赤ちゃんにも善悪がわかる!? その答えは・・・
(CNN) 赤ちゃんの道徳観を研究している立場上、「人間は生まれながらに善人だったり悪人だったりするのか」と質問されることがある。私の答えは「イエス」だ。
たいていの大人は善悪の観念を持っている。サイコパスでもないかぎり、残虐な行為には恐怖を覚え、親切な行動を目のあたりにすると勇気づけられるものだ。窮地にある人に救いの手を差し伸べ、犯罪者に罰を与えたいと思うのは、ごく普遍的な道徳的衝動だ。
人間の脳には生まれつき道徳観念が組み込まれており、赤ちゃんや幼児でさえ、他人の行動の善悪を判断できる。そして、善行に報い、悪行を罰したいと自然に欲するものなのである。突飛な主張だと思われるかもしれないが、多くの研究室で立証されている。
米エール大学の私の研究室では、人形を使った道徳劇を赤ちゃん相手に見せ、その反応を観察した。他人が坂を上るのを手助けするような善人役の人形と、逆に坂から突き落とすような悪人役の人形とを対照させて上演。赤ちゃんの表情や行動を見て取ることで、どのような道徳判断を下しているのか分析した。http://www.cnn.co.jp/fringe/35045208.html?tag=cbox;fringe
結果として判明したのは、生後3カ月の赤ちゃんですら、善人役の人形を好むということだ。
もう少し年長の赤ちゃんや、よちよち歩きを始めた幼児になると、善人役に報酬を与え、悪人役には罰を与えるようになる。さらに、自分と同じ道徳観念を持った人形に愛着を示すこともわかった。つまり、善行に報いる正義の味方の人形の方が好かれるのである。
このように普遍的な道徳感覚が存在することが立証されたのは、良いニュースだ。
ただ、赤ちゃんの段階の脳というのは、自然淘汰(とうた)の産物であり、その先天的な道徳観には当然ながら限界がある。実際、数々の研究で判明しているように、赤ちゃんの道徳的判断というのは、最初、融通が利かない。世界を硬直的に「自分たち」と「彼ら」に二分してしまって、自分たちのグループにかたくなに肩入れするのである。
さらに、他者に対する親切心や共感となると、また別の話になってくる。
ただ、幸運なことに、私たちはこのような生物学的限界を乗り越えることができる。現代の人間であれば、平等や万人の自由といった抽象的な道徳概念を持っており、あえて敵を愛することもできる。http://www.cnn.co.jp/fringe/35045208-2.html
後天的に道徳思想に触れることによって、完璧とは言わないまでも、人は成長して善人に近づくことができる。実際、社会はこうした抽象的な道徳観念に基づいて形成されているのである。
最後に、私たちの研究の意義について述べよう。一つには、親の側で赤ちゃんや子どもに対する見方が変ってくるはずだ。生まれたばかりの赤ちゃんは道徳性のかけらもない、ちっちゃなサイコパスだと思われている節がある。ある種の赤ちゃんが遺伝的に救いようのない悪玉だと考える人もいる。
こうした冷笑的な見方は誤りだ。私たちは生まれながらにして道徳的なのであり、環境次第で、その先天的な道徳感覚が高まることも堕落することもありうる。
さらに、人間の先天的な道徳心理を理解することで、より良い社会の創造につながるだろう。優れた社会政策を立案するにあたっては、良きにつけ悪しきにつけ、人間の先天的な善悪の資質を知ることが欠かせない。これこそ「赤ちゃんの道徳学」が目指すところだ。
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本記事は、米エール大学のポール・ブルーム教授(心理学)によるものです。記事における意見や見解はすべてブルーム氏個人のものです。
これは面白い研究で、 希望を持たせる 事実ですね。
再生核研究所声明 76(2012/2/16) 教育における心得 ― 教育原理
人間の教育には微妙で複雑な要素がある。 その要点について触れ、教育の原理に思いを寄せたい。 また、学校教育や、家庭教育、人間の在りようの心得としたい。
教育とは要するに、 外なる刺激で、人間の成長、発展を促すことであるが、要点は外なる刺激が、個々の人間にどのように影響して、好ましい影響を与えるかである。
好ましい影響とはそもそも何であろうか。 簡単に考えれば、次が 基本ではないだろうか:
個人の才能を伸ばしたり、活かしたり、 究極には個人が幸せになること、
および
良き社会人になり、社会に貢献できるような人間に成長できるようにすること。
両者は矛盾するものではなく、表裏一体、車の両輪と言えるだろう。なぜならば、 人間は 社会の中の存在だからである。
まず、大いに注意したいのは、 人間が教育を受けて、大きく性格、人格、価値観、感性などなどが 強い影響を受ける事実である。これは教育を受けて を 環境によってと 広く言い換えられる。 特に幼児教育の影響は甚大であるとも言える。 あたかも人間が形成されていくように思える程である。 顕著な例が、言葉の学習である。 実際、普通の人間ならば、 幼児の時代に過ごした、どのような世界の言語も 自然に話せるようになるだろう。 これは事実驚異的なことと言える。 幼児教育が、どのような環境、教育でどのような影響を与えるかの研究は ほとんど未知の研究分野ではないだろうか。
いろいろな天才の出現; 音楽や芸術の才能、スポーツの才能の開花、数学の才能の開花、などなど広範に及ぶ、才能の開花と環境の影響である。 大きな未知の分野として、触れておきたい。
次に人格形成の時期における問題である。 人は好きなことをやりたくなり、感動する分野で,価値を見出すであろう。 ここが大問題である。どうして、そのような感性がどのような環境、教育で育つのであろうか。 好き嫌いなどの感性、感動する対象がどのようにして定まって来るのであろうか。 固有の人間の生命活動と、環境の極めて複雑な関係で発達するようにみえ、その過程は極めて漠然としているのが現状ではないだろうか。
あまりにも未知のことが広くて、深いので、そこで、基本として自由放任主義や自由を尊重した教育原理が考えられるのは、当然である。また、それは、自然に帰れとも表現されるだろう。
もちろん、これでは、 良き社会人としての人間の成長が望めず、また、社会、文化の継承の面からも基本的な問題が生じる、 そこで、基本的なカリキュラムを用意して、学校生活を 調えて、教育を組織的に行うことになる。
軍国主義的な教育、偏狭な愛国主義的な教育が、 また、宗教などが 全人格に甚大な影響を与えてきた事実を振り返るまでもなく、学校教育の影響も強く、他方、いろいろな個別的な、専門教育も、特殊教育も個人に甚大な影響を与えてきた多くの例を想起したい。
特に注目したいのは、初めて受けた教育の影響の大きさである。 若いときに受けた教育の影響が 後々まで影響を与えて、3つ子の魂百までもの諺は、教育の故か、人の性格は変わらない事実を 如実に示している。 3つ子の性格は もちろん大きく、環境と教育の影響を受けているのは当然である。 狼に育てられれば、狼のようになってしまう。 大学で、ある専門に惹かれると、終生その学問・研究に惹かれ、没頭して、そこに自分の世界を見出すのは 世に多い現象である。 後で、変更できないような甚大な影響を受けるので、何事初期教育は極めて大事な観点ではないだろうか。
この声明の意図は、教育の枠をはめすぎ、型にはめすぎると、変な人間ができる危険性が高いのではないかと 注意を喚起することである。
日本の大きな教育目標が 本来あるべき教育の理念からずれ、受験勉強やそのための学力を付ける いわゆる科目の勉強に重点が行き過ぎてはいないだろうか。 ひどい場合だと、ただ良い大学に入ることばかりが目的で、文科系を専攻したいのに、理工系,医学系が 評判が良いので 評判の良い方に入学したということは 世に多い現象である。 また、近年はいわゆる名門大学に入るために、 小さなころから 塾通いをしたり、入試を有利にするために、専門的な学校に入学して、特訓をしている場合が 世に多いのではないだろうか。
これらは、昔の軍国主義教育と同じように 何か変な教育で、おかしな人間を大量に育てているのではないかとの危惧の念を抱いている。また入試の共通テスト方式の悪い影響を危惧したり(再生核研究所声明 20:大学入試センター試験の見直しを提案する)、貧しい、競争をあおる風潮にも懸念を表明したり(再生核研究所声明4: 競争社会から個性を活かす社会に)、 天才教育などに対する配慮なども提案している(再生核研究所声明 60: 非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会)。
そのような面からも、日本の教育の在りようについては 初心に戻って考え直す必要が有るのではないか(再生核研究所声明 70 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず)
と、 再検討を広く訴えたい。
もちろん 教育の問題は、人間存在の意義 と同じく、永遠の問題であり、絶えず、各級で検討され続けて行かなければない。
以 上
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