2014年8月18日月曜日

【社会】「戦争は方向性が決まるとやめられなくなる、安倍首相は戦争を格好いいものと考えている、とんでもない間違い」旧海軍大尉が語る

【社会】「戦争は方向性が決まるとやめられなくなる、安倍首相は戦争を格好いいものと考えている、とんでもない間違い」旧海軍大尉が語る
1945年8月上旬、旧日本海軍は本土決戦に備えた特攻作戦を極秘裏で進めていた。その部隊の編成作業に旧海軍大尉の磯部利彦さん(93)=横須賀市ハイランド=は携わった。敗戦後、磯部さんは戦争に突き進んだ軍国主義に絶望し、反戦へと考えを改める。自らの信条を再構築する長い道のりだった。そしてこの夏、呵責(かしゃく)の念と反戦の思いを込めて後世に伝え残したいことがある。
■本土決戦 異常な作戦磯部さんのいた第10航空艦隊司令部は海上ではなく地中にあった。同司令部は茨城県・土浦の里山に造られた地下トンネルの中で指揮を執っていた。松江市生まれ。41年3月に海軍兵学校を卒業後、戦艦「大和」の試験航海に乗り組むなどした。艦上攻撃機の飛行学生を経て、霞ケ浦海軍航空隊(茨城県)の教官を務めた。「本土上陸」もささやかれた45年7月、第10航艦司令部付きの航空乙参謀になった。連合艦隊司令長官から本土決戦に備えた「決号作戦」の特攻隊の編成を命じられた。裸電球がぶら下がる薄暗い地下室で2、3日かけて作業に集中した。「要するに現況図の作成を任された。今どこの航空隊にどれだけの戦力が残っているか。人数? ありったけ、全部ですよ。勝算があってやる作戦ではない。それほど追い詰められていた」。全国約10あった練習航空隊から教官をはじめ、訓練生まで約700人を見積もった。実戦に使わない練習機の百数十機をリストアップ。「それに爆弾をくくり付けて敵艦に突っ込む。惰性で戦争を続けて最後は本土決戦なんて、とんでもないことをやろうとしていた」沖縄戦で18万人超の尊い命を失う絶望的戦況の中でも「一億玉砕」を唱えるなど、軍国主義が醸成する異常な世相が多大な犠牲を生んだ。結局、作戦は実行されなかったが、「もし、特攻が実施されていれば、おそらく何百人もの戦闘員が海の藻くずになっていた。幸いにしてその前に8月15日を迎えた」。だが、職業軍人の磯部さんを待っていたのは、想像を絶する厳しい現実だった。
■辛酸なめた戦後 反戦「命ある限り」
磯部さんにとって、終戦は「失職」を意味した。新婚の身で公職追放となり、新たな食いぶちを得るのにも厳しい道が控えているのは予感していた。だが、「想像以上だった」と振り返る。経済面のみならず深刻だったのは、「思想的にもすっかり虚脱状態になった。それまでは軍国主義だったが、間違いだった。じゃあ、何が正しいのかということが簡単につかめなかった」。たたき込まれてきた教えが、敗戦とともに根本から覆されたのだ。周囲の目も一変した。霞ケ浦海軍航空隊(茨城県)で教官を務めていた1944年6月、訓練中に空中火災事故に遭った。全身にやけどを負い、三日三晩、生死をさまよう重体。顔に整形手術を施す大けがだったが、同乗していた訓練生を先に脱出させたことで英雄視された。「私の傷痕は終戦の8月15日までは立派な勲章だった。どこでも大威張りで出入りできたけど、戦争が終わって敗戦軍人になると、勲章でも何でもなくなった。単なる醜い顔になるわけで、それはショックだった」自宅で写真館を始めたが鳴かず飛ばず。その後も職を転々とし、「泥水をすすり、草をかむような貧乏暮らし」を送った。軍国主義に絶望し、職場での労働運動をきっかけに反戦、平和思想に傾倒するようになった。80年に民間航空会社を定年退職した後は「日中友好元軍人の会」などに入り、戦争体験を語る活動を続けた。安倍政権が集団的自衛権の行使容認に踏み切った今、日本を取り巻く安全保障政策の変容に危機感を覚える。「一つの大きな壁を破った。戦争へ戦争へと向かっている気がする」と懸念する。
「戦争は一つの方向性が決まるとやめられなくなる。始めるのは簡単だが、やめるのは大変。安倍首相は戦争を知らない。戦争を何か格好いいものと考えているようだが、とんでもない間違い。戦争ほど残酷なものはない」。残り少ない体験者の叫びだ。69回目の終戦の日を迎えたこの日、磯部さんは自宅で静かに過ごした。胸に去来するのは、「一言で言えばおわびですね。世の中に対する謝罪。末席ではあったが、私も幕僚の一員だった。本来なら戦争体験を語る資格はない。今まではそういうことをあまり考えなかったが、最近はつくづく感じる」。
海軍兵学校時代の仲間は年々減り、首都圏で存命している同期は磯部さんだけという。自身もこの先いつまで語り継げられるか。
戦争に加担した自己批判から歩み出し、反戦の信条を築き上げてきた69年。導き出した使命は明快だ。「命ある限り、戦争反対のために尽くしていく」
再生核研究所声明 72(2011/12/06) 
慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則

まず、 ルネ・デカルト - Wikipedia から慣性の法則を抜粋しよう:(デカルトは、物体の基本的な運動は、直線運動であること、動いている物体は、抵抗がない限り動き続けること(慣性の法則)、一定の運動量が宇宙全体で保存されること(運動量保存則)など、(神によって保持される)法則によって粒子の運動が確定されるとした。この考えは、精神に物体的な風や光を、宇宙に生命を見たルネサンス期の哲学者の感覚的・物活論的世界観とは全く違っており、力学的な法則の支配する客観的世界観を見出した点で重要である。)
いわゆる 慣性の法則 は、 ニュートンの運動法則 の第1法則(慣性の法則)で、外力が加わらなければ、質点はその運動(静止)状態を維持する。(力を加えられない質点は等速度運動(等速直線運動)を行う)。  要するに 動いているものは そのまま動き、止まっているものは そのまま止まっているという法則である。 
この法則は、 物理法則としてばかりではなく、 人生、社会の人世、精神、生命などの在りように普遍的に存在する いわば、連続性を表す 世の法則 ではないだろうか。 この観点からいくつかの考察を行い、世と上手く付き合っていく心得、人間の在り様としての心得について触れておきたい。
人は 人生とは何か、生命とは何か、生きる意味を 繰り返し問う。 この難しい問題を足もとから、現、在から考えてみよう。 今日あれば、 昼には昼食をとり、夕べには 夕食をとるは 相当に大事な 今日の要素である。 ― 実際、 夕食がとれないような状況が有れば、それは人生の意味などを超えて 全ての人間にとって重大であろう。 ― 仕事や予定が有れば、 何時ものようにやり、 少し上手く行けば、 それだけ充実感がするだろう。 在り様は もちろん、 個人にとって、人生そのものである。 人生とは それ以上のものではない。 今日の在り様は 多くは昨日から、 決まっていて大きな変化が有っても 既に準備されているものである。 今日あるから、 明日も 今日のように生活することになる。 このように 人生とは繰り返えされてきたものである。 子供のころの生活も同じように 少しずつ繰り返しながら、 変化してきて、 現在に至ったのである。 それは個人の人生ばかりではなく、 動物としても、生物としても 少しずつ慣性の法則に支配されているように 展開して来ているのである。 それらの背後には 大きな生命の営みが感じられるが その本質は 定かには分からない。 我々の自由意志は 本能原理の上に わずかに存在するが、大きな生命の営み、日常の連続性によって働いており、その大いなる流れの上にあることに想いを致せば、 大きな迷いや不安から、解放されるだろう。 その流れを観、感じ、捉えることが肝要である。 多くの人は両親や近い人の終末から、自分の終末を予感し、覚悟し、 子供たちの終末を予感するだろう。 永い間、代代繰り返えされてきたのだから、 私もそうなるだろうと悟るだろう。 およそ人生とは そのようなものである。 然り 大河の中の一滴のように である。 世の、始めも、終わりも、人生の始めも、終わりも、定かには分からない。 ただ大きな流れの上に生きているということである。 大きな変革も、ちょうど地震のように エネルギーが次第に高まり、 その流れの中で起きたものである。
日本社会をみても、大震災による原発事故、増大する膨大な債務、政権交代も同じように考えられる。40年以上も稼働して来たものが、稀有な天災で甚大な被害を受けた、しかしながら、今まで築いてきた膨大な設備を、それでは直ぐに廃止とは行かないのは 当然である(再生核研究所声明 67: 脱原発デモ ― 非現実的な貧しい二律背反の発想と飛躍した議論)。どうしようもない膨大な債務と財政難も同様である。大きな船の舵のように、急には財政改善とは行かない、改善は総合的な難問ではないだろうか。政権交代も、自民党の長期政権が疲弊、衰退し瓦解により、政権交代はしたものの、外交、軍事、財政、経済、何れも急には変えられないのは 道理であり、現実の日本の上に 政治を進めるためには、そんなに変えようがないという苦しみを 現政権にみることができる。それは大きな政治社会、大きな国の機構、現実を見れば 当然であり、菅氏が人間性の観点から批判されたのは 当然としても(再生核研究所声明 71:菅 暗黒政権 を総括する)、鳩山氏の過ちは小さく(再生核研究所声明 59: 鳩山政権の総括と反省)、野田首相はしっかり バランス良く賢明に政治を進めていると 高く評価されるべきである。 要するに、現実の日本が有る限り、 そう簡単には 変えられないというのは、 慣性の法則の重要な視点である。永い歴史が有って現在がある、 歴史の流れの上に、 明日からの未来を少しずつみつめて 着実に歩みたい。 歩んで来た過去をしっかりみれば、 明日の在るべきことは 相当に決まっているものである。 
それを歴史的必然とも表現できよう。 現在、未来は 過去の歴史から、慣性の法則で、押し出されていくものであり、 自由を行使する判断でさえ、過去の積み重ねられた知識、体験の学習の結果であり、 多くは慣性の法則で 動いていると言える。 我々が創造と呼んでいるものも
そうである。 積み重ねられたものから、生命作用として、噴き出ているのである。 それゆえに、歴史を真面目に捉え、飛躍が無いような、総合的な、大きな視点を持つように心がけたい。
もちろん、震災、財政危機、政権交代などの社会現象は 世界史で 繰り返し 繰り返し展開されてきたことである。
少子高齢化、教育の問題、産業構造と失業問題、環境問題など、何れも局所的対応、単細胞的思考では対応できず、各々の専門性を超えた 総合的、全体的な視点が大事である。 そのような視点を国民が全体的に持ち、 対応する力が無ければ 混乱と破局を早晩迎え、それも1時代の現象と評価されることになるだろう。 実際、我々は沢山の 世紀末的現象を 世界史の中に 見出すことができる。 世界は 大きな流れの中で、成るように成るものであると 半ば悟った様な心持ちは 視野を大きくさせ、賢明な有り様を選択させるだろう。
以 上

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