相沢忠洋
相沢忠洋像(岩宿遺跡)
相沢忠洋(あいざわただひろ、1926年6月21日 - 1989年5月22日)は、日本の考古学者。納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていたが、1949年(昭和24年)に群馬県新田郡笠懸村(現・みどり市)(岩宿遺跡)の関東ローム層から打製石器を発見し、それまで否定されてきた日本の旧石器時代の存在を証明した。
目次[非表示]
1功績
2生涯
3著書
4関連項目
5外部リンク
功績[編集]
1949年(昭和24年)以前、日本における人類の歴史は縄文時代からとされており、旧石器時代の存在は否定されていた。特に火山灰が堆積した関東ローム層の年代は激しい噴火のため人間が生活できる自然環境ではなかったと考えられており直良信夫などによる旧石器の発見が報告されることはあったが、激しい批判にさらされていた。
そうした時代背景の中で、1946年(昭和21年)、相沢は、岩宿の切り通し関東ローム層露頭断面から、石器(細石器)に酷似した石片を発見した。ただし旧石器と断定するまでには至らず、確実な旧石器を採取するため、相沢は岩宿での発掘を独自に続けていった。
1949年(昭和24年)夏、相沢は岩宿の関東ローム層中から明らかに人為と認められる槍先形石器を発見した。この石器を相沢から見せられた明治大学院生芹沢長介(当時)は、同大学助教授杉原荘介(当時)に連絡し、この石器を見せた。
これを受けて、同年9月11日~13日、岩宿の現地で、杉原、芹沢、相沢ら6人で小発掘(本調査に先立つ予備調査)が行われた。そして、11日、杉原の手により、卵形の旧石器が発掘された。9月20日、東京に帰った杉原はこの発掘の結果を主要新聞に発表した。
その後、同年10月2日から10日あまりにわたって、杉原を隊長とする明治大学を中心とした発掘調査隊が岩宿遺跡の本格的な発掘を実施し、その結果、旧石器の存在が確認され、日本における旧石器時代の存在が証明されることとなった。
しかし、当時この重大な発見について、学界や報道では相沢の存在はほとんど無視された。明治大学編纂の発掘報告書でも、相沢の功績はいっさい無視され、単なる調査の斡旋者として扱い、代わりに旧石器時代の発見は、すべて発掘調査を主導した杉原荘介の功績として発表した。さらには、相沢に対して学界の一部や地元住民から売名・詐欺師など、事実に反する誹謗・中傷が加えられた。この頃の郷土史界は地元の富裕層(大地主、大商人などいわゆる旦那衆)や知識層(教員、医師、役人などいわゆる先生方)などで構成されており、岩宿遺跡の存在する北関東も例外ではなかった。このため、これといった財産も学歴も有しない相沢の功績をねたみ、「行商人風情が」などと蔑視し、彼の功績を否定する向きもあったという。
だが、相沢の考古学への情熱は冷めることはなく、地道な研究活動を続け、数多くの旧石器遺跡を発見した。次第に相沢への不当な批判は消えていき、日本の旧石器時代の存在を発見した考古学者として正当な評価がようやくなされ、1967年(昭和42年)には吉川英治賞を受賞した。晩年は、最古の旧石器を求めて夏井戸遺跡の発掘に精魂を傾けた。
1989年(平成元年)5月22日、桐生厚生病院にて脳内出血の再発により午前7時38分死去、桐生市薬王寺に眠る。同日、勲五等瑞宝章が国より贈られた。 11月5日、笠懸村より名誉村民第一号の称号が贈呈された。
生涯[編集]
1926年(昭和元年)東京羽田で出生。
1934年(昭和9年)、鎌倉へ転居。このとき考古への興味を抱いた。
1935年(昭和10年)、両親離婚。その後父と一緒に群馬県桐生へ移住するが、ほどなく小僧奉公に出され孤独の境遇となった。青年学校が最終学歴。
1944年(昭和19年)、海兵団へ入団。駆逐艦「蔦」乗組。
1945年(昭和20年)、終戦とともに桐生へ復員。幼少からの考古学への思いは断ち切れず、考古研究の時間が取りやすい小間物(後には納豆)の行商を始め、行商しながら赤城山麓の各地で土器・石器の採取を行う。
1949年(昭和24年)、岩宿で発見した石器が旧石器かどうか鑑定してもらうため、東京へ行き、生涯の師となる芹沢長介(明治大学大学院生、後の東北大学教授)と出会う。その後、相沢は芹沢から考古学上のアドバイスを得るため、たびたび、桐生から東京までの約120kmを自転車により日帰り往復していた。
1955年(昭和30年)、結婚。
1961年(昭和36年)、群馬県から表彰を受章。
1967年(昭和42年)、吉川英治文化賞を受賞。
1972年(昭和47年)、宇都宮大学で講師を務める。
1973年(昭和48年)、妻逝去。
1977年(昭和52年)、相沢千恵子(現·相沢忠洋記念館館長)と再婚。
1989年(平成元年)、死去。勲五等瑞宝章を授与される。笠懸村より名誉村民第一号の称号贈呈。
1991年(平成3年)、相沢忠洋記念館が開館。在野の考古学研究者を対象にした相沢忠洋賞が創設される。
1992年(平成4年)、相澤忠洋記念館後援会の設立。
著書[編集]
1969年「「岩宿」の発見 - 幻の旧石器を求めて - 」講談社。
1980年「赤土への執念 - 岩宿遺跡から夏井戸遺跡へ - 」佼成出版社。
1988年「赤城山麓の旧石器」講談社(関矢晃との共著)。
関連項目[編集]
日本の旧石器時代
岩宿遺跡
磨製石器
再生核研究所声明152(2014年3月21日)研究活動に現れた注目すべき現象、研究の現場
今回、100/0 = 0,0 / 0 = 0の発見と研究活動で 時刻入れで文書が保管されている。一般的に注目すべきことはゴシック体で記そう。
まず、発見現場であるが、偶然に 説明されても、原稿を見せても 価値観に本質的な違いがあることを露わに実感した。原稿を見て、これは面白いと捉えて研究を発展させて素晴しい論文を書かれた者がいる一方そんなの駄目だで、ただ批判して傍観している者。これは 基本では?夢中で何かの延長を他を意識して進めるだけになってしまう。良いものを 世に多いからである。
それから、新しい考え、発想が無意識の内に湧いてくるものであるという、事実である。目を覚ましたら解けていた、新しい考えで突然目を覚ましたと繰り返して書いてきた。それから、それらは精神状態によるのであるが、コーヒー、茶、特にジャスミン茶で大いに興奮して、どんどん考えが湧いて来るのを実感した。結構、そのようなものの影響も無視できない。
それから研究活動で大事な要素は積極性である。今回、多くの人が研究に参加されたが、意外な人が意外な才能を発揮して、意外な視点を 世に多い現象であるが、直接話すと本質を理解されて、興味を懐くは 追求を諦めてしまう、主張を避けて諦めてしまうのは そう簡単なことではないように感じられる。
最後に研究の最も大事な心を2014年3月11日ブログに書いた記事を編集して記して置こう:
特異点解明の歩み100/0 = 0,0 / 0 = 0:関係者:独断と偏見、人類の知能
ふと思い浮かんだ:天才少年の質問(再生核研究所声明9:天才教育の必要性を訴える):
0.999 ...。= 1の意味は、何か
当時8歳の少年でした。私は これまで誰からも満足する解答を得なかった。これは知識で、学んでいて
- 哲学とは真智への愛であり、真智とは神の意志のことである哲学することは、人間の本能であり、それは神の意志であると考えられる愛の定義はで146声明。与えられ、神の定義は声明122と132で与えられている。 - 再生核研究所声明148(もっとも何でもは究められない)
それ故に、ゼロで割る考えが思い浮かばなかったのでは。人類の知能はその程度である。真智を求めている者は世に稀であり、多くは断片的な世界に閉じこもり、埋没し、自己さえ見失っている。また、日常生活に埋没していると言える。
以上
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