2017年1月27日金曜日

「この世界はクソだ」と知ることから始めよう 第3回(全3回)<新春対談2> - 津田 大介/安田 菜津紀

「この世界はクソだ」と知ることから始めよう 第3回(全3回)<新春対談2> - 津田 大介/安田 菜津紀




 
 ジャーナリストでありメディア・アクティビストの津田大介さんと、フォト・ジャーナリストの安田菜津紀さんは、今年、世界と日本のどんな動きに注目しているのか?
 不寛容、当事者性の欠如、効率性至上主義……「クソ」なのは日本だけじゃない。そんな世界を私たちはどう生きていくのか。メディアに何ができるのか。連続対談の最終回です。 
                       (構成:岡田仁志 写真:岡村大輔)

■日本より欧米での報道のほうが大きかった相模原の事件

安田 電通の24歳の女性社員が自殺したこともあって、去年はブラック企業の問題も大きく浮上しました。今年は政府も「働き方改革」なるものに力を入れるようです。
津田 あの自殺は、避けられたはずなんですよ。なぜなら、電通は90年代にも同じような自殺者を出して、その裁判では企業側に初めて過労自殺の責任を認める判決が出ているからです。労働裁判の歴史に残る判例を悪い意味でつくってしまった電通が、再び同じことを繰り返した。これは非常に大きな話です。

 ただ、これは電通だけではなく、日本社会全体の問題とも言えます。いまだ社会のいたるところに男女差別が残っているし、それが彼女を追い詰めた面もある。「われわれ全員が彼女を殺したんだ」という当事者意識を持たないといけない。
安田 私の周囲では「あれは自分だったかもしれない」という声が予想以上に多かったんです。「長時間労働+パワハラ、セクハラ」というのは、多くの若い世代にとって他人事ではないんですね。

 まったく違う事件ですけど、去年起きた相模原の大量殺人事件と過労自殺は根底でつながっていると思うんです。どちらも、「生産性」や「効率性」が社会の物差しになっていることが大きな要因。生産性や効率性だけを重視すると、障害者を排除する考え方になってしまうし、働き方もどんどん過酷になります。
津田 相模原の事件はナチスの優生思想と近い話ですよね。その意味では人類史的な大問題と言える。ところが日本では、あっという間に忘れられてしまった。日本より欧米での報道のほうが大きい扱いで報道されていた。

 本来、あれは思想界や批評界が大文字で論じるべき話だったと思いますが、日本ではそういう言論が出版界も含めてなくなってしまったんですね。昔の日本なら、あの事件をきっかけに論壇誌が大特集を組んだでしょう。でも、いまは論壇もメディアもそういう機能を失ってしまった。
安田 若い世代が抱えているこの生きづらさは、どうしたらいいんでしょうかね。
津田 やっぱり「この世界はクソだ」と認識することからスタートしないといけないんじゃないですかね(笑)。だって、トランプが大統領になっちゃうわけですから。そういうクソな世界を目の当たりにして「自分はちっぽけすぎて何もできない」という思いを抱えて、それが生きづらさや政治不信につながってるような気もしますね。

■報じられなくなってしまった、熊本・益城町の現状


 
 
津田 解決方法が何かあるとするなら、僕は複数のコミュニティに属することしかないと思います。コミュニティがひとつしかなくて、それが最悪な場所だと、どうにもなりませんよね。日本の場合は会社にしろ学校にしろコミュニティが強すぎるから、ひとつしかないとそれこそ逃げ場がなくなってしまう。だから、いろんなコミュニティに属して、そこを移動する。
安田 高校生時代にカンボジアに行ったとき、向こうの家族の定義の大雑把さにビックリしたんです。スラム街のボロボロの家に子供がワサワサいるので、「これ全員お母さんの子ですか?」と聞いたら、違うんですよ。「これがうちの子で、それは隣の子、あっちは…おまえ誰だい? まあ、いいけど」とか言ってるの(笑)。それを見てから日本に戻ったとき、「こんなに人間がたくさんいるのに、この国は寂しい…」と頭がクラクラしました。

 そう言えば、ウガンダから来た友達に「日本の満員電車どう思う?」と聞いたら、「あの体積にあの人数でしょ? ウガンダだったら、たぶんみんなで歌ってる」といわれましたね。その発想はなかった(笑)。山手線に1両だけカラオケ車両を用意したら、世界はクソなりに楽しめるかもしれない。
津田 都電なら貸し切り可能だからできるかも(笑)。http://blogos.com/article/207545/

再生核研究所声明284(2015.2.9) 世は矛盾の中に存在する、 混沌と言える

まず、再生核研究所声明215(2015.3.11) ゼロ除算の教え から復習しよう:

ゼロ除算は、数学ばかりではなく、 人生観、世界観や文化に大きな影響を与える:
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界

ゼロ除算における新現象、驚きとは  Aristotélēsの世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として受け入れることである。
と述べた。

ゼロ除算は 無限遠点(無限)が 実はゼロ点(ゼロ)と一致していたという 驚嘆すべきことを言っているが、それらは対立するものの奇妙な一致を述べている。
食物連鎖の厳しい現実は、食べるものと食べられるものの一致、生と死の一致、愛と憎しみ、愛と性など 一見反するものの微妙な調和、同等性、一致はそれこそuniverse に普遍的に見られる現象ではないだろうか。 そのような視点は universeの理解、概念に新しい感覚と世界を拓くだろう。またそのような事実、世界を肯定できなければ、universe を肯定できないのではないだろうか。
富める者は貧しき者であり、貧しき者は富める者である。強いものは弱いものであり、弱いものは強いものである。敵は味方であり、味方は敵である。幸せな者は不幸であり、不幸な者は幸せ者である。
一般に考えられているのとは逆に、長命なものは不幸であり、短命なものこそ幸せであるとは言えないだろうか。
進化は退化であり、退化は進化であり、美しいものは醜く、醜いものは美しいものである。
賢い者は愚かな者であり、愚かな者は賢い者である。優れるものは劣るものであり、劣るものは優れたものである。正義は悪であり、悪は正義である。明は暗であり、暗は明である。動は静であり、静は動である。
それらは、ゼロ除算のように惹きつけるものがあるのではないだろうか。
声明で述べたい主旨は ウィキペディアにおける天敵の項の説明のように、世は矛盾や複雑な利害関係で成り立っているということである:
自然生態系では、生物は食う食われるの関係でつながっている。ここで”食う”というのは、必ずしも捕食を意味するものではなく、寄生であっても、相手を殺す寄生になれば、それも含める。たとえば寄生蜂のような捕食寄生のものや病原体も含まれる。そのような生物を、食われる側の生物の天敵と呼ぶ。
実際の生物群集では、あるものを食う生物が一つしかないことは少なく、それぞれの生物は複数の天敵を持つ。ただし、食物網の高い段階のものでは、天敵種が少ないものも存在する。
生物群集では、これら食う食われるの関係が複雑に組み合わさって、各種生物の個体数は、長期的にはおおよそ保たれている。どれかの種が増えれば、それを捕食とする天敵が増加し、結果としてその種を減少させる力がそれまでより強まるからである。逆に天敵が増えすぎた場合も、捕食される生物の不足などの諸要因により数が抑制される。
人工的環境である農地では、人為的かく乱による天敵種数と個体数の減少により、害虫が大発生することがよくある。また、それまでそこにはいなかった生物(外来種)が進入した場合にも、天敵の不在により、外来種の大発生が引き起こされる可能性がある。
確かに 悪いことをする人がいなければ、多くの警察官や司法関係者は少なくて済む。 敵国の軍隊が弱ければ、自らの軍隊もそう増長する必要もない。 これらは 世の中は微妙なバランスの上に成り立っており、一面で判断したり、拘り過ぎたり、やり過ぎたりすることの危険性を述べており、 広い視野、バランス感覚の重要性を述べている。
一面の主張、行き過ぎに注意して、相手の立場や、逆の立場に思いを致して行きたい。総合的に判断する、世の流れを掴むような努力もしたい。

以 上

再生核研究所声明209(2015.2.15) 政治的な配慮 ― 悪の素 ―社会の進歩とは
(昼食後の 何時もの散歩の折り、ひとりでに考えが湧いたものである)

世の秩序を考えれば、あるいは社会の法則として 次の公正の原則を 基本に考えれば 大抵の問題は解決できると述べてきた:

平成12年9月21日早朝,公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました. 
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか. 
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか. 
3) それはみんなに受け入れられるか.  
4) それは安定的に実現可能か. 
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる. 
(再生核研究所声明1)。

相当にしっかりした、上記基準に基づいた判断に いわゆる 手心を加える、それを政治的な判断と 世では 言うのではないだろうか。上記の基準で判断できるものに対して、 配慮するとは 一部の人や、グループ、あるいは自己の立場を有利にしようとする いわば 悪の素と言えるのが 政治的な判断である。
実際、世の多くの問題について、公正の原則で 解決できるものならば、その解決は言わば科学的であり、客観的な判断で 社会の多くの問題は解決できる。政治的な判断が出来る要素は どんどん少なくなり、社会は進化し、政治家の役割は どんどん減少して、科学的に 官僚機構が社会を動かして行くようになるだろう。― 実際、世界史の進化は どんどんそのような方向に進んでいると言えよう。古くは王などが 直接政治を指導して王権が大きな力を持ち、実際に動かしていたものが、どんどん役割を減少させ、官僚機構が実際の多くの部分を動かすように進化してきている。経済政策などでも 科学的に客観的に対処する方向で 進んで行くであろう。
権力者や、実際の責任者が、上記公正の原則に反して、一部の利益、立場を優遇させれば、それは悪の素であり、社会正義に反するものである。されば、政治家は 多くは公正を重んじる裁判官のような役割を果たすようになり、政策の方向性は、多くは官僚機構が進めることになるだろう。民主主義の考えの下で、多数による決定は非科学的であり、本質的に望ましいものではなくて、民主主義の良い点は、いろいろな意見を自由に出せること、そして、変な政治家を排除できるところにある。民主主義は 多数決で決定するところにあるのではない と考えるのが妥当である。 多数決による決定は、衆愚の決定そのものである。
国家や社会は、多数の人々の自由な意見表明を、言論界やマスコミ関係者が議論させ、政治家が それらの状況を判断して 導いていくと考えるのが、妥当ではないだろうか。
結論は、政治的な判断を 少なくして行くことこそ、社会の進歩の原理であると考える。

以 上

再生核研究所声明304(2016.06.16) いじらしい人間

人間とは何ものかによって 作られた存在 であり、気づいてみたら生まれていた、存在していた。夢中で生きていたら、それらはみな言わば作られた存在として、基本的なありようは定められていたといえる。気づく以前は本能原理の基で、多くは環境に左右され、環境に合ったように多くの動物のように 生きているといえる。
作ったものに意思があるとすれば、それはちょうど作ったものの意思に従って生きているだけであるともいえる。― この観点では、人間の自由意思の存在さえ疑わしくなる。自由意志の存在しないところでは是非は 問えず、全ては神域に属することになる。
人間は生物であり、動物であり、生物や動物の本能、生きること、種の繁栄を求め、そして、人間存在の原理、感動することを求め、真智への愛などが人間の基本である。
男女の愛、家族愛、真理の追究、好奇心、新規なものに興味を抱く、愛国心や名誉心、褒められたいなどの基本的な欲求も 作ったものの意図 を想像すれば、極めて当然で、人間の本性が顕にみえてくるだろう。そのような意味では、人間すらロボットや多くの動物、子供たちのようにみえてくる。
そのような意味では、善人も悪人も 分けた意味では 本質的には存在せず、みな本質的には同じような存在であるといえよう。たまたま悪い条件、環境で育ち、歪められた精神を有して、誰でも願う基本的な欲求が満たされず、自己中心的に行動してしまう状況に追い込まれてしまっているといえる。
多くの独裁者や権力者が 自分の生命、家族を守るためなど、極めて基本的なものを守るために、異常に権力を志向して おかしい状況に追い込まれてしまっている様を本質的にみることができるだろう。裕福なものや高官達も本質的には同じようではないだろうか。基本的なこと、基本的なところを守るために過剰に発想(行動)してしまい、おかしな状況に追い込まれている様を多くみることが出来るだろう。― 庶民から見れば、おかしな異常感覚にみえる状況は世に多いのではないだろうか。
そのような視点からみえてくる人間とは、いじらしい人間である。作ったものの定められた原理に忠実に従い、行き過ぎた存在、そのような意味で、いじらしい人間として、共感、共鳴、理解できれば、俗にいう悪い人も許せる大きな心を持てるのではないだろうか。広い視野と慈しみのような心を 同じ運命を共有している者として持てるのではないだろうか。
世の悪の素とは、身勝手になってしまい、自己中心に考えてしまうことではないだろうか。
それは余裕が無い状況ともいえる。そのような意味では、 良い社会を作る原理は 次に述べられている 公正の原則にあるといえる:

再生核研究所声明1(2007.1.27): 良い社会を作るには。

作られた人間、いじらしい人間といえば、生命の基本定理、生きて存在しなければ始まらない、いつまでも存在していたい、生きていたい という原理に人間は縛られていて、この原理から、解放されず、いつまでも縛られている、哀しい人間のことである。次も参照:

再生核研究所声明301(2016.05.23) 人間の愚かさ―人間の賢さ
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か

哀しくとも、浅ましい存在ではなくて、賢明で爽やかな存在になりたい。
以 上

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