2014年5月27日火曜日

小沢一郎が語る日本の政治と外交

小沢一郎が語る日本の政治と外交
NET-IBでは、政治経済学者の植草一秀氏のブログ記事から一部を抜粋して紹介する。今回は、23日に開催されたシンポジウム『小沢一郎が語る これからの日本の政治と外交』の内容について紹介した、5月25日付の記事を紹介する。
5月23日(金)に開催された「小沢一郎議員を支援する会」主催シンポジウム『小沢一郎が語る これからの日本の政治と外交』は、会場を埋め尽くす市民が参加し、日本政治再生に向けて、歴史的な意義のある会合になった。開場までお運びいただいた皆様には、シンポジウム実施に参画させていただいた者の一人として、心から深く感謝の意を表したい。
シンポジウムでは生活の党代表の小沢一郎衆議院議員が1時間にわたって講演及び質疑応答に対応されて、会場を埋め尽くした聴衆をうならせた。
シンポジウム冒頭、「小沢一郎議員を支援する会」世話人代表の伊東章氏から、会のこれまでの活動経緯、本日のシンポジウムの意味、今後の活動方針などについて講話があった。そして、メイン講師である小沢氏の講演に先立って、元内閣総理大臣の鳩山友紀夫氏が激励挨拶をされ、万雷の拍手と歓声を浴びた。
私は両者の挨拶、講演ののちに、「安倍政権の経済政策を批判する」のテーマで30分の講演をさせていただいた。来賓として出席された、二見伸明氏、川内博史氏、鈴木邦男氏、山宏太郎辻恵氏、森裕子氏からもスピーチがあった。司会は小沢遼子氏が担当した。小沢氏と鳩山氏が登壇し、固い握手を交わした。歴史的に極めて意味の重いシンポジウムになったと言える。
シンポジウムの模様はUSTREAMでライブ中継され、合計視聴数は54,210に達している。極めて関心の高いイベントになったことがわかる。
登壇者のスピーチ内容をアーカイブ映像で視聴することができる。アーカイブ映像は3本に編集されており、以下の配分になっている。
1(37分10秒間)
 冒頭 二見伸明氏
 6分経過時点から 鳩山友紀夫氏激励挨拶
 26分55秒 鳩山氏と小沢氏握手
 28分24秒から 小沢一郎氏講演
2(27分44秒間)
 冒頭から 小沢一郎氏講演(続き)
 4分30秒から 質疑応答
3(76分45秒間)
 冒頭から30分45秒まで 植草一秀 講演「安倍政権の経済政策を批判する」
 30分45秒から 質疑応答
 41分50秒から 川内博史氏
 53分45秒から 鈴木邦男氏
 1時間経過後から 山崎行太郎氏
 1時間3分5秒から 辻恵氏
 1時間10分0秒から 森ゆう子氏
日本政治は2009年に光り輝く時を迎えたが、爾来、4年半の時間が経過して、大きく時計の針を巻き戻されてしまった。小沢一郎氏が提唱した「国民の生活が第一」の政治が破壊され、特定の既得権益が支配する政治に逆戻りした。この現状を、もう一度、変えることができるのかどうか。鳩山友紀夫元首相は、小沢一郎氏を軸に、日本政治をもう一度、国民のためのものにするために、協力を惜しまない意思を表明された。小沢一郎氏は、もう一度、政権交代を実現しなければならないこと、そして、それは次の総選挙でも十分に可能であるとの見解を示した。
二見伸明氏は現在の安倍政権を支える側に位置する公明党の支持母体である創価学会は、「平和と福祉」の路線を掲げており、集団的自衛権の問題等で、本来は、安倍連立政権から離脱するのが筋ではないかとの主張が示された。
辻恵氏からは、ファシズムに関して、極めて重要な指摘があった。その概要をいかに記す。
辻氏はファシズムはイタリアのファシスト党に由来すると考える。その特徴は、対外的な排外主義と、国内における議会制民主主義を無視した強権的な独裁にあるとする。第二次大戦前のドイツで、1932年、ナチス党は40%台の議席を占有した。しかし、過半数は確保していなかった。
このなかで、1,933年、国会炎上事件という謀略事件を引き起こし、共産党を活動停止に追い込む。そして、全権委任法という法律を制定するのではなく、国会で決議してナチスによる独裁体制が作られていった。問題は、社会民主党だけは反対したが、その他の中間勢力がこの決議に賛成して、ナチスの独裁体制が構築された点にある。
いまの日本では、共産党と社会民主党が埒外に外され、そのなかで、野党勢力の合従連衡が取り沙汰されている。1933年のドイツの状況と酷似している。
※続きは25日のメルマガ版「植草一秀の『知られざる真実』」第871号「ナチスによる独裁が成立した経緯に学ぶ」で。http://www.data-max.co.jp/2014/05/26/post_16457_uk_01.html

再生核研究所声明 70(2011/09/28) 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず
現代の世相を見ると、余りにも奇妙な現象が起きていて、まるで本末転倒、あべこべになっているのではないかと考えられることが多いので、それらの事象を考察して、初心を尊重して本来あるべき姿について反省を求めたい。しかしながら、時代の趨勢で、初心が本質的に変化を求められ、変遷の止む無きこともあるので、その辺の考察も行なって置きたい。
まずマスコミの現状を見てみたい。 マスコミの在るべき姿については 例えば新聞社においては、自ら天下にこうありたいと宣言している 新聞倫理綱領 を参照して頂きたい(添付資料1)。 現状は 如何でしょうか。鍵となる用語を抜粋したので、現状を考えて頂きたい:
あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される
新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によって
言論・表現の自由を守り抜くと同時に、自らを厳しく律し、品格を重んじ
正確と公正 新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である
報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない
あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない
他方、新聞は、自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する
人権の尊重 新聞は人間の尊厳に最高の敬意を払い、個人の名誉を重んじプライバシーに配慮する。
教育の在り様については、 教育の目標を教育基本法に定めている。 その最初の部分を添付資料に付けたが、あまりに素晴らしく、また、あまりにも現状がかけ離れていて、驚いてしまう。
教育の基本精神を忘れて、知識偏重、受験のための技術学習に陥ってはいないだろうか。そのような教育が 空虚な日本を作っている根本原因ではないだろうか (再生核研究所声明15: 空虚な日本の社会)。さらに、日本の公教育が 才能ある子供たちの才能を大抵、活かさず、逆に駄目にしている事実を憂慮している(再生核研究所声明9: 天才教育の必要性を訴える)。
添付資料3 日本国憲法第9条 については、第二次世界大戦における敗戦で、再び戦争を起こさないとの固い決意のもと、発足したものであるが、朝鮮動乱、東西冷戦下の厳しい国際環境の下、繰り返し、国の最高機関で問題を議論し、司法界の一連の判断を経ながら、今日に至ったものであるから、現状を諒として受け入れる必要がある。しかしながら、その理念については 絶えず、真摯な態度で臨むべきであると考える(再生核研究所声明6: 憲法問題に対する提案 参照)。
上記のように、世には、始めの目標や理念が段々ずれて、何時の間にか逆転している様なことは多い、普遍的な現象ではないだろうか。 研究なども始めの素朴な動機や目標からかけ離れて、研究課題の中の展開のみが目的になってしまい、孤立化して、末期的な現象に陥っている場合が多い。 評価なども 本来は成果や、業績を評価すべきことが、逆転して、見掛け上の評価を良く飾るために 意や努力を重ね、本来期待された業績の展開を阻害している状況さえ多い(再生核研究所声明15: 空虚な日本の社会)。世界の軍事情勢なども侵略や防衛など軍事よりも、政治力の影響やビジネスの要素が強く、戦よりも商、政の性格を強くしていると言えるだろう。 多くの宗教なども、本来の救い、道、に対して、儀式や教団の業の性格を強くしていると言える。 変遷はすべて それなりの理由と歴史が有るのだから、否定的に見るよりも、初期の理念、目標と変遷を吟味するのが良いのではないだろうか。 混乱が生じたら、それらの経過をはじめから検証するのは、数学では日常行っている基本的な態度である。
以 上

添付資料1:
新聞倫理綱領
2000(平成12)年6月21日制定
21世紀を迎え、日本新聞協会の加盟社はあらためて新聞の使命を認識し、豊かで平和な未来のために力を尽くすことを誓い、新しい倫理綱領を定める。
国民の「知る権利」は民主主義社会をささえる普遍の原理である。この権利は、言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される。新聞はそれにもっともふさわしい担い手であり続けたい。
おびただしい量の情報が飛びかう社会では、なにが真実か、どれを選ぶべきか、的確で迅速な判断が強く求められている。新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によってこうした要望にこたえ、公共的、文化的使命を果たすことである。
編集、制作、広告、販売などすべての新聞人は、その責務をまっとうするため、また読者との信頼関係をゆるぎないものにするため、言論・表現の自由を守り抜くと同時に、自らを厳しく律し、品格を重んじなければならない。
自由と責任 表現の自由は人間の基本的権利であり、新聞は報道・論評の完全な自由を有する。それだけに行使にあたっては重い責任を自覚し、公共の利益を害することのないよう、十分に配慮しなければならない。
正確と公正 新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである。
独立と寛容 新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない。他方、新聞は、自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する。
人権の尊重 新聞は人間の尊厳に最高の敬意を払い、個人の名誉を重んじプライバシーに配慮する。報道を誤ったときはすみやかに訂正し、正当な理由もなく相手の名誉を傷つけたと判断したときは、反論の機会を提供するなど、適切な措置を講じる。
品格と節度 公共的、文化的使命を果たすべき新聞は、いつでも、どこでも、だれもが、等しく読めるものでなければならない。記事、広告とも表現には品格を保つことが必要である。また、販売にあたっては節度と良識をもって人びとと接すべきである。

添付資料2:
教育基本法
(平成十八年十二月二十二日法律第百二十号)
教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)の全部を改正する。我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。ここに、我々は、日本国憲法 の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。
 前文
 第一章 教育の目的及び理念(第一条―第四条)
 第二章 教育の実施に関する基本(第五条―第十五条)
 第三章 教育行政(第十六条・第十七条)
 第四章 法令の制定(第十八条)
 附則
第一章 教育の目的及び理念
(教育の目的)
第一条  教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(教育の目標)
第二条  教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一  幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二  個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三  正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四  生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五  伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
(生涯学習の理念)
第三条  国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。

添付資料3:
日本国憲法第9条
1日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
以 上
ウイキペディアより:
マッチポンプとは、偽善的な自作自演の手法・行為を意味する和製外来語である。マッチ(match)は元は英語、ポンプ(pomp)は元はオランダ語である(英語ではpump)。
「マッチで自ら火事を起こして煽り、それを自らポンプで消す」などと喩えられるように、問題や騒動について、自身でわざわざ作り出しておきながら、あるいは自身の行為がその根源であるにもかかわらず、そ知らぬ顔で巧妙に立ち回り、その解決・収拾の立役者役も自ら担って賞賛や利益を得ようとする、その様な行為を指して用いられる表現である。
日本の国会会議録にマッチポンプを用いた発言が残っている。1961(昭和36)年4月11日の衆議院本会議において、松井誠衆議院議員は「銃砲刀剣類等所持取締法の一部を改正する法律案」への質問の中で以下のように発言している。
世に、いわゆるマッチ・ポンプ方式といわれるものがあります。右手のマッチで、公共料金を上げて、もって物価値上げに火をつけながら、左手のポンプでは、物価値上げを抑制するがごとき矛盾したゼスチュアを示すのをいうのでございましょう。
— 松井誠、「第38回国会 衆議院本会議 1961(昭和36)年4月11日」[1]
1966年、黒い霧事件第1弾の田中彰治代議士事件で初めて使われ、元々は金品を巻き上げるという意味で使われた。1974年刊の「現代流行語辞典[2]」では「デスク日記3[3]」1966年8月5日の項にマッチポンプの記述があると紹介している。
再生核研究所声明 23 (2009/04/02):
秘書の逮捕、起訴事件における検察庁の対応と公正の原則
先の参議院選挙の結果 与野党の歴史的な逆転が生じ、小沢氏を中心とする政権交代の機運が高まっていた折り、小沢氏の秘書の逮捕、起訴事件が起きた。この件について、素朴な疑念を感じざるを得ない。なぜこの段階における逮捕、起訴かの問題である。
 検察庁は 長い間の 多額の企業献金は無視できないと述べているが、これは、不正を黙認、認めてきたことを示しており、もしそうならば、そのようなことは 許されることと理解するのは、慣例、普通である。検察庁は法を守る立場であるから、長期や多額になる以前に 事情聴取などをして 注意を喚起すべきである。これでは わざわざ犯罪を犯すのを待っていて、逮捕を意図的にしていると考えるのは 当然である。
立法府の責任ある野党の党首が 法に反していないと判断されている事情は、法の解釈によって異なる点があることを示している。それでは、逮捕する以前に、多年にわたる以前に、事情聴取などして、法の精神や解釈をすり合わせ、違法な状態が拡大しないように配慮するのは 法の番人たる検察庁の義務であり、在りようであると考える。小沢氏側は お金をすべて公開していること、これは重要な点である。 これは少なくとも小沢氏側は 公明正大にお金を集めていることを天下に示している。 闇にお金が動いていたのとは 全然違う状態である。
われわれは より良い社会を作るには どのようにすれば良いかと考察して、次のように考えている: どうしたら美しい社会を築けるでしょうか。 一年半も前に纏めた次の手記はそれらのすべての解決の基礎になると思いますが、如何でしょうか。
平成12年9月21日早朝、公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました。
1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。
3) それはみんなに受け入れられるか。 
4) それは安定的に実現可能か。
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となれば、それは公正といえる。現在、社会の規範が混乱し、不透明になっているように思うが、公正の原則を確認して、行動していけば ―― これは容易なことではないが ―― 世の中ははるかに明るくなり、多くの混乱は少なくなると思いますが如何でしょうか。
また、こういうことを考える教育は、人間関係や社会生活の基本的な在り方を明らかにし、環境の保全などにも貢献すると思います。(再生核研究所声明1抜粋)
これは、社会の秩序をうまく保ち、美しい社会を築く原理として考えたものであるが、 今回の事件は、1)にも2) にも抵触すると考える。永年放置すれば、それは慣習、習慣として、許されるものと考えるのは当然である。そうでなければ、忠告や警告をして、法の精神を徹底させるのは 法の番人たる検察庁の義務である。いきなり逮捕では乱暴な処置と考える。このようなことでは 日本人はいつ突然逮捕されるか分らず、人々は安心して生活ができなくなってしまう。さらに、政権交代が話題となり、総選挙が間近に迫っている時の このような事件は 3)にも抵触すると考える。政権交代は 国家権力の移行であり、野党の党首の役割は 極めて大きな社会的な存在である。逮捕、起訴事件が最近、実際に示しているように、大きな影響を社会に与えるからである。このような事で、小沢氏が代表辞任となれば、結果的には 検察庁が直接政治を動かしたという重い事実が 歴史に残る事になる。逮捕、起訴の適否は やがて裁判によって決着が付けられるが、その時にはもはや結果によらずに、歴史は動いてしまうという 極めて重い責任を考えれば、 3)に著しく抵触すると考えざるを得ない。
国家権力が、軍事、検察、裁判、教育、官僚機構、経済界、マスコミなど広範に影響を及ぼすのは いわば普遍的(不変的)な事実(真実)である。従って、主権者たる国民は 国家権力がいろいろな悪い癒着構造を起こしていないか否かを絶えず検証し、警戒することは重要であり、マスコミなども民主主義が衆愚政治に陥らないように 国民とともに真剣に歩むことが期待される。ところが、マスコミなども、物事の本質と重要性を曖昧にして 軽薄な議論、論調、扱いが多いと言わざるを得ない。今回の事件は極めて重要な事件であり、日本国民は、日本国の民主主義が言論の自由を確かに保証し、法の番人で、公正と正義を実現させる国家の中枢である検察庁が 適切に機能しているか否かを、また、日本国民が真に国家の主権者であるか否かを厳しく、検証すべきである。 以上


再生核研究所声明30(2010/01/18): 検察庁の暴走と民主主義の危機―広い視点
参議院選挙と衆議院の総選挙を経て、民主党党首鳩山氏と小沢氏の連携によって 日本国において初めて本格的な政権交代が実現したと言える。 再生核研究所は 日本国の民主主義が進化し、発展したものであると高く評価してきた。 なぜならば 政権交代によって、政界は浄化され、政治は活性化すると考えているからです。 よって、総選挙で 直接国民が実現させた現政権を 軽々しく考えるべきではない。
ところで、日本国の首相、与党の幹事長の職務が 如何に重いものであるかをまず確認したいと考えます。
外国軍が侵略してくれば、非常事態を宣言し、戒厳令を敷いて、憲法さえ越えた権力で政策を進めざるを得ません。その時の要が、首相と与党幹事長ではないでしょうか。 その時、誰もが疑いもなく、正当なる権力の基礎として、先の衆議院総選挙の結果を重く受け止めることになると考えます。 巨大地震や国家破産などが起きれば 同じような状況を迎えるのではないでしょうか。
現実の日本国は 如何でしょうか。37兆円の歳入で、92兆円を超える予算を、過去の膨大な借金の上に考えられている状況であり、日本国は 危機的な状況であるとは言えないでしょうか。外交も普天間基地問題に絡む、日米外交問題、経済再建や日航の再建問題と多くの難しい問題を抱え、それらのいずれもが強力な政治指導がなければ 日本国は苦しい状況に追い込まれることにはならないでしょうか。
ところが、新政権が予想以上の順調なスタートを切ったものと希望を抱いていた折り、再び、小沢氏の政治資金問題が浮上し、小沢氏に近い衆議院議員の逮捕までに発展し、再び小沢氏の辞任を求める風潮が高まってきている。小沢氏は疑いもなく新政権の要の人物です。
そこで、衆議院議員の逮捕と辞任を求める風潮について考察したい。
われわれは より良い社会を作るには どのようにすれば良いかと考察して、次のように考えている: 
どうしたら美しい社会を築けるでしょうか。 一年半も前に纏めた次の手記はそれらのすべての解決の基礎になると思いますが、如何でしょうか。
平成12年9月21日早朝、公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました。
1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。
3) それはみんなに受け入れられるか。 
4) それは安定的に実現可能か。
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となれば、それは公正といえる。
(再生核研究所声明1抜粋)
 
これは、社会の秩序をうまく保ち、美しい社会を築く原理として考えたものである。
まず、法の番人であり、国の正義を実現させる国家の中枢である検察庁が 法に従って、一切の疑惑について解明し、法秩序を保とうするのは当然であり、基本的な任務であるとすることには 何ら依存のないところである。
しかしながら、今回の事件は 大きな社会的な存在である 政治家の犯罪に関わる問題であることに 通常の犯罪とは異なる視点が出てくると考える。たとえば、検察庁の考えるような全ての犯罪を犯していたとしても、それでもなお、政治家の立場を弁護する余地があると考える。 政治社会は大きな世界であり、検察庁が数十億円ものお金を不法に動かしたからと言えば、政治家は、それよりはるかに大きなお金を動かし、政策によって、国家に大きく貢献していると言えよう。政治家の視点からすれば どうして、そのような はした金で騒いでいるのかということにはならないでしょうか。しかも、それらは国を良くするための政治活動に使っていて、私利私欲で使ってはいないということにはならないでしょうか。集めたお金も 多くの場合、解釈によって合法、違法になるような場合が大部分ではないでしょうか。 多くの国民の支持を取り付け、法律を作る専門家が、批判にさらされるような隙を作るはずがないからである。 他方、国家予算の配分や外交、軍事、国権の統一などは そのようなお金には代えられない 計り知れない社会の重要事項ではないでしょうか。 それゆえに政治家の身分は 厚く保証されなければならないと考える。いやしくも多数の国民から直接選ばれた政治家に対して、逮捕などの乱暴な行為は 軽々しくとるべきではなく、礼節に基づいて自制した行為がとられるべきであり、そのような乱暴な行為は 選出した多くの国民を侮辱しているとも言える。また、政治家の身分が 厚く保証されなければ、政治家が 国や世界の重要なことを検討する余裕を失なうことにはならないでしょうか。
さらに、法治国家である日本においては、最終裁判の結果が出るまでは、無罪とみなされるはずではないでしょうか。 逮捕や捜索で、政治家が責任を 事実上とらされるとなれば、検察庁が直接政治を動かしたという民主主義の危機を迎えることにはならないでしょうか。 軍や検察庁の暴走こそ、何時でも民主主義の危機を招くのではないでしょうか。マスコミのみなさん 絶えず、それらの暴走の危険性を警戒されているでしょうか。 民主主義は何時でも衆愚政治に陥り易く、絶えず努力し、衆愚政治に陥らないようにするのは マスコミの大きな役割ではないでしょうか。
このようなことで、小沢氏が辞任となれば、結果的には 検察庁が直接政治を大きく動かしたという重い事実が 歴史に残る事になる。逮捕、起訴の適否は やがて裁判によって決着が付けられるが、その時にはもはや結果によらずに、歴史は動いてしまうという 極めて重い責任を考えれば、今回の状況は 公正の原則4項に 著しく抵触すると考えざるを得ない。
検察庁が正義を求め、真相を究めたい、明らかにしたいという思いは良く理解できる。しかし、これは各々の専門家が、自分の専門の中で、主張し、独善的になり、総合的な視点と全体的な状況判断ができず、結果として、おかしくなる状況を招いているのと似ているのではないかと考える。各省庁が自分の省庁のことしか考えられず、国家の全体の状況が見えないのと同じような状況であると考えられる。それゆえに 広い視点を有する政治家の役割は 現在極めて、重要である。
マスコミのみなさん、政治家のみなさん、国家の大事な問題を避けて、卑小な問題で騒ぎすぎてはいないでしょうか。 多くの日本の子供たちは異様な報道を どのように理解しているでしょうか。 外から見ると、総選挙によって民主的に実現した新政権を 何とかして壊そうとしていると 映らないでしょうか。 法の執行、裁判などは もっと慎ましく、検察庁と裁判所に任せ、国論としては もっと重要な課題を展開すべきではないでしょうか。 政治家を落とそうとするような論調は、結局は自分の国をおかしくすることに ならないでしょうか。 日本国は大丈夫でしょうか。与野党、国、地方などと言っていられるような状況でしょうか。 日本国は団結して、日本国の再生のために真剣に努力すべき時ではないでしょうか。今日本国においては、賢明なる安定政権が必要ではないでしょうか。
国民の皆様、私たちが直接選んだ政治家を大事にして、また私たちが直接民主的に樹立した新政権の下で、日本国再生を図ろうではありませんか。
新政権には 直接国民から支持されて実現した政権であるとの大義の基に、国民の期待に添うべく より良き政治を強力に進めて頂きたい と期待する。
以 上
(附記)
3.30 美しい国、日本(2008/2/11):
今日は、建国記念日です。日本には、世界に誇るべき美しい文化と人類を導く良い考え方があると思います。多額の借金と少子化及び教育の荒廃によって、このままいくと日本国は、衰退の道を辿る事にならないでしょうか。 何とか、日本国の再生を期したいと思います。 もちろん、日本国の神話は大事にすべきではないでしょうか。
美しい国、日本
日本は美しい島国です。
豊かな水で多くの川が流れています。
日本には山が多く、山々は緑に覆われ、また雪に覆われたりしています。
日本の空と海は美しく、多くの詩と夢を育んできました。
日本は大きなひとつの家族のようで、みんな一緒に助け合ってきました。
言葉がなくてもお互いに理解でき、細長い国のため、四季とともに多様性にとんでいます。
日本には天皇陛下がおられて、家々の氏神様の頂点におります。 
天皇陛下のおられる皇居は 日本の美しいものの、心の源になっています。
ですから先の大戦では 天皇のお言葉一つで 完全なる終戦を迎えることができたのです。
京都は千年をこえる日本の都でしたので、日本人の故郷です。
多くの人は京都を訪れて、故郷に帰ったような不思議な郷愁を感じるのです。
伊勢は古代からより古い日本人の故郷です。ですから日本の首相は新年にまず伊勢神宮を参拝するのです。
日本の文化には 自然とともにある繊細さがあります。俳句や和歌を多くの人々が愛でて、人に優しく気遣いができるのです。遠くのインドのお釈迦様の教えや中国の孔子様の教えが、美しい風土からうまれた神道と共に溶け込んでいるのです。
これが世界に唯一つしかない 美しい日本国です。
検察庁の方は 上杉謙信の 様な方が、適任では?

再生核研究所声明 31 (2010/02/08): 法の精神と - 罪と罰
近年、政治家が政治資金問題などで、政治家としての責任が問われたり、芸能人の不祥事件で才能を有する芸能人が芸能界から追われたりする事件が起きている。また才能ある力士が同じような状況で、引退を余儀なくされている。そこで、疑問が生じて来たので 法律と法律に反した場合の処罰について考察したい。ここで法とは、法律とは、法治国家において定められた法律を意味し、罪とはそれらに反した場合を言い、罰とはそれらに対する裁判結果ならびにそれらに由来し、意図的に与えられた一切の不利益と定めよう。
そもそも法とは 社会生活を営むために社会の秩序を保ち、また社会生活を円滑に進めるために、国の代表者が立法府において定めたものであり、これは国の約束事であるから、第1義的に尊重し、遵法に心がけるのは 当然である。しかしながら、立法の背後には より良き社会を営むために という前提があることを まず、きちんと抑える必要がある。これは法が、生きた社会から遊離した理論的な世界ではないことを意味する。立法府の作る法が基本法 憲法に反していたり、また現実離れしているとか、場合によっては遵法が不可能の場合すら現に起こり得るのである。そこで、再生核研究所では公正の原則を掲げて、法の不備を次のようにして補完すべきであるとしている:
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか
3) それはみんなに受け入れられるか 
4) それは安定的に実現可能か
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる(声明1抜粋)。
実際、検察庁も裁判所も上記のような精神で法を運用していると考える。
しかしながら、罪と罰に対して、同一の罪は同一の罰に値するとは考えず、法の定める基準を尊重しながら、社会の利益の観点から判断して罰を考えるべきであると提案したい。そもそも、罰とは遵法させるための、社会秩序を維持するための便法であり、復讐としての罰は 否定はできないが、本質的には空しいものであると考える。法によって処罰され、また社会的な制裁によっていろいろな活動ができなくなってしまって、それによって生じる社会の不利益が大きい場合、そのような罰は適切であると言えるであろうか。法律関係者やマスコミ関係者は、罰を与え報道を行うときに、社会の全体的な利益の観点から慎重な対応をとるべきであると考える。具体例をいくつか挙げたい。まず、政治家の場合であるが、政治資金問題で 与党幹事長の責任問題が議論されているが、与党幹事長の日本国における役割の大きさと社会的な存在の大きさから、軽々しく罰を与えるべきではないと主張してきた(声明30)。国の中枢の人物の身分が厚く保証されなければ、国の秩序は維持できず、国家の運営は危ういと言わざるを得ない。才能ある芸能人を罰して、芸能界から消してしまうのは日本国として大きな損失にならないでしょうか。研究者が過ちを犯して、研究者としての人生に止めをさせば、長年の研究生活で得た貴重な経験が活かせず、大きな損失に繋がらないでしょうか。罰については、法の定める基準を尊重しながら、社会全体の利益から判断すべきである というのが 声明31の趣旨です。
みなさん、法のための法、無駄な罰、人を傷つける、罰、報道、いろいろ形式的な処分で、社会の大きな損失につながるような いわゆる罰について注意していこうではありませんか。才能や能力を社会のために活かして行こうではありませんか。ここにAがいて、罪を犯した。Aの人権を尊重しながら、社会全体の利益を考えて、罰を考えていこうではありませんか。Bが重罪を犯し、これからも重罪を重ねる可能性が強い。しかしながら、Bはある特殊な才能を有している。24時間の補助員を付けて、Bの才能を社会に活かそうではありませんか。もしBに それに見合うだけの社会的な価値を生む能力があるのならば。横綱の引退を招いたのは、日本の文化に問題があると考える。国会議員や、与党幹事長の辞任を求める風潮も同様である。両者に共通して言えることは、問題の本質を議論しないで、大きな役割と存在から見れば些細なことを 大げさに騒ぎ立て、報道して世論を惑わしているマスコミに大きな責任があると考える。
以上
再生核研究所声明81(2012.3.14)最高裁判所裁判官全員の罷免を提案する
国民の判断、審査は、単純明快な形をとる必要がある。 是か非、○か×の形をとるのが良い。 美しい日本国で 在ってはならない、裁判と検察の在りように対する疑念は、日本の司法界全体に対する不信として、処断し、司法界に活を入れる必要があると考える。これは長期政権の衰退、癒着構造と同じく、綱紀の緩みどころか、本末転倒、正義と法を守るべき司法界が、逆に社会正義を破り、法の精神を逆用しているのではないか との不信感さえ公然と出ている。 それにも関わらず、責任者の存在すら見えない暗黒の状況を作っている。 法と正義が信じられる国とは、 美しい国造りの根幹であり、これから、日本国の財政、経済の厳しさを克服し、原発事故と放射能対策に全力をかけなければならない折り、国家のタガを引き締めて行く必要があると考える。 そこで、
日本国憲法第79条第2項及び第3項と最高裁判所裁判官国民審査法に基づいて 最高裁判所 裁判官全員の 罷免を 提案する。
この行動を通して、司法界を牽制し、司法界の自覚を促し、司法界の再生を図る第1歩としたい。 国民がなかなか関われない司法界に、国民の固有の権利を名実的なものとして、実践、行使し、世界を震撼させたい。すなわち、日本国民は健在であり、法と社会正義を尊重、愛し、日本国においては 法と正義がしっかりしている国であると 世界に証拠をもって示したい。
また、法務大臣は その職責を全うすべく、自らの責任範囲を吟味し、職責に怠慢が無いか、しっかりと対応して頂きたい。 特に指揮権の発動などによって、国会議員の身分の保証などについては 積極的な取り組みを期待したい。 検事は 誰に直接責任を負っているのかと問いたい。 検事を監督する者は 誰かと問いたい。
さらに、直接国民から 選出された国会議員は 国民から負託された自らの役割の重要性と 国の最高機関の構成員 であることを自覚されて、司法界の在りようについても、絶えず牽制し、 弾劾裁判所などを積極に活用すべく 努力して頂きたいと要請する。3権分立とは 馴れ合いでも 住み分けでもあってはならない。 逆に緊張関係でなければならないと考える。
裁判官や検事は、聖職であり、法と正義をもって 国の基礎をなす者 ではないのか。
最後に 関係声明を挙げて置く:
再生核研究所声明16: 裁判員制度の修正を求める
再生核研究所声明 23: 秘書の逮捕、起訴事件における検察庁の対応と公正の原則
再生核研究所声明 30: 検察庁の暴走と民主主義の危機 - 広い視点
再生核研究所声明 31: 法の精神と - 罪と罰
再生核研究所声明 41: 世界史、大義、評価、神、最後の審判
                                    以 上
添付:
最高裁判所裁判官国民審は、日本における最高裁判所裁判官を罷免するかどうかを国民が審査する制度である。日本国憲法第79条第2項及び第3項と最高裁判所裁判官国民審査法に基づいている制度である。最高裁の裁判官は、任命後初の衆議院議員総選挙の投票日に国民審査を受け、その後は審査から10年を経過した後に行われる衆議院総選挙時に再審査を受け、その後も同様とすると定められている(ウィキペディア)。
裁判官弾劾裁判所: 日本国憲法において裁判官の独立を保障する観点からその身分は手厚く保障されており、罷免される場合は以下の3点に限定されている。
1. 心身の故障のために職務を行うことができないと決定されたとき(裁判官分限裁判)
2. 公の弾劾によるとき (64条)
3. 国民審査において、投票者の多数が罷免を可とするとき(最高裁判所裁判官のみ)
上記のうち「公の弾劾」を行う機関として国会に設置されているものが、裁判官弾劾裁判所である。制度趣旨は、公正な判断を確保するために司法裁判所による同輩裁判を避ける必要があること、国民による公務員の選定罷免権を保障するためにその代表である国会議員に任せるべきこと等があるとされている。
弾劾裁判に関する詳細な事項は、国会法125条から129条までと、裁判官弾劾法が規定する。
裁判官弾劾裁判所による裁判官の罷免事由は下記の2つに限定される。
1. 職務上の義務に著しく違反し、または、職務を甚だしく怠ったとき
2. 裁判官としての威信を著しく失うべき非行があったとき
なお、罷免事由に至らない非行は、懲戒処分の対象となり得る。懲戒処分は、裁判官分限法に基づき、最高裁判所の大法廷又は高等裁判所において裁判により行われる(ウィキペディア)。

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