2014年8月10日日曜日

“社会を変える”とは、誰かを否定することから始まる

“社会を変える”とは、誰かを否定することから始まる
2014/04/22 – 07:00
[カテゴリー]社会貢献
[タグ] CSRロック, CSRロックンロール, CSR否定, CSR批判, CSR攻撃性, CSR負の側面, ソーシャルアクション

CSRロック
社会を変えるとは、誰かを否定すること
今日は、社会貢献にもCSRにも言える、ソーシャル・アクションの攻撃的性質について。
「社会を変える」というのは、本質的に「攻撃を受ける」行為です。あなたが何かを変えようとすれば、必ず、誰かの攻撃を受けます。それは論理的な「批判」というレベルではなく、むしろ「攻撃」であることを強調しておきます。変えようとするものが本当に大きければ、殺害予告をされることもあるでしょう。街を歩いていて、いきなり殴られることもあるかもしれません。
社会問題を解決したいと願うあなたに伝えたいこと:あなたは「本当に救いたい人」から「攻撃」されることになるだろう
そもそも既得権益に反対するということが、社会を変えるということです。既存のやり方のままでは100%社会は変わりません。
ですので、イケダハヤトさんが言っていることは痛いほどにわかる。
僕もCSRという考え方をもっと多くの人に知って欲しいと、大手メディアで記事を書いてアクセスが爆発したらなら、賛否あるコメントが一気につきます。否定的な人も多いか。
例えば、「テレビ局のCSRはダメだ。理由はこう、事例としてこうだから。」と記事にすれば、「そうでない場合もある」という論点ずらし系から、「お前はどこの大学出身だ?」なんて僕自身の人格否定を始める人も。
本を書くと、“物事を批評する立場”から“物事を作り批判される立場”になると言われたことがあります。まさに、何かアクションを起こそうとすると、やらないほうがいい、ムダだとか言ってくる人ばかりです。
例えば、以下のような感じ。「インターネット上で「豆腐は白い」って書くと」っていうツイートです。
そういう人は一生何にもチャレンジしないで、無難な人生を過ごせばいいんです。それも一つの人生ですから。妬みはほどほどにって感じです。
“よかれと思って”が芽を潰す
「正義だけでは救えない?ただの社会貢献が社会問題を解決できないわけ」という記事でも書いたのですが、社会貢献という大義名分の元、正義を振りかざす人が世の中沢山いるのです。
「お前のため」とか「〇〇のため」とか、それはそれでいいのですが、誰かのためにとった行動が誰かの損失につながることも大いにあります。
国際協力の分野でよく聞く話で、スラムにあるゴミ山をボランティアが「よかれと思って」片付けてしまうと、ゴミを拾ってリサイクル業を営んでいる人たちの仕事を奪う結果となるそうです。善意で行ったはずの行動が、「雇用」という重要な生きる術を、略奪してしまう結果をもたらすのです。健常者が「よかれと思って」、「障害者」ではなく「障がい者」ということばを使うことについて、当の障害者のなかには「気持ちわるい配慮」として違和感を覚える人もいる、という話も聞いたことがあります。
沈黙は美徳ではない—沈黙という暴力
社会を変える。そう思い活動を始めることは大変素晴らしいことなのですが、人間、否定されていい気持ちはしません。
社会を変える、社会貢献をすることで、新しい敵を作ることは非常に面倒でもあることなのです。
例えば、NPO等に補助金を出していることをCSRとしている企業がいくつかあります。それはそれで素晴らしいことなのですが、場合によっては、NPOの首をしめることになるのです。
NPOの収益は大きく3つ。事業・助成金・寄付。事業と寄付は最低限自分たちでコントロールできるけど、助成金は出してくれる自治体や企業がいなくなったら終わりです。
組織として最も重要な収益を他人に任せるというわけです。この比率が高いNPOは基本存続できません。環境がかわり、企業や自治体が助成しなくなったら終わりです。
企業はNPOによかれと思って助成しているのでしょうが、場合によっては依存体質を強めて、財務健全化を阻む結果にもつながります。誰かのためにしていることが、結果、誰も幸せにならなかったなんてことも起こりうるのです。
ってか、社会貢献とかCSRの負の側面とか、否定的な側面と全然議論されないよね。どこかでされてるのかな?まぁ、いいけど。
他にも社会貢献領域で「イノベーション」という単語を見聞きします。その業界の成功企業からしたら、イノベーションのジレンマみたいに、相当厄介なものです。
既存のシステムを全部壊された日には目も当てられません。でも、それはイノベーションのインパクトですから。それを社会貢献・社会変革というのだから、ね。そりゃ反対・攻撃は思いっきりされるでしょう。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
これまた、完全に僕の考えなので、「いやいや、お前はそういうけどさ」みたいな人出てきます。
じゃあ、あなたが社会の注視されない側面を見つけて、世間に教えてあげれば?というと、「オレにはできない」、「あんただからできる」とか言ってきます。
人には文句を言う。でも自分は何もしない。じゃあ、僕は何をしたらあなたは納得するの?って堂々巡りに。
「“社会を変える”とは、誰かを否定することから始まる」。そんなタイトルの本記事でございますが、ここで結論。
CSRや社会貢献はロックなんですよ。ロックンロールなのです。ロックは元々、社会などに対しての憤りや不満から始まっています。保守層はロックなんて求めてませんから。
それでも、「俺の歌を聞けよ!」って最後まで歌っていたヤツがヒーローになれるってわけです。攻撃すれば、反撃される。まぁ、そんな感じです。
あなたの社会貢献、御社のCSRは、ロックしてますか?
photo image by PHOTOPIN
これは良い意見で、 実際は、社会は複雑ですね。 
ですから、視野の広さ、総合的な判断が必要です:
再生核研究所声明 72(2011/12/06) 
慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則
まず、 ルネ・デカルト - Wikipedia から慣性の法則を抜粋しよう:(デカルトは、物体の基本的な運動は、直線運動であること、動いている物体は、抵抗がない限り動き続けること(慣性の法則)、一定の運動量が宇宙全体で保存されること(運動量保存則)など、(神によって保持される)法則によって粒子の運動が確定されるとした。この考えは、精神に物体的な風や光を、宇宙に生命を見たルネサンス期の哲学者の感覚的・物活論的世界観とは全く違っており、力学的な法則の支配する客観的世界観を見出した点で重要である。)
いわゆる 慣性の法則 は、 ニュートンの運動法則 の第1法則(慣性の法則)で、外力が加わらなければ、質点はその運動(静止)状態を維持する。(力を加えられない質点は等速度運動(等速直線運動)を行う)。  要するに 動いているものは そのまま動き、止まっているものは そのまま止まっているという法則である。 
この法則は、 物理法則としてばかりではなく、 人生、社会の人世、精神、生命などの在りように普遍的に存在する いわば、連続性を表す 世の法則 ではないだろうか。 この観点からいくつかの考察を行い、世と上手く付き合っていく心得、人間の在り様としての心得について触れておきたい。
人は 人生とは何か、生命とは何か、生きる意味を 繰り返し問う。 この難しい問題を足もとから、現、在から考えてみよう。 今日あれば、 昼には昼食をとり、夕べには 夕食をとるは 相当に大事な 今日の要素である。 ― 実際、 夕食がとれないような状況が有れば、それは人生の意味などを超えて 全ての人間にとって重大であろう。 ― 仕事や予定が有れば、 何時ものようにやり、 少し上手く行けば、 それだけ充実感がするだろう。 在り様は もちろん、 個人にとって、人生そのものである。 人生とは それ以上のものではない。 今日の在り様は 多くは昨日から、 決まっていて大きな変化が有っても 既に準備されているものである。 今日あるから、 明日も 今日のように生活することになる。 このように 人生とは繰り返えされてきたものである。 子供のころの生活も同じように 少しずつ繰り返しながら、 変化してきて、 現在に至ったのである。 それは個人の人生ばかりではなく、 動物としても、生物としても 少しずつ慣性の法則に支配されているように 展開して来ているのである。 それらの背後には 大きな生命の営みが感じられるが その本質は 定かには分からない。 我々の自由意志は 本能原理の上に わずかに存在するが、大きな生命の営み、日常の連続性によって働いており、その大いなる流れの上にあることに想いを致せば、 大きな迷いや不安から、解放されるだろう。 その流れを観、感じ、捉えることが肝要である。 多くの人は両親や近い人の終末から、自分の終末を予感し、覚悟し、 子供たちの終末を予感するだろう。 永い間、代代繰り返えされてきたのだから、 私もそうなるだろうと悟るだろう。 およそ人生とは そのようなものである。 然り 大河の中の一滴のように である。 世の、始めも、終わりも、人生の始めも、終わりも、定かには分からない。 ただ大きな流れの上に生きているということである。 大きな変革も、ちょうど地震のように エネルギーが次第に高まり、 その流れの中で起きたものである。
日本社会をみても、大震災による原発事故、増大する膨大な債務、政権交代も同じように考えられる。40年以上も稼働して来たものが、稀有な天災で甚大な被害を受けた、しかしながら、今まで築いてきた膨大な設備を、それでは直ぐに廃止とは行かないのは 当然である(再生核研究所声明 67: 脱原発デモ ― 非現実的な貧しい二律背反の発想と飛躍した議論)。どうしようもない膨大な債務と財政難も同様である。大きな船の舵のように、急には財政改善とは行かない、改善は総合的な難問ではないだろうか。政権交代も、自民党の長期政権が疲弊、衰退し瓦解により、政権交代はしたものの、外交、軍事、財政、経済、何れも急には変えられないのは 道理であり、現実の日本の上に 政治を進めるためには、そんなに変えようがないという苦しみを 現政権にみることができる。それは大きな政治社会、大きな国の機構、現実を見れば 当然であり、菅氏が人間性の観点から批判されたのは 当然としても(再生核研究所声明 71:菅 暗黒政権 を総括する)、鳩山氏の過ちは小さく(再生核研究所声明 59: 鳩山政権の総括と反省)、野田首相はしっかり バランス良く賢明に政治を進めていると 高く評価されるべきである。 要するに、現実の日本が有る限り、 そう簡単には 変えられないというのは、 慣性の法則の重要な視点である。永い歴史が有って現在がある、 歴史の流れの上に、 明日からの未来を少しずつみつめて 着実に歩みたい。 歩んで来た過去をしっかりみれば、 明日の在るべきことは 相当に決まっているものである。 
それを歴史的必然とも表現できよう。 現在、未来は 過去の歴史から、慣性の法則で、押し出されていくものであり、 自由を行使する判断でさえ、過去の積み重ねられた知識、体験の学習の結果であり、 多くは慣性の法則で 動いていると言える。 我々が創造と呼んでいるものも
そうである。 積み重ねられたものから、生命作用として、噴き出ているのである。 それゆえに、歴史を真面目に捉え、飛躍が無いような、総合的な、大きな視点を持つように心がけたい。
もちろん、震災、財政危機、政権交代などの社会現象は 世界史で 繰り返し 繰り返し展開されてきたことである。
少子高齢化、教育の問題、産業構造と失業問題、環境問題など、何れも局所的対応、単細胞的思考では対応できず、各々の専門性を超えた 総合的、全体的な視点が大事である。 そのような視点を国民が全体的に持ち、 対応する力が無ければ 混乱と破局を早晩迎え、それも1時代の現象と評価されることになるだろう。 実際、我々は沢山の 世紀末的現象を 世界史の中に 見出すことができる。 世界は 大きな流れの中で、成るように成るものであると 半ば悟った様な心持ちは 視野を大きくさせ、賢明な有り様を選択させるだろう。
以 上


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