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森山たつを / もりぞお2014年10月18日 15:00「為末努力論が炎上」に思う 「21世紀の日本」に合った努力と才能の組みあわせ方
元陸上選手、為末大さんが、「努力すれば成功する、は間違っている」という発言をして、話題になっています。賛成の声がある一方、反発する人も多いようで、J-CASTニュース記事(2013年10月28日配信)でも「炎上」などと取り挙げていました。
私は、この発言はアスリートの世界では当たり前だし、一般的な市民にとってもある程度当てはまるものだと考えています。そして、21世紀の日本では、このような事に直面する人が増えてきています。では、それ以前の日本では、そして東南アジアではどうかということを考えてみましょう。
21世紀になって出てきた、ふたつの大きな問題
金メダルを取るのはなかなか大変です。(北京 オリンピック公園のゆるキャラ)
金メダルを取るのはなかなか大変です。(北京 オリンピック公園のゆるキャラ)
私は、才能と努力は足し算だと思っています。人には元々(大小様々な)才能があります。そして、その才能は努力で伸ばすことができます。つまり、「その人の力=才能+努力」なわけです。才能で劣っていても、努力を積み重ねることで逆転することもできますが、才能の差が圧倒的な場合、それは不可能です。
オリンピック金メダルを目指すアスリートの世界では「才能>努力」 というのは、だれが考えても分かることです。特に陸上競技ではなおさらです。短距離走で努力で縮められる記録は、極端な例は別にすれば、0.1秒単位であり、練習しなくても100mを10秒台で走れるような選手が努力してたどり着くのが金メダル。一生懸命努力した結果が12秒という人はどうあがいても勝てません。100満点中、才能で90点以上ある人たちが、努力に努力を重ねて99.9点を目指す世界だからです。
では、一般的な仕事の場合はどうでしょう?当たり前ですが、オリンピックほど競争が激しいわけではありません。仕事にもよりますが、オリンピック金メダルと比べたら、求められる得点は60点くらいがいいところでしょう。元々58点くらいの才能がある人は少しの努力で越えられるし、最初から 70点くらいの才能があれば、努力はほとんど要らないかもしれません。50点くらいの才能のひとも、努力すればなんとか越えられる。それくらいの目標が設定されている仕事が多かったのです。
また、才能に恵まれなかった人にも、30点とか40点をクリアすればいいような仕事もたくさんありました。
しかし、21世紀になってふたつの大きな問題が出てきました。
ひとつは、同じ仕事でも目標点数が上がり続けていること。もう一つが、低い点数でもいい仕事が減少していることです。
東南アジアに目を移してみると…
ひとつめですが、日本のサラリーマンの給料が20年近く概ね減少傾向であることからも分かるとおり、同じ点数を取っていたら給料は下がっているという現状があります。下がっている理由はたくさんありますが、20年前の人と同じ才能を持った人が同じだけ努力しても、得られる果実は少ないという可能性が高いです。
ふたつめに関しては、グローバリゼーションと機械化によって、簡単な仕事は給料の高い日本人がやる必要がなくなっているというのがあります。例えば経理処理に関して、数値の計算は昔は正確に仕事をこなすことの才能があってソロバンに関する努力をした人がやっていたのですが、今はコンピューターが全てやってくれます。また、伝票を記帳するような仕事はスキャナでスキャンしたデータをベトナム人やカンボジア人が文字おこしをしてくれるので、日本人が出る幕がありません。
こうやって、「努力したけれども、先人と同じような果実を得られない」という人や、「自分の才能+努力の結果では就ける仕事がない」という人が増えているのが、この「努力すれば成功する、は間違っている」という発言が話題になる理由だと思うのです。
東南アジアに目を移してみるとどうでしょう?
インドネシアでは今年(2013年)も毎年恒例の賃上げデモが行われています。今年は賃金を50%上げろといっているそうです(結局11%との発表がありましたが、労組側は大反発中です)。去年、一昨年は40%ずつ上がりました。インドネシアで職に就いている人は、クビにならない程度に働いていれば賃金は年々上がっていっています。
我々からしてみると、「ただ高度成長のインドネシアで働いているだけで」と思ってしまいますが、本人たちはそんなことは考えないでしょう。毎日渋滞の中、会社に行って、9時から5時まで働かされて、頑張って努力しているから俺の給料は去年の1.5倍になった!努力、最高!って思っている人が多いんじゃないでしょうか?
今、働き盛りのインドネシア人の多くは、自分の親を始めとする前の世代よりも明らかにいい暮らしができていますし、これから努力すればもっといい暮らしができると信じているでしょう。
実は、努力も報われるっていうのは、こういう外部環境によるところも大きいのかもしれません。
大切なのは、探す、知る、あがくこと
では、日本に生まれた我々は不幸なのでしょうか?私は、必ずしもそうとは思いません。
インドネシアのジャカルタに生まれて、大学を出ることができた様な人たちはこの好景気を満喫していますが、ジャカルタからちょっと離れたところにある地方の街などに行けば、最終学歴小学校卒などという人たちがたくさんいます。この人たちは、工場の工員として働くのも難しく、村で農業をするといった選択肢しかなく、その仕事は努力しても収入はさほど増えず、しかし、周りの物価は上がっていきます。
それと比べると、大半の日本人には多くの選択肢があります。日本国内はいろいろ難しいかもしれませんが、国内で好況の東南アジアの人たちからお金をもらうような仕事に就くこともできますし、自ら東南アジアに行って仕事を見つけることも可能です。
なにもしないでいると、段々沈んでいく下りエスカレーターですが、そのエスカレーターを乗り換える自由はあるのです。
私は、「努力をすれば何でもできる」という考えも、「才能がなければ努力しても無駄だからふてくされて何もしない」という考え方も好きではありません。せっかく多くの選択肢がある国に生まれたのですから、自分の才能と努力を組み合わせて、手の届く範囲でいろんな事をしてみて、自分なりの幸せを掴むことを目指すべきだと思います。大切なのは、探す、知る、あがくこと。
本コラムや著書で、海外就職を含む様々な働き方という選択肢を提示しているもそういう理由です。http://blogos.com/article/96749/
才能はいろいろ、個性もいろいろ、そこで、環境の中で、自分を上手く活かすが大事では?
自分に合ったようにですね。
再生核研究所声明 4 (2007/03/17):競争社会から個性を活かせる社会に:
現在、日本を覆っている不安な状況を打破し、明るい未来を切り拓く第1歩として、憲法第25条の精神を高揚させ 最低生活の保障による連帯を確認する事の必要性を訴えている(声明3)。いじめ、犯罪、モラルの低下、そして全国に広がる財政赤字など、それらの大きな原因として、経済環境の厳しさとともに、貧しい競争意識と受験勉強に代表される貧しい戦後の教育内容にあると考えます。考え方を変えるのは簡単ではありませんが 精神、考え方を競争社会から個性を活かせる社会に変えていく必要性があるのではないでしょうか。
その理由は:
1)まず競争とは、1つの価値、ある判断の下での順位になり、その点では個性や、特殊性を排除した価値観の画一化に繋がる危険性を有している。例えば現在の受験制度では多くの場合に受験科目の得点で順位が定められ、概ねそれによって合格、不合格が定まり、その流れで入学の大学が定まり、そして同様に大学の伝統的な序列で一定の評価が定まっていく流れになっていると考えられる。もちろん伝統的に行われてきた体制はそれなりの理由があり尊重されなければならないと考えますが、評価をこれらで1元的に考えることには大きな問題があると思います。例えばそのような流れ以外の道を選んだ人たちの立場です。 スポーツ選手や、芸術家、芸能関係者、技術者、職人、棋士、実業家などなどです。
2)スポーツなどの世界では競争はかなり明確に理解でき、競争の世界として、もちろん結構だと思います。例えばお相撲さんは優勝を目指して努力されているわけです。しかし歌い手さんたちは それぞれの個性と持ち味を活かしていろいろな人が活躍されていますが、それとて、いろいろな評価が下されますが、その時の競争とは考えられてもお互いに芸を高めていくような いわば精進の競争であり大いに勧められるべき競争と言えます。
3)これに対して貧しい競争とは、相手との比較ばかりに気を取られ、自分を見失った競争であり、自分の個性を活かせないところで、相手より優位に立とうする競争の事です。自分のむかないところで、無理して競争に駆り立てられている状況はないでしょうか。
4)日本の教育の重点が いわゆる学力中心で、知識中心になっていないでしょうか。そして、いわゆる頭のよい人、学力のある人がすべてのような1元的な価値判断が余りにも強すぎはしないでしょうか。 勉強の嫌いな子や勉強のできない子、いわゆる優秀でない人と言われている人が それゆえに低く見られてはいないでしょうか。勉強ができず、学力がなくても、いわゆる優秀でなくてもいろいろな長所があって、よい個性を持っているのにそれらが評価されず、また無視されるようにはなっていないでしょうか。これでは、勉強のできない子は学校が嫌いになり、やがて社会から疎外されるようになってしまわないでしょうか。絵が得意で感銘させる人や、工作がうまく名人的と思われる人の才能を引き出せない社会は社会の大きな損失にはならないでしょうか。運動会などやキャンプ生活などで多くの体験授業などがあれば いろいろな才能が発揮され、学力以外のいろいろな個性や、才能を発見できる機会が出て来るのではないでしょうか。もちろん実社会は大きな世界です。
5)学力中心による教育では、生徒の個性を活かせず、1元的な価値判断で多くの個性と才能をうずもらせてしまうだけではなく、才能を活かせない生徒は社会から疎外され、不満が増大する事になり、社会は不安定になると思います。
6)個性を活かせる社会とは 社会にはいろいろな人が必要であり、それぞれ自分の得意な分野や好きな分野で、個性が活かせるようなところで社会に参加して、助け合っていくような社会のことです。強い人も弱い人も、考える事が得意な人も苦手な人もそれぞれ長所もあり短所もありそれぞれが補完し、助け合っていく社会です。このような社会では、苛めも、犯罪も生じる土壌がないのではないでしょうか。
7)財政赤字について触れましたが、無いお金を使うという事自体が無責任の結果ではないでしょうか。短期的に赤字という事は仕方がないことですが、赤字を増大させていくというのは余りにも無責任と言われても仕方がないのではないでしょうか。これらの背後には学力を付けることばかりに走り、責任感の無い自己中心的な教育が生み出した日本人全体の精神的な土壌から起きているという根強い原因があるのではないでしょうか。
8)何かというと経済効果や活力のある社会という観点が問題になりますが、少数の自爆テロを起す人を抱える社会はどれほど、経済的にマイナスを生むことでしょうか。そのよう状況では例えば新幹線を守るにはどれほどの経費がかかることになるでしょうか。あらゆる所で、厳重な警備を必要とする社会になってしまいます。それに対して 社会に強い不満を持つ人を生み出さない社会とは何と素晴らしい社会でしょうか。この観点からも憲法第25条の精神を思い出すことは大変いい状況を生むのではないでしょうか。
国が衰退したら、勝ち組も負け組みも、公務員も、もちろん、検察庁も、マスコミ関係者も みんな困るのでは? 1代自分だけうまく行っても、2代、3代 お孫さんたちは?日本人には、必ず愛国心が湧いて来ると信じています。
欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。
高学歴エリートが沢山いるのになんで財政難なんだよ?
(;_; )( ;_;) シクシク・(-。-;)・(◎_◎)・(^_-)db(-_^) 指切りげんまん
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