2014年9月2日火曜日

アゴラ2014年09月02日午前2時35分「24時間テレビ」でギャラをもらうことの是非について - 尾藤克之


アゴラ2014年09月02日午前2時35分「24時間テレビ」でギャラをもらうことの是非について - 尾藤克之


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夏恒例の「24時間テレビ」が終了しました。瞬間最高視聴率41.9%(平均視聴率17.3%)を記録して、改めて番組の認知度の高さが明らかになりました。ところが、24時間テレビは出演者に高額なギャラを支払っているため、このギャラの扱いをめぐっては、肯定派と否定派に二分されることが少なくありません。
●ギャラ肯定派と否定派の意見
1)芸能人の認知度で募金も集まるなら良い
芸能人は、これまでの活動によって、フアンや支援者がいるためメディアへの影響力が強い。芸能人が声をあげることで多くの人に浸透して、多額の募金が集まるなら問題は無い。
2)芸能人が出演するわけだからギャラは当然
24時間テレビで集まる募金は、15億4522万6444円(2013年)です。今年も同程度の募金が見込まれています。募金が集まることで福祉に関する諸問題を解決できるわけですから、参加した芸能人にギャラを渡しても何ら問題は無い。
昨年、写真週刊誌のFLASH(8/13号)は、番組総製作費が4億2000万円で、CM収入の合計が22億2750万円だと報じています。これに募金を加算すれば、番組総収入は相当な額になります。
1回で約15億円を集められるチャリティー番組は稀有でしょう。瞬間最高視聴率41.9%は「家政婦のミタ」「半沢直樹」とほぼ同等の数値です。広告収入が減少するなか、TV関係者にとって魅力的な番組であることには間違いありません。
さらに年に1回とはいえ、社会福祉について考える機会が拡がりますから、高齢化社会を迎えている日本では、学習的な効果も期待できます。
ギャラ否定派の意見としては次のようなものがあるでしょう。
3)障害者に対する誤った理解
番組における、障害者の取り上げ方に問題があります。啓蒙する内容ではなく、気の毒、可哀想という、健常者視点に留まっているため、障害者教育の観点からすれば好ましくありません。むしろ差別感を助長させる危険性すらあります。
●ボランティアとは何なのか?
ここで、ボランティアの定義について考えてみましょう。ボランティア活動をする際に、ボランティア精神という言葉を耳にすることがあるでしょう。ボランティアに関しては参考になる定義があるため主要なものを紹介したいと思います。
アメリカ(米国労働省労働省)
団体の活動を通じて、あるいは、団体のために無償で行った行動。交通費や材料費等の実費を受け取っても無償活動の範疇と考えられる。
イギリス(ボランティアのための国立センター)
無報酬で時間を割く活動、親しい人以外の誰かに役立つこと、あるいは環境に役立つこと目的とした活動。求職者手当規則のなかで利益以外を目的とした団体のために働くこと。
日本(文科省生涯学習審議会)
ボランティア活動とは、自発的意志に基づく、公共目的のために行われる無償の活動のことをいいます。そうした活動を進んで行う人のことをボランティアと呼んでいます。
各国ともに、ボランティアの定義は無報酬が原則になっています。本来は無報酬であるはずのボランティア活動が収益化されていることに違和感を感じている人が多いのでしょう。
私は、有償であることが問題なのではなく、同番組が社会福祉を広く認知させて、長きに渡り国民意識に根付いていることや、多額の募金によって各種福祉問題を解決する一翼を担っていることは、賞賛すべきであると考えます。
ですが、24時間テレビは、チャリティーやボランティア活動ではありません。正確に記載するなら、有償チャリティー、有償ボランティア活動にあたります。今後も、チャリティーやボランティア活動をうたうのであれば、先人から受け継がれてきた精神は遵守しなくてはいけないでしょう。
また、物語としてのストーリー性を追求しすぎないことです。必要なことは、頑張っている障害者を登場させて物語風にアレンジするのではなく、社会福祉全体を鳥瞰して、障害者を取り巻く課題を番組としてどのように取上げていくのか。そして、解決をする示唆ができるかだだと思います。
●読者への示唆
心身に障害をもつ人が社会参加を果たすためには、さまざまな「壁」があります。物理的な壁や制度上の壁は、政治や行政の努力で取り除くことができます。しかし偏見や差別など、社会に根付いている「心の壁」を取り除くためには、社会福祉の概念を根本的に見直す必要性があり、それは社会を変革するという時間のかかる課題です。
障害を持つ人たちでも社会構成員の一員として、社会の恩恵を等しく受けることができるノーマライゼーションを実現するには、社会福祉や社会のあり方の概念を変革する途方も無い作業が必要になります。そこに生きる人の心が貧しい社会であっては、ノーマライゼーションを創造することはできないからです。
尾藤克之
経営コメント勤務サイトルー人物勤務サマリーhttp://blogos.com/article/93612/
再生核研究所声明125(2013年8月24日):お金の問題 - 貨幣について - 本質論
(2013年8月17日再生核研究所声明に関心を抱く人の 夏休みを利用して 順次触れたい)
まず、お金の述語を確認しておこう:
貨幣とは、経済学上は(欧米のMoneyやMonnaieなどの用語に対応する訳語として用いられ)、「価値の尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」の機能を持ったモノのことである。
広義には、本位貨幣の他にも、法律により強制通用力を認められている信用貨幣も含めて指している[1]。つまり「貨幣」という語で、鋳貨・紙幣に加えて(当座預金などの)信用貨幣も含めて指す場合が多い[2]。
貨幣(として用いられるモノ)が額面通りの価値を持つためには、その貨幣を発行する政府に対して信用が存在することが必要条件である。政府は、租税の算定に通貨を用いる。
なお、慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせて「お金」と呼ぶことが多い。(ウィキペディア)
お金の重要性、価値については、簡潔に地獄の沙汰も金次第という諺に表されるであろう。実際、人間の多くの価値が その本質が見出される。人間の価値には 生命が救われたりする状況は 資本主義の発達したアメリカではアメリカンドリームとは 献金の額で決まるなどと揶揄されている。そこで、人生の多くの部分が
ところで、そのお金の価値であるが、人間の欲求の数値化であるから、生鮮食品の価値の変動や、株価、外国為替の変動のように絶えず、変化するものであるが、他方国家が、国家予算を通して国家を運営している現実が有るので、世の価値としては最も信じられるものであることには変わりはない。普遍(不変)的な価値を持つとされる、金でさえ非常時やハイパーインフレーションの際、本物か否かの判定や流通性に問題を起こして、有効ではなかったとされている。
さまざまな価値の数値化であるから、実際には極めて難しく、ものの値段や年俸、報酬など歴史と文化を反映させ、慣例さえ尊重しなければ、数値化はたちまち、大混乱を起こしてしまうだろう。再生核研究所声明72(2011/12/06)慣性の法則 - 脈動、乱流は人世、社会の普遍的な法則も参照。
そこで、人間の多くの欲求がお金で叶えられるものであれば、お金が大事は無理からぬという現実がある。実際、お金が十分あれば、相当な自由を得て、好きなことが出来るのであるから、一応の理想的な状況に相当近づくことが出来ると考えられる。
美しい曲を奏でる、それが幾らに値するかは聞く人の個人によって評価はいろいろであるが、プロとなると自分で評価して、客を呼ぶのであるから、厳しさが有るが、しかし、それは音楽に限らず多くの価値がそうである。画家は、この絵を幾らで売りたいと宣言するだろう。漁師がこの魚を幾らで売りたい、と同様である。ギャンブルや宝くじのように夢さえお金に変えて売買できる。人間の価値さえ、その稼ぎの大きさによって評価される面は確かに世に多いと言える。作家、画家、スポーツマン、芸能人、等々、また地位さえ、収入で評価される面は多い。近年、大学の人事評価などでも研究費をどれほど得ているかは、大きな評価の要素に成っていて、科学研究費など生涯の研究補助金額がインターネット上に公開されている。
これらは要するに、かつての農村社会で広く実現していた 上述のように極めて顕著に見られる。いわゆる 再生核研究所75(2012年2月10日)声明:政治·経済の在りようについても参照。
宗教界でもお金は必要であるから、神のごりやく(ご利益)を除いても関係者の生活費や、神社、仏閣の維持の観点からもお賽銭や寄付を必要とするのは当然である。少し、間違えると、中世、西欧で行われた免罪符の発行や救われるための献金を要求しかねない状況に追い込まれてしまう。いわゆる戒名なども売買される、布施の額の大きさで左右される可能性を有する。無理からぬ面も有ると、理解できるだろう。選挙におけるいわゆる買収などは、何時も起きている現象ではないだろうか。
されば、お金とは何かお金の背後にあるものは、それは様々な人間の考える価値の数値化で、その価格によって、交換される数値化であり、国家と複数の人からなる社会の一定の承認を得た数値化であると言える。
本の価値と1000年円が 等価となるだろう。このような連鎖を続けて行くのがお金の本質であると言えるだろう。
お金とは、そのような数値化における、交換を物理的に行うもの、可能にするものであると言える。
以上

再生核研究所声明126(2013年8月25日):お金の問題 - 貨幣について - 如何に使うか、支出について
(2013年8月17日再生核研究所声明に関心を抱く人の 夏休みを利用して 順次触れたい)
上記で声明125で本質論を纏めたので、多くの人の関心を抱く、収入のまえに支出について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第という大事なお金を如何に使うかである。
あらゆる生物は自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように声明1 と同じように、実はそう簡単でないとも言える。
純粋な数学の研究者たちは、若いころはお金に関心を持たず、自由な時間こそ、尊いと評価している人が多いのではないだろうか。家族をもって、家族のためや、子供の為にお金が必要だと気づくのが多いのではないだろうか。再生核研究所声明36を参照。
自分達の生活と将来の為に特にお金を大事にしたいは、まず、第1歩である。それは社会に迷惑をかけないで自立して生きることであるから、尊いとも言える。後は、多様性の原理で余裕のあるお金を如何に使うかであるが、それは、個々の価値観に依るのは当然である。そこで、支出で悩ましい事例を挙げて、世の問題として、提起して置きたい。
1)多くの国に行くと、物乞いに会うが、どうしたら良いか - 物乞いを無くすることが、できないだろう。
2)これは世に多く有る、募金や献金もそのような面を有して、場合、場合によって悩まされる。募金など、あちこちにあってきりがない状況であり、何時も割り切れない気持ちを残すだろう。
3)政治献金などは 殆どできないのではないだろうか。
4)いわゆる援助では、多くの場合、その時​​、援助に成ってもそれが自立を妨げ、永く尾を引く問題を抱えているのではないだろうか。
5)ところで、なぜ修行僧への施しをするのだろう。
6)上記に対して、大道芸人、ライブ、演奏、教室などなど 良いのではないだろうか?もちろん、良い社会のための営みと判断される場合は 有難迷惑に当たり、そのような押し付けは世に多い。
7)いわゆるチップであるが 大抵は多めだと喜ばれるのは当然である。有難迷惑も多い。
お金を楽しく という諺は良い心がけではないだろうか。
以上

再生核研究所声明127(2013年8月26日):お金の問題 - 貨幣について - 収入について
(2013年8月17日再生核研究所声明に関心を抱く人の 夏休みを利用して 順次触れたい)
上記で声明125で本質論を纏め、126で声明 という大事なお金を如何に得るかという観点である。
あらゆる生物は自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように声明1幸いであると言える。理想国家では
特に資本主義社会では人間の自由な活動が大幅に許されているのでお金を得る方法は分類さえできないほど多様であるということである。特にインターネット、情報産業の発展によりその多様性は格段に増加して、どんどん新しいビジネスの方法が開拓されているのが現実である。サービス業や創造活動によるビジネスもきりがないほどである。
されば、収入における問題点とは何だろうか?これは始めから大問題である。収入のある人は問題ないとも言えるので、収入のない者の立場にまず、思いを致そう。
日本国憲法は
日本国憲法第25条は、日本国憲法第3章にあり、社会権のひとつである生存権と、国の社会的使命について規定している。
第二十五条すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
と謳い、実際に最低生活を保証し、実際に施行しているから、実に素晴らしい社会の実現であると高く評価される。この最低生活の保障について、実際に働いて給与を得ている者より、逆に、働かず、最低生活の保障の額の方が高い収入という、一見奇妙な逆転現象さえ起きて、社会問題になっている。
しかし、ここで、生存権として、人は基本的に同じように生きる権利が有り、同じように収入を得て生きられるようにするは、収入にあたっての一つの原則であると考える。かつて、(教授、助教授、講師、助手の)職種に関係なく年齢給で支給していた大学が有ったが、それは流石に行き過ぎだろう。しかし、身分によってあまりの差を付けることはこの原則に抵触すると考える。 
最低生活の保障は 収入のない失業者の問題である失業問題自身の対応については、再生核研究所42声明:大失業時代を参照。
次に注目すべきは 世に多い。
その点、投資、ギャンブル、為替の売買などは直接的で、簡明な手順だが元金の有無が問題であり、危険性も伴うだろう。
安定収入を得るにはいわゆる固い職業に就くことであるが、冒険的に生きたい者は、ビジネスの開拓、ベンチャービジネスを志し、いわば持てる能力を思う存分に複雑な社会で活かしたいと考えるだろう。実際、成功して、大きな夢を実現している者は世に多い。活力ある社会を創造し、豊かな社会を築くために歓迎されているが、大きな視点からは、地球環境問題に抵触したり、社会性に反する形相を持つ面が強くなる可能性が高くなるので、大いに気を付けたい。
一応は以上で良いとしても 判事などには、特別に相当な給与が
以上
再生核研究所声明1(2007年1月27日):美しい社会はどうしたらできるか、美しい社会とは:
最近の世相として,不景気・政界・財界・官界・大学の不振,教育の混迷,さらにニューヨークのテロ事件,アフガン紛争,パレスチナ問題と心痛めることが多いことです.どうしたら美しい社会を築けるでしょうか.一年半も前に纏めた次の手記はそれらのすべての解決の基礎になると思いますが,如何でしょうか.
平成12年9月21日早朝,公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました.
1)法律、規則、慣習、約束に合っているか。
2)逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。
3)それはみんなに受け入れられるか。 
4)それは安定的に実現可能か。
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる.
現在,社会の規範が混乱し,不透明になっているように思うが,公正の原則を確認して,行動していけば - これは容易なことではないが - 世の中ははるかに明るくなり,多くの混乱は少なくなると思いますが如何でしょうか.
また,こういうことを考える教育は,人間関係や社会生活の基本的な在り方を明らかにし,環境の保全などにも貢献すると思います.
特に少年期の教育にあっては哲学(ものごとの本質と人生,世界を考えること),道徳,芸術,体育などを中心とする人間を育てる教育に改めるべきではないでしょうか.国や隣人を愛せるようになる教育,多様性を重視し,個性や隠れた才能を伸ばし,友情を育み,人々が助け合うようになるような教育が望まれます.

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