2014年6月22日日曜日

記事 緒方 林太郎2014年06月16日 10:00 「殴れるものなら殴ってみろ、ほら」

記事
緒方 林太郎2014年06月16日 10:00
「殴れるものなら殴ってみろ、ほら」
あまり、教育行政についてはこの場で書かないのですが、最近気になったことがあったので雑駁な思いを書いてみます。なお、以下のエントリーについてはある地元議員の方とお話した内容もベースにしています。
先日、ある学校の近くを通りがかった時、教師と生徒が対面して口論しているのを見ました。簡単に言うと、生徒が教師に対して「殴れるものなら殴ってみろ、ほら」と言っていて、それを先生が耐えているという構図でした。かねてから、そういう事例があると聞いていたのですが、本当に目の当たりにすると衝撃的でした。
教師が手を出すと懲戒処分になることを知っていて、(恐らく何らかの非行行為を行って咎められている)生徒が恫喝しているということです。とても真っ当なシーンではありませんでした。
勿論、学校教育法第11条によって「体罰」は禁じられています。
【学校教育法第11条】
校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。
 そして、文部科学省から通知も出ています(1 、2 )。どれも真っ当な内容ではあるのですが、多分これだと先生側に萎縮効果が働くだろうなとも思います。自治体によっては、この通知を噛み砕いて更に詳細なガイドラインを作っているところもあります。ただ、実際に現場におられる教師の方と話をしてみると、口が重いながらも「親がね・・・」、「今はやりにくくてね・・・」という声が聞こえて来ます。
現状において考えてみると、学校の先生の中に「警察に通報した方が早い。」という気持ちが起きてきたとしても不思議ではありません。ある教師の方と話していた際、「正直なところ、そういう衝動が起きないとは言えない。」と言われました。それを批判的に捉える方もいるでしょうが、あのシーンを見てしまうと、その教師の方の思いを批判する気には私はなれませんでした。
そうすると、生徒にとっても結果として良くない結果になると思うのです。これまでは学校の中だけで収められていたものが、傷害、器物破損といったリアルな刑法の世界に入ってきます(勿論、少年法がありますので大人と同等というわけではありませんが。)。そして、少年鑑別所というルートになってくることもあるでしょう。学校の中で一定程度、社会の荒波から保護されるべき少年がいきなり「警察」という現実を突き付けられることが最善の姿なのかと思います。
今、保護司の方がとてもお忙しいという話も聞きます。一人の保護司では担当しきれないくらいの犯罪・非行事例が出ているということです。本来学校の中で収めることが望ましい部分が、「警察」→「保護司」のルートになっているという面もあるでしょう。
非常に雑に言うと、生徒を守ろうとして体罰や懲戒に厳しく対応したら、逆に生徒がそれを逆手に取っている、そして、やむを得ず公権力の介入を要請せざるを得ない、というふうに私には見えます。
私が至った結論は(陳腐ですが)、学校(長)及び先生の持つ権限を最大限明確にした上で、学校の中で収められるものについては出来るだけ学校で収めるという方向に持っていくということです。体罰は明確に禁じられている中において、やれることを明確に学校の先生方に示し、「これをやったら懲戒かもしれない」という不安や萎縮効果を起こさせないことは大事だと思います。
勿論、基本は学校や地域で少年を温かく包み、非行・犯罪の芽を摘むことです。しかしながら、その範疇から漏れてしまう事例があるのも事実です。その中であっても、出来るだけ学校の中で収めることが出来るようなツールを用意しないと、結果として、少年のためにならないのではないかと思います。
ちょっと雑駁過ぎる内容ではありますけど、思いを書いてみました。異論・反論あるでしょう。
生徒の挑発を相手にしている方がおかしいのでは?   
殴るような馬鹿馬鹿しいことは 始めから、考えも、またしたくないですね。
体罰など 発想すべきではないですね。 そんなことは 越えて行きたい。 
生徒が先生を暴力を振るうようなことは もってのほか、決して許すべきではなく、 退学処分など、 厳罰で 対処すべきですね。
再生核研究所声明 17 (2008/7/25)  教育界の改革を求める

大分県の教育界における不祥事は、いくら日本国が 空虚な日本の社会(再生核研究所声15)といっても 流石に健全な批判が湧いてきたのは当然である。身近な点から問題点を考察すると、試験がたとえ公正にできたとしても、全然問題は解決しないのではないでしょうか。 第一に、試験問題が適切であるかどうか、広く日本中で検討してみる必要があるのではないでしょうか。さらに、面接試験という大事な場面を迎えますが あのような体質で、より良い学生を公正に選ぶことができるか 検討する必要があると考えます。
試験内容について、例えば、数学専攻で、教育学部長をされた ある先生の嘆きを思い出します。大学でいくら専門の数学を熱心に勉強しても 専門の数学は採用試験には出題されず、大学受験や高校程度の数学の問題しか出題されず、それで、大学で熱心に勉学している学生よりも、家庭教師や塾でアルバイトをしている学生の方が有利になってしまい、実際、合格率も高いという嘆きです。これでは数学教育界が、数学の本当の精神や深い専門的な内容などよりは 受験勉強に代表されるような問題解きの技術の勉強になってしまうのではないでしょうか。 実際、入学して来る多くの大学生は 数学は問題解きであり、多くの技術を学ぶのが数学だと思っているのが現状ではないでしょうか。これでは創造性豊かな教育や本来の数学教育の目標からは ほど遠いのではないでしょうか。
一般に試験について、何十年も前に あるラジオ ニュースで聴いたことが なぜか何時も気になります: ネジの検査で、良いものを落とし、悪いものをわざわざ選んでいたというのです。わざわざ数学嫌いな生徒を育てたり、悪い教育を行っているような事は 至る所に見られる現象ではないでしょうか。
他方、教育には善良な市民を育成するという大事な面があるはずです。その大事な考えの一つには個性を活かし、公正な社会を実現することにあるのではないかと考えます。しかし、教育委員会の指導的な人達が 自ら信じられないような不正を行っていて、そのような方々が面接したり、教員を指導しているという事は如何なものでしょうか。大分で起きた事件は 大分県の特殊性から出てきたものではない以上、日本中で同じような状況ではないでしょうか。人事の刷新を行い、教育改革を進めるように訴えます。
このような状況で、教員更新性の導入を行えば、教育界はますます混乱し、よい事は何もないと考えます。マイナス要素を挙げてみたいと思います。
(1)教員の忙しい状況の中で、さらに時間と余計な気遣いの負担を増加させる。
(2)財政難で国がおかしくなるような状況の中で、さらに大きな資金と労力をかける事になる。
(3)更新講習は形式的になり、効果が望めず、逆効果が考えられる。また講習で改善されるような教員は初めから、問題が無いと考えられる。
(4)更新されなかった教員の生活や身分の問題が解決できなければ、結局更新の問題は解決できず、いわば余計なことをすることになる。
(5)このような制度の導入そのものが、教員の身分を不安定にし、教育上良くない効果を生むと考えられる。
などなどですが、そのようなことに 時間とお金 をかけるくらいならば、
忙しい先生に休暇とお手当てを配布した方が 遙かに効果的ではないでしょうか。
日本国の再生のために、試験問題の作成委員や面接する人を 見識ある人物に代えるばかりではなく、教育界の全般的な改革と刷新を行うように 多くの関係者に求めます。またマスコミの積極的な取り組みを要請致します。 以上。

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