スコセッシ監督の映画『沈黙—サイレンス—』が問い掛けるもの
遠藤周作の原作との出会いから28年の時を経て完成したマーティン・スコセッシ監督の『沈黙—サイレンス—』。監督がこの映画に託した思いとは。
故・遠藤周作が『沈黙』を出版したのは1966年。17世紀江戸時代初期のキリスト教弾圧の下で苦しみ、棄教するポルトガル人宣教師を描いたこの小説は、発表当時、カトリック教会から糾弾される一方、文学作品として世界的に高い評価を得た。マーティン・スコセッシ監督がこの小説と出会ったのは刊行から22年後の88年、監督作の『最後の誘惑』が公開されて間もない頃だ。1人の人間として悩み苦しむイエス・キリストを描いたこの映画は、キリスト教団体から激しい非難を浴び、上映禁止運動が起きていた。『最後の誘惑』とは別の形で、信仰とは何かというテーマに迫った遠藤の小説にスコセッシ監督は深い感銘を受け、映画化を決意する。だがその実現には28年の歳月を要した。
「『最後の誘惑』は批判を浴びましたが、聖職者向けのある上映会の後で、エピスコパル派の大司教、ポール・ムーア氏がこの映画を気に入ったと言ってくれました。そして私に、ぜひ読んでみなさいとくださったのが遠藤周作の『沈黙』でした。この小説は、『最後の誘惑』とはまた違う形で信仰とは何なのかを問う作品だからと…」
熱心なカトリック教徒の家庭で生まれ育ち、神学校で学んだこともあるスコセッシ監督にとって、真の信仰とは何かという問いは常に大きなテーマだった。「『最後の誘惑』が激しい非難の的になっていた時期だったので、私自身、自らの信仰心を見失っていました。何か違和感を持っていたのです。遠藤の『沈黙』を読んで、自分自身の内面で、もっと深くこの問いを掘り下げ、探究しなければという気持ちになれたのです」
とはいうものの、映画化は一筋縄ではいかなかった。「映画化したいと思ったものの、どのように作るべきか、分からなかった。作品の解釈も、日本文化の理解も十分ではなかったし、当時の私自身の宗教観も揺らいでいました。(実際に映画が完成するまでは) 壮大な試行錯誤の旅、学びの旅でした」
長い歳月を経て人生経験を積み重ねながら作り上げていった作品だが、映画が完成しても、それで終わりではなく、これからこの映画を心に抱えて共に生きていくだろうと監督は言う。この作品は、制作の過程で、自らが人間存在に関する本質的な問い、信仰、疑念を突き詰めたという意味で、自分にとって、他の作品とは違う特別な作品になっているそうだ。
遠藤周作の原作は、宗教的ドグマを説くのではなく、信じることの苦しみ、疑いを描いているからこそ「包括的」なのだ、と監督。「われわれは全てを疑う存在なのです。どうして生まれてきたのか、人生の意味をも疑う。だからこそこの小説は私を強く引き付けたのです」
『沈黙』が描く信仰の世界は、父権的、権威的なキリスト教ではなく、弱者を受け入れる慈悲の心、母性的なものであり、だからこそ日本の土壌、隠れキリシタンたちに受け入れられたのだろうと監督は言う。
『沈黙—サイレンス—』では、キチジロー役の窪塚洋介をはじめ、オーディションで選ばれた個性的な日本人俳優たちの存在が強烈な印象を残す。スコセッシ監督の会見に先立ち、外国人特派員協会で、窪塚、長崎奉行井上を演じたイッセー尾形、その通辞 (通訳) 役の浅野忠信が、役作りやスコセッシ監督の演出などについて語った。
「原作には弱き者とあるが、あまりにも何度も踏み絵を踏むので、弱いか強いか分からない。表裏一体という感じがした」と、窪塚は言う。「『転ぶ』ことと棄教とは違う。キチジローは転べば起き上がり、起き上がったときにはまた信じています。遠藤周作は、これは僕自身だと言ったそうですが、キチジローは自分の心の中に自然と湧き上がる気持ちに忠実で、踏み絵は踏むけれど神様は信じている。極めて欲張りで、人間臭い役です」
スコセッシ監督は、キチジローをこう演じるべきという説明や演出は一切せずに委ねてくれたそうだ。長崎奉行井上役のイッセー尾形も、「こちらが提出する演技をまず見てくれる。面白かった、もっとやろうよ、と。否定的な言葉は一回も聞いていない。そういう状況に置かれると、役者はアイデアや感性が研ぎ澄まされていきます。(相手役の)ロドリゴの雰囲気もキャッチできる」。だからこそ、終盤、ついに棄教して「空っぽ」となったロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)との対面の場面で、自らが成し遂げたことに半ば驚き、思わず彼に触れたいという思いに駆られて歩み寄るという自然な演技ができたのだと言う。
隠れキリシタンたちを拷問して殺害する場面を見せて、ロドリゴに棄教を迫る井上を、残酷に、時に滑稽さを織り交ぜて演じた尾形は、ロサンゼルス映画批評家協会賞で助演男優賞の次点に選ばれた。
『マイティ・ソー』『バトルシップ』などハリウッドの大作映画にも出演している浅野は、当初、キチジローの役でオーディションを受けたが、スコセッシ監督に通辞役として抜てきされた。「井上とロドリゴの間に挟まれて行き来するこの役は、単純な悪役ではない。彼はもともとクリスチャンだったのではないか、それを信じていたのに、信じられなくなって今はこの仕事についているのではないか」。そんな思いで、通辞を演じたと言う。
『沈黙』の舞台となったのは長崎市外海(そとめ)地区。映画では荒々しい海や自然の描写が印象的だが、ロケは台湾で行われた。窪塚によれば、撮影には京都の撮影所から時代劇に関わるベテランスタッフたちも多く参加していたが、スコセッシ監督は彼らの意見も取り入れながら、毎日撮影に臨み、時代考証もして、「何か違う物があればすぐに事実に合うように変えてくれた。だから台湾ロケには違和感がなかった」と言う。
映画は原作の精神に忠実に作られているが、窪塚はスコセッシ監督があえて最後の場面を変えていると言う。「スコセッシ監督が、この物語を世界に伝える時にキーになるカットです。原作の持っている力を最大限にアピールするために描いたのだと思う」
スコセッシ監督の『沈黙』は日本で、そして世界でどう受け止められるのだろうか。
取材・文:ニッポンドットコム編集部
写真①:『沈黙—サイレンス—』の日本公開を前に来日したマーティン・スコセッシ監督(2016年1月16日・東京都内)
写真②:1月12日、東京・外国人特派員協会での記者会見で。左から浅野忠信、窪塚洋介、イッセー尾形
http://blogos.com/article/207222/
故・遠藤周作が『沈黙』を出版したのは1966年。17世紀江戸時代初期のキリスト教弾圧の下で苦しみ、棄教するポルトガル人宣教師を描いたこの小説は、発表当時、カトリック教会から糾弾される一方、文学作品として世界的に高い評価を得た。マーティン・スコセッシ監督がこの小説と出会ったのは刊行から22年後の88年、監督作の『最後の誘惑』が公開されて間もない頃だ。1人の人間として悩み苦しむイエス・キリストを描いたこの映画は、キリスト教団体から激しい非難を浴び、上映禁止運動が起きていた。『最後の誘惑』とは別の形で、信仰とは何かというテーマに迫った遠藤の小説にスコセッシ監督は深い感銘を受け、映画化を決意する。だがその実現には28年の歳月を要した。
◆映画化は「長い学びの旅」
スコセッシ監督は、なぜそれほど強く『沈黙』の映画化にこだわったのか。『沈黙—サイレンス—』日本公開(1月21日)を目前に控えた来日会見で、スコセッシ監督は原作、そして自分にとって特別なプロジェクトとなったこの映画に関する思いを語った。「『最後の誘惑』は批判を浴びましたが、聖職者向けのある上映会の後で、エピスコパル派の大司教、ポール・ムーア氏がこの映画を気に入ったと言ってくれました。そして私に、ぜひ読んでみなさいとくださったのが遠藤周作の『沈黙』でした。この小説は、『最後の誘惑』とはまた違う形で信仰とは何なのかを問う作品だからと…」
熱心なカトリック教徒の家庭で生まれ育ち、神学校で学んだこともあるスコセッシ監督にとって、真の信仰とは何かという問いは常に大きなテーマだった。「『最後の誘惑』が激しい非難の的になっていた時期だったので、私自身、自らの信仰心を見失っていました。何か違和感を持っていたのです。遠藤の『沈黙』を読んで、自分自身の内面で、もっと深くこの問いを掘り下げ、探究しなければという気持ちになれたのです」
とはいうものの、映画化は一筋縄ではいかなかった。「映画化したいと思ったものの、どのように作るべきか、分からなかった。作品の解釈も、日本文化の理解も十分ではなかったし、当時の私自身の宗教観も揺らいでいました。(実際に映画が完成するまでは) 壮大な試行錯誤の旅、学びの旅でした」
◆「自分にとって特別な作品」
映画化の権利は取得したものの、実際に脚本(ジェイ・コックス氏との共同脚本)に着手するまでには時が必要だった。「『ギャング・オブ・ニューヨーク』を撮り終えた2003年ごろ、私の内面に変化が訪れ、やっと『沈黙』の脚本に取り組み始めたのです。私生活でも転機を迎えました。再婚して、娘も授かったのです」長い歳月を経て人生経験を積み重ねながら作り上げていった作品だが、映画が完成しても、それで終わりではなく、これからこの映画を心に抱えて共に生きていくだろうと監督は言う。この作品は、制作の過程で、自らが人間存在に関する本質的な問い、信仰、疑念を突き詰めたという意味で、自分にとって、他の作品とは違う特別な作品になっているそうだ。
遠藤周作の原作は、宗教的ドグマを説くのではなく、信じることの苦しみ、疑いを描いているからこそ「包括的」なのだ、と監督。「われわれは全てを疑う存在なのです。どうして生まれてきたのか、人生の意味をも疑う。だからこそこの小説は私を強く引き付けたのです」
『沈黙』が描く信仰の世界は、父権的、権威的なキリスト教ではなく、弱者を受け入れる慈悲の心、母性的なものであり、だからこそ日本の土壌、隠れキリシタンたちに受け入れられたのだろうと監督は言う。
◆日本人キャストの個性、力を最大限に生かす演出
『沈黙』の物語で要となるのは、何度も踏み絵を踏んでは、宣教師ロドリゴに許しを請う「キチジロー」だ。「弱き者、醜い者」であるキチジローの存在によって、江戸時代の隠れキリシタンの物語が、現代人も共鳴できる普遍的な物語として迫ってくる。『沈黙—サイレンス—』では、キチジロー役の窪塚洋介をはじめ、オーディションで選ばれた個性的な日本人俳優たちの存在が強烈な印象を残す。スコセッシ監督の会見に先立ち、外国人特派員協会で、窪塚、長崎奉行井上を演じたイッセー尾形、その通辞 (通訳) 役の浅野忠信が、役作りやスコセッシ監督の演出などについて語った。
「原作には弱き者とあるが、あまりにも何度も踏み絵を踏むので、弱いか強いか分からない。表裏一体という感じがした」と、窪塚は言う。「『転ぶ』ことと棄教とは違う。キチジローは転べば起き上がり、起き上がったときにはまた信じています。遠藤周作は、これは僕自身だと言ったそうですが、キチジローは自分の心の中に自然と湧き上がる気持ちに忠実で、踏み絵は踏むけれど神様は信じている。極めて欲張りで、人間臭い役です」
スコセッシ監督は、キチジローをこう演じるべきという説明や演出は一切せずに委ねてくれたそうだ。長崎奉行井上役のイッセー尾形も、「こちらが提出する演技をまず見てくれる。面白かった、もっとやろうよ、と。否定的な言葉は一回も聞いていない。そういう状況に置かれると、役者はアイデアや感性が研ぎ澄まされていきます。(相手役の)ロドリゴの雰囲気もキャッチできる」。だからこそ、終盤、ついに棄教して「空っぽ」となったロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)との対面の場面で、自らが成し遂げたことに半ば驚き、思わず彼に触れたいという思いに駆られて歩み寄るという自然な演技ができたのだと言う。
隠れキリシタンたちを拷問して殺害する場面を見せて、ロドリゴに棄教を迫る井上を、残酷に、時に滑稽さを織り交ぜて演じた尾形は、ロサンゼルス映画批評家協会賞で助演男優賞の次点に選ばれた。
『マイティ・ソー』『バトルシップ』などハリウッドの大作映画にも出演している浅野は、当初、キチジローの役でオーディションを受けたが、スコセッシ監督に通辞役として抜てきされた。「井上とロドリゴの間に挟まれて行き来するこの役は、単純な悪役ではない。彼はもともとクリスチャンだったのではないか、それを信じていたのに、信じられなくなって今はこの仕事についているのではないか」。そんな思いで、通辞を演じたと言う。
『沈黙』の舞台となったのは長崎市外海(そとめ)地区。映画では荒々しい海や自然の描写が印象的だが、ロケは台湾で行われた。窪塚によれば、撮影には京都の撮影所から時代劇に関わるベテランスタッフたちも多く参加していたが、スコセッシ監督は彼らの意見も取り入れながら、毎日撮影に臨み、時代考証もして、「何か違う物があればすぐに事実に合うように変えてくれた。だから台湾ロケには違和感がなかった」と言う。
映画は原作の精神に忠実に作られているが、窪塚はスコセッシ監督があえて最後の場面を変えていると言う。「スコセッシ監督が、この物語を世界に伝える時にキーになるカットです。原作の持っている力を最大限にアピールするために描いたのだと思う」
スコセッシ監督の『沈黙』は日本で、そして世界でどう受け止められるのだろうか。
取材・文:ニッポンドットコム編集部
写真①:『沈黙—サイレンス—』の日本公開を前に来日したマーティン・スコセッシ監督(2016年1月16日・東京都内)
写真②:1月12日、東京・外国人特派員協会での記者会見で。左から浅野忠信、窪塚洋介、イッセー尾形
http://blogos.com/article/207222/
中学の時に読んだ本
再生核研究所声明227(2015.5.2)
日本の仏教の在り様についての疑問、キリスト教との奇妙な違い
(これは 90歳のおばあさんが 散歩の折り 休んで行かないと椅子を用意してくれたとき、神の問題と人間の終末における仏教とキリスト教の違いを話し、意見が一致した点における 仏教の在り様についての問題提起である)
その時、神様は存在しますか と聞いたのであるが、きっぱりと にこやかに 存在すると言明されたのは印象深い。しかし、神についてさらには詳しくは聞かなかった。記憶は何でもどんどん薄れていくといっていた。しかしながら、次の神の概念は 諒として微笑みをもって受け入れられたと思う:
再生核研究所声明122 (2013.8.1): 神の存在と究極の信仰 - 人間よ 想い煩うことはない。 神は存在して、一切の存在と非存在を しっかりと支えられておられる、 人は必要なときに必要なだけ、 念じるだけで良い。
そのときは、マリア様と幼児キリストの代わりに、お母さんと懐かれている赤ちゃんの喩えで話した。本声明の趣旨を述べる背景として、次の文脈を参照したい:
再生核研究所声明221(2015.4.3) ある数学者の仏教解説
― (前略): このように素晴らしい仏教の世界を みると、日本の仏教界の現状については 返す がえすも 残念に思われることがある。
日本の仏教が、葬式や先祖さまの供養ばかりの存在に 感じられて、生きた生活や社会に十分活かされていないのではないであろうか。仏教はもともと、人を救い、社会に活かすべきものとして、発祥、発展したのではないだろうか。日常に起きる、心の悩みや社会の問題に 仏教が本質的に大きな役割を果たせる思想を持っているのは自明であり、社会に活かせない状況は、誠に残念であると言わざるを得ない。
カトリック教の熱心なヨーロッパの田舎街で5年間暮らしたが、そこでは日常的に 教会は活動していて、土曜日や日曜日、祭日など教会は人々で溢れ、街は沢山の教会を有し、祭司様は 街の尊敬と親愛、信頼を受けていて、代表的な国立大学の卒業式にも臨席される程である。教会が街の精神的な支柱、中枢になっていることが良く分かる。
人々は人生を肯定され、安心して魂を天に返され、その際、親族の嘆きはそうは深くはなく、淡々としており、間をとってから、親しい友人たちをレストランに招待して、心を切り替えているようであった。教会はいろいろな相談や悩みなどを議論するサロンのような機能さえ果たしていた。
日本の仏教が、葬式や先祖さまの供養ばかりの存在に 感じられて、生きた生活や社会に十分活かされていないのではないであろうか。仏教はもともと、人を救い、社会に活かすべきものとして、発祥、発展したのではないだろうか。日常に起きる、心の悩みや社会の問題に 仏教が本質的に大きな役割を果たせる思想を持っているのは自明であり、社会に活かせない状況は、誠に残念であると言わざるを得ない。
カトリック教の熱心なヨーロッパの田舎街で5年間暮らしたが、そこでは日常的に 教会は活動していて、土曜日や日曜日、祭日など教会は人々で溢れ、街は沢山の教会を有し、祭司様は 街の尊敬と親愛、信頼を受けていて、代表的な国立大学の卒業式にも臨席される程である。教会が街の精神的な支柱、中枢になっていることが良く分かる。
人々は人生を肯定され、安心して魂を天に返され、その際、親族の嘆きはそうは深くはなく、淡々としており、間をとってから、親しい友人たちをレストランに招待して、心を切り替えているようであった。教会はいろいろな相談や悩みなどを議論するサロンのような機能さえ果たしていた。
本声明の趣旨を 簡潔に次のように表現したい: キリスト教では 終末 人が生きている内に天にかえる心構えをさとし、人は人生を肯定して安心して 逝かれるに対して、多くの仏教の場合は如何であろうか。死んだ後に お経をあげているのが現状ではないだろうか? 一番大事な時にいなくて、済んでから何かされているようではないだろうか? ― ここは、生きている人に、みなさんもこのようになると 実は生きている人に対してさとしているのであろうか。 先祖さまの供養も 同じような意味を持つとも考えられる。 仏教徒は ゆかしいからそうかも知れない。― 他方、多くの宗教の大きな意義が 死からの解放、自由 にあるのではないだろうか。お釈迦様は 死者を弔うために、先祖さまを供養するために いろいろ教えられたのではなくて、 人々を救うために努力されたのではないだろうか。
この観点、多くの仏教徒に 仏教の在り様について、検討して頂きたいと考える。 折角の素晴らしい宗教が、お釈迦様の精神 が活かされていないのではないかと、感じている。この観点は 上記90歳の素晴らしい おばあさんの気持ち と一致していると感じた。
日本の神道も 素晴らしいのに、上記のように活かされていない面が多いのではないだろうか。― もっとも、神道は 無言で 雰囲気で伝えようとしているようにもみえる。
以 上
再生核研究所声明297(2016.05.19) 豊かなゼロ、空の世界、隠れた未知の世界
ゼロ除算の研究を進めているが、微分方程式のある項を落とした場合の解と落とす前の解を結び付ける具体的な方法として、ゼロ除算の解析の具体的な応用がある事が分かった。この事実は、広く世の現象として、面白い視点に気づかせたので、普遍的な現象として、生きた形で表現したい。
ある項を落とした微分方程式とは、逆に言えば、与えられた微分方程式はさらに 複雑な微分方程式において、沢山の項を落として考えられた簡略の微分方程式であると考えられる。どのくらいの項を落としたかと考えれば、限りない項が存在して、殆どがゼロとして消された微分方程式であると見なせる。この意味で、ゼロの世界は限りなく広がっていると考えられる。
消された見えない世界は ゼロの世界、空、ある隠された世界として、無限に存在していると考えられる。たまたま、現れた項が 表現する物理現象を記述していると言える。
これは、地球に繁茂する動植物が、大海や大地から、生まれては、それらに回帰する現象と同様と言える。大量に発生した卵の極一部がそれぞれの生物に成長して、やがて元の世界に戻り、豊かな大海や大地は生命の存在の元、隠れた存在の大いなる世界であると考えられる。無数の生命の発生と回帰した世界の様は 生物、生体の様の変化は捉えられても、人間の精神活用や生命の生命活動の様の精しい様などは 殆ど何も分からない存在であると言える。我々の認知した世界と発生して来た世界と消えて行った認知できない世界である。
このような視点で、人間にとって最も大事なことは 何だろうか。それは、個々の人間も、人類も 大きな存在の中の小さな存在であることを先ず自覚して、背後に存在する大いなる基礎、環境に畏敬の念を抱き、謙虚さを保つことではないだろうか。この視点では日本古来の神道の精神こそ、宗教の原点として大事では ないだろうか。未知なる自然に対する畏敬の念である。実際、日本でも、世界各地でも人工物を建設するとき、神事を行い、神の許しを求めてきたものである。その心は大いなる存在と人間の調和を志向する意味で人間存在の原理ではないだろうか。それはそもそも 原罪の概念そのものであると言える。
しかしながら、人類が好きなように生きたいも道理であり、巨大都市を建設して、環境を汚染して生存を享受したいも道理であるから、それらの一面も否定できず、それは結局全体的な有り様の中でのバランスの問題ではないだろうか。人類の進化の面には必然的に人類絶滅の要素が内在していると考えられる:
再生核研究所声明 144(2013.12.12) 人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程である
そこで、結局は全体的な調和、バランスの問題である:
再生核研究所声明 56: アースデイ の理念
発想における最も大事なことに触れたが、表現したかった元を回想したい。― それは存在と非存在の間の微妙な有り様と非存在の認知できない限りない世界に想いを致す心情そのものであった。無数とも言える人間の想いはどこに消えて行ったのだろうか。先も分からず、由来も分からない。世の中は雲のような存在であると言える。
以 上
再生核研究所声明288(2016.02.19) 戦友達 ― 共生、共感、共鳴
(ある構想が湧いたのであるが、大きな課題 纏めて表現は難しいが その時の直感を表現してみたい)
人間は作られたものであり、本質は動物も、生物も変わりはない。生物共通の課題は生、死で、それはゼロ除算におけるゼロと無限のように紙一重で微妙な関係にある。人間に与えられた意識の中における、滅することに対する存念、畏れは、生命作用の裏腹なる存在である。
恥ずかしい人類の世界史とは、ほとんど生命の本能に基づく 生存と基本的な欲求のために、不条理で、愚かな戦いを繰り返してきた事実にある。地球規模で見れば、人類は地球の生態系を破壊する癌細胞のように見えるだろう。人類は野生動物にも劣る、猿知恵以下の悪しき知能で、分を弁えない失敗作となっている可能性も高い。恥ずかしい。
戦争や戦いは、暗い人類の先史時代の物語として、恥ずかしい世界史上のこととして終わらしめ、明るい新しい時代を切り拓きたい。神をも震撼させるような美しい文化、世界史を描きたいものである。
この世に生を享けて、盲目的に戦場に駆り立てられ、生命を肯定することもできずに、亡くなって行った人々、それは敵、味方なく、我々の戦友たちであり、生命と定めを共有する我々の仲間たちである。人間は動物、生物と同様であり、生物の本能を満たしたい、そのために空腹を満たし、快適な環境で暮らし、家族や仲間たちと共感、共鳴したい。しかしながら、悪しき時代にはそれらの基本も満たされず、人生を閉じて行った人々は世に多い。それらの仲間たちに、彼らの無念さを 戦友たちへの思いのように、人類の世界に対する無念さとともに頭を垂れてしまう。今尚、そのような意味で、悪しき時代が続いていると言える。
しかしながら、そもそも人生とは、平和で文化が進んでも、生活がいくら改善されても、本質的に 戦場そのものであり、世代交代の様は 何ら戦場と変わりないことを示していることが実感される。
そこで、ある年代に至れば、仲間たちが次々とこの世から去っていき、上手く人生、世界を肯定して、安からに魂を天に返すことができただろうか という、情感が湧いてくる。
いろいろ共通の出会いや関係を持った人々、同じ時代を生きた人々に 共通の運命を感じ、同じ時代を生きたものとして、共感、共鳴し、人生、世界を肯定し、大いなるもののうちに上手く回帰されたか との想いが湧いてくる。
そのとき、もはや、過去の競争、諍いなど余りにも小さく、愚かしいことのように感じられる。
そこで、人々よ、そこから、人間として誇れる、新しい 世界史を、世界を切り拓いて行こうではないか。その原理は気づいてみれば ゼロ除算のように当たり前であり、公正の原理に基づく、生命の共感、共鳴、共生の原理で 十分である。思えば、2000年以上も前に 既に諭されていた聖人たちの教えそのものではないだろうか。まこと、聖人たちの教えに回帰したい。
以 上
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