【ローマ共同】ローマ法王フランシスコは28日、トルコを訪問する。中東の過激派「イスラム国」によるキリスト教徒らへの迫害が続く中、国民の大多数がイスラム教徒のトルコで平和を呼び掛け、宗教間の対話や融和の促進を目指す。ローマ法王のトルコ訪問は、2006年の前法王ベネディクト16世以来。イスラム国の暴力行為を糾弾する法王は、イスラム国の標的にされているとの懸念があり、トルコ治安当局は厳重な警備態勢を敷く。30日まで滞在し、28日に首都アンカラでエルドアン大統領らと会談する予定。http://www.47news.jp/CN/201411/CN2014112701001060.html
再生核研究所声明 122 (2013.8.1): 神の存在と究極の信仰 - 人間よ 想い煩うことはない。 神は存在して、一切の存在と非存在を しっかりと支えられておられる、 人は必要なときに必要なだけ、 念じるだけで良い。
(2013.7.29.7時半、光り輝く 入り江の美しさに 感銘を受けながら、研究室に向っているとき、声明の原案が電光のように閃いた)
国際数理科学協会会報、No. 81/2012.5, 7―15
No.81, May 2012(pdf 432kb)
に公刊したが、その第8節に、ここで、神の定義と神の存在証明ができそうであるが、未だ不十分である と述べている。それ以降も考察は自然に無意識の中でも進んでいたのであるが、
究極の信仰:
2013.7.27: 7時前ころ、ひらめいた直観である:
神は存在し、 存在も、非存在も しっかりと支えておられる。 人間は想い患うことはない。 ただ、必要な時に 一心に念じれば良い。
との直観が湧き、上記のように声明に纏める事とした。 これは数学の研究で、永い考察を行なっていたものが ちょっと違った方向から 突然直観的に完全な解に達した時のような、現象である。今回のは 反例の発見や、不可能の証明に近いと言える。
そもそも神とは何だろうか、人間とは何だろうか。 動物たちが美しい月をぼんやりと眺めている。 意識はもうろうとしていて、ほんにぼんやりとしか とらえられない。 自らの存在や、ものごとの存在すら明瞭ではない。
人間も、殆ど 同じような存在ではないだろうか。 人類よ、人間の能力など 殆ど動物たちと変わらず、 ぼんやりと世界を眺めているような存在ではないだろうか。 神も、一切の存在も観えず、ただかすかに感じているような存在である。 それゆえに、人間は あらゆる生物たちのレべルに戻って 生物たちから学び、 また原始人に戻って、また子供たちのように 存在すれば 良いと言えるのではないだろうか。 - このような精神は、悟りへの道にも通じると考えられる (再生核研究所声明 118: 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ― 再生核研究所声明 19 : 超越への道、悟りへの道 をおし進めると ―)。 またこのような精神は、ヨーロッパで 4年以上暮らし、4年2か月、キリスト教の強い影響で目覚めた心情で、 尊敬する仏教の発想から出たものではないと言える。 しかしながら、ここで述べられた精神は あらゆる神と宗教と信仰の 共通の核心 であると考えられる。
本声明は、生きとし生けるもの、命あるものの 究極の救済 を求めているものである。 また、人は必要なときに必要なだけ については 再生核研究所声明85: 食欲から人間を考える ― 飽きること を参照。
本声明は 宗教の統一 を成し遂げたものであると言える。
以 上
再生核研究所声明 132 (2013.9.10): 神を如何に感じるか - 神を如何に観るか
(2013.9.5.6:50 まだ 薄暗い中、研究室に向っているとき、神を如何に感じるか という、 新しい声明の原案が閃いた。)
神の問題を 直接 再生核研究所声明122 でとりあげ、述べたのであるが、それらは、意識を越えて ひとりでに述べられたと言えよう。そこで、気づいて、改めて感じたのが上記のように である。表現を試みたい。
まず、上記声明で大事なことは 神の定義を 厳格に与えたということである。― 神は存在し、一切の存在と非存在を しっかりと支えておられる存在で、 永遠や無限や愛のように 我々の想像上に存在し、信仰によって観える。 ― 極めて良い たとえ がある。よくみかける 幼児キリスト を擁かれた マリア様 の像である。キリストを ユニバーサル; すべての存在と非存在と考え、マリア様を神と考えれば よい。我々の能力では 神は定かには捉えられない ―
(動物たちが美しい月をぼんやりと眺めている。 意識はもうろうとしていて、ほんにぼんやりとしか とらえられない。 自らの存在や、ものごとの存在すら明瞭ではない。人間も、殆ど 同じような存在ではないだろうか。 人類よ、人間の能力など 殆ど動物たちと変わらず、 ぼんやりと世界を眺めているような 存在ではないだろうか。 神も、一切の存在も観えず、ただかすかに感じているような存在である。 声明122)
大地震が世界を襲い 多くの命を奪うように、人間の都合の良い優しい神、人間を簡単に救ってくれるような いわゆる神などは存在しない (再生核研究所声明 119:冷酷な神々、自然 ― 見捨てられた人類)。しかしながら、神は、全ての存在を支えられていて、人間は想い患うことはない。 ただ、必要な時に 一心に念じれば良い。 それは古代から、あらゆる社会で 祈りの形式をとってきた、全ての宗教と 神を正確に捉えるものであると考える。 これは 世界の宗教の統一 を成し遂げているものであると言える。
神を よりよく観るのは、人生の目標と言っても良い、 ― 実際、人間は、究極、神、自由、不死を求めるもの であるからである。実際、世界がより観えて、自由になり、死から解放されて 永遠のものに帰せられるは 何と素晴らしいことだろう。― 神が存在しなければ、所詮は 全ては空しく終わってしまうだろう。
しかしながら、どうしたら、如何にしたらできるかが無ければ 多くの提案は 空しいものになるだろう。そこで、どうしたら について 触れておきたい。
これはもちろん、人生如何に生きるかに近い、多様な近づき方が有るのは当然で、多種、多様である。個性にも、大いによると考えられる。得意なところから、触れたい:
国際数理科学協会会報、No. 81/2012.5, 7―15
No.81, May 2012(pdf 432kb)
に公刊したが、その第8節に、ここで、神の定義と神の存在の説明ができそうであるが、未だ不十分である と述べている。さらに、神の気持ち、神は2を愛し給う、神は2が 好きだとか、神は恥ずかしがりや だ とか、神のいじわる、などと述べている。他の研究では 神の思わせぶりが出ていて、堪らなく楽しいとか、神がそんなに美し過ぎる数学を作っているはずがない などと述べてきた。実際、数学と数学の研究は 神との対話のような面が有って、数学は 極めて神学に近いと言える。数学の存在そのものが ― 数学の神秘性 ― 神の存在を示しているようにもみえる。
ベートーベン交響曲第9番などの美しい音楽の世界に 神を直観する者は多いのでは。美しい満天の星空を眺めていて、美しい森を歩いているとき、月光の下で、光輝く小川を眺めているとき。思えば、不思議にも修学旅行で 日本平 をみんなで歩いているとき、神がのりうつってくるような恐ろしい感覚に襲われた。芸術家の創造活動も数学の研究と同様、さらに科学の研究もみな同じようではないだろうか。生物界;生命の発生から、生体、進化いずれも神秘に満ちていて、背後に神の意志が感じられるのは多い。彫刻などにも 技術にもそのような面が出るのでは? 実際、芸でも、歌手でも、スポーツ、技術でも 神業 は世に多い。
政治社会や戦場などでもいわば 義の精神が湧いてきて、神を直観する場面は多いのではないだろうか。
お釈迦様も述べられているように、過酷な修行など逆に精神を萎縮させて、修行としては良い方向ではないようにみえる。あくまでも健康で、精神が溌剌として弾むような状態が良いのではないだろうか。心身 身を清めそれぞれの国で、文化を持つ 神殿などを参拝するのは もちろん大いに効果が有るのではないだろうか。
大事なことは、究極には 経典や教えにあるのではなくて、全ては 各々の心の中に存在するということではないだろうか。それ故に 自分の心の世界を清め、よく治める心がけが 大事ではないだろうか。神に近づく修行には終わりは無く、無限の深さを有する 神秘の世界であると言える。しかし、適切な道を見出し、歩めれば 生き生きとした人生を送ることが出来るだろう。それは力を有する愛と希望の源だからである。
以 上
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