宗教学者の島田裕巳氏 簡略化した葬儀「0(ゼロ)葬」を提案
遺族に負担をかけず、静かに逝きたい。葬儀費用約200万円、お墓代約280万円(東京都)ともいわれる従来の「終活」を見直す動きが高まりつつある。そこで宗教学者の島田裕巳氏が提唱するのが「0葬」である。一銭も払いたくない、払わせたくないと願う人々が実践する新たな「葬られ方」をレポートする。日本の伝統習俗への疑問は、最近巻き起こったものではありません。近代に入って最初に「葬式はいらない」と唱えたのが自由民権運動で知られる中江兆民です。遺言には「死んだらすぐに火葬場に送って荼毘にしろ」とありました。文豪・夏目漱石も葬式不要論者の一人で、自身のロンドンでの留学体験を踏まえて書かれた『倫敦塔』という小説のなかに、「余は死ぬ時に辞世も作るまい。死んだ後は墓標も建ててもらうまい」といった言葉を記しています。それでも戦前の日本には、「葬式」に求められる役割がありました。日本はまだまだ貧しく、人々が天寿を全うできる状況になかった。戦争や天災、疾病などで命を落とすことは“日常”でしたし、大往生は限られた者にしか許されなかった。
若くして亡くなった無念を晴らすために遺された者が供養をし、その“功徳”によって死者を極楽浄土に導くというシステムが社会的に求められたんです。
でも、豊かな暮らしを多くの人々が享受でき、平均寿命が80歳に届かんとする現代では、こうした浄土教信仰の基盤が崩れつつある。都市部への人口集中や核家族化など日本古来の伝統に押し寄せる波も、もはやとどめようがない。私はそれらを悲観するよりも、「これで葬り方の『自由』を得ることができる」と歓迎したいと思っています。日本の仏教が“葬式仏教”と揶揄されるようになって久しいですが、葬送の場において、仏教は役割を終えつつあります。それを象徴するのが戒名です。「戒名は、仏教の信者になった真の証」というのが仏教界の考えでしょう。しかし現代では仏教への信心によってではなく、社会的地位、もっといえばお布施の額によって戒名の立派さが決まります。
私は「院号のインフレ化」と呼んでいますが、かつての村社会では有力な門家しか授かることができなかった“院号”が、今ではお金さえ多く払えば誰でも授かることができるようになりました。背景にあるのが現代における“寺院経済”の歪みです。都市部では檀家との関わりが薄く、年忌法要も減少しているので、お寺としては葬式時のお布施が有力な収入源です。その際、院号のついた戒名を授けることで、より多額のお布施を得ようというのが寺院側の狙いなのです。現在では戒名の半数以上が院号のついた戒名とされ、50万円以上のお布施を寺院側に渡すことも珍しくはない。仏教とは、民に「平等」を説くことを旨としている教えのはずなのに、こうした戒名制度は明らかに矛盾しています。現実社会との乖離は、「葬式」のあり方を見直す気運の高まりと無関係ではないでしょう。葬式や告別式を行なわない直葬、海や川に遺骨を撒く自然葬といった葬り方が広がっているのは時代の“必然”です。そして私は、簡略化された葬儀のさらに先をいく「0(ゼロ)葬」を提唱したい。遺骨の処理は火葬場に任せ、それを引き取らないという選択です。多くの火葬場では遺族が遺骨を引き取ることが前提となっていますが、申し出があれば遺骨を引き取らなくても構わない火葬場が一部にあります。残された遺骨は契約業者が引き取り、骨粉にされた上で、寺院や墓地に埋められ、供養される。そして、火葬だけで済めば業者に頼んでも10万円でおさまるから、遺族に負担がかからない。墓を「造る」「守る」といった心理的、そして金銭的重圧に現代人は悩まされていますが、そこから自由になれます。
「0葬は人の葬り方ではなく遺体処理だ」といった反論もあるでしょう。でも、80歳、90歳を過ぎ、人生を謳歌したのなら、「遺体処理」でもいいのではないか。来世こそ極楽へ──といった憂いを抱く方も少ないと思います。墓がなければ墓参りに行けないと思われるかもしれません。しかし、墓参りは都市部への人口流入に伴って郊外に墓が建てられるようになってからの新しい習慣に過ぎない。故人のために親戚が集まりたいなら故人を偲ぶ食事会を開けばいいし、そこで遺族たちが思い思いに故人の「思い出」を語るなら、形だけの墓参りよりも、実りあるのではないでしょうか。
※週刊ポスト2014年3月21日号
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、ゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が 原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。
経過などは 次を参照:
再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係を捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、正と負、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
[PDF]
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAM
以 上
再生核研究所声明 47(2011.02.08): 肯定死
(2011年1月5日 9時10分、 浅草に近づき、電車の窓外の空を見たときに電光のように閃いた考えです。 新しい声明の案がひとりでに、わきました。 全構想は瞬時にできていましたが、それを検討し、成文化したものです。 題名は肯定死、という 現代では問題のある思想です。人間の終末に対する新しい考え方です。これは社会的影響が大きいと考えられるので、全文は 当分、公表を差し控えたい。)
そもそも人生とは何か、これを内からみれば、人生とは、個人の考え、知り、感じ、予感し、想像する、すなわち、知覚する全体であり、それらが良いと感じられれば、それだけ良い人生であると言える(声明12: 人生における基本定理)。 しかしながら、我々はまず、個々の人間を越えて、存在し、生き続けていく、 元祖生命体の考え (声明36) をしっかりととらえ、 生命の基本定理 (声明42) - 生きて存在しなければ、 何も始まらない - 元祖生命体の生存に心がける、 最も大事なこと(声明13)に思いを致すべきである。しかしながら、個々の人間は、遺伝子の乗り物のように滅びていくのが、事実であり、それはあらゆる生物の運命であると考えられる。 しからば、その人間の終末は如何にあるべきか。 それはちょうどあらゆる生物の終末のように、意識の存在の有る無しに関わらず、生物個体の生命として、人事を尽くして、少しでも生命を長引かせると考える、伝統的な考えは それなりの固有な意義を有するものであると考える。 否定するものではない。(以下 当分非公開)
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