2014年5月25日日曜日

産まれたくて産まれたくてわけじゃない。 生きたくて生きてきたわけじゃない。 それなのに死にたい人が死んではダメなのはなぜですか。

産まれたくて産まれたくてわけじゃない。
生きたくて生きてきたわけじゃない。
それなのに死にたい人が死んではダメなのはなぜですか。
本当ですね。 
しかし、どうせ天国に行ける世界、慌てないで、楽しんでいった方が良いのでは。 旅行のようなものですね。
再生核研究所声明155(2014.4.25) 生きる意味は 文学者にも分からない??
(仏教に学ぶ - 生きる意味 中村僚様が 最近広範に文献を紹介され、 問題を提起されているので、この問題に関心を抱いてきた者として、総合的に触れたい気持ちが湧いた。)
生きる意味とは何か? 思えば 永い考察の後に、50歳で、人生の意義は 感動することにある (人生の基本定理) と、朝の目覚めと共に直観、閃き、相当に興奮して、その心境を友人たちに語り、それは 最近の100/0,0/0=0の新しい意味の発見のようであった。関連文書も沢山書いてきたが、それらの中で、孔子や藤村操をも導けたのではないかと言及している(再生核研究所声明12: 人生、世界の存在していることの意味について; 再生核研究所声明57: 人生とは何か、人生如何に生きるべきか; 再生核研究所声明145: 生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察; 再生核研究所声明149: 生きること、生命の本質、活動して止まないもの)。
考えている人間とは そもそも何か? 大事なことは 誰も好き好んで生まれ、 存在しているのではないという、まぎれもない事実である。 これは何を意味するであろうか? これは 数学のように公理系や、原理が与えられ、我々は、つくられた存在で、我々の在るべき姿は、基本的には定められているということを意味しないであろうか。 誰しも食の本能を満たしたいと思うだろう。 そうでなければ、我々は生物として存在できず、生きる意味など考える余裕さえないだろう。 人間は人間いぜんに、生物であり、動物であるから、それらの有している本能原理を満たし、尊重するは 人生を考える第1歩であると 基礎を確認する のが大事ではないだろうか。
最近の厳しい社会状況をみると、それらの基礎である、職を得、家庭を持ち、育児で、既に精一杯で、いわば高尚な 生きる意味など考察している余裕さえない現状が広くみられる。それどころか、生活もままならないのに、他国を挑発、軍備増強、危機を煽ったりしている 愚かで 野蛮な人々が多数を占めている現状さえ 広範にみられる世相である。
生物的な本能が満たされ、生活に余裕ができれば、好きなように、喜びが、感動が 湧くように 楽しく生きれば 良いのではないだろうか。しかしながら、生活に余裕ができても、楽しく生きることが 結構難しいが、これは要するに 環境の中で、 自己の心、自分に合った様に生きるのだから、 これは多くは、個人の問題に帰することに成るだろう。 政治も 宗教も 知識も 環境も、この個人の心の問題には 深くは入れないだろう。好みは 人それぞれで違うからである。 その違いが大事で、多様な大きな世界を作る原理に成っていることが分るだろう。人間には飽きるという素晴らしい、本能、原理が有るからである。どのような幸せ感さえ やがて飽きるだろう。
そこで、人間の理想的な境地を次のように触れておきたい:
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。 愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。― 再生核研究所声明148.
しかしながら、人生とは、全て上手く、いっても それが どのような意味が有るのか、と問うことができる。 結局人生とはどのような意味が有るのだろうかを、死の問題に絡ませて、触れれば、 問題はさらに深く、個人の心の問題に発展するが、 それらは、また生命の本質に関わる。 要点の多くは 再生核研究所声明の中で、 深く触れている。 理解には 個人の心の問題、 状況に深く関係するので、簡単ではない。もちろん、多くの人が、死からの解放を望んでいることを 深く受け止めている。
以 上
謝辞: 中村僚様には かつての自分を想わせるような 人生に対する真摯な姿勢を拝見し、共感、共鳴していますが、努力と優秀性を感じています。 広い貴重な情報には感謝したい。

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