送ることになる可能性が高いと思います。そういう人々を大勢生み出してきた、
欧米崇拝の日本の数学教育研究者たちは「万死に値する」と思います。
 ところで、アラビア式位取り記数法の本家本元であるアラビア語はどうなっているの
でしょうか。実は、最初にも書いたように、アラビア語は主要部パラメーターが『前置』
なのです。それではなぜ、アラビア語の、例えば、14は「4」+「10」ではなく、
「10」+「4」のように見えるのでしょうか???
 ヒント:かなり前の話しになりますが、NHKの朝の連続テレビドラマで、太平洋戦
争以前の醤油造りの一家が主人公のものがありました。私もときどき見ていたのですが、
あるとき、鉄道の駅の看板が「しふて」となっていました。さあ、どこの駅でしょう?
 上の問題へのヒント:「太平洋戦争以前」ということと、「醤油造り」という所が重
要なポイントです。
[正解]戦前の醤油は、野田の「キッコーマン」と銚子の「ヒゲタ」が2大銘柄でした。
(2011年12月27日追記:銚子にはもう一つ有名な「ヤマサ」という醤油会社が
ありました。)
はい。正解は「銚子」です。日本人は、太平洋戦争以前には、横書きは右から左へ書い
ていたのです。すなわち、「てふし = ちょうし」です。「てふてふ」なんていうのを、
若い人は見たことが無いかも知れませんね。現在でも、左利きの人は、横書きを左から
書くよりも右から書く方が書きやすいかもしれません。日本人には左利きが多かったの
かも知れません。左利きということは、右脳型の人間である、ということです。欧米人
は、言語活動が発達・進化している(簡単にウソがつけるし、言葉による詐欺に騙され
にくい)ので、左脳型の人が相対的に多いと思います(言語野は左脳に遍在している)。
 で、アラビア語は右から横書きするので、「14」というのは、彼らは右から見てい
るのです。だから、右にある「4」が先頭だから、主要部パラメーターが『前置』なの
です。他動詞の目的語の名詞は左側に書かれるので、日本人が単語の列だけを見ると、
日本語と同じ語順だなあ、と錯覚するかも知れませんが、彼らは右から横書きするので、
動詞が右にある、ということは、「前」にあることになるのです。
 太平洋戦争直後に日本を軍事占領したアメリカの占領軍司令部の人たちが、「横書き
を右から書くなんてけしからん。これこそが日本が軍国主義国家になった原因の1つだ」
とか考えて、強制的に横書きを「右から書き」から「左から書き」に改めさせたのは、
日本の数学・算数教育にとって天佑でした。この大改正によって、我々の言語的なパラ
メーター値と数字の表現や足し算・引き算の順序が完膚無きまでに一致するという、世
界にも例を見ないような文化を持つ民族が誕生したわけです。欧米文化が、ちょっとや
そっとで、この世界史的偶然によって産まれた、世界に比類のない日本の文化に追いつ
けるとは、私にはとうてい想像ができません。
(2011年12月30日追記: 上の「アメリカの占領軍司令部の人たち...」の部分は私
の記憶に頼って書いたので、ちょっと心配になって調べなおしてみました。「当たらず
と言えども遠からず」という感じで、占領期にアメリカから日本の教育を非軍国主義化
するための視察団が来て、漢字を廃止してローマ字書きにしろとか、いろいろな勧告を
出し、いくつかは採用され、また、いくつかは採用されませんでした。そんなご時勢の
中で、日本語の横書きについては、「左から書き」を主張するのは進歩的、「右から書
き」を主張するのは保守的という風潮が生まれ、その結果、「左から書き」に改められ
たようです。詳しくは「言問いメール528号・日本語横書きの顛末」
をご参照ください。
再生核研究所声明171(2014.7.30)
掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?
(2014.7.11小柴誠一、山根正巳氏との会合で、道脇裕氏の 割り算と掛け算は別であり、ゼロ除算100/0=0は自明であるとの考えを分析して得た考えを纏めたものである。)
ゼロ除算100/0=0は2014.2.2 偶然に論文出筆中に 原稿の中で発見したものである。チコノフ正則化法の応用として、自然に分数、割り算を拡張して得られたものであるが、歴史上不可能であるとされていること、結果がゼロであると言う意味で、驚嘆すべきことであること、さらに、高校生から小学生にも分る内容であると言う意味で、極めて面白い歴史的な事件と言える。そればかりか、物理学など世界の理解に大きな影響を与えることも注目される。詳しい経過などは 一連の声明を参照:
再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
しかるに いろいろな人たちと広く議論しているところであるが、世界の指導的な数学者でさえ、高校生でも理解できる発表済みの論文 その後の結果について、現代数学の常識を変えるものであり、受け入れられない、と言ってきている。まことに不思議なことであり、如何に驚くべき結果であるかを示していると言える。
多くの数学者は、内容を理解せず、100/0=0 は100=0 x 0 =0 で矛盾であると即断している。しかるに論文は 100/0 は 割り算の意味を自然に拡張するとゼロの結果を得るのであって、ゼロ除算の結果は 100=0 x 0 =0を意味しないと説明している。 逆に、無限大、無限遠点は数と言えるかと問うている。
ところが面白いことに 既に3月18日付文書で、道脇裕氏は 掛け算と割り算は別であり、ゼロ除算100/0は 自明であると述べていた。しかし、その文書は、一見すると
矛盾や間違いに満ちていたので、詳しく分析してこなかった。しかるに上記7月11日の会合で、詳しい状況を聞いて、道脇氏の文書を解読して、始めて道脇氏の偉大な考えに気づいた。結論は、ゼロ除算100/0は分数、割り算の固有の意味から、自明であると言うことである。これはチコノフ正則化法や一般逆とは関係なく、分数、割り算の意味から、自明であるというのであるから、驚嘆すべき結果である。千年を越えて、未明であった真実を明らかにした意味で、極めて面白い知見である。またそれは、割り算が掛け算の逆であり、ゼロ除算は不可能であるという長い囚われた考えから、解放した考えであると評価できる。
原理は日本語の表現にあるという、掛け算は 足し算で定義され、割り算は 引き算で定義されるという。割り算を考えるのに 掛け算の考えは不要であるという。
実際、2 x3 は 2+2+2=6と繰り返して加法を用いて計算され、定義もできる。
割り算は、問題になっているので、少し詳しく触れよう。
声明は一般向きであるから、本質を分かり易く説明しよう。 そのため、ゼロ以上の数の世界で考え、まず、100/2を次のように考えよう:
100-2-2-2-,...,-2.
ここで、2 を何回引けるかと考え、いまは 50 回引いてゼロになるから分数は50であると考える。100を2つに分ければ50である。
次に 3/2 を考えよう。まず、
3 - 2 = 1
で、余り1である。そこで、余り1を10倍して、 同様に
10-2-2-2-2-2=0
であるから、10/2=5 となり
3/2 =1+0.5= 1.5
とする。3を2つに分ければ、1.5である。
これは筆算で割り算を行うことを 減法の繰り返しで考える方法を示している。a がゼロでなければ、分数b/aは 現代数学の定義と同じに定義される。
そこで、100/0 を上記の精神で考えてみよう。 まず、
100 - 0 = 100,
であるが、0を引いても 100は減少しないから、何も引いたことにはならず、引いた回数は、ゼロと解釈するのが自然ではないだろうか (ここはもちろん数学的に厳格に そう定義できる)。ゼロで割るとは、100を分けないこと、よって、分けられた数もない、ゼロであると考えられる。 この意味で、分数を定義すれば、分数の意味で、
100割るゼロはゼロ、すなわち、100/0=0である。(ここに、絶妙に面白い状況がある、0をどんどん引いても変わらないから、無限回引けると解釈すると、無限とも解釈でき、ゼロ除算は 0と無限の不思議な関係を長く尾を引いている。)
同様に0割る0は ゼロであること0/0=0が簡単に分かる。
上記が千年以上も掛かったゼロ除算の解明であり、 ニュートンやアインシュタインを悩ましてきたゼロ除算の簡単な解決であると 世の人は、受けいれられるであろうか?
いずれにしても、ゼロ除算z/0=0は  既に数学的に確定している と考えられる。そこで、結果の 世への影響 に関心が移っている。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. Vol.4 No.2 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAMT/

高濃度汚染水の凍結難航で「氷」投入

高濃度汚染水の凍結難航で「氷」投入
7月30日 16時11分
東京電力福島第一原子力発電所で、地下に流れ込んでいる高濃度の汚染水を凍らせて止水する工事が難航していることから、東京電力は、30日からトンネル内に氷を入れる対策を本格的に始め、凍結の効果が高まるか検証することになりました。
福島第一原発では、「トレンチ」と呼ばれる地下のトンネルに高濃度の汚染水が流れ込み、地下水と混ざって海に流れ出しているとみられ、東京電力は流出を防ぐため、汚染水を凍らせて止水する計画です。
ところが、3か月がたった今も十分に凍らず、対策は進んでいないため、今月からトレンチの中に氷を入れる対策を試験的に始めたところ、2トンの氷を入れた翌日までに水温が4度余り低くなったということです。
このため、東京電力は、氷によって凍結の効果が高まることが期待できるとして、30日から投入する氷の量を1日15トンに増やし、効果の検証を進めることになりました。
2号機と3号機の海側にあるトレンチの中には、合わせて1万1000トンの高濃度の汚染水がたまっているとみられ、東京電力は、海への流出のリスクを減らすため早期に止水を実現したいとしています。

再生核研究所声明79(2012.3.11)  福島原発事故 とは 何か
( 本声明は 2012. 3. 7. 朝、宿舎から、研究室に向かっている時に、声明の題名と趣旨が ひとりでに閃いたものである。)
まず、福島原発事故は 史上最大級の巨大地震による 天災であり、予測不可能な あるいは 避けられなかった事故であり、天災として 重く受けとめる必要がある。
この観点について、なるほど 予測はできた、既に危険性が有ったとの認識を懐く人たちが相当数存在し、また原発について 本質的に否定的な見解を持つ真面目な意見が 根深く、広範に存在することを承知している。 
しかしながら、人間存在の原理に思いを寄せ(再生核研究所声明 32: 夜明け --- ノアの方舟)、さらに 人間の弱さも 現実には認める必要がある。
例えば、関東大地震は再び起きる、富士山は大爆発を起こし、東京都は壊滅的な被害を受ける と警告を発しても、現実には対応できないように である。 それらは いずれも 何時かは起きるであろうが、まさか、我々の時代に起きるとは 真剣には考えないからである。日本国の破産や 金融の壊滅的な混乱も避けられないだろうと考えても、現実には対応できないのと同じような現象である。これらは、世の中が慣性の法則で動いている顕著な、重い例である(再生核研究所声明 72: 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)。
原発については 避けるべきであるとの、真面目で、正当に評価されるべき意見が多数 最初の段階から、存在し、それらの正当な意見については いつでも真摯に向かい、絶えず、自制し、謙虚に耳を傾けて来るべきであった。特に、安全性については 徹底的に、決定的に慎重に 慎重に対応して来るべきであった。
しかしながら、現代の世界をリードしている、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシア、中国などが進めている現実を見れば、日本国が原発の開発と利用にのり出さないことは、日本国の在りようとして、考えられないことであると言わざるを得ない。 実際、日本国が上記世界の指導的な国々を越えて、原発を開発、管理できるとの認識は、自他ともに認める 世界の常識であると考える。 また、原発が日本国に寄与してきた総合的な評価は 高く評価される。 特に 日本国の戦後復興と発展に大きく貢献してきていると考える。
福島原発事故は、世界史上の事件であり、これに誤りが有れば、それは人類の共通の責任であり、人類は共有してこの重い責任を負わなければならない。実際、世界の上記指導な国々は いずれも原発に否定的な見解をとらず、是認してきているからである。 逆に、福島原発事故発生以前の最近までは、地球温暖化を防ぎ、クリーンなエネルギーを得るために 原発を推進することは、大勢として、世界の常識ではなかっただろうか。
ともあれ、日本国は 広島、長崎において 核爆発と放射能の甚大な被害を受け、さらに福島原発事故という、三度目の苦難、試練、挑戦を受けることになった。 原発事故、放射能被害などは 繰り返し、世界を襲うだろうから、それらに有効に立ち向かうのは、人類に課せられた重い課題であり、日本国はその課題に取り込む 重大な使命を 世界史上で負っていると しっかりと受け止めるべきである。
世界は 三度の苦難を受けている日本国を励まし、援助し、原発事故問題、放射能対策などの研究を大いに発展させるべきである。原発事故と放射能対策は、癌撲滅と同じように 人類に課せられた、永続的な大きな課題であると考える。日本国は この困難な課題に 世界に先駆けて、取り組むことが要求されていて、賢明に克服できる道を切り拓くべく 期待されていると考える。
福島原発事故を 日本国に課せられた試練、挑戦課題と捉えて、賢明に取り組み、それらを克服し、克服の在りようを確立して、世界史の発展に 世界史に寄与したいと考える。 最後に福島原発事故関係の声明を挙げて置く:
再生核研究所声明 62:福島原子力発電所事故と その対応、対策、取り組みについて
再生核研究所声明 67: 脱原発デモ ― 非現実的な貧しい二律背反の発想と飛躍した議論
再生核研究所声明78: 無責任な 原発反対と増税反対 ― 実状が分からな     いで意見を表明していないか?
以 上
最悪なシナリオ
2013年…東京で開催が決定
2015年…汚染一向に改善出来ず
2016年…汚染が更に悪化&隠蔽されていた事実が明らかになり問題深刻化
2020年…汚染に怯える各国選手が出場を次々に辞退する前代未聞の大問題となる
日本は完全に世界から嫌われる

拉致問題対応 関係省庁局長級会議を発足

拉致問題対応 関係省庁局長級会議を発足
7月30日 5時21分
拉致問題対応 関係省庁局長級会議を発足
政府は、北朝鮮による拉致被害者らの調査結果を検証するための態勢作りや、帰国した被害者の生活再建を支援するための取り組みなどを検討するため、事務の官房副長官の下に外務省や警察庁など関係省庁の局長級で作る会議を新たに発足させました。
政府は、北朝鮮が「特別調査委員会」を設置して拉致被害者らの調査を開始したことを受けて、拉致被害者らが帰国した場合に備え、現在は10年間となっている給付金の支給期間の延長を検討するなどとした新たな支援策を取りまとめました。
こうしたなか、政府は、ことし夏の終わりから秋の初めごろに、北朝鮮から最初の調査結果が伝えられるとみられることから、省庁間の連携を強化するとともに、具体的な対応の検討を急ぐ必要があるとして、杉田官房副長官の下に関係省庁の局長級でつくる会議を新たに発足させました。
会議には、北朝鮮との政府間協議に出席した外務省の伊原アジア大洋州局長をはじめ、警察庁や拉致問題対策本部などの局長級が参加しています。
会議では、北朝鮮から伝えられた調査結果を検証するための態勢づくりや、拉致被害者らを速やかに帰国させるための準備、それに帰国した被害者や家族の生活再建を支援するための取り組みなどの検討を進めることにしています。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140730/k10013390851000.html

再生核研究所声明 70(2011/09/28) 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず
現代の世相を見ると、余りにも奇妙な現象が起きていて、まるで本末転倒、あべこべになっているのではないかと考えられることが多いので、それらの事象を考察して、初心を尊重して本来あるべき姿について反省を求めたい。しかしながら、時代の趨勢で、初心が本質的に変化を求められ、変遷の止む無きこともあるので、その辺の考察も行なって置きたい。
まずマスコミの現状を見てみたい。 マスコミの在るべき姿については 例えば新聞社においては、自ら天下にこうありたいと宣言している 新聞倫理綱領 を参照して頂きたい(添付資料1)。 現状は 如何でしょうか。鍵となる用語を抜粋したので、現状を考えて頂きたい:
あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される
新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によって
言論・表現の自由を守り抜くと同時に、自らを厳しく律し、品格を重んじ
正確と公正 新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である
報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない
あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない
他方、新聞は、自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する
人権の尊重 新聞は人間の尊厳に最高の敬意を払い、個人の名誉を重んじプライバシーに配慮する。
教育の在り様については、 教育の目標を教育基本法に定めている。 その最初の部分を添付資料に付けたが、あまりに素晴らしく、また、あまりにも現状がかけ離れていて、驚いてしまう。
教育の基本精神を忘れて、知識偏重、受験のための技術学習に陥ってはいないだろうか。そのような教育が 空虚な日本を作っている根本原因ではないだろうか (再生核研究所声明15: 空虚な日本の社会)。さらに、日本の公教育が 才能ある子供たちの才能を大抵、活かさず、逆に駄目にしている事実を憂慮している(再生核研究所声明9: 天才教育の必要性を訴える)。
添付資料3 日本国憲法第9条 については、第二次世界大戦における敗戦で、再び戦争を起こさないとの固い決意のもと、発足したものであるが、朝鮮動乱、東西冷戦下の厳しい国際環境の下、繰り返し、国の最高機関で問題を議論し、司法界の一連の判断を経ながら、今日に至ったものであるから、現状を諒として受け入れる必要がある。しかしながら、その理念については 絶えず、真摯な態度で臨むべきであると考える(再生核研究所声明6: 憲法問題に対する提案 参照)。
上記のように、世には、始めの目標や理念が段々ずれて、何時の間にか逆転している様なことは多い、普遍的な現象ではないだろうか。 研究なども始めの素朴な動機や目標からかけ離れて、研究課題の中の展開のみが目的になってしまい、孤立化して、末期的な現象に陥っている場合が多い。 評価なども 本来は成果や、業績を評価すべきことが、逆転して、見掛け上の評価を良く飾るために 意や努力を重ね、本来期待された業績の展開を阻害している状況さえ多い(再生核研究所声明15: 空虚な日本の社会)。世界の軍事情勢なども侵略や防衛など軍事よりも、政治力の影響やビジネスの要素が強く、戦よりも商、政の性格を強くしていると言えるだろう。 多くの宗教なども、本来の救い、道、に対して、儀式や教団の業の性格を強くしていると言える。 変遷はすべて それなりの理由と歴史が有るのだから、否定的に見るよりも、初期の理念、目標と変遷を吟味するのが良いのではないだろうか。 混乱が生じたら、それらの経過をはじめから検証するのは、数学では日常行っている基本的な態度である。
以 上

添付資料1:
新聞倫理綱領
2000(平成12)年6月21日制定
21世紀を迎え、日本新聞協会の加盟社はあらためて新聞の使命を認識し、豊かで平和な未来のために力を尽くすことを誓い、新しい倫理綱領を定める。
国民の「知る権利」は民主主義社会をささえる普遍の原理である。この権利は、言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される。新聞はそれにもっともふさわしい担い手であり続けたい。
おびただしい量の情報が飛びかう社会では、なにが真実か、どれを選ぶべきか、的確で迅速な判断が強く求められている。新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によってこうした要望にこたえ、公共的、文化的使命を果たすことである。
編集、制作、広告、販売などすべての新聞人は、その責務をまっとうするため、また読者との信頼関係をゆるぎないものにするため、言論・表現の自由を守り抜くと同時に、自らを厳しく律し、品格を重んじなければならない。
自由と責任 表現の自由は人間の基本的権利であり、新聞は報道・論評の完全な自由を有する。それだけに行使にあたっては重い責任を自覚し、公共の利益を害することのないよう、十分に配慮しなければならない。
正確と公正 新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである。
独立と寛容 新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない。他方、新聞は、自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する。
人権の尊重 新聞は人間の尊厳に最高の敬意を払い、個人の名誉を重んじプライバシーに配慮する。報道を誤ったときはすみやかに訂正し、正当な理由もなく相手の名誉を傷つけたと判断したときは、反論の機会を提供するなど、適切な措置を講じる。
品格と節度 公共的、文化的使命を果たすべき新聞は、いつでも、どこでも、だれもが、等しく読めるものでなければならない。記事、広告とも表現には品格を保つことが必要である。また、販売にあたっては節度と良識をもって人びとと接すべきである。

添付資料2:
教育基本法
(平成十八年十二月二十二日法律第百二十号)
教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)の全部を改正する。我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。ここに、我々は、日本国憲法 の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。
 前文
 第一章 教育の目的及び理念(第一条―第四条)
 第二章 教育の実施に関する基本(第五条―第十五条)
 第三章 教育行政(第十六条・第十七条)
 第四章 法令の制定(第十八条)
 附則
第一章 教育の目的及び理念
(教育の目的)
第一条  教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(教育の目標)
第二条  教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一  幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二  個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三  正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四  生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五  伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
(生涯学習の理念)
第三条  国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。

添付資料3:
日本国憲法第9条
1日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
以 上
ウイキペディアより:
マッチポンプとは、偽善的な自作自演の手法・行為を意味する和製外来語である。マッチ(match)は元は英語、ポンプ(pomp)は元はオランダ語である(英語ではpump)。
「マッチで自ら火事を起こして煽り、それを自らポンプで消す」などと喩えられるように、問題や騒動について、自身でわざわざ作り出しておきながら、あるいは自身の行為がその根源であるにもかかわらず、そ知らぬ顔で巧妙に立ち回り、その解決・収拾の立役者役も自ら担って賞賛や利益を得ようとする、その様な行為を指して用いられる表現である。
日本の国会会議録にマッチポンプを用いた発言が残っている。1961(昭和36)年4月11日の衆議院本会議において、松井誠衆議院議員は「銃砲刀剣類等所持取締法の一部を改正する法律案」への質問の中で以下のように発言している。
世に、いわゆるマッチ・ポンプ方式といわれるものがあります。右手のマッチで、公共料金を上げて、もって物価値上げに火をつけながら、左手のポンプでは、物価値上げを抑制するがごとき矛盾したゼスチュアを示すのをいうのでございましょう。
— 松井誠、「第38回国会 衆議院本会議 1961(昭和36)年4月11日」[1]
1966年、黒い霧事件第1弾の田中彰治代議士事件で初めて使われ、元々は金品を巻き上げるという意味で使われた。1974年刊の「現代流行語辞典[2]」では「デスク日記3[3]」1966年8月5日の項にマッチポンプの記述があると紹介している。

拉致問題、北朝鮮問題も真面目に考えたいと思います。 安倍さんたちの考えはただ騒いでいるだけで、一つも解決にはならないのではないでしょうか。日本国政府が嘘をついたり、騙したりしていれば、それは重大だと思います。 神国日本のあるべき姿では無いと思います。日本国民の中には、先ず嫌な国だという感情が先にきてしまうのではないでしょうか。 それで、できれば付き合いたくない というのが、大方の気持ちではないでしょうか。 しかしそれでは、拉致問題は解決できず、アジアの緊張関係は弱まらず、日本は孤立化の方向にいってしまうと思います。 ただ騒いでいるだけになってしまいます。
さらに 不愉快な事は 歴史的な流れがあったとしても 戦前における日本国のおかした罪悪が、噴き出てくることです。 紛れもなく、おかしな国を作った一つの原因が 日本にはあると思います。
そこで、元気がなくなってしまうのですが、世界の平和やより良い未来を切り拓くためには、真摯に 考え直す必要があると思います。
そこで、次の全般的な考察は如何でしょうか。
再生核研究所声明 18(2008/07/30)  拉致問題の解決に向けての提案
拉致問題ほど 日本国にとって不幸な事件は それ程ないのではないでしょうか。しかも解決できる見込みがなく、いわば泣き寝入りの状況に陥っていると考えられます。
さて 拉致問題とは そもそも何でしょうか。日本国内に住んでいた人が 他国によってさらわれたものであり、このような不法な行為が 国家によって行われたことは全くの驚きであり、批判が世界中に広まったのは当然である。これでは 世界の秩序は保てず、国家の存立さえ維持できないからである。また、そのような暴挙を許した日本国の責任は 極めて大きく、これでは日本国の治安、防衛体制はどうなっていたかと批判されても仕方のないものである。陸、海、空を防衛するのは すべての国家の基本的な任務のはずです。またそのような暴挙を繰り返し許していた情報能力には 大いに反省されるべきです。
国家によって拉致された人達を如何にして取り戻すか。現在、政府を含めて、圧力を強めて、取り戻そうとしているが、一向に埒があかず、いたずらに時間をかけていて、拉致された家族の人達と多くの日本国民を苦しめています。 他方、6カ国会議の国々は 所謂、核開発の中止と引き換えに テロ国家指定解除や重油などの援助を行う方向であり、日本国だけが取り残される苦しい立場に追い込まれている。アメリカなどの この妥協は、核兵器を持たせるという大きな脅威を直視する以上、止むを得ないことと理解を示す必要があると考えます。
いやしくも相手国家が拉致問題を解決する姿勢を示さず、圧力をかける有効な手段を持たない以上 この問題を解決するには 実効支配している北朝鮮政府と交渉を行ない、妥協の道を探らなければならないと考えます。
それには交渉が行き詰った所に戻り、そこから1歩1歩解決の糸口を探る必要があります。直接の糸口は デヴィ夫人のブログにあった。
小泉元首相が北朝鮮におもむき、国交正常化を約束し、
そしてめでたく5人の拉致被害者を連れ戻すことに成功、
日本国中が熱い涙を流したのも、昨日の事のように思い出されます。
私自身も怒りのために震える気持ちでした。
しかし拉致被害者の方々は、
日本政府との2週間の日本滞在の約束で帰ってきたはずです。
当時内閣官房副長官であった安倍晋三氏と中山恭子首相補佐官が、
彼等を北朝鮮へ帰さないと強行な態度で約束を破りました。
連れ添ってきた北朝鮮の赤十字の方々を
スパイ扱いするような非礼なことまでいたしました。
に糸口があるのではないでしょうか。約束を守らず、返さなかったという事は 加藤氏のテレビなどでの発言、その他でそのようであったように考えられます。国、政府が約束して、守らなかったとなれば、それ以上交渉が進展しないのは当然ではないでしょうか。日本国政府は、北朝鮮政府を騙した事になり、それではもはやそのような日本国政府とは、交渉ができないというのは、世の道理ではないでしょうか。嘘をついてはいけないのは、相手の為ではなく、自分の信頼を得る為ではないでしょうか。例え相手が、どのようであっても、自分の尊厳と信頼を得る為には、嘘や騙しは、許されないと思います。日本には 武士に二言はないという気高い精神があったと思います。もし日本国政府がそのような いい加減なことをやっていれば、これは、日本国の重大な問題ではないでしょうか。
約束違反は 重大な背信行為になりますから、相手が納得するまで、謝罪する必要が先ずあると考えます。ここで ならず者の国家では道理が通らず、約束を破ってもよいと考える人もいるかも知れませんが、それでは北朝鮮を支配している政府とはもはや交渉は出来ず、結果的に拉致問題は そのような政府が続く限り、解決できないという結論になると考えます。超大国アメリカも中国も 圧力で拉致問題が解決できる見通しが立てば、日本に協力して解決の方法を進めてくれると考えます。そうではないことは、拉致問題の解決がそう簡単ではないと判断していると考えられます。
従って約束違反を真摯に謝罪し、国交正常化交渉のテーブルに着くことが 拉致問題解決の第1歩ではないでしょうか。その始めの段階で、第2次世界大戦以前の日本国の侵略に対する謝罪を 中国や韓国に行ったように真摯に行い、具体的な保障を含めて話し合いを始めるべきではないでしょうか。中国や韓国と行ったように、国交を回復して、両国の友好関係を深めて、アジアの緊張をゆるめ 明るい未来を拓き、世界の平和に貢献して行こうではありませんか。オリンピックまで開催できるように進化した中国を想い出し、北朝鮮の変化と進化を期待しようではありませんか。 このような過程で 拉致問題は着実に前進すると考えます。  以上。
注:
加藤紘一元幹事長の発言:
拉致被害者「戻すべきだった」
・自民党の加藤紘一元幹事長は7日夜、日本BS放送の番組に出演し、2002年に北朝鮮から一時帰国した曽我ひとみさんら拉致被害者5人に関し、同国に戻さないとした当時の政府決定について 「国家と国家の約束だから、(戻した方が)よかった。安倍(晋三前首相)さんを中心に返すべきでないとなったが、その辺が今、日朝の間で打開できない理由だと思う」と述べ、官房副長官として 永住帰国への方針転換を主導した安倍氏の対応に問題があったとの認識を示した。
加藤氏は「(戻していれば現状のようには)ならなかった。『また来てください』と何度も何度も(両国間を)交流していた。一回返すと平壌は殺してしまうんじゃないかと(言われたが)、そこが (安倍氏らとの)外交感覚の差だ。そんなことができるはずがない」と述べた。

再生核研究所声明 50(2011.2.24):  日本における 民主主義の脆さ、危うさ
民主主義は 衆愚政治に近いものであり(声明 33:民主主義と衆愚政治)、日本は既に衆愚政治の状態ではないか との危惧を表明している(声明 49:アジアの愚か者、アジアの野蛮性)。しからば、どうして、このような状態に至ったかを考察して、日本国の弱点を克服して、少しでも歴史を進化させるように努力したい。
はじめに、民主主義は 日本の国民性に合っておらず、本質的な問題を抱えていると言えるのではないだろうか。 先ず、大多数を占める一般庶民を見ると、
1) 政治に興味が無い、関心が無い、政治に嫌気がさしている、政争を好まない、政治論争も嫌いである、あるいは政治に絶望している。
2) 政治を語ると 変な偏った思想の持ち主であるかのように感じられる風土、文化、和の精神で、表に出さず、内緒に政治に関与したい。 みんなで連なっていたい文化背景を有しているように考えられる。
3) 日本のあるべき形や、組織のあるべき姿など 真剣に考える余裕も無く、認識が、理解が薄いので、多分に感じやムード、評判などで、判断内容の質は 相当に悪く、あれも霞と民主主義 のレべル を越えているようには見えない。
4) 公の選挙でも、地縁、など まるで、ある勢力の争いのような雰囲気で、政策や政治理念、政策以外で、選挙に参加するのは よく見られる情景である。多くの場合、社会を良くするには、国を良くするには の観点より、勢力争いに費やしている方が主になっている。
5) 本質的な問題としては、日本では、個、個人が確立しておらず、ふらふら仲間のムードで動いている、生きている、意思表示しているような背景がある。
近年に見られる背景は、
1) 真面目に社会や、国の在りようについて考える、時間的な、精神的な余裕が無い、国防や税の問題、経済、福祉など、難しすぎて、真面目に検討できない
2) 政治社会は あまりにも大きな世界のために、個人の空しさを感じて、絶望的になってしまう。 諦めてしまう
3) 醜い政争、あるいは公約違反などを見て、うんざりして、諦めてしまう、信じられる政党も、政治家も、人物もいない
などの理由で、政治に無関心な層が増加していると考えられる。
それらのために 投票しても、質が低く、変な投票結果すら、出していると考えられる。これこそ、衆愚政治に陥っている ということの、その背景ではないだろうか。
多くの人が政治に関心を持ち、日ごろ議論などして 高い見識を維持することは 不可能である。 そこで、言論界やマスコミなどが 建設的な意見や、あるべき姿について見識ある見解を表明して、多くの国民がそれらを参考にして、選択するというのが、民主主義のあるべき実体である、 実相であると考える。 そこで、マスコミや言論界がしっかりしていれば、民主主義は 国民が最終的な、総合的な判断をするという意味で、うまく機能すると、民主主義制度を高く評価できる。ところが、日本で重大な問題が起きていると危惧している。日本の言論界、マスコミが誠に低級で、偏っているという、判断である。そのために、国民は混乱させられ、政局は混乱し、全体として衆愚政治に陥っているという、判断である。
マスコミが 不偏不党、法と社会正義を守り、客観的な報道を行なうのは、当然であると考えられてきたが、公然と偏向報道を行い、法や道理を自ら破ぶっているように見える。 国家の在り様についての見識も、低級であると判断される。具体例を挙げると、検察が徹底的に調べて、不起訴処分を決定している者を、あたかも有罪判決を受けた者のように、大騒ぎさせて、日本の指導的な政治家を 政治的に抹殺しようとしている事実は 顕著ではないだろうか。推定無罪の原則など、法治国家の常識ではないだろうか。ようやく実現した政権交代を散々攻撃して、政権交代を空中分解させている。 健全にマスコミが機能していれば、このように混乱した状況は 起きなかったものと考えられ、誠に残念である。更に、国家の在るべき姿に対しても アジアに緊張を起こし、軍拡を煽り、アジアの愚か者を 扇動する浅ましさが目立つ。
更に信じられない事件は、検察の政治介入である。これには繰り返し述べてきたところであるが、公然と与党幹事長や首相になろうという人に 政治的な弾圧を加えていると理解されるということである。 これは、民主主義に対する官憲による政治介入に繋がるので、極めて重要な問題を含んでいる。 関係声明を参照して頂きたい:
再生核研究所声明 23: 秘書の逮捕、起訴事件における検察庁の対応と公正の原則
再生核研究所声明 30: 検察庁の暴走と民主主義の危機 - 広い視点
再生核研究所声明 31: 法の精神と - 罪と罰
再生核研究所声明 41: 世界史、大義、評価、神、最後の審判
マスコミも検察も終戦に当たって、大きな反省をした筈であるが、何を学習したのだろうか。 国民のレベルも戦前以下であり、日本国の民主主義に危うさ、危惧の念を抱いている。 それらは、平和の問題に直結している、日本国の大事であると考える。
                                    以 上
欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。 

小沢氏「既存メディア」不信? フリー記者らに積極露出
小沢氏だけでなく、多くの人が、日本のマスコミが、法を尊重せず、公正でもなく、不偏不党でもないとは感じておられると思います。
政治に関心のない・真面目な研究者が、日本のマスコミは外国誌のようだ、小沢氏をたたいている、おかしいと言っていたのは、日本の常識を言っていると思います。首相になろうという人に疑いをかけて、さんざん騒ぎ、政治家失脚のように追い詰めて、結局不起訴を決めた、検察の重大な過失、その事実だけで、検察の責任は、民主主義への本質的な挑戦ではないでしょうか。 
健全なマスコミならば、そのような経過を許さず、また検察の責任を追及するのが正義と法を守り、民主主義を守るマスコミの使命ではないでしょうか。 マスコミ・検察・政治家が団結して、小沢氏をいじめているように見えますね。 おかしな日本。 法も道理も義もないのかと怒りを覚えます。
何故マスコミは乗っ取られたのか?
何時の世にも宣伝は大事であり、権力者ばかりではなく、多くの人が、マスコミを利用しようとするのは、普遍的な事実ではないでしょうか。
そこで、そのような圧力に対して、社会正義や世界のための大きな視点を失って、圧力で動いていれば、それはマスコミの役割を放棄し、信頼を失い結局衰退するのではないでしょうか。 
いつでも信頼の上に成り立つものは世に多いですね。
マスコミは、公器なので、社会正義や不偏不党などの条件が有ると考えますが、アメリカ流の考えによれば、いまや電波や情報は広く拡散できますので、新聞社は、勝手に商業紙の様に自由に書いても良いという考え方があるようです。 ですから、新聞内容を丸呑みしないで、いろいろな情報と比較したりして 批判的・理解する態度が必要ではないでしょうか。
日本の新聞など、外国の圧力で書いているようなところが多く、商業紙のようで、論説記事なども批判的に見る態度が大事ではないでしょうか。 実際、日本のマスコミには、日本を衆愚政治に導いていて、法や道理を無視しているようなところがありますね。 小沢氏の問題などに顕著に現れていると思います。 検察が小沢氏の問題について、不起訴処分を決定したという、重い事実など無視して、政治と金などのキャンペーンを繰り返していますね。 検察の政治介入の巨悪を追及すべきところ、検察とマスコミの癒着では、マスコミの腐敗は深刻ではないでしょうか。
平成暗黒時代の演出者として、やがて世界史の厳しい批判を受けるのではないでしょうか。
再生核研究所声明41(2010/06/10):世界史、大義、評価、神、最後の審判
日本のマスコミは、どの部分を改善したら、素晴らしくなるでしょうか
日本のマスコミについて、果たして自分たちの良心と社会正義観から、政治問題や防衛問題を 真面目に考えているようには見えず、外圧によって、偏向報道をやっているように思われ、報道の信頼が揺らいでいるのは根本的な問題ではないでしょうか。 
編集者の責任は、重大ではないでしょうか。
政治以外の文化面その他の多くの記事が素晴らしくても、大事な政治で偏向・社会正義について信頼を失えば、新聞全体の評価は、著しく下がるのは当然ですから、関係者が内部から、絶えず、社会正義を追求すべきでは。 特にいろいろな意見や反対意見を幅広く取り上げ、いろいろな視点から、幅広く読者が判断できるように、情報を提供すべきではないでしょうか。 
良い意見を広く採択でき、紹介するためには、編集者の高い能力と公正な判断能力が求められるのではないでしょうか。

GHQから「日本の将棋は取った相手の駒を自分の兵隊として使用するので、これは捕虜の虐待ではないか」と問われた升田は次のように反論する。
「冗談をいわれては困る。チェスで取った駒をつかわんのこそ、捕虜の虐殺である。そこへ行くと日本の将棋は、捕虜を虐待も虐殺もしない。常に全部の駒が生きておる。これは能力を尊重し、それぞれに仕事場を与えようという思想である。しかも敵から味方に移ってきても、金は金、飛車は飛車と元の官位のままで仕事をさせる。これこそ本当の民主主義ではないか」
格好良すぎるぞ。升田幸三!
名人に香車を引いた男―升田幸三自伝 (中公文庫) [文庫]
升田 幸三 (著)
日本の政党は「腐敗している」80%(独NGO調査)
国の借金1000兆円を突破 6月末時点
高学歴エリートが沢山いるのになんで財政難なんだよ?
(;_; )( ;_;) シクシク・(-。-;)・(◎_◎)・(^_-)db(-_^) 指切りげんまん

自民が勝つ
民主が負ける
俺たちが笑う
日本が元気になる
それでおk
惜しい 途中までは合ってるけど最後が少し間違ってる
自民が勝つ
民主が負ける
お前らが笑う
自民が日本を終わらす
お前らが騙されたと気づく