2014年8月24日日曜日

氷水被って寄付する芸能人たちをやたらと売名だとか偽善だとか言ってる人たちがいますが、

氷水被って寄付する芸能人たちをやたらと売名だとか偽善だとか言ってる人たちがいますが、
氷水を被って、寄付もして、ALSという病気は少なくとも色んな人の記憶に残ってる。こんな良いことはないと思います。以前、渡部陽一さんはこんなことを言っていました。私の真似をふざけてする子供たちも、そのことで、戦争をしている国の名前や、状況を言葉にすることになる。まねをするだけでも戦争の事を少し知ってくれれば嬉しいと。これも同じように、偽善だろうが、売名だろうが、何もしない人たちよりも話題を広めて輪を拡げているし、世界の役にたってますよね。
土砂崩れの広島や、東北の方が先だろと言ってる人もいますが、これが広まることによって、寄付という言葉が話題になり、このように広島や東北の方が先だろというのが出てくるので、その人たちもそこへの寄付、また、だんだん忘れ去られている東北への支援も再確認できていると思います。いじめに繋がるとか言ってる人も、氷水を被る人じゃなく、いじめるやつが悪いということを分かってるんですか?たしかに、氷水を被るのは体に少し負担で危険かもしれません。でも、指名されてるだけで絶対にやれという固い決まりはないので個人の責任でやってるんです。
偽善でも売名でも、何もやらないひとたちがとやかく言えないと思うのですがどうですか?
補足昨日の時点で16億の寄付が来ています。仮に氷水を被るという話題性が無くてもこんなに集まったと思いますか?
今までアフリカへの寄付や理解など示そうとしなかった人たちが、急にアフリカが可哀想だからと病気への理解の輪を広めることを批判する。こんなの何もやらない偽善ですよね。
少なくとも、アフリカ可哀想だから何もしない人より、せめて病気の理解の輪だけでもと協力してる人の方がいいhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13134488493
祭りや騒ぎもそれなりに良いという面が有りますが、変な行き過ぎは、おかしいのでは。
マスメディアのニュースに扱いは、大事では?

再生核研究所声明165(2014.6.19) 世論について

まず、世論について、wikipediaに従って、用語を確認して置こう:
世論(せろん、よろん、英語: public opinion)とは、世間一般の意見のことで、公共の問題について、多くの人々が共有している意見、もしくは大多数の賛同が得られている意見(考え)のことを指す。1つの問題を巡って世論が割れ、対立し合うこともある。
用語[編集]
日本では、戦前より、「輿論(ヨロン)」と比べるとはるかに頻度は低いものの、「世論(セイロン、セロン)も使用されていた(輿論の項参照)。使用頻度に関しては、戦前の代表的な国語辞典である『言海』などに収載されていないことが一つのめやすになるだろう。戦後の当用漢字表制定時に、「輿」が当用漢字表に含まれなかったため、新聞などでは「世論」の表記が使われるようになった。その後、それまでの「セロン」のほか、「世の中の論」という感覚での「ヨロン」という読み(湯桶読み)も一般化した。
概要[編集]
世論は多くの人々が共有する意見であり、社会の統合化の促進、支配者の統治の正当化のために世論は重要であると考えられている。特に現代の議会制民主主義に基づいた社会においては選挙を通じて世論が政治的支配の正当性を左右することになる。すなわち世論は政治的リーダーに対する国民の意思表示としての機能があると言える。しかし世論がどのような内容となっているのか、またそもそも世論といえるような共通意見が世間一般に存在するのか、を知るのは相当程度に困難なことであり、単なるマスメディアの意見、ないし願望が「世論」として紹介されることも多いし、またアナウンス効果による世論操作と言われることもある。
民主主義では 主権は国民にあり、 国民の意見に従うは大事とされるが、この文脈で、国民の意見の表現で しばしば世論が使われ、政治や政権に一定の圧力を加え、反映が期待される面を有している。また、選挙の動向の報告に世論調査が盛んに行なわれている。
まず、世論とは何かについて、議論して置きたい。世論は国民の意見、大勢の意見とするならば、その大勢の意見とは何かと問題にすべきである。厳格に全国民の意見の調査の結果としても、それは多くは不可能であるが、そのような単純な結果は、実体ある世論とは言えないだろう。 世論とは、国や政治を動かす力の総称であり、マスコミや言論界、政界の力を強く反映したものであると考えるのが妥当である。それらの背景にはもちろん、国民の相当な意見や、文化的な背景を反映しているが、狭義には マスコミや言論界の意見であると考えるのが妥当である。 この意味では、世論はそれを作る一部の階層の意見であると考えるべきである。 選挙における世論調査は 厳密にはサンプリングによる統計的な結果であるべきものが、意図的にマスコミなどに誘導される要素が有るが、そのような要素は 否定されるべきだとは言えない。文化的背景や国民の意見を加味した、マスコミや言論界には、国民を導く要素すら立派に存在すると考える。
ところで、民主主義の観点で、政治や政権が 世論に縛られるとは考えるべきでは無く、国民に選ばれた代表者は、高い立場から、個々の政治的な問題について、国民の世論など曖昧な意見に左右される必要はなく、自由に判断できると考えるべきである。そうでなければ、民主主義は 無責任政治、衆愚政治に陥ることになるだろう。まさに、間接民主主義の大事な観点は ここに有ると考えられる。
これはもちろん、選挙で選ばれた政治家が、多様な意見を参考にすることを、否定することを意味しない。逆にいろいろな意見を参考にすべきは当然である。
これを簡単に述べれば、国民の意見や文化を背景に、 マスコミや言論界が世論を構成し、国民と政治家を啓蒙し、政治を動かして行くべき と考える。マスコミや言論界が 大きな実際的な力、影響力を有するのは当然である。この意味でもマスコミや言論界の役割は大きく、 逆に責任も大きいと 絶えず、精進、自戒していくことが求められる。これはまた、国民には マスコミを絶えず、批判的にみていくような態度 が 求められることを意味する。
以 上

0 件のコメント:

コメントを投稿