動物を殺すのを楽しんだり、苦しむ姿を楽しむために殺してはならないという価値観について。
私も含め多くの人がこの価値観を持っていると思います。しかし、私はただ漠然それはいけないことだと思い込んでいるだけで、なぜそれがいけないことなのかと問われると、理由を答えることができません。
「誰かのペットや絶滅種・法律で禁じられていない限り、殺しを楽しむために動物を殺しても良いのでは?」
と問われたとき、上記の価値観を持つ方はどう反論しますか?
楽しみ・娯楽のない人生を望む人はそういないと思います。つまり娯楽も人間の生きる活力であり、現在の人類にとってなくてはならない要素だと思います。だから、楽しむための殺生も生きるための殺生(食や衣服や実験や駆除のための殺生)と同じなのではないかと、ふと感じてしまいます。「他に娯楽はたくさんあるのだから、娯楽の対象をわざわざ動物を殺すことに向けなくてもよい」というのは「大豆や海藻からも得られるのだから、わざわざタンパク質を動物を殺して得なくてもよい」と同等に聞こえます。
「楽しむための動物殺し行為が、殺人へと発展しかねない」というのは「暴力的なゲームやアニメが、現実での暴力行為を助長する」という意見と同等に聞こえます。
しかし、動物愛護系菜食主義者や暴力作品反対者よりも、楽しむための動物虐待反対者の数が圧倒的に多いと思います。なぜ楽しむための殺生は忌み嫌われるのでしょうか?(私も理由を説明できなくとも、悪いことだと感じています。)
なぜ楽しむための殺生がいけないことなのか賛成者の方は明確な理由を教えてください。
生命、生物には共感、共鳴があるのでは?
生きること、死ぬこと 本質において、同じ運命をもっており、仲間で 運命を共有している。
大きな命の下で、 同じような存在では。
動物の苦しみの声を 喜ぶ心境は理解できない。 共感、共鳴する。
再生核研究所声明 68(2011/09/02) 生物の本質 ― 生きること、死ぬること
(背景: 2011/8/27/19:30 : 生ビール付きで 中華料理のご馳走を沢山頂き、最後にコ-ヒーを頂いているときに、突然閃いた考えです。 実は、― 我が家の大事件が入りました。なんと燕の巣が 大きな蛇に襲われ、買い物から、帰ったら、既に襲われ、親がわめいていたというのですね。 狙われやすい方の巣に 雛が孵って、そろそろ飛べるころでした。 見たことも無い 大きな蛇が下にいたということです。 痛切残念です。 2011/6/20/11:10 ― の事件後、生物の在り様について、重苦しい思いで その事件のことを反芻して来ました。 お釈迦様はそのような有様をどのように観られて、生物を どのように捉えておられたのでしょうか。 実はその蛇、4年前、子供の蛇で、25cmくらいで、 悔しそうに燕の巣を眺めていたのを良く覚えていて、あの蛇が成長して、とうとう夢を叶えたのかと 同情の気持ちが少し湧いていました。 何という辛抱で実現した希有の事件だろうということです。 相当に難しいところにある燕の巣です。 他方、燕のツガイは 毎日一生懸命にえさを運び、夜家族でかたまって静かに休んでいる誠に愛しい情景を見て来ました。 もし、飛び立てば、 広い天空を飛びまわり、南国まで旅して、恋人を連れて戻り、新しい家族を作るのが 永い習性です。 蛇に襲われ、雛は生涯をあっという間に閉じ、親たちはその日から、目標も失ってしまったのです。 ―― しかしながら、思えば、 食ったり、食われたりは、生物界の厳然とした事実です。 私も、小学校5年生で、友情に芽生えた友を失ってから、実に多くの友、両親、親族、恩師たちを沢山失って来ました。 これをどのように捉えるかですね。 その間、 ― 地上の星 / 中島みゆき [公式] : 人の世の哀しみをのりこえて、 庶民賛歌を歌いあげたものである ― 背後には 人世をみつめる 真摯な心がある。 ― を繰り返し、不思議な感動をもって 拝見して来ました。) それで、 突然、ひとりでに、閃いた直観は、生きることも、死ぬることも 等価 である。 食べる立場も、食べられる立場も等価 であり、いずれも諒である。 死の母なる永遠の世界からみれば、生物はみな 等価であり、長い生も、短い生も同じようなものである。 小学校5年生で生涯を終えた友も、それから何十年も生きていろいろ経験をしていても 大きくみれば、本質をみれば、同じようなものである。
いろいろやりたいことが有れば ― 感動することが有るということは、それだけ、人生を豊かにするだろう。 しかしながら、それらは、所詮 儚い幻のような存在である。されば、さめているよりは、好きなことに夢中になっていた方が良いとも言える。 死を恐れ、嫌がる情念は、 生命力の現われであるから、それらは好ましいものである。 人生とは、我々の生命力が、 我々を駆り立てて、動かしているものである。
およそ生物とはそのようなものである。しかしながら、生物の存在、そして人間の存在は、限りなく尊いものである ことを確認して、
最も大事なこと (再生核研究所声明13)、
人生、世界の存在していることの意味について (再生核研究所声明12)
社会生活を営む原理(再生核研究所声明1)
を、 確かに想起しておきたい。 また、このような見方は、
超越への道、悟りへの道 (再生核研究所声明19)
を補完するものであると考える。
以 上
映画「二百三高地」
高地の突撃を繰り返しながらも戦死者が続出するだけでまったく成果を上げられず、非難を浴びる乃木希典大将(仲代達矢)と、なぜか彼を交替させようとしない明治天皇(三船敏郎)。
そして親友の乃木を見かねて現れた児玉源太郎大将は「味方の弾が味方に当たっても構わない」と豪語する。そんな中、兵士たちは疲弊し、次々と斃れてゆき、かつてロシアとその国の文学を愛していた教師(あおい輝彦)の心には、ただ敵に対する憎しみだけが募っていき、ついにその想いは乃木に対してぶつけられていく・・・。
正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。
正義も理屈をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。
芥川龍之介「侏儒の言葉」より
十一月二十七日、司令部は二百三高地攻撃を決定した。その日、小賀は捕虜の通訳を命じられたが、「兵には国家も司令官もない、焦熱地獄に焼かれてゆく苦痛があるだけ」と拒否、その言葉は激しく乃木の胸を打った。
あと、乃木大将が前線視察に赴いたときに一人の兵士に声をかけましたが、兵士から「どうせわしらは消耗品ですさかい・・・」の言葉を聞いた大将は、驚きと落胆の表情をしていました。(さすがはベテラン俳優です。今の俳優にはない演技です)
『陛下のせきしをこんにちまで無駄に殺してきたのは誰じゃっ!!貴様たちじゃないんかっ!いくさは気合いじゃぞっ!しりごみする前に実行せい!』
「こ、児玉ぁ!わしゃ木石じゃないぞッ!!」と乃木が親友・児玉におもわず叫んでしまい、その台詞に児玉が「乃木ィッ!!おぬしの苦衷なぞ斟酌しとるヒマは儂にはないッ!!儂が考えてることはのう、ただこの戦争に勝つこと! それだけじゃッ!!」と一蹴する
「全ての命に、限りがあるのならば、海は死にますか・・・・・、教えてください」
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