2017年1月25日水曜日

【往復書簡】アインシュタインの悩みにフロイトが答えた「エロス」とは?

【往復書簡】アインシュタインの悩みにフロイトが答えた「エロス」とは?

『ひとはなぜ戦争をするのか』(著:アルバート・アインシュタイン/ジグムント・フロイト 訳:浅見昇吾 解説:養老孟司/斎藤環)

「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」
物理学者アインシュタインが精神分析の創始者フロイトにあてた手紙(公開往復書簡)がこの本です。なぜアインシュタインはフロイトと意見を交わしたかったのでしょうか。
アインシュタインは戦争をこう捉えていました。
──人間には本能的な欲求が潜んでいる。憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が! 破壊への衝動は通常のときには心の奥深くに眠っています。特別な事件が起きたときにだけ、表に顔を出すのです。とはいえ、この衝動を呼び覚ますのはそれほど難しくはないと思われます。これこそ、戦争にまつわる複雑な問題の根底に潜む問題です。この問題が重要なのです。人間の衝動に精通している専門家の手を借り、問題を解き明かさねばならないのです。──
人間に潜む本能的な欲求が憎悪を生み、争い、戦争を引き起こすのではないか。ですから心の探究者であるフロイトに問いかけたのです。
──人間の心を特定の方向に導き、憎悪と破壊という心の病に冒されないようにすることはできるのか?──
この書簡が交わされた1932年といえばフロイトは76歳、ナチスによるユダヤ人迫害が激しくなっていました。フロイトは1938年にイギリスへ亡命します。一方アインシュタインは53歳、すでにドイツを離れ、ベルギー、イギリスを経てアメリカへ亡命します。
心(人間の衝動)を生涯問い続けたフロイトの答えは決して楽観的なものではありません。
人間の心にある2つの傾向、「エロス的欲動」と「死の欲動」を見据えてフロイトはこう答えます。
──破壊欲動はどのような生物の中にも働いており、生命を崩壊させ、生命のない物質に引き戻そうとします。エロス的欲動が「生への欲動」をあらわすのなら、破壊欲動は「死の欲動」と呼ぶことができます。「死の欲動」が外の対象に向けられると、「破壊欲動」になるのです。──
この2つの欲動は決して「善」と「悪」というようなものではありません。「どちらの欲動も人間にはなくてはならないもの」なのですから。
──どちらの欲動にしても、ある程度はもう一方の欲動と結びついている(混ぜ合わされている)ものなのです。一方の欲動の矛先がもう一方の欲動によって、ある程度変わってしまうこともあります。それどころか、一方の欲動が満たされるには、もう一方の欲動が必要不可欠な時すらあるのです。──
破壊欲動とエロス的欲動が結びつくことがあるのです。
──理想への欲動やエロス的なものへの欲動が結びつけば、当然破壊欲動を満たしやすくなります。(略)理想や理念を求めるという動機が意識の全面に出ているのは間違いないが、破壊欲動が無意識のレベルに依存し、それが理念的な動機を後押ししているのだ。──
フロイトはひとまずこう結論づけます。
「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにもない!」
ですから「人間の攻撃性を戦争という形で発揮させなければよいのです」と。ここで再びエロス的欲動が取り上げられます。「人間がすぐに戦火を交えてしまうのが破壊欲動のなせる業だとしたら、その反対の欲動、つまりエロスを呼び覚ませばよいことになります。だから、人と人の間の感情と心の絆を作り上げるものは、すべて戦争を阻むはず」なのではないかと。
──私たちが戦争に憤りを覚えるのはなぜか。私の考えるところでは、心と体が反対せざるを得ないからです。私たち平和主義者は体と心の奥底から戦争への憤りを覚えるのです──
この戦争に反対し憤りを感じる「心と体」は「文化」がもたらせたものです。このフロイトの論述には激しい思いが込められています。
──心理学的な側面から眺めてみた場合、文化が生み出すもっとも顕著な現象は二つです。一つは、知性を強めること。力が増した知性は欲動をコントロールしはじめます。二つ目は、攻撃本能を内に向けること。好都合な面も危険な面も含め、攻撃欲動が内に向かっていくのです。文化の発展が人間に押しつけたこうした心のあり方──これほど、戦争というものと対立するものはほかにありません。だからこそ、私たちは戦争に憤りを覚え、戦争に我慢がならないのではないでしょうか。──
戦争への拒絶は、「単なる知性レベルでの拒否、単なる感情レベルでの拒否」ではありません。「体と心の奥底」からわき上がってくる人間の文化的存在そのものから発するものなのだとフロイトは結論づけています。ですからフロイトはこう未来へ望みを託します。
──文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!──
文化的であろうとすることでしか戦争を終わらせることはできない。ナショナリズムに象徴されるような感情的で反知性であっては決して戦争は終わらせることはできません。反知性と感情優位がもたらすものは、心地よい言葉や目標を掲げて(エロス的欲動!)、他者を排除する「破壊欲動」です。それは自己(権力)中心主義というものに過ぎません。
文化の持続を目指すにはなにより言論・表現の自由が不可欠です。フロイト、アインシュタインを亡命へと追い詰めたナチスは言論・表現の自由を認めず、反知性と感情優位の政権でした。それを目の当たりにしたアインシュタインはこう記しています。
──私の経験に照らしてみると、「教養のない人」よりも「知識人」と言われる人たちのほうが、暗示にかかりやすいと言えます。「知識人」こそ大衆操作による暗示にかかり、致命的な行動に走りやすいのです。なぜでしょうか? 彼らは現実を、生の現実を、自分の目と耳で捉えないからです。紙の上の文字、それを頼りに複雑に練り上げられた現実を安直に捉えようとするのです──。
「現実(=リアル)」を見失った、彼のいう「知識人」には現代でいえば、メディアも含まれています。自分に都合のよいものしか「現実」と認めないメディア、言論人には文化を生む批判精神が欠如しています。フロイトによればそれは戦争を容認することに繋がるのです。
平和への努力にあらがうものがあります。それはアインシュタインによれば「権力欲」、そしてこの「権力欲を後押しするグループ」なのだと。
──金銭的な利益を追求し、その活動を押し進めるために、権力にすり寄るグループです。(略)彼らは、戦争を自分たちに都合のよいチャンスとしか見ません。個人的な利益を増大させ、自分の力を増大させる絶好機としか見ないのです。社会的な配慮に欠け、どんなものを前にしても平然と自分の利益を追求しようとします。──
社会的な不平等を一顧だにすることなく猛進する(権力)行動こそが反文化的であり、戦争という破壊欲動を野放しにするものなのです。では、私たちは本当に「文化」の中に生き、その発展(非戦)を願っているのでしょうか……。今の自分たちを省みさせるアクチュアルで素晴らしい1冊です。http://music-book.jp/book/news/column/133734

大変興味深く読みました:

再生核研究所声明3462017.1.16) 愛について、愛の深まり 

(On this morning (2013.12.12, at 4:20), I waked up with the mathematical idea: ――。
Meanwhile, at 6:20, I got a new idea on the Principle of Love; I will be able to write a new Announcement on human beings.)
に基づいて、再生核研究所声明146(2013.12.17) 愛の本質、愛の原理 
を纏めた。― まず、愛とは何か、の定義を与えたい。 -  愛とは、共生感に基づく、喜びの感情である としたい。本質を捉えるのには、愛が現れている典型的なところから、捉えれば良い。すなわち、命を交換する, 再生の原理、親子の愛男女の愛から、愛の本質、原理を捉えよう。共に自らの命を存続させるべき、大いなる命への帰依への原理 が働いていることを知るであろう。これは 命を共有することを述べていて、愛の定義の妥当性を述べていると考えられる。当然 大いなる命の存続性から、喜びが湧かなければ、生命の基本定理が成り立たず、生物が存続できないことになってしまうだろう。 
述べたい、愛の原理を導くには、他から見れば、変な親子、恋人、夫婦でも 愛は存在して、多くは永く、愛の感情が続いていくという,事実である。これは何を意味するであろうか。共生感が共に生きている、精神的な世界全体の共感を伴う、共通世界の共有感が、存在している事実を表わしている。初期はいずれも生物の命の共有感、再生の原理が強く働くが、それが長く続くのは、親子も、夫婦も共に生きてきた共通の世界を共有していて、その間には 運命共同体の様な連帯の絆で結ばれていることを意味する。
こうなると、親子や、男女の間に関わらず、民族や国家も同じ精神、文化を共有しているとして、共生感、連帯感に根差す、愛、愛国心がおのずから湧くのは当然である。級友や同窓会、同郷の間で、共有する想い出に根差した愛が感じられるのは、当然である。志を共にした間、さまざまな仲間の間に愛を感じるのも 当然である。同じ、想い出、文化それらは、精神的な命そのものであり、それらを共有し、大いなる命に帰依したいと本能的に求めるからである。―
また、軍隊における部隊が、寝食を共にして生活していれば、一体の生命観を共有して、自己の命も部隊の命も同じような感情を有して、一糸乱れない行動をとるようになるだろう。現に 世における戦場では 部隊が同じ運命を共にしているのは明らかである。なぜならば、部隊を離れた、自己の存在は 意味がないように感じられるからである。
人は、国の為に命が掛けられるか と問う。 祖国亡くして生きる意味があるのかと問えば、是非に及ばず、国と運命を共にせざるを得ないだろう。それは、愛の本質からの、自然な帰結となるだろう。― NHK真田丸で、きりさんの、あなたのいない世界など意味がないから、命運をともにしたい、というような言葉が鮮やかに思い出される。
親子や夫婦に愛が有るのは、共有する大きな命、経験、想い出を共有しているからである。 逆に見れば、何でも質が大事であるが、深い付き合いが 愛を深める事になるだろう。これが 愛の本質であると考える。―
以上で愛の本質と愛を深める原理が 適切に述ベられていると考える。ここで、特に関心を持つのは 愛の初期、始めの様子である。
男女の愛や親子の愛は相当に本能的で、相当に普遍的な様子が見られ、異性に惹かれる、個々の対象の選択は誠に興味深く、微妙なものであるが、内在する性格の相性やそれまでの経験が左右しているのは明らかである。初期に会った異性の影響やそれまでに得た情報が左右しているだろう。この辺の分析は将来の大きな課題になるだろう。― 予感として運命づけられていたという観点、あの時、強い影響を受けた、惹かれた、目覚めたなど。
ここでは本能に基づくより、人間的な志や道を選び、修行を続け、どんどん深まっていく愛の初期に関心をもつ。感動と喜びを得るのは 人が志す大事な要素である。もちろんそれによって収入を得、心地よい名誉が得られるもそれらを後押しするだろう。
しかしながら、人間が自由であったら、人は一体何を志すだろうか。
生まれながらに惹かれる対象、関わってどんどん深まっていくもの、それらの何れもあるように感じられる。極めて微妙である。道でも、男女の愛でも、志でも人間には能力的に限界があるから、多くは方向、対象が限られてきて、関心や興味、感動を覚える対象がどんどん特定される性格を多くは持つ。それで、それぞれの達人や専門家に成長するのが多い。しかし、これらは他方、若さゆえの柔軟性や多面性を失い、対象が狭く、深くなる傾向も有る。
ところで、この声明の趣旨は何だろうか? そこで、ゼロ除算の状況で触れると、ゼロでは割れない、考えてはいけないは数学界の100年を超えた定説である。 これが考えられると急に言われても 基礎となる知識、イメージが全然湧かないので、信じられない、具体的な例を沢山示されても 愛情も、関心も湧かないは 世に多い。このような状態ではもはや真智への愛に対する感情、意欲がない状態と言える。これは素敵な夫婦が伴侶を失って相当な歳月が経って、良い再婚相手を紹介されても 何の興味も関心も湧かないのに極めて似ていると言える。意欲、愛が湧かなければ始まらない。産声、それは生命の歓喜の喜びと言える。生命力が吹き出た様、ビッグバンのようである。その始まりをゼロと表現するとゼロの世界は深く、世界がそこに内在しているとも言える。爆発、発展させていく力、エネルギーが愛であると表現できる。人間はどのように作られているだろうか。

以 上

再生核研究所声明180(2014.11.24) 人類の愚かさ ― 7つの視点

ここでは、反省の意味を込めて、あるいは教訓として 人類の愚かさについて、ふれたい。 この辺は間もなく克服されて、人類は少し、進化できるのではないだろうか。

1)死の問題、死を恐れる気持ち: これはきちんと死を捉えれば、死は母なる古里に帰る様なもの、また、生まれる前のようであるから、本来、一切の感覚の離れた存在であり、恐れる存在ではなく、人生で、別次元の問題であり、生きるのも良く、終末も良い が在るべき在り様である。これで、人間は相当に自由になり、人生は明るいものになるだろう。 2000年以上前のソクラテスの弁明には 既にそのような観点が述べられていることに注目したい(再生核研究所声明19: 超越への道、悟りへの道; 再生核研究所声明47:  肯定死; 再生核研究所声明63: 解脱、神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得; 再生核研究所声明68: 生物の本質 ― 生きること、死ぬること; 再生核研究所声明99: 死の肯定、在りよう、儀式、将来への提案; 再生核研究所声明118: 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、と言える面もある ― ; 再生核研究所声明175:人間の擁く 大きな虚像)。
2)神、宗教の問題: 神も、宗教も本来、自分の心の有り様にあるのに、いろいろ歪められた、教義などにこだわり、多くは虚像を求めたり、虚像に頼ったりしている愚かさ(再生核研究所声明175: 人間の擁く 大きな虚像)。その辺の理解には、さらに多少の時間が掛かるのではないだろうか。― 愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。― しかしながら、神や宗教が祭りや文化、習慣に強い影響を与えているので、そのような観点からも、古い概念も尊重、大事にして行きたい。
3)争いと競争: 世には、スポーツ界などのように、競争など古い生物的な本能に基づくものは確かにあるが、世界史に見られる多くの戦争や、紛争、争いの多くは、あまりにも馬鹿げていて、和や共存,共生で 賢明な有り様が多く、このまま世界史を閉じれば、世界史は 人類の恥の歴史と見える程ではないだろうか。しかしながら、賢明な有り様に目覚めるのは 時間の問題ではないだろうか。これは人間関係についても言える(再生核研究所声明53: 世界の軍隊を 地球防衛軍 に; 再生核研究所声明4: 競争社会から個性を活かす社会に)。
4)民主主義: 多様な意見を出して、いろいろな視点から、在るべき姿を考えるのは、物事を考える基本であるが、多数決での決定は、根本的な間違いである。進化した数学界などでは考えられないことである。数学界では一人の意見でも議論して、討論して、検証して、相当に少数でも、正しいと判断されれば、それは受け入れられるだろう。 政治の有り様に どんどん科学的な決定方法が導入され、いわゆる多数決による政治的な決定は どんどん小さくなって行くだろう。多数の決定は 本末転倒の衆愚政治や 無責任政治を蔓延させている(再生核研究所声明33: 民主主義と衆愚政治)。例えば、安倍政権は経済政策の是非を問う、解散、総選挙だと言っているが、経済政策の有り様など 国民には判断できず、真面目にそう受け止めるならば 投票はでたらめになってしまうだろう。これは、何か大事なことを隠しているとしか理解できないのではないだろうか。
5)天動説が地動説に変わる時の愚かさ: 新しい学説、地動説に対して、大きな反対が出たのは、世界史の恥ではないだろうか。 真面目にきちんと考えれば、簡単に受け入れられる事実ではなかったろうか(再生核研究所声明105: 人間の愚かさ、弱点について)。
6)非ユークリッド幾何学の出現に対する拒否反応: これは 5)と同じように モデルなど真面目に考えれば、ほとんど明らかな数学であるにもかかわらず、根強い反対に会った、苦い歴史から、人間の思い込みに対する愚かさに反省、教訓を学びたい。
7)ゼロ除算の理解: ゼロ除算は 千年以上も、不可能であるという烙印のもとで,  世界史上でも人類は囚われていたことを述べていると考えられる。世界史の盲点であったと言えるのではないだろうか。 ある時代からの 未来人は 人類が 愚かな争いを続けていた事と同じように、人類の愚かさの象徴 と記録するだろう。
数学では、加、減、そして、積は 何時でも自由にできた、しかしながら、ゼロで割れないという、例外が除法には存在したが、ゼロ除算の簡潔な導入によって例外なく除算もできるという、例外のない美しい世界が実現できたと言える。
ゼロ除算100/0=0,0/0=0 については 5),6)と同じような過ちをおかしていると考える。何時、5)、6)のように ゼロ除算は 世界の常識になるだろうか:
数学基礎学力研究会のホームページ:http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku

この声明は、次と相当に重なる部分も有しているので、参照: 再生核研究所声明172: 人間の愚かさについて
以 上
安倍首相がアメリカから5年で30兆の武器買う約束してることが判明 (1年で6兆円)
http://foreignpolicy.com/2015/07/16/japans-expanding-military-role-could-be-good-news-for-the-pentagon-and-its-contractors/

米国の2016年度国防予算、日本が安保法制を制定することが前提に組まれている
Published: May 13, 2015
US defense budget already counting on Japan self-defense plan
http://www.stripes.com/news/pacific/us-defense-budget-already-counting-on-japan-self-defense-plan-1.346012 

再生核研究所声明181(2014.11.25) 人類の素晴らしさ ― 7つの視点
                              
ここでは、人生、世界の賛歌の形で、人類の明るい面、素晴らしさに焦点を合わせてふれて,  生命の、人生の素晴らしさを確認し、希望と勇気を奮い立たせたい。

1)神、信仰: 人間がユニバースの創造者の概念を懐き、神の概念を得て信仰のレベルに達したのは素晴らしく、人間の根源的な才能であると評価したい:― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―
2)求道: 人間が 己が何ゆえに存在しているのか、私は何者かと問い、存在の意味を求めて、修行し、在るべき有り様を真摯に追求している姿は、真に人間として尊いと言える。
3)愛: 愛とは共生感に基づく喜びの感情であるが (声明146)、多くの愛は人間社会の喜びの源泉と生きる力である(再生核研究所声明134: 私の命よりも 大事な 私 ― 人間の崇高さ、素晴らしきかな 人間)。
4)言語: 言語を使用して、交流でき、意思疏通ができ、あらゆる生命活動について、共感、共鳴できる人間の素晴らしさ。愛の基礎ばかりではなく、精神面での生命の伝播、記録、共有さえ可能にしている。
5)芸術: これは、絵画、音楽、歌、文学、スポーツ、技巧、あらゆる人間の創造的な活動の文化活動の営みを挙げることができる。これには、いわゆる名人芸、技術、芸能など、 芸術で捉えられる分野は広く、深く広がっている。
6)科学: ニュートン力学やアインシュタインの理論、電磁波の発見や応用、数学ではオイラーの公式や微積分学の発見など、近代科学の素晴しさはそれこそ、神の意思を真摯に追求しているものとして高く評価される。これは医学や工業技術など近代科学などを広く捉えることができる。
7)義: これは世界史に多く記録される、大義のための自己犠牲の精神であり、個人を超えた大きな存在に対する帰依の精神である。この大義は、実に様々に捉えることができるが、己の命を超えた存在に対する、自己犠牲の精神である。

人間の素晴らしさは 全て、 感動にすること に結びつくだろう(再生核研究所声明 12: 人生、世界の存在していることの意味について )。
以 上

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