2014年10月25日土曜日

クラシコでメッシが挑む“偉業”。リーガ史上最多、252点まであと2点。

クラシコでメッシが挑む“偉業”。リーガ史上最多、252点まであと2点。
スペインサッカー史上、最も重要なセンターフォワードはサラである。
1940年から'55年までアスレティックで活躍した彼は、スペイン代表でもストライカーを務め、'50年のブラジルW杯ではイングランドを下す歴史的ゴールを決めた。ヘディングがずば抜けて巧く、'51年の親善試合スウェーデン戦前の宣伝では「ウィンストン・チャーチルに次ぐ欧州きっての頭」と謳われた。
'54年4月にはサンティアゴ・ベルナベウで、前例のない国家行事レベルの記念試合が催され、'06年2月に逝去すると、マルカ紙がリーガ1部・2部それぞれのスペイン人最多得点者に贈るサラ賞を創設した。サラは途方もない記録を幾つか残しているが、中でも有名なのはリーガの通算得点251だ。マドリーの欧州5連覇の立役者ディステファノも素晴らしいゴールゲッターだったが、13シーズンで227得点。'80年代後半、4シーズン連続で得点王となったウーゴ・サンチェスは234得点。17歳でデビューして以来550試合に出場したラウールでさえ228得点。
それゆえのサラの記録は、ほんの数年前まで、未来永劫破られないと思われていた。
メッシが先週末に決めた250点目。
ところが先週末のエイバル戦で、リオネル・メッシはリーガ通算250点目を決めた。
25日サンティアゴ・ベルナベウで行われるクラシコで、59年ぶりにリーガ記録が塗り替えられるかもしれないのだ。
昨シーズン終盤とブラジルW杯の特に決勝戦の印象から、今季開幕前「メッシは落ち目」と考えるメディアは幾つかあった。
また今月16日には英ミラー紙のウェブ版が、彼のデビュー10周年に合わせて、「メッシの絶頂期はおそらく過ぎた」と書き立てている。根拠は'04年10月16日を開始点とした1年ごとのゴール数で、4年目を除いて右肩上がりだったものが8年目('11年10月16日から'12年10月15日まで)の69を境に、9年目は59、10年目は37と減っているからだ。実際、現在のリーガ得点ランキングでもメッシはクリスティアーノ・ロナウドとネイマールの後塵を拝し、3位となっている。
得点数だけに捉われては、今のメッシは理解できない。
だが、「世界最高のゴールゲッター」という色眼鏡を外すと、今季のメッシはすこぶる好調だ。
“得点者メッシ”の活用に腐心したグアルディオラ期のバルサに対し、いまのバルサはメッシの知覚と判断力を最大限に活かすことを考えている。「メッシは造作なく試合の流れを読む。彼が見出す得点への道を塞ぐような真似は絶対にしない」
プレシーズン開始時にこう宣言したルイス・エンリケは、そのためにスリートップを擬似ツートップ化した。即ち、'80年代末のクライフ監督時代以来バルサの名物であり続けたウイングを廃し、左右のフォワードを中へ絞らせ、ゴール正面で自在に動くメッシへのチェックを牽制させたのだ。グアルディオラがメッシのために用意した偽9番というポジションも、元はといえば彼にスペースと時間を与えるためのものだった。が、数年経って敵に対処されるようになったため、新たなアイデアが必要になったというわけだ。
驚異的なペースでアシストを量産しつつ、得点も決める。
その結果、メッシはプレイスタイルを変えた。
「他のフォワード2人がサイドラインいっぱいに開いているときと、今季のように中でプレイするときでは攻め方が異なる。2人が中にいると、ラストパスを出せる場面が増える」
おかげでアシストが爆発的に増え、第8節を終えたところで7。昨季のアシストランキング1位のディマリアが38節で17だから、とんでもないハイペースである。
いま波に乗っているネイマールとの連係も冴え、彼の8ゴールのうち4ゴールをアシストしている。「一緒にプレイするようになって2年目だから、息が合うようになってきたんだ。昨季より近いところにいるしね。彼も僕も、互いの位置に以前より注意するようになった」
偉大なるサラを、わずか10年で越えた選手として。
しかし、だからといってメッシは自分でゴールを目指すことをやめたわけではない。ランキング3位とはいえ8試合で7得点。並の選手ではとても出せない数字だ。
「ラストパスが出せるようになったとはいえ、それはあくまで選択肢のひとつ。ゴールも狙うし、パスも出すというだけだよ」
 10月上旬、リーガのテバス会長は、メッシがサラを追い抜いた暁には記念セレモニーを行うべきとコメントし、そこがサンティアゴ・ベルナベウであっても「やらない理由はない」とした。
その後、「問題が生じるなら別の場所で」と態度を変えたので、マドリーファンがメッシに拍手を送る様子を我々が目にする可能性はなくなったが、リーガはいずれメッシを盛大に讃えるつもりだという。
偉大なるサラを、わずか10年で越えてしまった選手として。http://number.bunshun.jp/articles/-/821916?page=3
再生核研究所声明80(2012.03.20)  挑戦 とは 何か

(この声明は 朝日新聞 『天声新語』 募集の課題 「挑戦」から ヒントを得て、考えられたものである)
およそ、人生も世界も慣性の法則で動いているものと言える。これは 世の中は物理学の慣性の法則に従っているように、大きな流れの上にあるということである。実際、人は気づいてみたらこの世に生を享け、ある流れの上で生かされていると言える。今日在るは昨日の延長上にあり、昨日はその前の延長上にあると遡って行ける。明日の多くは連続性に従って今日の延長として、相当に決まっていると言える。人間が生きたいと思うのは 今まで生きてきたから、明日も生きたいと 慣性の法則で志していると言える(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)。
しかしながら、面白いことには、人間存在の神秘性であるが、人間には自由意志があって、その流れに少し逆らうような有り様が可能である。 顕著な例が、挑戦である。すなわち、戦い挑む、やってみる、試みるということは 人間の自由意志の顕著な例である。冒険、競争、求道、研究、芸術などの営みは、人間であることの証であるとも言え、挑戦とは人間としての存在の本質を表しているところの、人間固有の人間らしい営みである。 
されば、人間の存在の意義とは何か? まず、生きること、生きて存在しなければ始まらない ― 生命の基本定理、人生、世界、生物界において 実際これくらいしか、確かなことは、無い。 逆に考えてみよう、生きて、存在しなければ、生まれて来る前のように 何も認識できず、したがって何も知らず、何も伝えられず、全ての前提は 消えてしまうだろう(再生核研究所声明13: 第1原理 ― 最も大事なこと)。
さらに1歩進めて、人間として生きることの意義とは何だろうか。 それは、つきるところ、人生の意義は感動することにある ― 人生の基本定理 にあると言える。 人間が何に感動するかは、個性にもよるが、本能に基づくものは当然として、真、善、美、聖などを求めているときであると言え、知ることと、自由を求めることが それらの基礎である。 その本質は、気づくことと、喜びを感じることに他ならない。 人間として生きることの本質ではないだろうか(再生核研究所声明12: 人生、世界の存在していることの意味について)。 
そこで、いま、日本国において、取り組むべき挑戦課題を提案したい。
まず、国家財政を立て直すこと、国だけの債務をみても、1000兆円に迫り、3年続けて 歳入の2倍を超える歳出である。 更に大震災、原発事故、放射能対策の膨大な経費である。このような財政を続けていける道理は 世に無いから、国は大胆に財政問題を国民に明らかにして、官民挙げて 財政問題に挑戦すべきである。もちろん増税だけではなく、国民に理解を求めるための 節税や行政改革なども断行すべきである。ここで大事な観点は、縮小方向ばかりではなく、財政再建の積極的な展開も多方面に志向すべきであるということである。新しい職場の開拓、ビジネス効果志向などである。国の活動に人材の活用によるビジネス感覚の導入も必要ではないだろうか。これらは、同時多発的に広範に取り組む必要があり、ここでの挑戦とは、正しく時間との戦いであると言える。何事も追い込まれる前に先手を打つのが 賢明な対応の在りようではないだろうか。世界は 世界混乱前夜の状況にあると言えるのではないだろうか(再生核研究所声明 45: 第2次世界大戦と第3次世界混乱)。
次に、原発事故を鎮圧して、放射能対策をしっかり行うこと。これは当然であるが、より真剣に取り組むべきではないだろうか。世に 反原発についての意見やデモ等が行われているが これほど無意味で、無駄な行動は無い。誰でも原発など無いにこしたことはないと考えるのは当然であり、また、東電その他関係者自身が、一般国民よりははるかに、原発事故の重大さと危険性を明確に自覚していることは 当たり前である。 世に騒がれるまでもない当然のことではないだろうか。当然のことを騒いでいて、何か建設的、生産的なことが有るだろうか。 逆に、原発を何とか活用すべく、挑戦的に取り組むことは 自明ではない、やりがいのある挑戦課題ではないだろうか。それこそが、およそ人間存在の原理ではないだろうか。 実際、人類は、未知の世界に冒険し、新世界を開拓し、次々と世界を拡大、深化させてきたのではないのか。不可能と思えることを可能ならしめ、宇宙の隅々まで、神の意思までをも 究めたいというが、そもそも人間存在の原理ではないだろうか。もちろん、これは安易に取り組むことを意味せず、慎重に、慎重に進めるのは当然であるが、原発を諦めるということは、それに対する人類の敗北を意味し、人間存在の本質に抵触すると言わなければならない。何時かは原子力ネルギーを自由に制御して、広大な宇宙に飛び出し、新天地を拓こうではないか(再生核研究所声明 32: 夜明け―ノアの方舟)。
次に教育の問題である。 日本の教育は何を目指しているのかと問いたい。 ただ大学受験を目指して、大学に入る為の勉強に ほとんどの部分を占めているように見える。受験のための塾、専門の学校の繁茂がそれらを示してはいないだろうか。 教育を教育の在るべき姿に戻って、検討し直すことが 中長期的には日本国における大事な挑戦課題ではないだろうか。 教育の在るべき姿などは既に教育基本法その他で 確立しているが 弊害は、本末転倒の教育の在り様になっている実情、実体にある(再生核研究所声明 70 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず)。教育の原理についても注意を喚起したい(再生核研究所声明76 教育における心得、教育原理)。
挑戦とは人間の自由意志の明確な表現として、決断による情熱の伴った生命の燃焼であり、志である。 そこに良い感動が伴えば、より良い人生と言えるだろう。
以 上

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