2014年5月22日木曜日

再生核研究所声明158(2014.5.22)  生命と人生

再生核研究所声明158(2014.5.22)  生命と人生
(ちょっと喉が痛いような日、気分が優れず ぼんやりしたり、意欲や情念が湧かない日々が数日続き、 人生を否定的に観るような感情のときに、この声明の構想は湧いたものである)
異国で人々の生活を 離れた立場から、眺めていて、また、自分の人生を振り返ってみても、さらに、最も近い両親の人生を顧みても、人間も、人生も、 結局は 動物や植物の在りよう、生き方と殆ど変りないことを 実感してきた。
人生とは、始めも分らず、 終末の先も分らない。周りの環境と分けの分らない感情、情念で、 ふらふら生かされているようにみえる。 背後には 本能である生命の活動があることが実感できる。子供たちが訳の分からない遊びに 夢中になったり、騒いではしゃいでいるのは 多くの動物たちと同様に、生命の躍動と言える。また恋人たちの分らない交流と夢中な様は、本能原理が背後にあるとしても、生命の躍動を感じさせる。いろいろな夢が湧いたり、情念が湧くのも 生命の躍動に他ならない、芸術や、創造活動、政治活動すらそうである。原理は、生めよ、増えよ、栄えよ、世界を拡大せよ、といっているようである。それらは、生物繁茂の原理にほかならない。人生を否定的に感じるのは 意外に 体調の不調に由来して、健康状態や、生命力の躍動の落ちているような場合に 多い現象である。 子供たちが、訳もなく、 はしゃいでいる、学生たちがいろいろな活動にどんどん取り組んでいる様をみると、考える人間の 人間の存在、活動というよりは、生命活動の躍動のように見える。危険性に満ちた、 冬山登山を 苦労覚悟で、志すのは、新規な感動を求める、 人間の本質を表わしているとも言える。岩登りなども 若さの、生命力の象徴とも言える。
上記、声明の構想を感じさせたのは、どんどん生命力が 衰退していく、そのような状況における 人生における在りよう と 心得に対する 存念である。衰退していく人間の、人生における在りようは、どんどん生物や動物の在りように近づいて行くようにみえる。我々はよく、動物や生物から、その在り様を学べると感じる。そこで、自然と触れるようにするのは、そのような観点で よいのではないだろうか。― 背後には、自然に帰るという原理が有ると考えられる。晩年、無気力で、ただ惰性で生きているようにみえるのは、 世に多い。 しかしながら、それらは、自然な在りようであるとも考えられるので、諒として、大事な時期として、評価したい。それらは、より自然な在りようだからである。
若いころ いわば夢中で 生命力の躍動として求めてきた、 殆どの多くの価値が、実は、大した価値のあるものではなく、 社会の中で、生きて来る手段に過ぎなかったことを どんどん悟り、 実感することに成るだろう。大した理由もなく情念で活動させる力こそ、生命力ではないだろうか。
何が言いたいのか。要するに、 人間とは、 自分で思考して、生きている存在ではなく、基本は生命力が、 我々の情念を駆り立て、その生命力で生きている要素が強いと言うことである。人間が 動物や生物と本質的に変わりないと自覚することは、人生の基本を捉える意味で 重要なことではないだろうか。
考えや、創造性、情念、芸術性、それらが、コーヒーやお茶などの嗜好品で大きく左右される現実を重く見て、健康状態に配慮するのは、当然としても、教育でも知識偏重ではなく、全人的な要素、情操、心への配慮は 大事ではないだろうか。 薄っぺらな技術や知識の追究では、所詮先が、みえているといえる:
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―
真智への愛 は どうしたら、目覚めさせ、育てられるであろうか。
人生にかける虹、志などしっかり持てれば、上記ふらふらの人生にとって、幸いではないだろうか - 人生の意義は 感動することにある - 人生の基本定理。この世に生を享けたからには、神をも感動させるような、感動をしたいものである。
以 上

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