2017年1月22日日曜日

数学史上的三次危机

数学史上的三次危机

数学是一门严格的科学,但它的发展从来不是一帆风顺的。由于人类对自然及自身逻辑认识的局限性,数学科学发展的历史上也曾遭遇过许多类似于出现测量出“黑体辐射”和“电子双缝干涉实验”现象后人类无法解释其原理的危机。本文就带大家认识数学史上的三次最为重大的危机。需要说明的是,每一次危机的出现都意味着科学的进步。
  无理数的发现——第一次数学危机
大约公元前5世纪,不可通约量的发现导致了毕达哥拉斯悖论。当时的毕达哥拉斯学派重视自然及社会中不变因素的研究,把几何、算术、天文、音乐称为"四艺",在其中追求宇宙的和谐规律性。他们认为:宇宙间一切事物都可归结为整数或整数之比,毕达哥拉斯学派的一项重大贡献是证明了勾股定理,但由此也发现了一些直角三角形的斜边不能表示成整数或整数之比(不可通约)的情形,如直角边长均为1的直角三角形就是如此。这一悖论直接触犯了毕氏学派的根本信条,导致了当时认识上的"危机",从而产生了第一次数学危机。
最后,到了公元前370年,这场危机被毕氏学派的欧多克斯通过在几何学中引进不可通约量概念而得到解决。他的处理不可通约量的方法,出现在欧几里得《原本》第5卷中。两个几何线段,如果存在一个第三线段能同时量尽它们,就称这两个线段是可通约的,否则称为不可通约的。正方形的一边与对角线,就不存在能同时量尽它们的第三线段,因此它们是不可通约的。很显然,只要承认不可通约量的存在使几何量不再受整数的限制,所谓的数学危机也就不复存在了。欧多克斯和狄德金于1872年给出的无理数的解释与现代解释基本一致。今天中学几何课本中对相似三角形的处理,仍然反映出由不可通约量而带来的某些困难和微妙之处。 第一次数学危机对古希腊的数学观点有极大冲击。这表明,几何学的某些真理与算术无关,几何量不能完全由整数及其比来表示,反之却可以由几何量来表示出来,整数的权威地位开始动摇,而几何学的身份升高了。危机也表明,直觉和经验不一定靠得住,推理证明才是可靠的,从此希腊人开始重视演译推理,并由此建立了几何公理体系,这不能不说是数学思想上的一次巨大革命!
  
  第一次数学危机表明,当时希腊的数学已经发展到这样的阶段:
  1.数学已由经验科学变为演绎科学;
  2.把证明引入了数学;
  3.演绎的思考首先出现在几何中,而不是在代数中,使几何具有更加重要的地位。这种状态已知保持到笛卡儿解析几何的诞生。
  中国、埃及、巴比伦、印度等国的数学没有经历这样的危机,因而一直停留在实验科学。即算术阶段。希腊则走上了完全不同的道路,形成了欧几里得的《几何原本》与亚里斯多得的逻辑体系, 而成为现代科学的始祖.在当时的所有民族中为什么只有希腊人认为几何事实必须通过合乎逻辑的论证而不能通过实验来建立?这个原因被称为希腊的奥秘。
  大约在公元前370年才华横溢的希腊数学家欧多科索斯以及柏拉图和毕达哥拉斯的学生阿契塔给出两个比相等的定义,从而巧妙地消除了这一逻辑上的丑陋.他们给出的定义与所涉及的量是否可公度无关。其实这也是自然的,因为两个线段的比本来与第三个线段无关。当然从理论上彻底克服这一危机还有待于现代实数理论的建立。在实数理论中,无理数可以定义为有理数的极限,这样又恢复了毕达哥拉斯的“万物皆依赖于整数”的思想。
  无穷小是零吗?——第二次数学危机
18世纪,微分法和积分法在生产和实践上都有了广泛而成功的应用,大部分数学家对这一理论的可靠性是毫不怀疑的。
1734年,英国哲学家、大主教贝克莱发表《分析学家或者向一个不信正教数学家的进言》,矛头指向微积分的基础--无穷小的问题,提出了所谓贝克莱悖论。他指出:"牛顿在求Xn的导数时,采取了先给x以增量0,应用二项式(X+0)n,从中减去Xn以求得增量,并除以0以求出Xn的增量与x的增量之比,然后又让0消逝,这样得出增量的最终比。这里牛顿做了违反矛盾律的手续──先设x有增量,又令增量为零,也即假设x没有增量。"他认为无穷小dx既等于零又不等于零,召之即来,挥之即去,这是荒谬,"dx为逝去量的灵魂"。无穷小量究竟是不是零?无穷小及其分析是否合理?由此而引起了数学界甚至哲学界长达一个半世纪的争论。导致了数学史上的第二次数学危机。
18世纪的数学思想的确是不严密的,直观的强调形式的计算而不管基础的可靠。其中特别是:没有清楚的无穷小概念,从而导数、微分、积分等概念也不清楚,无穷大概念不清楚,以及发散级数求和的任意性,符号的不严格使用,不考虑连续就进行微分,不考虑导数及积分的存在性以及函数可否展成幂级数等等。
直到19世纪20年代,一些数学家才比较关注于微积分的严格基础。从波尔查诺、阿贝尔、柯西、狄里赫利等人的工作开始,到威尔斯特拉斯、戴德金和康托的工作结束,中间经历了半个多世纪,基本上解决了矛盾,为数学分析奠定了严格的基础。
  
  第一个为补救第二次数学危机提出真正有见地的意见的是达朗贝尔。他在1754年指出,必须用可靠的理论去代替当时使用的粗糙的极限理论。但是他本人未能提供这样的理论。最早使微积分严谨化的拉格朗日。为了避免使用无穷小推断和当时还不明确的极限概念,拉格朗日曾试图把整个微积分建立在泰勒式的基础上。但是,这样一来,考虑的函数范围太窄了,而且不用极限概念也无法讨论无穷级数的收敛问题。所以,拉格朗日的以幂级数为工具的代数方法也未能解决微积分的奠基问题。
  到了十九世纪,出现了一批杰出的数学家,他们积极地为微积分学的奠基工作而努力。首先要提到的是捷克的哲学家和数学家波尔查诺。他开始将严格的论证引入导数学分析重。1816年他在二项展开公式的证明中,明确地提出了级数收敛的概念。同时对极限、连续、变量有了较深入的理解。特别是他曾写出《无穷的悖论》一书,书中包含许多真知灼见。可惜,在他去世两年后该书才得以出版。
  分析学的奠基人,公认为法国多产的数学家柯西。柯西在数学分析和置换群理论方面做了开拓性的工作,是最伟大的近代数学家之一。他在1821年——1823年间出版的《分析教程》和《无穷小计算讲义》是数学史上划时代的著作。在那里他给出了数学分析一系列基础概念的精确定义,例如,他给出了精确的极限定义,然后用极限定义连续性、导数、微分、定积分、无穷级数的收敛性。这些定义基本上就是我们今天微积分课本中使用的定义,不过现在写得的更加严格一点。柯西详细而有系统地发展了极限理论。柯西认为把无穷小量作为确定的量,即使是零,都说不过去,它会与极限的定义发生矛盾。无穷小量应该是要怎样小就怎样小的量,因此本质上它是变量,而且是以零为极限的量,至此柯西澄清了前人的无穷小的概念,另外Weistrass创立了 极限理论,加上实数理论,集合论的建立,从而把无穷小量从形而上学的束缚中解放出来,第二次数学危机基本解决。
  悖论的产生——第三次数学危机
  数学史上的第三次危机,是由1897年的突然冲击而出现的,到现在,从整体来看,还没有解决到令人满意的程度。这次危机是由于在康托的一般集合理论的边缘发现悖论造成的。由于集合概念已经渗透到众多的数学分支,并且实际上集合论成了数学的基础,因此集合论中悖论的发现自然地引起了对数学的整个基本结构的有效性的怀疑。
  1897年,福尔蒂揭示了集合论中的第一个悖论。两年后,康托发现了很相似的悖论。1902年,罗素又发现了一个悖论,它除了涉及集合概念本身外不涉及别的概念。罗素悖论曾被以多种形式通俗化。其中最著名的是罗素于1919年给出的,它涉及到某村理发师的困境。理发师宣布了这样一条原则:他给所有不给自己刮脸的人刮脸,并且,只给村里这样的人刮脸。当人们试图回答下列疑问时,就认识到了这种情况的悖论性质:"理发师是否自己给自己刮脸?"如果他不给自己刮脸,那么他按原则就该为自己刮脸;如果他给自己刮脸,那么他就不符合他的原则。 还有大家熟悉的“说谎者悖论”,其大体内容是:一个克里特人说:“所有克里特人说的每一句话都是谎话。”试问这句话是真还是假?从数学上来说,这就是罗素悖论的一个具体例子。
  
  罗素悖论的产生震撼了整个数学界,号称天衣无缝,绝对正确的数学出现了自相矛盾。无怪乎弗雷格在收到罗素的信之后,在他刚要出版的《算术的基本法则》第2卷末尾写道:"一位科学家不会碰到比这更难堪的事情了,即在工作完成之时,它的基础垮掉了,当本书等待印出的时候,罗素先生的一封信把我置于这种境地"。于是终结了近12年的刻苦钻研。
  在描述罗素悖论之前,我们注意下面的事实:一个集合或者它本身的成员,或者不是它本身的成员。
  例如,抽象概念的集合本身是抽象概念,但是,所有人的集合不是一个人;所有集合的集合本身是一个集合,但是,所有星的集合不是一个星。
  罗素在该悖论中所定义的集合R,被几乎所有集合论研究者都认为是在朴素集合论中可以合法存在的集合。事实虽是这样但原因却又是什么呢?这是由于R是集合,若R含有自身作为元素,就有R R,那么从集合的角度就有R R。一个集合真包含它自己,这样的集合显然是不存在的。因为既要R有异于R的元素,又要R与R是相同的,这显然是不可能的。因此,任何集合都必须遵循R R的基本原则, 否则就是不合法的集合。这样看来,罗素悖论中所定义的一切R R的集合,就应该是一切合法集合的集合,也就是所有集合的集合,这就是同类事物包含所有的同类事物,必会引出最大的这类事物。归根结底,R也就是包含一切集合的“最大的集合”了。因此可以明确了,实质上,罗素悖论就是一个以否定形式陈述的最大集合悖论。
  从此,数学家们就开始为这场危机寻找解决的办法,其中之一是把集合论建立在一组公理之上,以回避悖论。首先进行这个工作的是德国数学家策梅罗,他提出七条公理,建立了一种不会产生悖论的集合论,又经过德国的另一位数学家弗芝克尔的改进,形成了一个无矛盾的集合论公理系统(即所谓ZF公理系统),这场数学危机到此缓和下来。 现在,我们通过离散数学的学习,知道集合论主要分为Cantor集合论和Axiomatic集合论,集合是先定义了全集I,空集 ,在经过一系列一元和二元运算而得来的。而在七条公理上建立起来的集合论系统避开了罗素悖论,使现代数学得以发展。
  承认无穷集合,承认无穷基数,就好像一切灾难都出来了,这就是第三次数学危机的实质。尽管悖论可以消除,矛盾可以解决,然而数学的确定性却在一步一步地丧失。现代公理集合论的大堆公理,简直难说孰真孰假,可是又不能把它们都消除掉,它们跟整个数学是血肉相连的。所以,第三次危机表面上解决了,实质上更深刻地以其它形式延续着。
来源:算法与数学之美

ゼロ除算はどうでしょうか:

再生核研究所声明3432017.1.10)オイラーとアインシュタイン

世界史に大きな影響を与えた人物と業績について

再生核研究所声明314(2016.08.08) 世界観を大きく変えた、ニュートンとダーウィンについて
再生核研究所声明315(2016.08.08) 世界観を大きく変えた、ユークリッドと幾何学
再生核研究所声明339(2016.12.26)インドの偉大な文化遺産、ゼロ及び算術の発見と仏教

で 触れてきたが、興味深いとして 続けて欲しいとの希望が寄せられた。そこで、ここでは、数学界と物理学界の巨人 オイラーとアインシュタインについて触れたい。

オイラーが膨大な基本的な業績を残され、まるでモーツァルトのように 次から次へと数学を発展させたのは驚嘆すべきことであるが、ここでは典型的で、顕著な結果であるいわゆるオイラーの公式 e^{\pi i} = -1 を挙げたい。これについては相当深く纏められた記録があるので参照して欲しい(
)。この公式は最も基本的な数、-1,\pi, e,i の簡潔な関係を確立しており、複素解析や数学そのものの骨格の中枢の関係を与えているので、世界史への甚大なる影響は歴然である ― オイラーの公式 (e ^{ix} = cos x + isin x) を一般化として紹介できます。 そのとき、数と角の大きさの単位の関係で、神は角度を数で測っていることに気付く。左辺の x は数で、右辺の x は角度を表している。それらが矛盾なく意味を持つためには角は、角の 単位は数の単位でなければならない。これは角の単位を 60 進法や 10 進法などと勝手に決められないことを述べている。ラジアンなどの用語は不要であることが分かる。これが神様方式による角の単位です。角の単位が数ですから、そして、数とは複素数ですから、複素数 の三角関数が考えられます。cos i も明確な意味を持ちます。このとき、たとえば、純虚数の 角の余弦関数が電線をぶらりとたらした時に描かれる、けんすい線として、実際に物理的に 意味のある美しい関数を表現します。そこで、複素関数として意味のある雄大な複素解析学 の世界が広がることになる。そしてそれらは、数学そのものの基本的な世界を構成すること になる。自然の背後には、神の設計図と神の意思が隠されていますから、神様の気持ちを理解し、 また神に近付くためにも、数学の研究は避けられないとなると思います。数学は神学そのものであると私は考える。オイラーの公式の魅力は千年や万年考えても飽きることはなく、数学は美しいとつぶやき続けられる。― 特にオイラーの公式は、言わば神秘的な数、虚数i、―1, e、\pi などの明確な意味を与えた意義は 凄いこととであると驚嘆させられる。
次に アインシュタインであるが、いわゆる相対性理論として、物理学界の最高峰に存在するが、アインシュタインの公式 E=mc^2 は素人でもびっくりする 簡潔で深い結果である。何と物質エネルギーと等式で結ばれるという。このような公式の発見は人類の名誉に関わる基本的な結果と考えられる。アインシュタインが、時間、空間、物質、エネルギー、光速の基本的な関係を確立し、現代物理学の基礎を確立している。
ところで、上記巨人に共通する面白い話題が存在する。 オイラーがゼロ除算を記録に残し 1/0=\infty と記録し、広く間違いとして指摘されている。 他方、 アインシュタインは次のように述べている:

Blackholes are where God divided by zero. I don't believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} (
Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970).

今でも、この先を、特に特殊相対性理論との関係で 0/0=1 であると頑強に主張したり、想像上の数と考えたり、ゼロ除算についていろいろな説が存在して、混乱が続いている。
しかしながら、ゼロ除算については、決定的な結果を得た と公表している。すなわち、分数、割り算は自然に一意に拡張されて、 1/0=0/0=z/0=0 である。無限遠点は 実はゼロで表される:

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:

Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1-16. 
http://www.scirp.org/journal/alamt   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
Announcement 326: The division by zero z/0=0/0=0 - its impact to human beings through education and research
以 上
再生核研究所声明3472017.1.17) 真実を語って処刑された者

まず歴史的な事実を挙げたい。Pythagoras、紀元前582年 - 紀元前496年)は、ピタゴラスの定理などで知られる、古代ギリシア数学者哲学者。彼の数学や輪廻転生についての思想はプラトンにも大きな影響を与えた。「サモスの賢人」、「クロトンの哲学者」とも呼ばれた(ウィキペディア)。辺の長さ1の正方形の対角線の長さが ル-ト2であることがピタゴラスの定理から導かれることを知っていたが、それが整数の比で表せないこと(無理数であること)を発見した弟子Hippasusを 無理数の世界観が受け入れられないとして、その事実を隠したばかりか、その事実を封じるために弟子を殺してしまったという。
また、ジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno, 1548年 - 1600年2月17日)は、イタリア出身の哲学者ドミニコ会修道士。それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、コペルニクス地動説を擁護した。異端であるとの判決を受けても決して自説を撤回しなかったため、火刑に処せられた。思想の自由に殉じた殉教者とみなされることもある。彼の死を前例に考え、轍を踏まないようにガリレオ・ガリレイは自説を撤回したとも言われる(ウィキペディア)。

さらに、新しい幾何学の発見で冷遇された歴史的な事件が想起される:
非ユークリッド幾何学の成立
ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーは「幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論」(1829年)において、「虚幾何学」と名付けられた幾何学を構成して見せた。これは、鋭角仮定を含む幾何学であった。
ボーヤイ・ヤーノシュは父・ボーヤイ・ファルカシュの研究を引き継いで、1832年、「空間論」を出版した。「空間論」では、平行線公準を仮定した幾何学(Σ)、および平行線公準の否定を仮定した幾何学(S)を論じた。更に、1835年「ユークリッド第 11 公準を証明または反駁することの不可能性の証明」において、Σ と S のどちらが現実に成立するかは、如何なる論理的推論によっても決定されないと証明した(ウィキペディア)。

知っていて、科学的な真実は人間が否定できない事実として、刑を逃れるために妥協したガリレオ、世情を騒がせたくない、自分の心をそれ故に乱したくない として、非ユークリッド幾何学について 相当な研究を進めていたのに 生前中に公表をしなかった数学界の巨人 ガウスの処世を心に留めたい。
ピタゴラス派の対応、宗教裁判における処刑、それらは、真実よりも権威や囚われた考えに固執していたとして、誠に残念な在り様であると言える。非ユークリッド幾何学の出現に対する風潮についても2000年間の定説を覆す事件だったので、容易には理解されず、真摯に新しい考えの検討すらしなかったように見える。
真実を、真理を求めるべき、数学者、研究者、宗教家のこのような態度は相当根本的におかしいと言わざるを得ない。実際、人生の意義は帰するところ、真智への愛にあるのではないだろうか。本当のこと、世の中のことを知りたいという愛である。顕著な在り様が研究者や求道者、芸術家達ではないだろうか。そのような人たちの過ちを省みて自戒したい: 具体的には、

1)  新しい事実、現象、考え、それらは尊重されるべきこと。多様性の尊重。
2)  従来の考えや伝統に拘らない、いろいろな考え、見方があると柔軟に考える。
3)  もちろん、自分たちの説に拘ったりして、新しい考え方を排除する態度は恥ずべきことである。どんどん新しい世界を拓いていくのが人生の基本的な在り様であると心得る。
4)  もちろん、自分たちの流派や組織の利益を考えて新規な考えや理論を冷遇するのは真智を愛する人間の恥である。
5)  巨人、ニュートンとライプニッツの微積分の発見の先取争いに見られるような過度の競争意識や自己主張は、浅はかな人物に当たるとみなされる。真智への愛に帰するべきである。

数学や科学などは 明確に直接個々の人間にはよらず、事実として、人間を離れて存在している。従って無理数も非ユークリッド幾何学も、地球が動いている事も、人間に無関係で そうである事実は変わらない。その意味で、多数決や権威で結果を決めようとしてはならず、どれが真実であるかの観点が決定的に大事である。誰かではなく、真実はどうか、事実はどうかと真摯に、真理を追求していきたい。
人間が、人間として生きる究極のことは、真智への愛、真実を知りたい、世の中を知りたい、神の意思を知りたいということであると考える。 このような観点で、上記世界史の事件は、人類の恥として、このようなことを繰り返さないように自戒していきたい(再生核研究所声明 41(2010/06/10): 世界史、大義、評価、神、最後の審判)。

以 上
再生核研究所声明171(2014.7.30)
掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?

(2014.7.11小柴誠一、山根正巳氏との会合で、道脇裕氏の 割り算と掛け算は別であり、ゼロ除算100/0=0は自明であるとの考えを分析して得た考えを纏めたものである。)
ゼロ除算100/0=0は2014.2.2 偶然に論文出筆中に 原稿の中で発見したものである。チコノフ正則化法の応用として、自然に分数、割り算を拡張して得られたものであるが、歴史上不可能であるとされていること、結果がゼロであると言う意味で、驚嘆すべきことであること、さらに、高校生から小学生にも分る内容であると言う意味で、極めて面白い歴史的な事件と言える。そればかりか、物理学など世界の理解に大きな影響を与えることも注目される。詳しい経過などは 一連の声明を参照:
再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
しかるに いろいろな人たちと広く議論しているところであるが、世界の指導的な数学者でさえ、高校生でも理解できる発表済みの論文 その後の結果について、現代数学の常識を変えるものであり、受け入れられない、と言ってきている。まことに不思議なことであり、如何に驚くべき結果であるかを示していると言える。
多くの数学者は、内容を理解せず、100/0=0 は100=0 x 0 =0 で矛盾であると即断している。しかるに論文は 100/0 は 割り算の意味を自然に拡張するとゼロの結果を得るのであって、ゼロ除算の結果は 100=0 x 0 =0を意味しないと説明している。 逆に、無限大、無限遠点は数と言えるかと問うている。
ところが面白いことに 既に3月18日付文書で、道脇裕氏は 掛け算と割り算は別であり、ゼロ除算100/0は 自明であると述べていた。しかし、その文書は、一見すると
矛盾や間違いに満ちていたので、詳しく分析してこなかった。しかるに上記7月11日の会合で、詳しい状況を聞いて、道脇氏の文書を解読して、始めて道脇氏の偉大な考えに気づいた。結論は、ゼロ除算100/0は分数、割り算の固有の意味から、自明であると言うことである。これはチコノフ正則化法や一般逆とは関係なく、分数、割り算の意味から、自明であるというのであるから、驚嘆すべき結果である。千年を越えて、未明であった真実を明らかにした意味で、極めて面白い知見である。またそれは、割り算が掛け算の逆であり、ゼロ除算は不可能であるという長い囚われた考えから、解放した考えであると評価できる。
原理は日本語の表現にあるという、掛け算は 足し算で定義され、割り算は 引き算で定義されるという。割り算を考えるのに 掛け算の考えは不要であるという。
実際、2 x3 は 2+2+2=6と繰り返して加法を用いて計算され、定義もできる。
割り算は、問題になっているので、少し詳しく触れよう。
声明は一般向きであるから、本質を分かり易く説明しよう。 そのため、ゼロ以上の数の世界で考え、まず、100/2を次のように考えよう:
100-2-2-2-,...,-2.
ここで、2 を何回引けるかと考え、いまは 50 回引いてゼロになるから分数は50であると考える。100を2つに分ければ50である。
次に 3/2 を考えよう。まず、
3 - 2 = 1
で、余り1である。そこで、余り1を10倍して、 同様に
10-2-2-2-2-2=0
であるから、10/2=5 となり
3/2 =1+0.5= 1.5
とする。3を2つに分ければ、1.5である。
これは筆算で割り算を行うことを 減法の繰り返しで考える方法を示している。a がゼロでなければ、分数b/aは 現代数学の定義と同じに定義される。
そこで、100/0 を上記の精神で考えてみよう。 まず、
100 - 0 = 100,
であるが、0を引いても 100は減少しないから、何も引いたことにはならず、引いた回数は、ゼロと解釈するのが自然ではないだろうか (ここはもちろん数学的に厳格に そう定義できる)。ゼロで割るとは、100を分けないこと、よって、分けられた数もない、ゼロであると考えられる。 この意味で、分数を定義すれば、分数の意味で、
100割るゼロはゼロ、すなわち、100/0=0である。(ここに、絶妙に面白い状況がある、0をどんどん引いても変わらないから、無限回引けると解釈すると、無限とも解釈でき、ゼロ除算は 0と無限の不思議な関係を長く尾を引いている。)
同様に0割る0は ゼロであること0/0=0が簡単に分かる。
上記が千年以上も掛かったゼロ除算の解明であり、 ニュートンやアインシュタインを悩ましてきたゼロ除算の簡単な解決であると 世の人は、受けいれられるであろうか?
いずれにしても、ゼロ除算z/0=0は  既に数学的に確定している と考えられる。そこで、結果の 世への影響 に関心が移っている。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. Vol.4 No.2 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAMT/

再生核研究所声明 148(2014.2.12) 
100/0=0,  0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志

100割る0 の意味を質問されたが(なぜ 100÷0は100ではないのか? なぜ 100÷1は100なのか… 0とは何...aitaitokidakenimoさん)、これは、定義によれば、その解、答えが有るとして、a と仮に置けば、 100=a x0 = 0 で矛盾、すなわち、解は、答えは存在しないとなる。
方程式 a x0= b は b=0 でなければ 解は無く、答えが求まらない。(特に、bが0ならば、解 a は 何でも良いと言うことに成る。)
解が、存在しなかったり、沢山の解が有ったりすると言う、状況である。
そこで、何時でも解が存在するように、しかも唯一つに定まるように、さらに 従来成り立っていた結果が そのまま成り立つように(形式不変の原理)、割り算の考えを拡張できないかと考えるのは、数学では よくやることである。数学の世界を 美しくしたいからである。
実際、文献の論文で 任意関数で割る概念を導入している。
現在の状況では、b 割るa の意味を ax – b の2乗を最小にする x で、しかも x の2乗を最小にする数 x で定義する。後半の部分が無いと、a が0の場合 x  が定まらない。後半が有ると0として、唯一つに定まる。この意味で割り算の意味を考えれば、100割る0は 0 であるとなる。 
上記で もちろん、2乗を最小にする の最小値が0である場合が、 普通の割り算の解、
b 割るa を与える。
もちろん、我々の意味で、0割る0は 曖昧なく、解は唯一つに定まって、0となる。
f  割る g を ロシアの著名な数学者 チコノフの考えた正則化法 と 再生核の理論 を併用すると 一般的な割り算を 任意関数g で定義できて、上記の場合は、100割る0は 0 という解に成る。
すなわち、解が存在しなかった場合に、割り算の意味を 自然に拡張すると 唯一つに解は存在して それは0であると言う、結果である。
上記で、ax – b の2乗を最小にする x で、と考えるのは、近似の考え方から、極めて自然と考えられるが、さらに、x の2乗を最小にする数 x とは、神は、最も簡単なものを選択する、これはエネルギー最小のもの、できれば横着したい という 世に普遍的に存在する 神の意志 が現れていると考えられる(光は、最短時間で到達するような経路で進むという ― フェルマーの原理)、神が2を愛している好きだ とは 繰り返し述べてきた(神は 2を愛し給う)(http://www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf)。
これで、0で割るときの心配が無くなった。この考えの 実のある展開と応用は多い。
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―

以 上
文献:
Castro, L.P.Saitoh, S. Fractional functions and their representations.  Complex Anal. Oper. Theory 7, No. 4, 1049-1063 (2013).

ゼロの発見には大きく分けると二つの事が在ると言われています。
一つは数学的に、位取りが出来るということ。今一つは、哲学的に無い状態が在るという事実を知ること。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1462816269


世界中で、ゼロ除算は 不可能 か 
可能とすれば ∞  だと考えられていたが・・・
しかし、ゼロ除算 はいつでも可能で、解は いつでも0であるという意外な結果が得られた。

原点を中心とする単位円に関する原点の鏡像は、どこにあるのでしょうか・・・・
∞ では
無限遠点はどこにあるのでしょうか・・・・・

無限遠点は存在するが、無限大という数は存在しない・・・・

ゼロ除算(1/0=0)は、ピタゴラスの定理(a2 + b2 = c2 )を超えた基本的な結果であると考えられる。

地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
何年かかったでしょうか????

1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
何年かかるでしょうか????

Title page of Leonhard Euler, Vollständige Anleitung zur Algebra, Vol. 1 (edition of 1771, first published in 1770), and p. 34 from Article 83, where Euler explains why a number divided by zero gives infinity.

もし1+1=2を否定するならば、どのような方法があると思いますか? http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12153951522 #知恵袋_
一つの無限と一つの∞を足したら、一つの無限で、二つの無限にはなりません。


割り算のできる人には、どんなことも難しくない

世の中には多くのむずかしいものがあるが、加減乗除の四則演算ほどむずかしいものはほかにない。

ベーダ・ヴェネラビリス

数学名言集:ヴィルチェンコ編:松野武 山崎昇 訳大竹出版1989年

数学で「A÷0」(ゼロで割る)がダメな理由を教えてください。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411588849 #知恵袋_

割り算を掛け算の逆だと定義した人は、誰でしょう???

0×0=0・・・・・・・・・だから0で割れないと考えた。
唯根拠もなしに、出鱈目に言っている人は世に多い。

multiplication・・・・・増える 掛け算(×) 1より小さい数を掛けたら小さくなる。 大きくなるとは限らない。

ビッグバン宇宙論と定常宇宙論について、http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1243254887 #知恵袋_

ゼロ除算(100/0=0, 0/0=0)が、当たり前だと最初に言った人は誰でしょうか・・・・ 1+1=2が当たり前のように

『ゼロをめぐる衝突は、哲学、科学、数学、宗教の土台を揺るがす争いだった』 ⇒ http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12089827553.html … … →ゼロ除算(100/0=0, 0/0=0)が、当たり前だと最初に言った人は誰でしょうか・・・ 1+1=2が当たり前のように、
1÷0=0 1÷0=∞・・・・数ではない 1÷0=不定・未定義・・・・狭い考え方をすれば、できない人にはできないが、できる人にはできる。

明治5年(1872)

ゼロ除算の証明・図|ysaitoh|note(ノート)  https://note.mu/ysaitoh/n/n2e5fef564997

Q)ピラミッドの高さを無限に高くしたら体積はどうなるでしょうか??? A)答えは何と0です。 ゼロ除算の結果です。

ゼロ除算は1+1より優しいです。 何でも0で割れば、0ですから、簡単で美しいです。 1+1=2は 変なのが出てくるので難しいですね。
∞÷0はいくつですか・・・・・・・

∞とはなんですか・・・・・・・・

分からないものは考えられません・・・・・

1人当たり何個になるかと説いていますが、1人もいないのですから、その問題は意味をなさない。
よってこれは、はじめから問題になりません。
ついでですが、これには数学的に確定した解があって それは0であるという事が、最近発見されました。

Reality of the Division by Zero z/0 = 0
Einstein's Only Mistake: Division by Zero

0を引いても引いたことにならないから:

君に0円の月給を永遠に払いますから心配しないでください:

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