2014年8月12日火曜日

「これじゃ、世界に勝てない」日本がはき違えているイノベーションの意味

「これじゃ、世界に勝てない」日本がはき違えているイノベーションの意味
2014.8.9 07:00 (1/2ページ)[企業経営]
経団連の榊原定征会長のもと、初めて行われた先月末の夏季フォーラムのテーマは、榊原会長の持論でもある「イノベーション」をテーマに日本経済の復活を語り合った。なかでも、産学連携推進機構理事長の妹尾堅一郎氏を講師に招いて行われた「イノベーションを巡る、産業界の7つの問題」と題した講演は、イノベーションの“大家”たちを前にした息づまる対決を見せつけた。
「新聞はイノベーションを『技術革新』と訳しているが、これは一面しか表していない。中国の言葉である『創新』のほうがぴったりくる」
妹尾氏は講演で、世の中で使われているイノベーションという言葉そのものを否定。さらに「技術起点型のイノベーションで、古典的なビジネスモデルを続けていては、世界では勝てない」と切り捨てた。
日本の大手企業が取り組んでいるのは、あくまで現状の技術やビジネスの仕組みを改善する「インプルーブメント」であって、「創新」ではない、というのが妹尾氏の主張だ。
「イノベーションとは、全く新しい産業を創り出し、古い産業に取って代わることだ。もし、本気でイノベーションを起こせば、ここにおられる誰かの会社をつぶすことになるかもしれない。そのお覚悟はあるのですか」納得いかない顔つきの会長・副会長ら参加者たちを前に、妹尾氏が、こうたたみかけると、参加者は固唾をのんだ。http://sankei.jp.msn.com/economy/news/140809/biz14080907000001-n1.htm
その後のQ&Aセッションでも「どうすれば、イノベーションを描ける人材を育成できるのか」など、妹尾氏に対する質問が途切れなかった。また、講演終了後も、榊原会長が妹尾氏と名刺交換し、持論のイノベーションとの違いについて議論を交わしていた。
榊原経団連の旗印である「イノベーション」が、今回の夏季フォーラムを機に進化を遂げることができるかどうか、注目である。 http://sankei.jp.msn.com/economy/news/140809/biz14080907000001-n2.htm
本当の創造性には、日本は未だ後進性が有るのでは。
良いものとは何か、創造性について、理解できない、評価能力が無い、 哲学の精神の不足が 背後にあるのでは?
再生核研究所声明147(2013.12.27) 創造性についての 第二考察
創造性については
再生核研究所声明91(2012.5.20): 創造性についての一考察
で広く触れており、もっともなことが書かれていると考えるが、改めて触れたい観点が湧いたので、言及して置きたい。
まず、創造性の意味、定義などの基本的な考察については、上記声明を参照。いずれにせよ、新しく生み出すこと、新しく考え出すこと、作り出すことなど、が創造性の基本的な意味ではないだろうか。しかしながら、これらの意味さえ正確であるとは言えないだろう。アメリカ数学会誌に 数学の論文について、次のように書いてあったことを肝に銘じて、論文執筆について心がけてきた: 論文は
1) 新しい結果でなければならない、
2) 当たり前ではいけない、- 発展する結果の流れで、小さな段階的な結果は これに含まれる、
3) 正しい結果でなくてはならない、
4) 一定の人の興味を惹くものでなければならない - 先生とお弟子さんだけが興味を持つような結果は良くない、
5) 論文の表現が適切でなければならない。

いずれも大きな、深い問題であるが、新しい結果が、創造性に当たるのではないだろうか、すなわち人類史上で、初めての結果でなければならないは、論文の条件である。知られた結果の拡張、一般化、類似、より精密に調べたような研究が 論文の大部分であると言えるが、 難問を解いた、大事な基本的な定理や概念を得たなどは、高度な創造性と考えられるものもある。
そこで、どうしたら、高度の創造性が得られるか、が 世の大きな関心事ではないだろうか。
創造活動としては、芸術、文学、音楽、科学、数学など殆ど 人間の営みの大部分が創造活動にあたり、生命活動の表現とも考えられ、どうしたら、高度の創造性が得られるかは 分野、個性、文化などにも大きな影響を受けるのではないだろうか。
述べたい中枢から、触れよう。創造性、創造活動とは 人間の精神活動の表現、表れであり、創造性を高めるためには 人間の生命活動を健全に活かすことである、その原理は、好きなように、伸び伸びとできる環境を整えることである。
そこで、創造性を高めるいろいろな視点が 声明91 あるいは、そこに挙げられた文献で、広く論じられている。
ここで、触れたいのは、日本の詰め込み方式、受験勉強の過熱が 折角の才能をだめにし、創造性のみずみずしい才能をころしているのではないかという視点である。
我々の脳が、訓練によってどんどん発達するのは 語学、スポーツ、芸術、計算などでもみられる顕著な例である。至る所に現れる歴然とした事実と言えるのではないだろうか。
そこで、知識偏重、センター試験などにみられるような、解答方式の学習をやり過ぎると、全人的な発達が阻害され、一部の特定の部分の発達した、変な人格や、奇人を大量に教育、育成させ、しいては、創造性豊かな人材ではなく、変な人たちによる 変な社会が構成される危険性があるのではないだろうか。― 実際、人生の意義とは何か、人は何故生きているか、など、基本的な問題を問わないで、ただ受験を目標に、ただ知識を集め、問題解きの訓練にうつつをぬかして、大学に進学したら、大学では、既にどうしら良いか分からないような学生になっている状況が 実際多いと考えられる。さらに、大学でも真面目に教育されるように勉強して、大学院から先にうまく進んでも 何時の 間にか、やっていることの 人生における意義をみい出せず、精神的に放浪するような人生を送るのは 世に多い。人生の基礎がおろそかになっているばかりが、創造性の精神さえ乏しく、貧しくなっているのではないだろうか。社会に出ても ふらふら世相に流されて生きていて、人物たる人物は少なく、政治社会でも そのような変な現象は 広く見られるのではないだろうか。
テレビ普及時には 一億総白痴化が危惧され、共通テスト開始時には、そのようなおかしな制度は 教育の根幹に抵触すると 批判が広範に聞かれ、数年で破綻するとされたが、一度出来た制度は 一時代を成すように続いてきたが、流石に、改める風潮が出てきている(再生核研究所声明20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する;「大学入試センター試験」の廃止を歓迎する(佐藤匠徳(さとう・なるとく)(奈良先端科学技術大学院大学(NAIST)バイオサイエンス研究科教授))。
多くの人が、自由を求め、またいわば、社会の上流階級に属そうとする為に、良い大学を目指して、受験体制を乗り越えていこうとの世相には、自然なものがあり、具体的な対応には大きな問題がある。しかし、全人的な教育、創造性を失わずに 人を活かすための教育と受験制度の在りようについては、絶えず検討して、専門化、受験に特化したような教育に成らないように、大学人、教育界に検討をお願いしたい。― 悪い教育に成らない様な 絶えざる努力を求めたい。
以 上

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