2014年6月28日土曜日

西洋での自然観について

西洋での自然観について
質問者:jonathan4403
投稿日時:2014/06/20 23:04
『近代科学を超えて』村上陽一郎著 での一節で気になる記述があります。
(Z会 現国問題集より抜粋)
西洋的発想に立てば、人間も自然の一部(被造物)である以上、人間の営みだけを人為として自然から切り離すことを不自然と受け取るー (中略) ー 日本や東洋に対して、機能としての両者(注1)の本質を、後者(注2)よりも融合的に見なす、というのはパラドキシカルかもしれないが、ー
(注1)「両者」は自然と人間を指します。
(注2)「後者」は日本や東洋を指します。
質問なのですが、西欧では本当に人間も自然の一部または自然そのものとして考えられているのでしょうか? 旧約聖書では神は人に対して「地上の全てを人に支配させよう」というようなことを言ったのではなかったでしょうか? ですので人と自然を同一視するはずがないと思えます。
人が自然の範疇内であれば、自然という言葉には勝手に変化する意味合いもあり、それはまるで地球を遠くから眺めた時にあたかも人を微生物のように見るという印象を受けます。つまり人を自然に組み込むと結局は人間不在の考え方になるかと。
被造物すなわち自然、という定義もどうかと思います。
詳しい方のご意見をお待ちしております。
欧米では多くはキリスト教の影響が強く、アジアの人間を含めた自然より、自然と人間を分ける考えが強いですね。
人間は、天動説同様、別格の存在の考え方ですが、しかしながら、自然科学は、 人間も自然の一部である、例えばダーウインの進化論なども受け入れざるを得ない状況です。
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6 件のコメント:

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  3. 「人と自然を厳然と分ける」というのが西洋の世界観です。人が神から自然を支配するように命じられたと。これは筆者も本文で明言して認めています。ここは重要です。

    人の視点からの「西洋では人と自然を厳然と分ける」を認めて分けますが、
    神の視点からは「西洋では人も自然の一部である」と、人と神の視点を入れ替え、結論で人と自然を結合しています。

    人は神の視点で行動するのではないのですから、
    「Aから見ると東だ、Bから見ると西だ、よってAから見ると西だ。」という論理的誤謬になると思います。

    さらに筆者は、「人は自然の一部である、ならば人は自然そのものだ、よって人の行為は全て自然現象であって無為自然に照らせば人の自然破壊を非難されるいわれは無い。」と結論付けています。

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  4. 17世紀初旬にデカルトは心身二元論で物質世界を想起し、魂以外は全て物理法則が当てはまる物質ということですが、科学の樹立に貢献します。 

    二元論になると自然はただの物質になり、対象化され、受け身になり、人間によって支配・改造されるものになり、自然破壊につながったと言われています。

    神に命じられての人の自然支配、そして二元論(機械論)という2つの面から環境破壊が論じられているようです。

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  5.  本文で用いられている用語の定義が非常に曖昧です。

     二元論では意思表示の根拠となる言語を発する人のみが魂を持つとされ、人のみ特別扱いして人の魂とそれ以外の物質とに分けられました。機械論になると心(魂)は脳のプログラムによるものとみなされて万物が文字通り単なる物質になり、全部魂が無いことになりました。
    本文では「物質 = 魂の無い物質 = 自然」 の中から「自然」のみを取り出して論じているのが紛らわしく、西洋での「人間も自然の一部」を機械論において正しく言うと「(魂の無い)人も(この世の全てを構成する)"魂の無い物質" の一部(一種)である」となります。

     東洋の汎神論では全てに魂が宿るという立場であり、"仮に" 東洋と西洋が共に「人は自然の一部である」と言ったとしても汎神論と機械論とでは魂の有無という点で明らかに違いがあります。魂を持つからこそ敬意を払うのであって、魂の無いものにはその必要は無ありません。

     老荘思想は「上善は水の如し」とあるように一体であるのは努力目標のようです。本当に自然と一体化したら真人(仙人)になりますから、「人は自然と一体である」というのは "あるべき姿" だと解釈できます。そして、その限りでは、東洋での存在としての自然(人以外の人の作為が入っていないもの)と人との関係は(真人以外は)一体ではないということになります。
     「無為自然」は「人と自然は異なるもの」と「人と自然を融合するもの」と両義に捉えられるとしてパラドックスだと言う向きもあろうかと思いますが、本当に自然と一体化した仙人は存在せず全ての人が仙人であるというものではなく一般論ではありません。
     つまり、本文での東洋の存在論は理想であり機能は現実という建前/本音の関係であって本質的な存在論を語るものでありません。

     西洋での存在としての「自然」の位置付けは神と人で二重の意味を持ち、「自然」の定義も魂の有無で二重の意味を持ち、東洋での存在論は建前/本音で二重の意味を持ち、結論ではそれらを覆い隠すように「融合的に見る/見ない」で締めくくる。非常に難解な文章でした。

     加えて言えば「パラドックス」は「真実に矛盾する」と「真理に矛盾するようで実はそうではない」という二義性を持っています。

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  6. 同じ発言へのリンク
    http://plaza.rakuten.co.jp/reproducingkerne/diary/201406260000/
    http://d.hatena.ne.jp/ssaitoh/20140628/1403910375

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