2014年7月27日日曜日

梶原しげる:「自分たちのサッカー」バッシングの真相

梶原しげる:「自分たちのサッカー」バッシングの真相
BizCOLLEGE 7月24日(木)8時11分配信
■「自分たちのサッカーができなかった」という「常套句」への非難予選敗退したW杯日本代表メンバーが口にした「自分たちのサッカーができなかった」という「常套句」への非難の声。あれからひと月が経とうというのにいまだネットや雑誌で見かけることがある。「自分たちのサッカーって、要するに何?」と基本的な質問で責め立てるもの。
「自分たちのサッカーさえできれば勝てるとでも思ったの?」とその甘さを皮肉たっぷりに責めるもの。「自分たちのサッカーをさせてくれなかった意地悪な相手チームが悪いのか?」とロジカルに追求するもの。「自分たちのサッカーなんかにこだわっていないで相手の出方に応じて自在に戦術を変化させるべきではなかったか!」と具体的に誤りを指摘するもの。「自分たち(あんた達=日本選手)のサッカーはせいぜいアジアで通用するレベル。世界にはまるで通用しなかった。実力不足でしたと正直に男らしく懺悔しろ!」といった強烈な批判も少なくなかった。
熱烈に応援し、期待をしたからこそ、こういう発言になったのだろう。
サッカーに疎い私は選手のプレーぶりを云々できないが、テレビも含め、あれだけ持ち上げたあげく悪い結果が出たからといって、そこまで言うかなあと、選手達に同情してしまった。■自分の立場を真剣に考えていないマニュアル返し
とはいえ、試合前、選手達が口々に発した「自分のサーカーをするだけです」という定型コメントには「もう少し工夫があってもいいなあ」と感じていた。
「戦う前には手の内を見せたくないと、曖昧に口を濁す戦略か?」と好意的に受けとめようともしたが、緊張のあまり「紋切り型しか浮かばない」という切羽詰まった状況なのかと心配にもなった。
「余計なことを言うなと上から指令が?」そんな疑いさえ持った。
「自分の~をするだけです」という使い古されたフレーズはあらゆるスポーツで頻繁に使われる。「自分の~」の「~」には「走り・泳ぎ・滑り・バッティング・ピッチング・パフォーマンス」など種目は様々だ。スポーツマンは「自分の~」という表現が大好き。しかも多くのメディアはこれを言われると「頑張って下さい」とそれ以上追いかけない。これって「業界のお約束?」とひねくれてみていた。
ところが「自分の~」は「自分の立場を真剣に考えていないマニュアル返しだ!」と言い切った人がいた。今はタレントで活躍する元力士の舞の海さんだ。
かつて、大相撲の野球賭博事件が世間を揺るがしていた頃、舞の海さんから直接「自分の相撲」という「ちょっと聞けば<奥の深そうな>、しかし、実は<何も考えていません>を表す「常套句」の問題点を力説するのを聞いて、私は目からウロコだった(詳しくは本連載の第168回をご覧いただきたい)。「相撲界は自分のことがわかっていない。(例えば)力士インタビュー。アナウンサーが勝因を尋ねると『自分の相撲が取れました』。敗因を問えば「自分の相撲が取れませんでした」。翌日への意気込みを聞くと『自分の相撲を取るだけです』~協会関係者に『(事件でイメージダウンした相撲を)今後どうするのか?』と聞くと判で押したように『自分たちの相撲を取っていくだけです』と答えています ~ 僕はこんな妄想をすることがあります。アナウンサーが力士達に『自分の相撲って、具体的にどんな相撲ですか?』って食い下がるんです。言われた側は不意をつかれ、答えに窮して沈黙する~。面白いでしょう・・・」
現役の相撲解説もやっている舞の海さんの勇気に感動した。
■「自分たちのサッカー」という抽象的な言葉に「すがる空気」
日本代表サッカー選手の場合は、メディアがこぞって「絶対負けられない戦い!」「最低ベスト16」「あわよくばベスト8」「いやベスト4も夢じゃない」と盛り上げるだけ盛り上げた。そんな状況で敗退直後「自分たちのサッカーができなかった」以外の適当な言葉が見つからなかったのだろうと、この「紋切り型」は許容しても良いのではと思っていた。その後「日本中の意気消沈ムード」が収まって以降は各選手がそれぞれ冷静に、「自分の言葉」で、戦いを振り返っている。
ネット上にある「ゲキサカ2014・7・18」では内田篤人選手が「自分たちのサッカー」について真摯な態度でインタビューに答えている。「(この言葉が)一人歩きしてしまった気がする」
「岡田武史元日本代表監督が打ち出してチーム全体で<自分たちのサッカーって何だろう?>と考えるようになった。オシム監督も言いました。<日本(のサッカー)>って何だろう?と(我々日本人の特性にあったサッカーを)考えることはとても良いことだと思う。ただ日本は(欧州や南米などサッカー先進国に比べ)レベル的にまだそういう国(自分たちのサッカーをやっただけでは通用しない)なんだと思う」実に率直な考えを述べている(カッコ内は私の勝手な意訳であることをお許し願いたい)。歴史的にも肉体的にも欧米・アフリカ・南米など「サッカーの本場」をいかに攻略するかは「日本サッカー界」にとって永遠のテーマだ。そこでサッカー選手のみならず、メディアもファンも「自分たちのサッカー」といういささか抽象的な言葉に「すがる空気」があったのではないか。W杯の前に「自分たちのサッカーを!」と言ったのは選手よりむしろ周囲だ。
■「自分たちのサッカー」を突き詰めて考えてみると
月刊誌・第三文明に連載される「二宮清純 対論◆勝利学」。
第54回のゲストはワールドカップを直前に控え、かつての名プレーヤで現在サッカー解説者の木村和司さんをゲストに迎えている。
副題が「自分たちのサッカーをすれば結果は後からついてくる」だ。いつものように鋭い切り口で迫る二宮さん。
二宮「日本がW杯で上位進出を果たすためには、何が必要だとおもわれますか」
木村「自分たちのサッカーができるかどうかだと思います」
二宮さんはここでさらに食い下がる。二宮「(自分たちのサッカー)と言いますと?」木村さんは「相手を身近にこさせないボール回し、瞬時に判断や決断が出来る頭の回転の速さ」「相手がボールを奪いに来られないパス回し」とその特徴をあげ説明している。二宮さんは最後の最後にもう一度「木村さんが見たい日本のサッカーとは?」と突っ込みをいれる。木村さんは「判断や決断のスピードを上げていってもらいたい。攻撃では相手を自分の間合いに入れさせない。逆にディフェンスでは自分たちの間合いに誘い込む。(そういう)サッカーを目指してほしい」と答えている。二宮清純さんが「自分のサッカー・日本のサッカーってなに?」と繰り返ししつこく問いただすのに対し木村さんは誠実に答えている。
■サッカーの枠を超え「ありのままがいいのか?問題」に発展
体力や個人技を存分に生かした欧米・南米型ではなく、肉体的ハンデを克服するための繊細・丁寧・頭脳型チームプレーを選択するのが「日本のサッカー」という説明は、サッカー音痴の私にも理解できた気がした。
「話は聞いてみるものだ」と思っていたが、W杯が終わった今でも、世間では「自分たちのサッカーができなかった」といって肩を落とした選手達の言葉を許さない空気が残っていることを、先週の週刊現代で知った。
「タモリも怒った ユルいぞ、ニッポン! 自分たちのサッカー?何じゃそれ!」
記事は惨敗した選手達が敗戦直後語った「自分たちのサッカーができなかった」について週刊誌らしく「国民的論争」とぶち上げ、徹底追及している。
中では「自分たちのサッカーができなかったから負けた」という選手のコメントから「自分たちの普段通りの、ありのままのやりかた、自分たちらしい試合をすれば勝てたはず」との「深層心理」を導き出す。そこから論点をグンと広げ、昨今の「世間の風潮」=「ありのままの自分たちらしさ肯定」の蔓延は「日本を滅ぼす」との懸念を表明する。サッッカーファンでなくとも思わず興味を引かれる。さすが週刊現代!
本誌の論法をおさらいすると「自分たちのサッカー」→「ありのままの自分たちのサッカー」→「自分たちらしいサッカー」→「らしさがいいのか?」→「ありのままがそんなにエラいのか?」→「若い世代に増長する<らしさ尊重>の気風に疑問符!」と、気がつけば問題はサッカーファンの枠を超え「ありのままがいいのか?問題」という「一般的な論争」に議論が発展している。
■週刊誌は「自分たちのサッカー」を国民論争に
この展開だから、コメントするのはサッッカー関係者ではない。
最初に口火を切るのは「ありのままの限界を感じた実体験を持つ」と告白するハーバード白熱教室のサンデル教授だ。「ひとはありのままで生きられる訳ではない」(週刊現代より抜粋)
サッカーの時限をとび超えて議論は哲学の領域に突入する!
さらに「国民的論争」を盛り上げようと、タモリさん?のコメントが続く。
「ありのままの自分て何なんですかね~自分で自分らしさって~自分でも自分は分からない~タモリさんらしさを(出して下さい)という制作サイドの人ってあまり信用してないんですよ・・・」(週刊現代より抜粋)
識者・著名人のコメントはさらに続く。締めを飾るのは我が国を代表するご意見番。作家の曾野綾子さんが「ありのままは美しくない」という副題のもとご登場し、「自分たちのサッカーができなかった」問題を「広い視点」から総括なさっている。
「自分らしく生きるようになるためには~修行がいるんです~磨かない石で魅力的なものを見たことがありません~勉強し教養の光が当てられればその人は~ありのままに振る舞えるのです~」(週刊現代より抜粋)敗れ去った絶望とプレッシャーの中、できるだけさりげない、無難な常套句「自分たちのサッカーができなかった」と言ったがために、日本国中を「大論議」に巻き込んでしまった日本代表。
■ただの紋切り型になった時、非難の声が高まる
かつてオリンピックに出場する選手が「楽しんできます」と言うのが流行った時期があった。あのときも「国民の税金を使って、国の名誉を背負う立場が楽しむとは何事だ!」という「国民的議論」を呼んだことを思い出した。。
最初にそれを口にした人は「なかなか気がきいている」と非難されないかもしれない。しかしそれを漫然と真似すれば、とたんにその言葉が鮮度を失う。そうして、ただの紋切り型になった時、非難の声が高まる。これが「安易だ」と責められる所以だろう。大事な場面では「紋切り型」「常套句」を安易に使わないに限る。
【関連記事】

再生核研究所声明169(2014.6.25) サッカー観戦の印象 と 日本チーム強化の戦略
(サッカーファンからの要望によって、日本チームを強くする戦略を考察した。)
ワールドカップ日本の観戦をして、自国チームが負けるのは、生物の本能に由来するように、嫌なものである。 誰でもそうではないだろうか。― 生命には、本質的に切なさが存在する。― 数学などの研究を永くしてくると あまりにも厳しい世界で とても志す気には成れない。数学などの研究は 何十年のスパンで 長期戦略で進める求道や 真理の追究、人生の志に由来する。
サッカーは 子供の頃校庭でよくやったものであるが、勝負と言えるようなことをやったことは無く、全くの素人である。
しかし、今回の日本戦を見て、良い戦略、強化方法が思い付いたので、上記要望も寄せられた経緯も有るので、触れて、提案したい。言うは易く、行うは難しい??
特に、ギリシャ戦などでは、全体的な力では相当優位にあるように見えたが、結局、引き分けに終わった苦しい戦いであった。どうしてだろう。 それは、ゴールを決められない決定的な弱点にある。 ゴールを決めることは、サッカーで 優位に立つ 重要な、肝心な点 ではないだろうか。初戦についても言える。コロンビア戦についても言える。ゴールの機会は、結構あったと言える。
そこで、次のような訓練は 如何であろうか。
ゴールを狙える立場の人は、ゴールの枠にぶつけて、反射で ゴールを決める訓練を徹底的にやる。
この訓練は ゴールキーパーにはよらず、 何時でも安定的に練習ができ、何時でも、最も有効にゴール決める方法である。 本能かも知れないが、ゴールを狙うとき、わざわざキーパーにぶつけているような例が多く見られる。これは、極めて残念な場合である。ゴールを狙う機会はそう多くはないので、痛切残念、そのような場合には、国中でため息が聞かれる状況と言える。
条件反射的に、ゴールの枠にぶつけて、反射で ゴールを決めるような訓練を 徹底的にして欲しい。
総合的な力を付けるのは、専門家の課題であるが、この要点をしっかり訓練すれば、戦力は飛躍的に向上するのではないだろうか。実際、ゴールを決めている場合、ゴールの枠にぶつかって、ゴールを決めている場合が多く見られる。既にそのような訓練を意図的に行っているのではないだろうか。
サッカーの印象は、アジアや日本は まだまだ伝統が浅く、世界レベルから見ると、まだ力不足は否めない。 伝統は甘くはない。世界的になる、世界を狙う精神がどのようなものか、その精神がまだ、しっかり身についていないと言うことではないだろうか。 これは単にサッカーばかりではなく、近代科学や民主主義、人権、評価システム、大学の在りよう、マスコミの在りよう、政治家の在りようなどなど、欧米から 入ってきた多くが表面的な物まねで、それらの深いところの理解が 浅く、しっかりしていない状況と同様ではないだろうか。輸入したものを身に付けるのは、教えられ、学んだものを身に付けるのは、 一朝一夕にはゆかないのが、道理ではないだろうか。長期的な視点に立って、頑張って欲しい。
以 上

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