特定秘密保護法の監視で国会法の改正案
6月10日 15時52分
特定秘密保護法の監視で国会法の改正案
民主党、日本維新の会、結いの党の野党3党は、特定秘密保護法のうち、第三者に提供しないことを前提に入手された情報などを除き、原則として、政府に国会への情報提供を義務づけることを盛り込んだ国会法の改正案を衆議院に共同で提出しました。
特定秘密保護法の運用に国会が関与する仕組みを巡っては、自民・公明両党が、衆参両院に、それぞれ「情報監視審査会」を設置するなどとした国会法の改正案を提出しています。
これについて、民主党、日本維新の会、結いの党の野党3党は、与党案では、政府に情報を強制的に提出させることができず不十分だとして、改正案をまとめ、10日、衆議院に共同で提出しました。
法案では、国会が報告や記録の提出を求めた場合は、第三者に提供しないことを前提に入手された情報や、情報源の特定につながるものを除き、原則として、政府に国会への情報提供を義務づけています。
法案の取りまとめに当たった、民主党の大島政策調査会長代行は記者会見で、「特定秘密保護法は、行政による、行政のための法律だ。国会の監視機能を抜本的に強化して、行政府と立法府のバランスを取る必要がある」と述べました。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140610/k10015113331000.html
再生核研究所声明 66(2011/06/18):
言論の自由を篤く保障し、実りある議論のできる社会に
近年、果たして、日本に言論の自由が保障されているかについて 疑わしめる状況が起きている。最近も、原発反対を表明したら、仕事を変えざるを得ないような状況に追い込まれた、と報道されている。このような場合、言論の自由は表現の自由として、人権のうちでも中枢をなすものとして、日本国憲法はおろか、世界人権宣言にも著しく反するものであることは 天下周知の事実であるから、明白な形をとらず、虐めのような、間接的な抑圧として現れる極めて、陰気な形をとるのが特徴である。そこで、まず、言論の自由について、日本国憲法にしたがって確認しておきたい:
日本国憲法
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。 通信の秘密は、これを侵してはならない。
また、世界人権宣言は:
世界人権宣言 (1948年12月10日第3回国際連合総会採択)
第19条
すべて人は、意思及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。(「ただし」とか「公共の福祉の場合を除き」といった例外的制限が無く、絶対的な人権として採択されている点に注意。)
また、直接関与する新聞倫理綱領には:
新聞倫理綱領 (2000(平成12)年6月21日制定)
21世紀を迎え、日本新聞協会の加盟社はあらためて新聞の使命を認識し、豊かで平和な未来のために力を尽くすことを誓い、新しい倫理綱領を定める。
国民の「知る権利」は民主主義社会をささえる普遍の原理である。この権利は、言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される。新聞はそれにもっともふさわしい担い手であり続けたい。
おびただしい量の情報が飛びかう社会では、なにが真実か、どれを選ぶべきか、的確で迅速な判断が強く求められている。新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によってこうした要望にこたえ、公共的、文化的使命を果たすことである。
編集、制作、広告、販売などすべての新聞人は、その責務をまっとうするため、また読者との信頼関係をゆるぎないものにするため、言論・表現の自由を守り抜くと同時に、自らを厳しく律し、品格を重んじなければならない。(以下略)
と、一様に言論の自由の重要性を謳っている。芸術や創造活動など生命の叫びとして、いろいろな表現は人間の生きている証であるから、それらの自由を保障するのは 人間存在の本質に迫る問題である。 しかしながら、具体的に問題が露わになるのは、社会の在り様についての見解、意見で言論の自由が問われる場面が生じる(哲学者のアレクシス・ド・トクヴィルは19世紀初頭のアメリカで人々が政府による報復への恐怖からではなく、社会的圧力のために自由に話すのをためらうのを観測した。個人が不人気な意見を発表するとき、その人は彼の共同体からの軽蔑に直面するか、または乱暴な反応を受けるかもしれない。このタイプの言論の抑圧を防ぐことは政府からの抑圧を防ぐよりさらに難しい: 言論の自由 - Wikipedia)。また、人を傷つける表現、ポルノなど、社会を乱す表現、あるいは事実と異なる発表などなど、法と倫理に関わる難しい問題が生じる(一方でマスコミによってしばしば行なわれる私人の醜聞の暴露、宮内庁による天皇皇族の動静の「代表取材」要求や「写真お貸し下げ」を無批判に受け入れる行為は、言論の自由を自滅させる行為であるとする強い批判もある。前者に関しては、一部のブロガーがそれを真似た行為に走り、さらにはネット掲示板にもその情報を広めて非難を浴びることがあるが、元はと言えば既成マスコミのセンセーショナリズムが一般市民にも発信可能になったということに過ぎない: 言論の自由 - Wikipedia)。これらに対応するには 次の公正の原則を参考にすれば 多くの場合対応できるのではないだろうか:
平成12 年9月21 日早朝、公正とは何かについて次のような
考えがひらめいて目を覚ました。
1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。
3) それはみんなに受け入れられるか。
4) それは安定的に実現可能か。
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して
諒となれば、それは公正といえる。(再生核研究所声明1)
しかしながら、上記、3基本規定は 言論、表現の自由は 最大限保障するように心がけていこうとの 高い精神を謳っているものと理解したい。その本質は、多様な意見、多様な表現が世界を大きくし、世界史を豊かにするという、人間存在の原理から由来するが、他方、社会の在り様や、政治に対する意見などについては、対立する多様な意見の中に 実は価値ある見解が含まれる可能性があるという、観点が大事になる。
例えば、福島原発についても、その危険性を鋭く指摘された 国会での質疑が記録されている。― もし、それらの意見を真剣に受け止めて対応していれば、何十兆円も超えるであろう、国家的な損失を避けることができただろうと残念に考えられる。―
もし、言論、表現の自由が保障されず、束縛されれば、世の意見は偏り、視野は狭くなり、独善に陥り、結果として、貧しい暗い、社会になるだろう。
更に重要な観点は、幾ら言論、表現の自由が保障されたとしても、それらの伝達が適切に行われるかが 重要な問題である。 幾ら価値ある意見、表現でも世に上手く伝えられなければ、世に活かされない、無視されることになるからである。そのような意味でのマスメディア、出版業界など関係機関の見識と役割は、インターネットの普及で改善される傾向が出ているものの依然として重要な役割を果たしている。 実際、日本で、言論の自由がそれほど大きくないとの評価は、マスメディアなどが 偏った見解を一方的に流し、価値ある見解を無視している、反対意見を無視しているとの観測から出ているものと考えられる。
更に、問題点を具体的に指摘すれば、上記新聞倫理綱領に反するように
1) 政府、検察、大企業、軍関係との癒着が深く、独立性が保てず、どこかで検閲のようなことが行われ、新聞が一様に申し合わせたような在り様に感じられること
2) 社説なども高い見識、良識、公正な立場を保てず、視野の狭い、偏った質の低いものになっていて、社会的に大きな影響を与えるようなレベルにはない
3) 一方的な報道が見られ、反対意見や少数意見の中の貴重な意見などを探し、世に活かそうなどの高邁な精神に欠けている
4) 世論調査などを公表して、逆に意図的に世論を誘導しているような恣意が強く出ている。 積極的な不当な政治介入とも理解される
5) 幅広い意見を紹介せず、社の都合の良い意見を多く採用、掲載していて、幅広い意見を世に紹介しようとの精神に欠けているように見える
6) 日本の新聞界、マスコミが如何に弱体化、退化しているかは、福島原発事故における対応、特に所謂メルトダウンの真相が、事故発生後2ヶ月も経って明らかにされた事実から、明白である。これは、世界史に残る日本の醜態である。放射能汚染状況などは 日本のマスコミを信じず、海外のメディアを参考にしている有様である
7) 個人の過ちに寛容でなく、社会的に傷つけるような 弱い者 虐めの感じを否めない。情報環境に対する配慮も求められる
8) 上記新聞倫理綱領に書かれている、基本的な在り様の精神に 全体的に欠けているような状況は、マスコミ批判として、相当強い世論になっていると考えられる。マスコミには 世の批判に謙虚に答える姿勢に欠けているように見える、まるで、大きな権力を有しているような、尊大さが見られる。 ― 世の問題は そんなに難しいものではなく 上記 公正の原則 に従えば 容易に改善できるものであると 考える。―
さて、現在大きく対立する意見として、原発の是非の問題、財政、経済、増税の問題、政党支持の問題、外交、防衛問題などがある。そこで、それらの問題に対する言論の自由からの考え方について、簡単に触れたい。
原発の是非の問題: 飛行機の是非の問題は 世界的に問題となっていないようである。 原発も原理は同じではないだろうか。原発を十分制御できて、総合的な評価において採算が取れれば、利用したいと考えるのは道理である。飛行機でも全滅の現実は起きており、被害の状況が是非を決定することになると考えられる。問題は、それらの評価が、大部分の人が素人で分からない状況であるという現実である。分からないのに感覚的に、賛成、反対を表明したり、国民投票で決めようというのは如何なものであるかと考える。 まるで、あれも霞と民主主義 以外のなにものでもなくなってしまう。 多数で決めれば良いとはならないと考える。 専門的な総合的な判断が不十分では、投票、それ以前の、議論すら、意味がないのではないだろうか。また真実ではない、一部の利害に基づく見解では、さらに混乱を世に巻き散らすことになる。いわゆる御用学者などと言われる言葉が広まっているのは、真理を追究する研究者にとっては 恥ずべきことである。専門家として、研究者としての信頼を欠いている現象とみられる。 そこで、第三者の客観的な評価、意見の表明が重要になって来る。 財政、経済、増税問題なども基本的に 素人には分からない難しい問題と言える。
政党支持の問題、外交、防衛問題など: これらの問題は、自由に意見を表明、また働きかけて、日本国のために どうすれば良いかを 真面目に考えるべきである。特に残念なことは、見解が違うと、相手を決めつけて、実り有る議論ができず、対立のための議論になってしまいがちなことである。 これは より良い道を選ぼうとする基本精神を失い、論争のための議論、あるいは勢力争いの、また利害のための議論に陥っているからである。これでは 良い意見が出ても採択されたり、活かされないので、空しい議論になってしまう。 現在の政党のように、あるいは派閥のような 単なる、争いのための議論が横行しているのは残念である。 背後に有るべき、国にとってどうしたら良いか、社会のためには どうしたら良いかの基本精神を失っている状況と言える。 野党は 政府のあらさがしに夢中で、 相手を追い詰めるのが仕事のように錯覚している場面が多く、単なる権力争いに明け暮れていて、国家、国民のことを なおざりにしているようにも見える。 これでは、自分たちのことより、国のためにはどうしたら良いかの、 基本を見失った、本末転倒の在り様である。
これは 日本国の文化としても言える。 議論をしながら、より高い知見を得よう、高まっていこうの精神が欠落していて、実りある議論ができない、視野の狭さが根付いている。 多様な意見、考えが自由に述べられ、議論、交流によって、より高い、より広い視点に立って高まっていけるような社会を 目指すべきである。対立する意見が出たら、自分の見解がより高い視点にいける可能性があると 積極的に歓迎すべきである。― 実際、研究者は何時でも いろいろな考え方、見方、批判を歓迎している。
言論、表現の自由を篤く保障して、自由な議論、交流ができる、明るい、社会を築きたい。
広い視野を持ちたい。それは人間存在を豊かにする基本的な原理でもある。
日本では、周りに気遣いばかりして、いろいろな発言が出にくい環境、文化を有しているが、それでは、賢明な在りようや、活力ある社会を創造できず、結果として、貧しい社会になってしまうだろう。
以上
再生核研究所声明38 (2010/05/22):
ロッキード事件のもみ消しについて
下記に添付のようなニュースが報じられ、 沖縄返還に絡む密約とともに、また真相の一部が明らかにされた。 この件について、政治家の在りようや国家の在りようについての問題点を考察したい。 今後の在りように活かすように期待する。
1) 先ず、 このような情報が 日本国では明らかにさられず (闇の世界の存在)、アメリカの情報公開法で明らかになったという事実は 重要な問題を有していると考える。 アメリカでは真実を明らかにするシステムが確立している (素晴らしいことである) にも関わらず、日本国では、国会などでも大問題として大きく取り上げられたにも関わらず、真相を明らかにできず、 日本の検察庁、マスコミなどの弱点を露呈していることである。 当然、 検察庁が独立機関として法と正義の下に、真剣に取り組めば、本来、明らかにできた事件である。 欧米では時間を越えて 真理、真実を追求しようとする文化がある (これは神の前に出るときには 清い心で望みたい という宗教が背後にあるように感じられる) のに比べて、日本には 誤魔かしたり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに 深く根ざしているとも言える。
下記のニュースの
結果的に、事件の資料は、原則として公表しないことを条件に日本の検察に提供された。(奥山俊宏、村山治)
の部分は、アメリカと検察庁が秘密を共有しているということで、 重要な意味を持つと考えられる。 また検察庁は提供された資料から 真相を知っていたということになる。
2) 日本国の法を、真実を、 重責ある公人が堂々と無視しようとした政治家の働きかけは、重罪に値すると考える。 もしそれを許せば、いくらでも理由をつけて、自分の権力や、政党の利益を図れるからである。 次の 公正の原則 (声明 1)を参照:
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか.
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか.
3) それはみんなに受け入れられるか.
4) それは安定的に実現可能か.
3) 特に、外国の力を借りてとなれば、国家を超えた力を利用したことに当たるから、その罪はより重く、 国民と国家を裏切っていることに通じ より本質的な問題を含んでいると考える。
実際、与野党いずれも政府に真相解明を要求。 三木首相は2月18日、「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた という首相の方針と国会の精神にも背信していると考えられる。
4) 外国に対して、秘密の保持を求めることは、それだけ何かと弱みを握られ、結果として、国家的な不利益を受ける危険性が大きく、このような弱みを握られていては、独立国の指導者の在りようとして、はなはだ本質的な問題を有する。
5) 時効の観点から、犯罪を問えないとしても、上記のように極めて重要な問題を有しているから、国会も、検察庁もマスコミも真相を追及して、やがて日本国の正しい歴史にしっかりと記録に残し、このような事件を今後決して許さないという教訓を国民レベルで共有すべきである。 政治家は近視眼的な評判や評価を気にするのではでなくて、歴史の評価に耐えるように 大義をもって、努力すべきである。 それには 真相は、アメリカのように、必ず、後には明らかになるという前提が必要であり、またそのような信念の共有がなければならない。 従って、アメリカにおけるような情報公開法の検討が求められる。 (過去のことは過去のこと、と片付けるならば、我々は、未来まで片付けてしまうことになる - ウインストン・チャ-チル)
以上
参考資料:
ロッキード事件をめぐり「MOMIKESU」との要請が記載された米政府の公文書=米ミシガン州のフォード大統領図書館:
ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があったと報告する公文書が米国で見つかった。裏金を受け取った政府高官の名が表に出ると「自民党が選挙で完敗し、日米安全保障の枠組みが壊される恐れがある」という理由。三木武夫首相(当時)は事件の真相解明を言明していたが、裏では早期の幕引きを図る動きがあったことになる。中曽根事務所は「ノーコメント」としている。
この文書は76年2月20日にジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写し。米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管され、2008年8月に秘密指定が解除された。
ロッキード事件は76年2月4日に米議会で暴露されたが、ロ社の裏金が渡った日本政府高官の名前は伏せられた。
与野党いずれも政府に真相解明を要求。三木首相は2月18日、「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた。
文書によると、中曽根氏はその日の晩、米国大使館の関係者に接触し、自民党幹事長としてのメッセージを米政府に伝えるよう依頼した。中曽根氏は三木首相の方針を「苦しい政策」と評し、「もし高官名リストが現時点で公表されると、日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」「できるだけ公表を遅らせるのが最良」と言ったとされる。
さらに中曽根氏は翌19日の朝、要請内容を「もみ消すことを希望する」に変更したとされる。文書には、中曽根氏の言葉としてローマ字で「MOMIKESU」と書いてある。中曽根氏はその際、「田中」と現職閣僚の2人が事件に関与しているとの情報を得たと明かした上で、「三木首相の判断によれば、もしこれが公表されると、三木内閣の崩壊、選挙での自民党の完全な敗北、場合によっては日米安保の枠組みの破壊につながる恐れがある」と指摘したとされる。
文書中、依然として秘密扱いの部分が2カ所あり、大使館関係者の名前は不明だ。
結果的に、事件の資料は、原則として公表しないことを条件に日本の検察に提供された。(奥山俊宏、村山治)
◇
東京地検特捜部検事時代にロッキード事件を捜査した堀田力弁護士の話 米国への要請が事件発覚直後で、しかも「日本の政府がひっくり返るかもしれない」とブラフ(脅し)みたいな言い方なのに驚いた。私は法務省刑事局の渉外担当参事官として2月26日に渡米し、資料入手の交渉をしたが、それを阻止するような動きがあるとは察してもいなかった。
ロッキード事件「中曽根氏がもみ消し要請」 米に公文書http://www.asahi.com/politics/update/0211/TKY201002110364.html http://www.asahi.com/politics/update/0211/TKY201002110364_01.html
再生核研究所声明 33 (2010/04/02):
民主主義と衆愚政治
民主主義( : 諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制 ― 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 )の在りよう、 特に一般選挙で代表者を選出する方法、及び多数決で決定する方法 について考察し、問題点を露にし、より良い政治、決定が行われるように注意を喚起したい。
まず、このような方法をとる原理は、重要決定について 関係者がすべて平等に固有なる権利を有するから、その固有の権利の行使として、一般選挙を行い、選出された代表者も同じような考え方から、多数で決定すること、及びそのような過程、方式で多くの意見を基に討論して、みんなで決定する考え方である。この際、少数意見でも適切な意見である可能性があるから、それらを尊重して議論し、最終的には多数決で決定する(少数意見の尊重)というところも 民主主義の重要な点である。現在世界的に考えられている政治権力の決定方式である。それに対して、中国古代で考えられた いわゆる天子様による政治は、絶対権力を有する天子様が一部の人の意見を参考にして、決定していく方式であるが、多くの王政も日本の幕藩体制も大体同じような政治体制と考えられよう。これらの問題点は、権力者のいわば大義名分、すなわち、なぜ、天子や王や将軍が権力を有するのかという理由付けに難しい点がある。また、そのような権力者の決定に本質的な問題がある。しかしながら、そのような大義名分の問題があるものの、良き天子や王の下で、理想的な政治が行われた時代は 世界の各地で見出される。
民主主義の問題点は、まず、代表者の選出過程、重要事項の決定過程に 多くの労力を有し、時間と手間がかかることである。 そこで、多くの政治家、代表者は選出されるために膨大な労力を使い、本来の政治や仕事に取り組むためのエネルギーを費やしている。 また、有権者の支持を取り付けるために、構成員のためにならないようなことであっても、約束するような状況が多々起こり得る。 顕著な例として、日本国における膨大な借金と慢性的な財政赤字が挙げられよう。国民の支持を取り付けるために、必要ではあるが、課税を強化できない状況をもたらしている。このようなことを続ければ、国家破産を迎えるのは必然ではないだろうか。民主主義の失敗例に 日本国の場合が記録される可能性を有する ゆゆしき問題である。
民主主義の問題点は、投票者が 代表者の行使する行動について、良く理解できず、適切な代表者の選出ができず、いわば考えている代表者とあべこべの代表者を選出する可能性が 高いという、事実にある。 また、代表者の本来の要務以外の能力で、たとえば感じがいいから等で、代表者を選出しがちである。また、候補者に名演説などで いわば騙されてしまうことなどは、よく有りがちである。しかしながら、選んだのであるから、それは選出者の責任であるという観点は 良く理解できる大義名分である。
みんなで、選出し、みんなで決めたことであるから、如何なる決定でも納得できるは 確かに大事な大義名分であるが、これを誤解すると何でも多数をそろえて、いわば多数の力で、政治その他を推し進めようとなりがちな弊害を生むことになる。多くの会議で、多数決で議事を決定する際、投票者が議事に対する理解と公正な判断能力を有しないために 言わば数の結果で悪い決定がなされるのが むしろ多いのが現状であろう。これは原理的にも本質的にそうなる傾向がある。一般に良いものから順に並べれば、多数の決定とは 中間くらいの決定になるのが世の法則だからである。多数による決定とは 決定の便法であり、適切とか、公正とが、正しいという種のものではないことに留意しておく必要がある。( 数学のゼミナールで討論すれば、議論している数学の結果に対する真偽を多数決で決めるのは 何の意味もなく、誰が真実を述べているかによって、自ずから客観的に決定するのとは大きな違いがある。)
さらに、難しい問題を多数の人が理解できるか、判断できるかという観点も大事である。 沖縄返還に伴う外交問題で、いろいろ密約をしていた状況が露になったが、状況を露にすると国民の反対が出て外交がうまく行かないという、高度な政治判断が行なわれたのは顕著な例である。 憲法改正や、国防の在りようなども同じように難しい問題がある。それらを素人の多くの国民に判断を求めるのは 逆に無責任で、危険であるという面も有する。
次の時代には、より進んだ政治体制が考えられなければならないが、当分は適切に適用できる方法が現実的に見当たらないから、現状の体制を維持するとして、民主主義の弊害を少なくするために、具体的に運用の在りようについて提案したい:
1)いわゆる代表者の選挙については、 選挙の広報をきちんと行うのは当然であるが、 投票しない権利を明確に認め、いわゆる投票率を上げるような行動は慎むこと。 これは投票に興味と関心を有する人に参加して頂き、興味や関心を持たない人に無理に投票しても貰うのは 無責任につながりかねないからである。特に政治や社会に関心のない人への勧誘による投票は慎むべきである。投票の案内は当然であるが、投票しましょうという勧誘は良くないと考える。これは、いわば真面目な投票人による選挙を意図していて、いわば無責任な人の投票を排除しようとする意図があることを肯定するものである。( 高校時代の世界史の 尊敬する先生の 授業中に述べられた ひっとした言葉が 今鮮やかに蘇り、ここに成文化したい: 私は、よくよく考えて 1票を投じているのに、よく考えないで投票する人と 同じ1票かと思うと 考えてしまう という嘆きの言葉です。)。
2)代表者の身分が民主主義ゆえに不安定では 責任ある政治を行うことができないから、在任中は特に厚く身分を保証して 本務に専念できるように配慮すること。
3)代表者は 広い視点に立って、自分の立場より、公の立場を優先させて考え、評価については 近視眼的ではなくて、歴史的な評価を大事にすること。
4)代表者の投票者(有権者)は 日ごろ研鑽を行い、投票に責任が負えるように努力すること。
5)特に 代表者の選出過程や代表者の立場が、マスコミの影響を受け易いのが、民主主義の特徴であるから、マスコミ関係者は 高い見識を持つように 特に努力して 次の報道の5原則にいつも留意すること:
(2010年01月31日)
原口一博氏がtwitter でつぶやいたという報道の5原則:
原則1「推定無罪の原則」
…….(最初から有罪であるよう印象づける報道はしないこと)
原則2「公正な報道」
…… (検察の発表だけをたれ流すのでなく巻き込まれた人や弁護人の考えを平等に報道すること))
原則3「人権を配慮した報道」
…….(他の先進国並みに捜査権の乱用を防ぐため、検察・警察の逮捕権、家宅捜索権の行使には、正当な理由があるかを取材、報道すること)
原則4「真実の報道」
……(自主取材は自主取材として、検察・警察の情報は、あくまでも検察・警察の情報である旨を明記すること)
原則5「客観報道」
…… (問題の歴史的経緯・背景、問題の全体構図、相関関係、別の視点などをきちんと報道すること)
みなさん、民主主義は何時でも衆愚政治 に陥り易いので、 衆愚政治に落ち入らないように努力して より良い社会を築いて行こうではありませんか。
以 上
注:
衆愚政治(しゅうぐせいじ、Ochlocracy)とは、多数の愚民による政治の意で、民主政を揶揄して用いられる言葉。有権者の大半が知的訓練を受けずに参政権を得ている状況で、その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな合意が得られたりする状況をさす。 また有権者がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。知的訓練を受けない民が意思決定に参加することで、議論が低廻したり、扇動者の詭弁に誘導されて誤った意思決定をおこない、 誤った政策執行に至る場合などをさす。また知的訓練を受けた僭主による利益誘導や、地縁・血縁からくる心理的な同調、刹那的で深い考えにもとづかない怒りや恐怖、嫉妬、見せかけの正しさや大義、あるいは利己的な欲求などさまざまな誘引に導かれ意思決定をおこなうことで、コミュニティ全体が不利益をこうむる政治状況をさす。 また場の空気を忖度することで構成員の誰もが望んでいないことを合意することがある(アビリーンのパラドックス)。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。
欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。
GHQから「日本の将棋は取った相手の駒を自分の兵隊として使用するので、これは捕虜の虐待ではないか」と問われた升田は次のように反論する。
「冗談をいわれては困る。チェスで取った駒をつかわんのこそ、捕虜の虐殺である。そこへ行くと日本の将棋は、捕虜を虐待も虐殺もしない。常に全部の駒が生きておる。これは能力を尊重し、それぞれに仕事場を与えようという思想である。しかも敵から味方に移ってきても、金は金、飛車は飛車と元の官位のままで仕事をさせる。これこそ本当の民主主義ではないか」
格好良すぎるぞ。升田幸三!
名人に香車を引いた男―升田幸三自伝 (中公文庫) [文庫]
升田 幸三 (著)
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