キリスト教の「汝の敵を愛せよ」の教えの意味がわかりません。
なぜ、敵を愛さないといけないんですか?http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q113241381
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、ゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が 原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。
経過などは 次を参照:
再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係を捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、正と負、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
[PDF]
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances inLinear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAM
以 上
第四章イエスの悟り
人よ、汝の罪ゆるされたり ルカ5-20
イエスの言葉の美しさは生命のほの暗い深淵に響きわたる。夢の中の美しさ、甘味さと同様の響きである。遠い記憶の中にふくらむ緩やかな陽射しがイエスの言葉を包んでいる。それらの言葉のもつ繊細な者にのみ許された幸福感に解説や質問をするのは愚かであるかもしれない。論理の正確さや経験の確実さから生れ、評される言葉ではなく、美くしさ故にかぐわしい言葉だからである。
イエスは直感の人である。その直感は論理を通過せずにイエスの脳裏に神的直観として現れたのであろうことが思われる。その言葉の美しさにイエス自身不可解なるものを感じたであろう。こうした言葉との出会いはどんな詩人でも経験するだろう。どこからともなく現れた言葉はそれが自己の投影であるとは思いついた人自身はじめは信じられなかったに違いない。すべては憶測だが、イエスにとってそうした言葉はそれまでの自己の経験と、どの様なる論理的必然によっても結び合せられなかったであろうからである。イエスはその言葉の源泉が神であることを疑わなかった。
詩的言語の発生の真相はきっとこうだったのだろう。・・・言葉において繊細な者には、言葉は常に観念を宿し、観念は常に言葉によって現れるのを疑ええない。イエスは自分の言葉の美しさを観察し、そこから、いくつかの教説を思いついたのだろうと思われる。
・ ・・悔い改む一人の罪人のためには、悔い改の必要なき九十九人の正しき者にまさりて、天に歓喜あるべし。 ルカ15-7
・ ・・人の中にて尊ばるる者、神のまえに憎くまるる者なり。ルカ16-5
反語、もしくは逆説は初めは思いつきだけの美しさだった。しかし、その美しさを経験してしまうと、経験論的言葉や世間的道徳の観念はどうも濁って汚く感じられる。イエスは子供の様に反話を作って、キラキラとした美しさに見入っていた。
「目には目を」からは「右のほほをうたば左のほほもうたせよ」。それはなんと言う冗談であろう。この愚かなほどに無抵抗を勧める言葉は聞いた者を戸惑わせる。この言葉の背後にある二ユアンスに気付くにはイエス独特の繊細さが必要である。意味は一見ナンセンスなのである、しかし、この言葉を発する者の幸福感は他のあらゆる勝利に勝ると感じられる。それは一つの恍惚である。この言葉の二ユアンスによって彼は全世界を抱擁した。
イエスの教説は愛の教えだと言われるが、愛とは何であったかを理解する者は多くないようである。「汝の敵を愛せよ」とイエスは言った。「汝の敵を友とせよ」とは決して言わない。敵が敵であることには変りがない。その敵を愛せと言うのである。
イエスが愛で意味したことは赦し(ゆるし)である。「汝の敵を愛せ」とは「汝の敵を赦せ」である。赦して、友になれというのでもない。「右の頬をうたば左をも向けよ」である。依然として敵が敵であることに変りはない。すなわち、「敵なる彼等が存在することを否定することはできないとの認識をもちなさい」との意味なのである。
こうした存在の苦しみゆえに希望の美しさはいやまさり、自分は超越者へ近づきえると感じたことであろう。イエスを十字架につけた世の裁きに対して、「父よ、彼等をおゆるしください」と言ったとルカ伝はつたえている。自らが赦されるのをのぞむごとく、人をも赦しなさい。自らが赦しによる救済を求めるごとく、人に赦しによる救済を与えなさい,と。
・ ・・もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい.そして、悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。もしあなたに対して、一日に七度罪を犯し、そして七度「侮い改めます」と言ってあなたのところへ帰ってくればゆるしてやるがよい。ルカ16-4
それがイエスの愛の意味である。罪の意識に縛られて理念から遠ざかろうとする自らの不幸を除き、自らの理念によって生きるという幸福の権利を赦しによって与えること。
そして、その愛は自分へ向けての愛でもある。他者と共に自分自身をも愛することができなかったという自分自身の罪への赦しでもある。しかし、それは人々を妥協的和解に導くものではない。見せかけの平和をイエスは否定する。イエスはイエスの名によって人々に真剣に生きる勇気を与えようとする。
・ ・・わたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。 マタイ10-22
・ ・・わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく、そうでばない、むしろ分裂である。 ルカ 12-50
イエスの愛は深刻である。イエスは妥協をことごとく否定するからである。しかし、赦しを肯定する。自己に宿る神的理念を一部たりとも否定することはできない。できないが故に神的なのだからである。その神的理念を抱えた者にとって、他者世界は抜けぬトゲの如く、また荊の冠のごとくに悩まし苦しめつづける。イエスは赦しによって他者世界を超越し、抱擁したのである。
・ ・・いと高き者は、恩を知らぬ者にも、悪人にも、なさけ深い。・ ・・あなたがたも慈悲深い者となれ。 ルカ 6-35
イエスは自分の教説の中でしぱしば「人の子」という尊称を用いている。「人の子」には「人間」の意味と「救世主」としての意味の二様があったと言語学者はいう。そして、伝統的キリスト教徒はそれをイエスのことであり、救世主たるイエスだけであるとしている。
誤りであるとわたしは思う。イエスも人の子ではあったが、イエスだけが人の子であったのではない。イエスは「人の子」に人間との意味を与えている。その人間とは「理想的人間」のことである。古代インドでいわれた阿羅漢や仏陀と同じ「悟った人」の意味で用いたのである。
なぜ神ではなくて人間なのであるか。それは、神とは具体的限定的存在ではなく、人間がいかに神を宿しても、すなわち、神を知り神において生きることはできても、神が人間と同一視されてはならないからである。
人間はどれ程に神的であっても、具体的存在として限定的である。すなわち、具体的に存在するためには様々に他者を利用し、存在を確保し、生きてゆかなければならない。
しかし、人間はこの世界において単なる存在ではない。人間には人間としての権威と尊厳がある。一人間も、その尊厳によって、世界をゆるすことができるとイエスは悟ったのである。近世人であるパスカルも人間について類似した意識を語っている。
・ ・・人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。これをおしつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。一つの蒸気、一つの水滴も、これを殺すのに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶすとしても、そのとき人間は、人間を殺すこのものよりも崇高であろう。なぜなら人間は、自分の死ぬことを、それから宇宙の自分よりずっとたちまさっていることを知っているからである。宇宙は何もしらない。だから、我々のあらゆる尊厳は考えるということにある。
パスカルのこの言葉の発想はイエスの意識に近い。しかし、イエスはイエスより1600年後の実証的な時代に生きたパスカルをはるかに超えている。人間は考えるだけではない、世界を、宇宙をゆるすことすらできるとイエスは考える。何故ならば、神のうちに生きる者は神が遍在することを信じるからである。
・ ・・人の子の地にて罪をゆるす権威あることを、汝らに知らせん ルカ 5-24
・ ・・人を赦せ、然らば汝らも赦されん ルカ 6-37
・ ・・もし、汝等おのおの心より兄弟を赦さずば、わが天の父も亦なんじらにかくの ごとく為し給うべし マタィ 18-35
ここから有名なイエスの教説が生れてくる。
・ ・・「日には目を、歯には歯を」と云へることあるを汝ら聞けり。されど我は汝らに告ぐ、人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。なんじを訟えて下衣を取らんとする者には、上衣をも取らせよ。人もし汝に一里ゆくことを強いなば、共に二里ゆけ。なんじに請ふ者にあたヘ、借らんとする者を拒むな。「汝の隣りを愛し、汝の仇を僧むべし」と云へることあるを汝等きけり。されど、我は汝らに告ぐ、汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。 マタィ 5-38~44
イエスはこの愛、もしくは、この赦しの意識を持つよう勧めることが救済への道であると確信していた。神から遠くへ来てしまったようなこの世界、この歪んだ社会、私をも含むこの世界を赦す勇気。
・ ・・すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい.あなたがたを休ませよう,わたしは柔和で心のへりくだった者だから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。 マタイ 11-28
イエスは人々に救いを語り、同時に自己にも語っていたのであろう。イエスはそれらの瞬間、瞬間に自己が実現されてゆくのを感じ、神と一体化してゆく恍惚を感じたに違いない。自己の存在と神の力をみつめながら、自分が現に在る如くに、神もしくば偶然、もしくは必然という絶対的存在とゆるやかにおだやかに抱きあう魂の陶酔を知っていた。
絶対的存在は我に存在を与えたのであり、我は我なる存在である。イエスは自己の必然的なるを、また神的秩序に基くを信じながら、神に与えられたる自己の実現に向けてしぶとく生きた。我は我なる者として必然的なのであるから、宿命のままに、最善をつくすべき者として定められたままに生きる。そして、我に対する世界の抵抗も、我にとって必然であり、我の実現を可能ならしめる神の業に違いない。神を知り、我を知る窮極の人間としてイエスは生き通し、永遠のひろがりへと泳ぎゆくのである。
・ ・・イエス大声に呼はりて言いたまう
『父よ、わが霊を御手にゆだぬ』
かく言いて息絶えたまう ルカ 23-46
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