記事
鳥井 弘文2014年09月24日 10:58古くて新しい“遊芸”に立ち返る。
人形浄瑠璃「にっぽん文楽」の新たな挑戦。
どうも鳥井(@hirofumi21)です。
先日ご縁があって、「にっぽん文楽」プロジェクトのプレスイベントに参加してきました。
「にっぽん文楽」プロジェクトとは、人形浄瑠璃・文楽の価値を多くの方に再認識してもらおうとスタートしたプロジェクトです。
このプロジェクトは、日本財団が計1億5千万円を支援して、日本の伝統工法を駆使したヒノキ作りの「組み立て式舞台」を制作し、2015年3月の東京・六本木ヒルズアリーナを皮切りに全国各地で公演を行いながら、文楽の魅力や価値を国内外に発信していくともいうの。
今日はこのプレスイベントを通して感じた「古くて新しい“遊芸”に立ち返る」ということの可能性について少し書いてみようと思います。
閉ざされた空間にこもってしまった文楽
写真一覧
もともと文楽は、茣蓙(ござ)などを敷いて屋外で観覧するスタイルが発祥。神社やお寺の境内などで、庶民に対して行われていたのが始まりです。
しかし、現代では新国立劇場など立派な劇場で行われるのが一般的になってしまいました。
「いつのまにか“劇場”という閉ざされた空間の中にこもってしまい、芸術性が高まりすぎてしまった。」と語るのは、文楽人形遣いの桐竹勘十郎さん。
「文楽は、今まで文楽を見たことがない人や若者にとっては、非常に敷居が高いものになってしまった。芸が向上していくことは素晴らしいことではあるけれど、その一方で見る人間が減っているのは非常に残念だ」と桐谷勘十郎さんは仰っていました。
「古くて新しい“遊芸”」という可能性
今回のプロジェクトは歩いている人がたまたま看板を見つけて「文楽って何?ちょっと面白そう!覗いてみようかな?」フラッと入れるようなものにしていくのが目的のようです。
そのために考えられた施策が、六本木ヒルズとテレビ朝日の間にある屋外のアリーナスペースに舞台を作りそこで芸を披露するということでした。
それはつまり、昔ながらの“遊芸”に立ち返るということを意味します。屋外で、お弁当を食べたり、日本酒を飲みながら文楽を楽しめるようにし、誰もが気軽に楽しめる空間にしていこうというわけです。
「遊芸というのは、もともと総合的なものであり、舞台だけではなく、見える空、吹き抜ける風と共に楽しむものだ」そう語るのは今回のプロデューサー中村雅之さん。
「伝統芸能だからと言って勉強しないといけないとか、かしこまる必要はまったくない。ふらっと立ち寄れるものにしたい。もちろん伝統芸能として守っていくことは必要ではあるけれど、格式高いものにする必要はなく、新しい道を探りたい。」
中村雅之プロデューサーは、文楽は国立劇場などで既に伝統文化として守っていく最低限の基盤はあるのだから、民間が力を入れるべきは遊芸に立ち返ることであり、今回のこの企画趣旨に辿り着いたと仰っていました。
細部の細部まで本物志向が貫かれている
遊芸と言っても、やるからには本物にこだわりたいということで、今回の文楽は細部の細部まで本物志向となっています。
実際に行われる芸は文楽協会が全面協力の元、桐竹勘十郎さんなど超一流の人形遣いの方たちが携わることはもちろん、会場も本物の檜造りで吉野の檜を使用しています。
この会場設営費用だけでも、ゆうに1億円を超えているとのこと。組み立て式ではありますが、これも日本文化の特徴を再現したものであり、能舞台や茶室などと同様、日本古来の建築様式をそのまま採用しています。
写真拡大
会場で販売されるお弁当も本物の木箱が使用された一流の料亭によるもの。振る舞われる日本酒も大吟醸の純米酒です。
今回のプレスイベントで、実際に会場で使われる檜の椅子に座り、会場で販売されるお弁当と日本酒を頂きましたが、本当に赴きがありました。
「文楽」を考える契機にして欲しい
実はこの会場は吹き抜けになっていて屋根もないので、上の階から舞台を覗き見ることができるような設計になっています。お金を払わなくても気軽に覗けてしまうのです。
しかし、それこそが貴重な体験だと中村雅之プロデューサーは語ります。なにかやっている、それが「文楽」であることが大切なのであって、まずは何をやっているのか知ってもらうことが重要であると。
「文楽をやっていることを知ってもらった後に、行ってもいいし行かなくてもいい。本物がやっていることをきっかけにして、この日本伝統文化を後世に残すかどうかを皆で一緒に考え欲しい!それを考える契機になればいい」と仰っていました。
東京オリンピックまで、最低6年間はこのプロジェクトを続けていくそうです。「極端な話、これをきっかけに国民運動を起こしたい!」と中村プロデューサーは意気込んでいました。
最後に
今回のプロジェクトに対して1億5千万円を出資した日本財団会長の笹川陽平さんは以下のように本プロジェクトについて語っていました。
日本の伝統文化である“祭り”は日本の地方を元気にするもの。そんな伝統文化の重要性を、東日本大震災から立ち直る東北地方の姿を見て実感しました。
日本の誇る伝統芸能、伝統文化を私達は忘れすぎていたように思います。その反省から今回のこのプロジェクトがスタートしました。
文楽は世界に誇る無形文化遺産であり、世界でも突出した表現力があります。私達日本人がこの文楽を知らないのは非常にもったいない。こんな素晴らしい文化があるということを、次の世代に知ってほしいと思っています。
正直、今回のプレスイベントに参加するまで僕自身「文楽」に対する興味・関心はあまりありませんでした。しかし今回の「遊芸に立ち返る」というコンセプトを聞いて、非常にその考えに共感できました。
国民が本当に楽しめるものに少しずつでも変えていこうという発想はとても素晴らしいものだと思います。実際に自分が体験してみて、20代、30代の若い世代の人にこそ、ぜひこの古くて新しい遊芸を体感してみて欲しいと思いました。
まずは来年の3月から六本木ヒルズで行われます。興味がある方はぜひ足を運んでみてください。
(取材協力:日本財団)http://blogos.com/article/94810/
再生核研究所声明80(2012.03.20) 挑戦 とは 何か
(この声明は 朝日新聞 『天声新語』 募集の課題 「挑戦」から ヒントを得て、考えられたものである)
およそ、人生も世界も慣性の法則で動いているものと言える。これは 世の中は物理学の慣性の法則に従っているように、大きな流れの上にあるということである。実際、人は気づいてみたらこの世に生を享け、ある流れの上で生かされていると言える。今日在るは昨日の延長上にあり、昨日はその前の延長上にあると遡って行ける。明日の多くは連続性に従って今日の延長として、相当に決まっていると言える。人間が生きたいと思うのは 今まで生きてきたから、明日も生きたいと 慣性の法則で志していると言える(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)。
しかしながら、面白いことには、人間存在の神秘性であるが、人間には自由意志があって、その流れに少し逆らうような有り様が可能である。 顕著な例が、挑戦である。すなわち、戦い挑む、やってみる、試みるということは 人間の自由意志の顕著な例である。冒険、競争、求道、研究、芸術などの営みは、人間であることの証であるとも言え、挑戦とは人間としての存在の本質を表しているところの、人間固有の人間らしい営みである。
されば、人間の存在の意義とは何か? まず、生きること、生きて存在しなければ始まらない ― 生命の基本定理、人生、世界、生物界において 実際これくらいしか、確かなことは、無い。 逆に考えてみよう、生きて、存在しなければ、生まれて来る前のように 何も認識できず、したがって何も知らず、何も伝えられず、全ての前提は 消えてしまうだろう(再生核研究所声明13: 第1原理 ― 最も大事なこと)。
さらに1歩進めて、人間として生きることの意義とは何だろうか。 それは、つきるところ、人生の意義は感動することにある ― 人生の基本定理 にあると言える。 人間が何に感動するかは、個性にもよるが、本能に基づくものは当然として、真、善、美、聖などを求めているときであると言え、知ることと、自由を求めることが それらの基礎である。 その本質は、気づくことと、喜びを感じることに他ならない。 人間として生きることの本質ではないだろうか(再生核研究所声明12: 人生、世界の存在していることの意味について)。
そこで、いま、日本国において、取り組むべき挑戦課題を提案したい。
まず、国家財政を立て直すこと、国だけの債務をみても、1000兆円に迫り、3年続けて 歳入の2倍を超える歳出である。 更に大震災、原発事故、放射能対策の膨大な経費である。このような財政を続けていける道理は 世に無いから、国は大胆に財政問題を国民に明らかにして、官民挙げて 財政問題に挑戦すべきである。もちろん増税だけではなく、国民に理解を求めるための 節税や行政改革なども断行すべきである。ここで大事な観点は、縮小方向ばかりではなく、財政再建の積極的な展開も多方面に志向すべきであるということである。新しい職場の開拓、ビジネス効果志向などである。国の活動に人材の活用によるビジネス感覚の導入も必要ではないだろうか。これらは、同時多発的に広範に取り組む必要があり、ここでの挑戦とは、正しく時間との戦いであると言える。何事も追い込まれる前に先手を打つのが 賢明な対応の在りようではないだろうか。世界は 世界混乱前夜の状況にあると言えるのではないだろうか(再生核研究所声明 45: 第2次世界大戦と第3次世界混乱)。
次に、原発事故を鎮圧して、放射能対策をしっかり行うこと。これは当然であるが、より真剣に取り組むべきではないだろうか。世に 反原発についての意見やデモ等が行われているが これほど無意味で、無駄な行動は無い。誰でも原発など無いにこしたことはないと考えるのは当然であり、また、東電その他関係者自身が、一般国民よりははるかに、原発事故の重大さと危険性を明確に自覚していることは 当たり前である。 世に騒がれるまでもない当然のことではないだろうか。当然のことを騒いでいて、何か建設的、生産的なことが有るだろうか。 逆に、原発を何とか活用すべく、挑戦的に取り組むことは 自明ではない、やりがいのある挑戦課題ではないだろうか。それこそが、およそ人間存在の原理ではないだろうか。 実際、人類は、未知の世界に冒険し、新世界を開拓し、次々と世界を拡大、深化させてきたのではないのか。不可能と思えることを可能ならしめ、宇宙の隅々まで、神の意思までをも 究めたいというが、そもそも人間存在の原理ではないだろうか。もちろん、これは安易に取り組むことを意味せず、慎重に、慎重に進めるのは当然であるが、原発を諦めるということは、それに対する人類の敗北を意味し、人間存在の本質に抵触すると言わなければならない。何時かは原子力ネルギーを自由に制御して、広大な宇宙に飛び出し、新天地を拓こうではないか(再生核研究所声明 32: 夜明け―ノアの方舟)。
次に教育の問題である。 日本の教育は何を目指しているのかと問いたい。 ただ大学受験を目指して、大学に入る為の勉強に ほとんどの部分を占めているように見える。受験のための塾、専門の学校の繁茂がそれらを示してはいないだろうか。 教育を教育の在るべき姿に戻って、検討し直すことが 中長期的には日本国における大事な挑戦課題ではないだろうか。 教育の在るべき姿などは既に教育基本法その他で 確立しているが 弊害は、本末転倒の教育の在り様になっている実情、実体にある(再生核研究所声明 70 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず)。教育の原理についても注意を喚起したい(再生核研究所声明76 教育における心得、教育原理)。
挑戦とは人間の自由意志の明確な表現として、決断による情熱の伴った生命の燃焼であり、志である。 そこに良い感動が伴えば、より良い人生と言えるだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿