フィリッポ・ブルネレスキ
ブルネレスキ像
フィリッポ・ブルネッレスキ(Filippo Brunelleschi, 1377年 - 1446年4月15日 )は、イタリアの金細工師、彫刻家、そしてルネサンス最初の建築家である。本名はフィリッポ・ディ・セル・ブルネッレスコ(Filippo di ser Brunellesco=ブルネッレスコ氏のフィリッポ)、ないしはフィリッポ・ディ・セル・ブルネッレスコ・デ・ラーピである[1]が、専らその短縮形であるフィリッポ・ブルネッレスキの名で呼ばれる。主にフィレンツェで活動を行った。
彼は冗談や悪ふざけで他者をからかうことを楽しんだが[† 1]、発想は鋭く、聡明で機智に富んだ[4]。彫刻家としてはロレンツォ・ギベルティに遅れをとったが、サンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ建設によって絶大なる賞賛を得た。 遠近法の発明やオーダーの発見も、彼のものとされる。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 幼少期から青年期
1.2 壮年期
1.3 中年期
1.4 晩年
2 影響
2.1 透視図法
2.2 技術者として
3 作品
3.1 主要作品
3.2 ブルネッレスキが関連した可能性のある作品
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 参考文献
6 関連項目
7 外部リンク
生涯[編集]
幼少期から青年期[編集]
ブルネッレスキは、フィレンツェの公証人の子として1377年に生まれた[5]。幼少期から読み書きと算術のほかにラテン語を学んでいたが[† 2]、家業は継がず、 1398年12月18日には絹織物業組合(Arte della Seeta)に金細工師として登録されている[7]。1400年頃までルナルド・ディ・マッテオ・ドゥッチ・ダ・ピストーイアの工房で働いており、ピストーイアのサン・ゼーノ大聖堂にあるサン・ヤーコポ祭壇の半身像、預言者エレミヤとイザヤなどを作成したとされる[8][† 3]。
ブルネッレスキ作『イサクの燔祭』
ロレンツォ・ギベルティ作の『イサクの燔祭』
ブルネッレスキ作『磔刑像』サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂ゴンディ家礼拝堂
ドナテッロ作『磔刑像』サンタ・クローチェ聖堂バルディ・ディ・ヴェルニオ礼拝堂
1401年、フィレンツェに戻った彼は、輸入繊維商組合(Arte della Calimala)が主催するサン・ジョヴァンニ洗礼堂の第二青銅扉(北側扉)のための作成競技に参加する[10][11]。課題は「イサクの燔祭」で、ブルネッレスキのほか7人の芸術家が参加したが、最終選考に残ったのは、ブルネッレスキとロレンツォ・ギベルティの作品であった。ヴァザーリの記述によれば、ブルネッレスキはギベルティの作品が最も優れていることを認め、彼を当選させるよう選考委員を説得したが、選考委員はブルネッレスキの技術も高く評価し、共同で作業にあたるよう要請したとされる[12]。一方、マネッティは、選考委員はブルネッレスキとギベルティの作品の優劣を決定することができず、両者に共同で作業にあたるよう要請したとしている[13]。いずれにしても、この二人の作品だけが、現在もフィレンツェのバルジェロ美術館に現存しているため、選考員も甲乙を判断しかねたであろうことは想像に難くない。結局、ブルネッレスキが共同での作成を辞退したため、扉の制作はギベルティが請け負うことになった。
1404年7月2日に、絹織物業組合のマエストロとして登録され[14]、時期は不明であるが、サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂において木彫りの等身大磔刑像を作り、彩色を施している[15]。ヴァザーリは、この磔刑像が、ドナテッロの磔刑像(サンタ・クローチェ聖堂所蔵)に対抗して作られたものとしている[16]が、マネッティはそのような記述を残していない。また、これも年代がはっきりしないが、ブルネッレスキは透視図法によって、サン・ジョヴァンニ洗礼堂とシニョリーア広場を描いたとされ、透視図法を最初に用いて作図を行ったのは、ブルネッレスキであるとされている[17][18][† 4]。
1401年のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉作製選考から、1418年のサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ設計競技の告示までの間、ブルネレスキは ドナテッロとともに、何度かローマに滞在し[† 5]、そこでローマ建築の構造と空間の構成に一定の秩序を認め[22]、柱の相違、つまりオーダーを発見したと言われる[23][24]。ただし、彼らがローマに行った時期は明言されておらず、ローマ滞在の裏付けとなる明確な資料(または、それを積極的に否定する資料)は存在しない[† 6]
なお、ブルネッレスキは妻帯しなかったが、1417年にアンドレーア・ディ・ラッザーロ・カヴァルカンティ(通称イル・ブッジャーノ)を養子として迎えている[26]。
壮年期[編集]
サンタ・マリーア・ノヴェッラ修道院のスペイン礼拝堂のアンドレア・デル・ボンニュート作のフレスコ画(1365年頃)。左側に大聖堂の完成予想図が描かれている(ドーム直下のドラムはない)
1410年代後半、サンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂のドラム工事が完成に近づき、毛織物業組合 (Arte della Lana)傘下の大聖堂造営局(Opera del Duomo)は、クーポラの建設方法について真剣に検討を行い始めた。サンタ・マリーア・ノヴェッラ修道院のスペイン礼拝堂の1365年頃に作製されたフレスコ画に描かれているように[27]、大聖堂のクーポラのデザインはある程度決定していたらしく、問題は建設に関する技術的案件、すなわち、地上から足場を構築することなくドームをどのように建設していくか、ということであった。設計競技を行う前に、大聖堂造営局は何人かに個別に意見を求めていたようで、そのことに対する報酬記録が残されており、ブルネッレスキにも建設に関連する協力の報酬として、1417年5月19日付での報酬支払い記録が残っている[28][† 7]。
1418年8月19日、大聖堂造営局はクーポラ建設のための作業機械・足場・工法などの設計競技を布告する[† 8]。模型制作の支払記録によれば10数件の応募があったようだが、これらが大聖堂造営局でどのように討議されたかは定かではない。ブルネッレスキが作成した模型と工事仕様書によって提示された、仮枠なしの二重構造のドーム案[31]についても、最初は否定的な意見が寄せられたとされている[32][33]が、この時期にサンタ・フェリーチタ聖堂のバルバドーリ礼拝堂の建設、[34][† 9]、ないしは、サン・ヤーコポ・ソプラ・アルノ聖堂のリドルフィ礼拝堂の円蓋の架構が行われ[† 10]、そこでブルネッレスキがドームの建設を仮枠の構築なしに行ったことが、彼への信頼を深めたとされている[36][37]。
クーポラの建設方法と工事監理者が決定するまでの間、1419年には、ブルネッレスキが所属する絹織物業組合が運営する孤児養育施設、捨子保育院(オスペダーレ・デッリ・イノチェンティ)の建設が開始され、ブルネッレスキはその図面の制作を請け負った[38]。この施設は1445年に運用が開始されており、事実上、ルネサンス最初の建築物とされている[† 11]。
1420年4月16日、ブルネレスキ、ロレンツォ・ギベルティ、バッティスタ・ダントーニオの三名が、同じ俸給でサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂天蓋工事の主任監理者に指名され[42]、建築方法について、ブルネッレスキ案とほぼ同じ内容の決議文書が同年7月13日に採択された[43]。8月7日にはクーポラの建設が開始されたが、ブルネッレスキにはギベルティに対する確執(またはクーポラの工事監督に複数名が指名されたことに対する不満)があったとされ、ブルネッレスキが仮病を使って工事に出仕せず、建築工事の知識のないギベルティを困惑させたり、病気のために余命幾ばくもないないふりをして、ギベルティに水平補強材と足場の建設のどちらか一方を選ばせ、ギベルティが担当した水平補強材の工事が失敗するなどの逸話が残っている[44][45][† 12]。
大聖堂の工事の傍ら、1421年8月10日、フィレンツェで最も由緒のある教会堂、サン・ロレンツォ聖堂の改築工事が開始され、その前後、ブルネッレスキは聖具室(現、旧聖具室)の設計を ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチから委託されている[47][48]。この工事計画は、旧聖堂を取り壊し、規模をひとまわり大きくした教会堂を新築する大規模なもので、聖具室の出来映えを見たジョヴァンニ・ディ・ビッチは、聖堂本体の設計をブルネッレスキに委託することを決意したとされる[49][† 13]。しかし、ジョヴァンニ・ディ・ビッチは1429年に死去し、以降の聖堂本体の計画の推移について詳しいことはほとんどわからない。1434年に、フィレンツェ市議会がサン・ロレンツォ聖堂の周囲の整備計画の審議を行い、その整備担当に大聖堂のカポマエストロを充てるとしていること[51]から、この時期にブルネッレスキが聖堂から広場までの整備に関与した可能性もある。いずれにしても、経済不振と政変のため、聖堂工事の進捗状況はきわめて悪く、現在の聖堂の身廊に残っていた旧聖堂が取り壊されたのは、ブルネレスキの死後20年近く経過してからであった[† 14]。
中年期[編集]
ピーサのチッタデッラ・ヌオヴァ
1423年8月27日、大聖堂造営局はブルネッレスキにサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂の総監督の肩書きを与え、年俸100フィオリーノ・ディ・スジェッロの支給を決定する[54]が、翌年の1424年に始まるミラーノ公国との戦争により、大聖堂に関わる技術者は城壁や砦の建設・補強工事を行っており、ブルネッレスキも1423年以降は、ほぼ毎年、フィレンツェ支配下の都市に派遣され、城砦の工事に携わった。記録に残るだけでも、1424年から1440年まで、城塞建設のために何度かピーサに赴いており、チッタデッラ・ヴェッキア、パルラシオ門、チッタデッラ・ヌオヴァなどの建設に従事している[55][56]。また、時代は下るが、1436年8月14日にヴィーコピサーノの要塞構築のための模型を作製し、1440年に同地を訪れるため、フィレンツェを離れており[57][58]、晩年にかけて、リーミニ、ミラーノなどを訪問したとされる[59]。
1426年2月4日からは、ブルネッレスキの年俸100フィオリーノに対し、ギベルティは年俸3フィオリーノのパート・タイム制に変わり[60][† 15]、クーポラの建設はブルネッレスキが一手に担うようになるものの、ミラーノ公国との戦争はフィレンツェ経済に深刻な打撃を与えており、1429年11月に対ルッカ戦争が始まると、大聖堂の工事も中止を余儀なくされることになった。それでも、他の公共工事と比べると、大聖堂の造営は順調に行われたと考えられ、1432年2月4には、ブルネッレスキが作製した模型の取り壊しが行われた。これは、工事の目処が立ったことを意味しており、1434年6月12日には頂上の円環が閉じられ、1436年3月9日、ついに教皇エウゲニウス4世により、サンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂の献堂式が執り行われた。
頂上部のランターンについては、1434年10月30日に、大聖堂造営局がブルネッレスキに対して模型制作を依頼している[61][62][† 16]。ただし、ブルネッレスキを含めた5人の工匠が作成した模型が審査されており、1436年12月13日に、改めてブルネッレスキ案が選ばれた[64]。ランターンの建設自体は1446年に始められ、ブルネッレスキは、それまでに大理石の加工、工事に必要な機械や道具の準備を行い、工事の進め方についての遺言まで残していたとされる[65][† 17]。
1430年代にブルネッレスキが関わったと考えられるのが、ブルネッレスキ後期の作品であるアウグスティノ会のサント・スピーリト聖堂である。古い聖堂を建て替える決定は1428年に発議され、工事の着工が1441年なので、1430年代にブルネッレスキが模型を作製したと考えられるが、マネッティによる伝記はサント・スピーリト聖堂の逸話の途中で唐突に終わっており[67]、ヴァザーリも簡素にしか触れていない[68]。この聖堂も、経済不振と他の聖堂の修繕等による資金不足でサン・ロレンツォ聖堂と同じく工事が中断しており、最初の円柱が現場に届いたのは1446年4月5日であった[69][† 18]。サント・スピーリト聖堂に比較すると、カマルドリ会のサンタ・マリーア・デッリ・アンジェリ修道院の小礼拝堂(オラトリウム)は、ブルネッレスキが関わった時期が明確で、計画は1434年に輸入繊維商組合がブルネッレスキに委託したものである。1435年に起工するが、1437年にルッカとの戦争が再発したため工事が中断されており、結局、当初の計画の通り完成することはなかった[71][72]。
晩年[編集]
1440年をすぎた頃から、ブルネッレスキの活動は限定的になる。この頃にパラッツォ・ディ・パルテ・グエルファの大広間の計画に携わったようではあるが、1443年には、受注したサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂の説教壇の制作を養子のブッジャーノに預けており、前年の1442年9月28日のカタスト(資産申告書)[† 19]では、老齢のために働けなくなったと申し出ている[73]。
そして、 1446年4月15日の深夜に他界する[74]。大聖堂造営局は、ブルネッレスキの葬儀をサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂で行うことを決定し、1447年に同聖堂に葬られた。
影響[編集]
透視図法[編集]
マネッティの説明による板絵の見方
マネッティやイル・フィラレーテによれば、ブルネッレスキは透視図法を採用した最初の人物であるとされる[75][76]。はじめに描かれたのは、サンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂の中央入り口から見た サン・ジョヴァンニ洗礼堂の眺めで、メディチ家の財産目録にそれらしき板絵が登録されている[77][† 20]。この板絵は空にあたる部分に銀箔が貼られ、また、中央部に穴が開いており、板絵と鏡を対面に置いて、板絵中央の穴から覗くと、銀箔に実際の空が写り込み、鏡に写った板絵がまるで本物の風景のように見えたと説明されている[79]。つまり、これは直接法による一点透視図で、左右を反転して描かれたものである。次に描かれたシニョリーア広場の板絵については、ヴェッキオ宮殿の西面と北面が表現された[80]とされているので、必然的に二点透視図法によるものと考えられるのだが、二点透視図の幾何学的作図法は、数学者グィドバルト・デル・モンテが1600年に著した『透視図法六書(Perspectivaelibri sex,apud HieronymusConcordiam)』において初めて示されたので、その作図方法についてはよくわからない[† 21]。
ブルネッレスキがこれらの絵を作成した時期については、明確ではない。ヴァザーリは、ブルネッレスキがマザッチョに透視図法を伝授したとしており[82][83]、これはマザッチョが1427年頃に描いた『聖三位一体』の構成と、ブルネッレスキの設計によるサンタ・フェリーチタ聖堂のバルバドーリ礼拝堂の構成が良く似ていることからも推察される。また、1417年に彫られたドナテッロの『聖ゲオルギウス』の台座『聖ゲオルギウスとドラゴン』[84]は、ルネサンスの透視図法の最初の表現とされるが、当時のドナテッロとブルネッレスキの関係性から、この彫刻についても、ブルネッレスキによる何らかの示唆があった可能性がある。このほか、 パーオロ・ウッチェッロがシニョリーア広場の板絵を真似たとされており[85]、彼の手によって描かれたサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂の『ノアの洪水』は、二点透視図法で描かれている[† 22]。
サンタ・フェリーチタ聖堂のバルバドーリ礼拝堂
サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂の『三位一体』(マザッチョ)
オルサンミケーレ聖堂の『聖ゲオルギウス』の台座浮彫(ドナテッロ)
サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂の『大洪水と終息』(ウッチェッロ)
こうしたことから、ブルネッレスキはルネサンス芸術家として、かなり早い段階、もしくはマネッティが述べているとおり、最初に幾何学的透視図法を会得した可能性があるが、このために、彼の建築空間は、透視図法の幾何学性を通じて形成されたと説明されることがある[† 23][† 24]。ただし、透視図法を含めた建築の素描に関して、ブルネッレスキの時代にまで遡れる史料は存在しておらず[† 25]、仮にブルネッレスキが透視図法によって空間を構成する作業を行っていたとしても、それを客観的に裏付ける史料はない。
技術者として[編集]
ブルネッレスキは優れた技術者でもあり、それは当時、仮枠なしでは建設不可能とされたサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラを、仮枠を構築することなく建設する方法を考案したことでも証明される。彼は、仮枠を用いずに建築する方法の一つとして、クーポラの「仕様書」において、単に煉瓦を水平に積むのではなく、上部の煉瓦層に目地を噛み合わせるため、一定の位置で煉瓦を縦に積むことで矢筈模様(con quello spinapescie =鱗状)に組み上げるように指示している。この手法であれば、ある程度の勾配のついた面でも、仮枠なしで煉瓦を積んでいくことができたと推察され[93]、これは16 世紀まで、トスカーナ地方におけるドーム構築の際の一般的な工法となった[94]。
このほかに、吊りくさび[95]や改良を施した足場[96][97]などを考案したほか、職人に対して、土や木材、蝋、時にはカブを用いて仕口、継ぎ手などの模型を作製し、作業を指示した[98][99]。また、マネッティによれば、様々な機構に用いられる歯車を研究し、時計や目覚し時計をいくつか作成しており、これは大聖堂のクーポラ建設時に製造されたクレーンや巻き上げ機などを考案する際の助けとなったとされる[100]。
タッコラによって描写されたブルネッレスキの大ウィンチ
レオナルド・ダ・ヴィンチによる大ウィンチのスケッチ
ブォナッコルソ・ギベルティによって描写されたブルネッレスキの大クレーン
レオナルド・ダ・ヴィンチによる大クレーンのスケッチ
ブルネッレスキが考案したウインチは、それまで6対の牛で牽引していた重い部材も、わずか一頭で引き上げることが可能になったとされ[101]、その機構はシエーナのタッコラ、ジュリアーノ・ダ・サンガッロ、レオナルド・ダ・ヴィンチらによって描写されているので、今日でもかなり正確に復元することができる。ブルネッレスキの巻き上げ機は、2頭の馬による水平回転を、交差軸によって巻き上げを行う軸に変換するもので、歯車を取りかえることで、速度や回転を逆向きにかえることができるよう工夫されたものであった。このような機械工学は舞台装置としても生かされ、サン・フェリーチェ・イン・ピアッツァ聖堂の「受胎告知」の祝祭劇のための仕掛けを考案したとされる[102]。
また、彼はクーポラの建設に使用する大理石運搬のため、アルノ川を渡る資材運搬船を発明しており、これは1421年6月19日に、共和国政府から3年間の特許証が与えられ、資材運搬船によるすべての利益をブルネッレスキが確保することが保証された。この政令は、ブルネッレスキの才能と力量が他人の成果になることを防ぐための措置[103]、すなわち特許とされていて、ブルネッレスキは自分の発明を盗用されることに対しては、極度に警戒していたようである。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%AD
再生核研究所声明171(2014.7.30)
掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?
(2014.7.11小柴誠一、山根正巳氏との会合で、道脇裕氏の 割り算と掛け算は別であり、ゼロ除算100/0=0は自明であるとの考えを分析して得た考えを纏めたものである。)
ゼロ除算100/0=0は2014.2.2 偶然に論文出筆中に 原稿の中で発見したものである。チコノフ正則化法の応用として、自然に分数、割り算を拡張して得られたものであるが、歴史上不可能であるとされていること、結果がゼロであると言う意味で、驚嘆すべきことであること、さらに、高校生から小学生にも分る内容であると言う意味で、極めて面白い歴史的な事件と言える。そればかりか、物理学など世界の理解に大きな影響を与えることも注目される。詳しい経過などは 一連の声明を参照:
再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
しかるに いろいろな人たちと広く議論しているところであるが、世界の指導的な数学者でさえ、高校生でも理解できる発表済みの論文 その後の結果について、現代数学の常識を変えるものであり、受け入れられない、と言ってきている。まことに不思議なことであり、如何に驚くべき結果であるかを示していると言える。
多くの数学者は、内容を理解せず、100/0=0 は100=0 x 0 =0 で矛盾であると即断している。しかるに論文は 100/0 は 割り算の意味を自然に拡張するとゼロの結果を得るのであって、ゼロ除算の結果は 100=0 x 0 =0を意味しないと説明している。 逆に、無限大、無限遠点は数と言えるかと問うている。
ところが面白いことに 既に3月18日付文書で、道脇裕氏は 掛け算と割り算は別であり、ゼロ除算100/0は 自明であると述べていた。しかし、その文書は、一見すると
矛盾や間違いに満ちていたので、詳しく分析してこなかった。しかるに上記7月11日の会合で、詳しい状況を聞いて、道脇氏の文書を解読して、始めて道脇氏の偉大な考えに気づいた。結論は、ゼロ除算100/0は分数、割り算の固有の意味から、自明であると言うことである。これはチコノフ正則化法や一般逆とは関係なく、分数、割り算の意味から、自明であるというのであるから、驚嘆すべき結果である。千年を越えて、未明であった真実を明らかにした意味で、極めて面白い知見である。またそれは、割り算が掛け算の逆であり、ゼロ除算は不可能であるという長い囚われた考えから、解放した考えであると評価できる。
原理は日本語の表現にあるという、掛け算は 足し算で定義され、割り算は 引き算で定義されるという。割り算を考えるのに 掛け算の考えは不要であるという。
実際、2 x3 は 2+2+2=6と繰り返して加法を用いて計算され、定義もできる。
割り算は、問題になっているので、少し詳しく触れよう。
声明は一般向きであるから、本質を分かり易く説明しよう。 そのため、ゼロ以上の数の世界で考え、まず、100/2を次のように考えよう:
100-2-2-2-,...,-2.
ここで、2 を何回引けるかと考え、いまは 50 回引いてゼロになるから分数は50であると考える。100を2つに分ければ50である。
次に 3/2 を考えよう。まず、
3 - 2 = 1
で、余り1である。そこで、余り1を10倍して、 同様に
10-2-2-2-2-2=0
であるから、10/2=5 となり
3/2 =1+0.5= 1.5
とする。3を2つに分ければ、1.5である。
これは筆算で割り算を行うことを 減法の繰り返しで考える方法を示している。a がゼロでなければ、分数b/aは 現代数学の定義と同じに定義される。
そこで、100/0 を上記の精神で考えてみよう。 まず、
100 - 0 = 100,
であるが、0を引いても 100は減少しないから、何も引いたことにはならず、引いた回数は、ゼロと解釈するのが自然ではないだろうか (ここはもちろん数学的に厳格に そう定義できる)。ゼロで割るとは、100を分けないこと、よって、分けられた数もない、ゼロであると考えられる。 この意味で、分数を定義すれば、分数の意味で、
100割るゼロはゼロ、すなわち、100/0=0である。(ここに、絶妙に面白い状況がある、0をどんどん引いても変わらないから、無限回引けると解釈すると、無限とも解釈でき、ゼロ除算は 0と無限の不思議な関係を長く尾を引いている。)
同様に0割る0は ゼロであること0/0=0が簡単に分かる。
上記が千年以上も掛かったゼロ除算の解明であり、 ニュートンやアインシュタインを悩ましてきたゼロ除算の簡単な解決であると 世の人は、受けいれられるであろうか?
いずれにしても、ゼロ除算z/0=0は 既に数学的に確定している と考えられる。そこで、結果の 世への影響 に関心が移っている。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. Vol.4 No.2 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
再生核研究所声明173(2014.8.6)
愛が無ければ観えない
2013.2.26.11:15:
愛が無ければ、見えない、 関心が無ければ、進まない、できると考えなかった。
何と 15年も前から、 考え、 3人の学位論文の素材になり、 2冊の著書でも扱い、 S先生やF先生も講究録で触れている。 それなのに馬鹿みたいなことに気付かなかった。
と述べている。要するにある結果に気づいたのであるが、先が有ると思わなかったので、関心をもって考えなかったので、長い間 基本的な結果に気づかず、通り過ぎていた、事を示している。
さらに、最近のゼロ除算100/0=0,0/0=0の結果の場合は 酷い歴史的な事件と言える。すなわち、ゼロ除算100/0=0は 割り算を掛け算の逆と考えると、不可能であることが証明されるので、不可能の烙印を押されていた。しかし、物理学などでは重要な問題が絡んでいるにも関わらず、何百年間も人は、新しい考え方に関心を抱かず、不明のままで年を重ねてきた。それが、偶然ちょっとしたきっかけで、解決をもたらした(再生核研究所声明171参照)。
興味、関心、愛が無ければ、何も気づかず、発見もせず、認知さえしないで、空しいものになる。
そもそも人間とは何者かと問えば、まずは、動物であるから、本能である、食、男女の愛、家庭、育児、そして 生活の基礎を作る仕事など、それらは、生きることの原理であるから、それらに関する関心は誰でもあると考えられる。生活や人生の骨格であり、それらの関心は基本的なもので、共通的、普遍的なものであると考えられる。既に、それらの件で、汲々として追われていて、他に多くの関心を擁ける余裕が持てない状況は、世に広く見られる。
しかしながら、もし、人間がそれらの原理的な関心だけに追われれば、人生において、何か もの足りないと思うだろう。上手く生きて退職して、上記の基本的な関心を、そう強く気に掛ける必要性から解放された人が、生きることで どのような関心を抱くは、極めて興味深い。スポーツを楽しむ、文化活動に励む、宗教に興味を深める、何かの研究に励む、ビジネスなどを始める、など、などである。 もし、ぼんやり暮らしていれば、人間の一生も、多くの動物の一生も 本質的にはそうは変わりないと ぼんやり抱くだろう。
特に知的な好奇心を失えば、本質的に人生は、殆ど食べること、生活するで 終わってしまうであろう。この好奇心こそ、人間の生命力であり、人間らしい生 と言えるだろう:
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている― 再生核研究所声明148.
そこで、そこまでは行かなくても、 人間が何に関心を抱くは 極めて興味深い、人間研究の課題である。実に多種多様であり、世間を見てもその多様性には驚かされる。その多様性こそ人間社会の豊かさの表れであると評価される。生まれながらの性格、能力、幼児時の育ち、教育など、どうして興味の対象、関心を抱く対象が決まるかは 今後の大きな課題である。 一般には、関心や愛情はどんどん深まって、成長、発展する性格があり、人生の晩年までには名人や、達人の域にまで成長する例は世に多い。 多くの数学者が、子供の頃将棋や碁で遊んでいたなどの話しを交わしたことが有るが、興味深い例である。一流のスポーツマン、イチロウ選手などいろいろな有名選手の生い立ちと名前が思い出される。
愛を抱く、興味を持つ、関心を持つは、人間らしい人間を育てる基本であるから、知識偏重、詰み込み教育ではなくて、 みずみずしい愛、意欲が湧く、情念が生命力とともに湧いてくるような 全人的な教育が大事ではないだろうか。
心身を大事にすることともに、真理、真智を愛する精神こそ、大事ではないだろうか。
何のために、何故か? ― 人間らしい、人生を送るためにである。
以 上
再生核研究所声明176(2014.8.9)
ゼロ除算について、数学教育の変更を提案する
実数の世界でも、複素数の世界でも ゼロで割ることは考えないのが 世界の常識である。しかしながら、ゼロで割れば、ゼロであるは もはや 数学的に確定している と言える:
特に声明154で、 まず結果は、分数を拡張して、自然に100割るゼロを考えると、何でもゼロで割れば、ゼロで、面白いのは、どの様に考えを一般化しても、それに限ると言うことが証明されたことである。導入、動機、一意性、すなわち、それ以外の考えが無いこと、それらが、高校レベルの数学で、簡単に証明されたと言う事実である。出版された論文は、高校生にも十分理解できる内容である。具体的な結果は、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである。 さらに、道脇裕氏は ゼロ除算が不可能であるとの世の誤解の原因が 除法が乗法の逆であるとの考えにあると考えられ、ゼロ除算は、除法の固有の意味からも自明であると述べられている(再生核研究所声明171)。詳しい経過などは 一連の声明を参照:
再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明171(2014.7.30)掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?
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1. Division by zero - Wikipedia, the free encyclopedia
en.wikipedia.org/wiki/Division_by_zero
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In mathematics, division by zero is division where the divisor (denominator) is zero. Such a division can be formally expressed as a/0 where a is the dividend ...
Indeterminate form - Riemann sphere - USS Yorktown (CG-48) - Zero divisor
(2014:7:30:5:45)
が、不適切なものが大部分で、世の教科書、学術書、研究著書など 広範な記述が 真実に反している と言える。
結論は簡明である。 分数の固有の意味でも、分数、割り算の自然な拡張でも、ゼロ除算はゼロであり、非常に一般的に考えてもゼロ除算は、ゼロに限ると言う結果が得られている。 そこで、次のような理由で、速やかに数学教育を変えるべきであると考える:
1. できない、考えない と いちいち説明している現状は、煩雑、不要に数学を歪めるものであり、真理に反する。数学が 実は美しく完璧にできている真実。
2. 結果は、ゼロで割ればゼロになると教える。(声明171に有るように、教え方は小学生にも十分わかるように簡単であるー 道脇方式、― 6歳の少女も、そう発想したという)。
3. しかし、ゼロ除算の計算は、ゼロが特別な数であるから、計算は普通のように行ってはいけないと、教えた段階で念を押しておく。― どのようなことを行なってはいけないかも、実は簡単である。
4. 特に、関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、と美しい図を書いて説明をしておけば、物理学など世界の理解に計り知れない効果が期待できる(再生核研究所声明166参照)。
世界史で、天動説が地動説に代わるとき、また、非ユークリッド幾何学を受け入れるとき、無用な混乱を起こした、苦い経験を活かしたい。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. Vol.4 No.2 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
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