2014年10月29日水曜日

光の中の闇・闇の中の光

光の中の闇・闇の中の光

光(ひかり)とは、基本的には、人間の目を刺激して明るさを感じさせるもの[1]である。
現代の自然科学の分野では、光を「可視光線」と、異なった名称で呼ぶことも行われている。つまり「光」は電磁波の一種と位置付けつつ説明されており、同分野では「光」という言葉で赤外線・紫外線まで含めて指していることも多い。
光は宗教や、哲学、自然科学、物理などの考察の対象とされている。
目次 [非表示]
1 宗教や哲学での説明
2 自然科学の説明
2.1 粒子説と波動説
2.2 光の粒子性
2.3 光の波動性
2.4 光の諸性質
2.5 光の種類
2.6 光の理論のタイム・テーブル
3 他
4 出典、注
5 関連項目
6 外部リンク
宗教や哲学での説明[編集]
光は様々な思想や宗教において、超越的存在者の属性を示すものとされた。
古くから宗教に光は登場しており、より具体的には太陽と結びつけられることも多かった。古代エジプトの神、アメン・ラーなどはその一例である(太陽神も参照可)。
プラトンの有名な「洞窟の比喩」では、光の源である太陽と最高原理「善のイデア」とを結びつけている。
新プラトン主義では、光に強弱や濃淡があることから、世界の多様性を説明しようとしており、哲学と神秘主義が融合している。例えばプロティノスは「一者」「叡智(ヌース)」「魂」の3原理から世界を説明し、「一者」は、それ自体把握され得ないものであり光そのもの、「叡智(ヌース)」は「一者」を映し出しているものであり太陽であり、「魂」は「叡智」を受けて輝くもので月や星であるとし、光の比喩で世界の説明を論理化した。この新プラトン主義は魔術、ヘルメス主義、グノーシス主義にまで影響を及ぼした、とも言われている。
『新約聖書』ではイエスにより「私は、世にいる間、世の光である」(ヨハネ福音書 9:5)と語られる。またイエスは弟子と群集に対して「あなたたちは世の光である」(地の塩、世の光)と語る。ディオニュシオス・アレオパギテースにおいては、父なる神が光源であり、光がイエスであり、イエスは天上界のイデアを明かし、人々の魂を照らすのであり、光による照明が人に認識を与えるのだとされた。この思想はキリスト教世界の思想に様々な形で影響を与えた。
グノーシス主義では光と闇の二元的対立によって世界を説明した。
仏教では、光は、仏や菩薩などの智慧や慈悲を象徴するものとされる。
自然科学の説明[編集]
光は波(波動)としての性質と、粒子としての性質を同時に併せ持っている。(後述)
また光は光源や観測者の速度にかかわらず「相対速度が変化しない」という特徴を持つ。光の速度を光速と言う。
粒子説と波動説[編集]
「光は粒子なのか?それとも波なのか? 」 この問題は20世紀前半まで、大きな問題として科学者たちを大いに悩ませた。なぜなら、光が波であるとしなければ説明できない現象(たとえば光の干渉、分光など)と、光が粒子であるとしなければ説明できない現象(たとえば光電効果など)が存在していたからである。(詳細は後述)
この問題は、20世紀に「量子力学」という分野が確立していく中でようやく解決することになった。不確定性原理によって生じた問題を説明するために1927年にニールス・ボーアが相補性という概念を提唱したことで解決した。一方を確定すると他方が不確定になるような2つの量というのは、互いに補い合いあうことにより対象の完全な記述が得られる、とする考え方である。
「光は粒子でもあり波でもある。粒子と波の両方の性質を併せ持つ、量子というものである」とされるようになり、「光は〈粒子性〉と〈波動性〉を併せ持つ」とも表現されるようになった。
「量子」も参照
近年では、光の粒子性に重点を置く場合は「光子」、波動性に重点を置く場合には「光波」、光が粒子と波の二面性を持った量子である、という点に重点をおく場合は「光量子」と呼ぶ。
光の粒子性[編集]
ニュートンによって、光は粒子だとする説が唱えられた(粒子説)。アインシュタインは光子の概念を提唱し、これは現在まで用いられている。
粒子(量子)としての光を光子(光量子)という。光子は電磁場の量子化によって現れる量子の1つで、電磁相互作用を媒介する。
E = h \nu - 光のエネルギーは振動数 \nu に比例する
p = \frac{h}{\lambda} - 光の運動量は波長 \lambda に反比例する
このため波長の短いX線などにおいて、光の粒子性は特に顕著となる。
詳細は「光電効果」および「コンプトン効果」を参照
光の波動性[編集]
光は波動として振る舞い反射・屈折・回折などの現象を起こす。
ヤングの実験(1805年)により光の波動説として証明され、その後マクスウェルらにより光波は電磁波であることが示された。厳密にはマクスウェルの方程式で記述されるベクトル波であり偏光を持つが、波動光学では簡略化のためにスカラー波として扱うことが多い。
波動としての光を光波と呼ぶ。
光のエネルギーは電場の振幅の2乗に比例する
運動量はポインティング・ベクトルに比例する
光の諸性質[編集]
光には粒子性と波動性があり、屈折・(全)反射・干渉(ホログラフィ)・回折・偏光 (LPL・CPL) などの性質を示す。他にも次のような性質がある。
光は通常、直進する(エウクレイデスの「光の直進の法則」)。厳密には、重力場では光の経路も彎曲する[2]。
凸凹の無い平面鏡に当たった光は、鏡に当たったときと同じ角度で反射する。 (エウクレイデスの「光の反射の法則」)
屈折率の異なる物質の境界面で光の速度が変化する。その結果、境界面への入射角が直角でない場合には、光の進路が変化する。(屈折)
光の屈折の際は、スネルの法則が成立する。
強さは光源からの距離の2乗に反比例する。(ケプラーの光の逆2乗の法則)
光速は、光源の運動状態にかかわらず、不変である。 (光速度不変の原理)
光は質量がゼロである。従って物質ではない。
光は物質のない真空中の空間を伝播することができる。
主な物質との関係ではフォトニクスと呼ばれ大別してPhoto(光化学、光物理などの分子場理論)とOpto(光学などの放射場理論)と呼び方が異なる。
光物理機能としては
励起エネルギー移動
化学発光
電界発光 (EL)
光化学機能としては
フォトレジスト
光触媒
光エネルギー変換
光波機能に関わるものとしては
光ファイバー
近接場光学
コヒーレント分光
などがある。
光の種類[編集]
太陽光
レーザー光
放射光(電磁波)
赤外線・可視光線・紫外線・X線(軟~硬)などが得られる。
光の理論のタイム・テーブル[編集]
紀元前4世紀 エウクレイデス(ユークリッド)、光の直進の法則、光の反射の法則を発見。
1611年 ヨハネス・ケプラー、光の逆2乗の法則を発見。
1621年 スネルが光の屈折の法則(スネルの法則)を発見。
1637年 デカルトが『屈折光学』で光の屈折反射を論じる。
17世紀[いつ?] ニュートンによる光の分散の実験
17世紀[いつ?] レーマーによる光速度の測定
1690年 ホイヘンス『光についての論考』 - ホイヘンスの原理
1704年 ニュートン『光学』
1800年頃、ヤングの実験
1847年 マイケル・ファラデーによる偏光の実験
1850年頃、レオン・フーコーやアルマン・フィゾーの光速度の測定
ウェーバによる電磁波の速度の測定
19世紀 マクスウェルの方程式
1881年 マイケルソン・モーリーの実験
1905年 アインシュタインの光量子仮説
1958年 チャールズ・タウンズによるレーザーの発明
他[編集]
なお、光が、人間の目に入る直線経路は複数とりうることを2穴のピンホールを用いた実験によってシャイネルが確認した(シャイネル試験)[3]。
出典、注[編集]
^ 出典 - 広辞苑
^ アルバート・アインシュタイン; 金子務訳 『わが相対性理論』 白揚社、1981年、147頁。
^ 小川鼎三 他4名編集『医学大辞典』 南山堂、1975年、657頁より。出典の表現を若干変更している。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89

闇(やみ)とは、光の無い状態のこと[1][2]。暗闇(くらやみ)とも、暗黒とも。
概説 [編集]
思慮分別が無いこと[2]、道徳的でない考え方や行いもこの語で指す。「心の闇」などという。違法な市は「闇市」、違法貸金業者は「闇金融」などと呼ぶ。
知識のなさ[2]を喩えるのにも用いられ、予測不可能な状態[2]を喩える場合にも使われる語彙である。後者は「一寸先は闇」のように用いる。
多くの文化・神話・宗教において、闇と光の対照は、自然的な対照を超え、時間の再生、死と再生の象徴と深い関係があり、重要なテーマを提起している[3]。
神話・宗教[編集]
神話や宗教の多くで、闇と光を、死と生、悪と善の対立と見なす[3]。
闇と光の対照は、自然的な対照を超え、時間の再生、死と再生の象徴と深い関係があり、重要なテーマを提起している[3]。
光と闇の世界[編集]
光と闇が世界の重要な区分と関係づけられる文化・宗教もある。
東北アジアのコリャク族、ヤクート族などは、光の天界、人界、闇の冥界の3界、上・中・下の世界に分けて理解している[3]。日本でも、高天原、葦原中つ国、黄泉の国と三つに区分している[3]。ギリシャでは、天人界、海洋、下界と分ける[3]。
ただし、全ての文化で死者の国が闇と結びつけられているかというとそういうわけでもなく、ポリネシアのソサイェティ島では、死者の国は太陽と結びつけられている。
神話[編集]
世界の諸民族のほとんどの神話が光と闇の起源を扱っている[3]。
たとえばポリネシアの諸神話には、ポー(=暗闇)とコレ(=虚無)からテ・アオ(=光)が生じたとするもの[3]、至高神イオが「暗黒よ、光によって満たされよ」と命じたとするものなどがある[3]。
ゾロアスター教[編集]
ゾロアスター教において、善悪の神々の戦いでは、善霊の助けが現れるまでは全てが闇の中にあると描かれている(ヤスナ 46:4)[3]。光と闇は自然的な何かを意味しているのではなく、善と悪とに結び付けられている[3]。闇と結びつけられている破壊霊はアングラ・マイニュイと呼ばれた[3]。ただし、光も闇も主によって創造されたとされる(ヤスナ 44:5)[3]。ここから「主は悪も創造したのか?」という問題が浮上し、諸派の見解や解釈が分かれることになっており、一神教か二元論か、という神学上の問題にもつながる[3]。
旧約聖書[編集]
『創世記』には以下のように記されている。
はじめに神は天と地を創造された。地は混沌としており、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをうごいていた。神は言われた。「光あれ」。かくして光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。
— 『創世記』第1章 1-5
ユダヤ教[編集]
ユダヤ人の正月儀礼は、暗黒の力ラハブに対する、光の主であるヤハウェの勝利を記念したものである[3]。
新約聖書[編集]
『ヨハネの黙示録』では、闇も夜も神の救済が届かない悪の支配領域とされている[4]。
キリスト教の文化においては、闇は悪魔やサタンと強く結び付けられている。その対となる光の場合は、天使やミカエルと強く結び付けられている。
芸術[編集]
キアロスクーロは闇を用いた表現の代表例である
視覚芸術[編集]
絵画など視覚芸術(美術)の分野では、闇は表現に用いられている。
絵具などで暗闇を作り出す場合、それぞれの色が特定の光を吸収するように様々な色を混ぜ合わせて作成する[要出典]。理論上、3つの原色または3つの二次色(原色を組み合わせて作られた色)を混ぜることで、可視光をよく吸収する黒を作ることが可能である。このとき混合によって成立した色の透明性が高いと、「黒い」と言うよりも「暗い」色ができる。ただし、一般に、混合によって成立した黒は、単独の黒色色素よって成立した色、つまり、墨(炭素)などの色より黒色度が低い。
誤解のないように付記すると、芸術において、「闇=黒色」、「光=白色」という図式が、単純な仕方で成立することは稀である[要出典]。
舞台芸術[編集]
演劇・ダンスなど空間を用いる表現分野では、闇は演出・構成に用いられている。
舞台照明のほとんどを消灯すること、その状態を「暗転(あんてん)」と言い、物体や人物の移動を観客の目から隠しつつ行える環境として使用される。ただし、長時間の闇は観客へストレスを与えること、防犯上の懸念が高まることから、その使用はおのずと自制される。また一般に、暗転中も誘導灯など場における最低限の明かりは残される。
そのほか闇は、それまでの流れを断ち切る効果により、時間・空間の飛躍を表す演出にも使われる。ゆるやかに闇へ移行する演出は「フェードアウト」と呼ばれ、場面が過ぎ去るさまを表す視覚効果としてよく用いられる。
ファンタジー・SF[編集]
ファンタジーやSFなどの創作物においても、闇は魔女や悪魔、吸血鬼等、悪役と結び付けられることが多い。特に子供が見る特撮戦隊物のストーリーにおいては、「正義である光が悪である闇を成敗する」という構図が一般的である。
しかしながら、その固定観念を打ち破り闇の力を使って悪人達と戦う正義のヒーロー(ダークヒーローとも呼ばれる)も出現している。国内では「黄金バット」(1930年)や「ゲゲゲの鬼太郎」(1968年)、海外では「バットマン」(1939年、アメリカ)や「スポーン」(1992年、アメリカ)など、世代や国内外を問わず数々の闇のヒーローが誕生している。近年ではこれらのヒーローの存在と同時に、聖なる光の力を悪事に使う悪役も増えてきている。
自然科学[編集]
生物学[編集]
洞穴生物
暗黒バエ
脚注[編集]
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^ 『大辞林』 三省堂。
^ a b c d “国語・類語・英和・和英・百科事典・用語集の無料検索サービス - Yahoo!辞書”. 2011年11月27日閲覧。
^ a b c d e f g h i j k l m n o 「光と闇」『宗教学辞典』 東京大学出版会、1973年。
^ 『ヨハネの黙示録』 小河陽訳、岩波書店、1996年、136頁。ISBN 4-00-002387-X。
参考文献[編集]
「光と闇」『宗教学辞典』 小口偉一・堀一郎監修、東京大学出版会、1973年。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%97%87


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ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、ゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が 原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。
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F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係を捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、正と負、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
[PDF]
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAM
以 上

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