2014年9月22日月曜日

ゴリラ研究者が危惧する、人間社会の「サル化」とは?

ゴリラ研究者が危惧する、人間社会の「サル化」とは?
「土地や国家に縛られることなく、自身のアイデンティティを薄める努力をしなければならない」と語る山極寿一氏
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「土地や国家に縛られることなく、自身のアイデンティティを薄める努力をしなければならない」と語る山極寿一氏
人間が今日の姿に進化を遂げる以前には、どのような共同体を成して生活していたのか――。そんな疑問を解決する糸口を、同じヒト科の仲間であるゴリラやチンパンジーの社会に見いだし、フィールドワークに明け暮れてきた山極寿一(やまぎわ・じゅいち)氏。
そんな氏が危惧するのが人間社会の「サル化」だ。個人主義に突き進み、格差を生み出す昨今の人間社会は、利益を重視し、ヒエラルキーを構築するサルの社会そのもの。
本来の人間社会により近い、勝ち負けのないゴリラ社会からは遠ざかっているという。今後もグローバル化が広がる世界で、人間社会はどうあるべきか? 『「サル化」する人間社会』を上梓した山極氏に尋ねた。
―野生のゴリラの群れに加わり、共に生活するというフィールドワークが非常に興味深いです。
山極 今年も5月に行ってきたところなのですが、群れの中で何日かキャンプを張り、ゴリラのそばでその行動を記録するんです。そうやってゴリラに受け入れてもらうためには、5、6年かけて“顔なじみ”になり、彼らの社会に入れてもらう必要があります。
今調査しているのは2008年頃に仲良くなった群れで、私が現れても警戒することなく、まるで空気のように扱ってくるようになれば最適です。ゴリラにとって最も親切な対応は「無視」。受け入れてくれている証(あかし)なんです。
―ゴリラの社会とは、どのような社会なのでしょうか?
山極 ゴリラは群れの中に序列をつくらず、たとえケンカが起きても決着をつけることはしません。もめても最後は必ず、見つめ合って和解するんです。彼らは非常に平和的で、勝ち負けの概念を持っていないんですね。しかし、サルは対照的に、強い者を頂点に据えて、明確なヒエラルキーを構築します。
―人間はゴリラとサル、どちらに近い存在なのでしょう?
山極 私たちは、生物学的にはヒト科の仲間であるゴリラに近い生き物です。しかし、このような群れの性質を踏まえると、人間はどちらも併せ持っているというべきでしょう。私たちは優劣をつけるべきではないという感性を備えている一方で、序列に基づく組織や社会システムを構築してもいます。
―このような、ゴリラやサルの社会から、人間社会の変化を読み解こうという着想はどこから得られたのでしょうか?
山極 生物の世界には本来、「近縁な2種は同じニッチ(特定の環境)に共存できない」という原則があるんです。ところが、私が何度も調査に訪れているアフリカのヴィルンガ火山群という地域では、ゴリラとチンパンジーが実際に共存しています。
人間はもともとアフリカで誕生し、そこからアジアやヨーロッパへ広がった種ですが、その過程ではほかの霊長類と共存していた時代もあるはずなのに、今ではその感覚をすっかり失っていますよね。だから、ヴィルンガのゴリラたちの社会を知れば、われわれが忘れてしまった「共存する」ということの本質を知るヒントがつかめるのではないかと考えたんです。
―その結果、本書では人間社会がサルの社会に近づきつつあると指摘されています。これは具体的にはどういうことでしょうか?
山極 人間は大まかに、「家族」と「共同体」、ふたつの集団に属して生活しています。家族では血縁や愛情を重視し、見返りを求めることなく奉仕できる関係を保っている一方、共同体には基本的にギブアンドテイクの関係が求められます。
翻(ひるがえ)って、サルはメスの血縁関係を中心に自分の利益を最大化するために群れをつくる動物です。つまり、利益が侵されるなら集団には残りませんし、利益を侵す者を集団に組み入れることもしません。
―人間社会もそうなりつつある、と?
山極 そう。利益を重視することで社会は効率化されますが、そのせいで信頼よりも対価を求める関係性が出来上がります。これはアメリカ型社会のドライな関係といってもいい。でも、それが私たちにとって本当に生きやすい世の中かというと疑問です。
個人主義の時代ゆえ、個人の資質が発揮しやすい社会が尊ばれてきましたが、個人の利益さえ守られればいいなら、人は他人と何かを分かち合う必要がなくなり、他人を思いやることもなくなってしまうでしょう。それでは社会がますます閉塞(へいそく)してしまうのではないかと私は懸念しているんです。
―最近は家族をつくらず個人で生きていくスタイルも増えています。
山極 それは危険だと思います。家族という集団に縛られないことで自由になれるかというと、実はそうではありません。個人のままでいると、序列のある社会の中に組み込まれやすくなってしまうのが現実なわけです。それはまさにサルと同じ社会構造ですよね。
―なるほど。FacebookなどのSNSの登場も影響しているのでしょうか?
山極 それは確かに大きな変化です。ただ、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションの機会が減ってしまうデメリットがある半面、Facebookやスカイプといったツールを駆使するようになったことでむしろ、相手と直接会って話すことの価値が増したようにも思います。
SNSを通して、ボランティアや会食の場がセッティングされたり、あるいはセミナーのような行事が開かれたりしているのは、直接顔を合わせることの重要度を感じている人が増えていることの表れではないでしょうか。やはり、最も信頼を得やすいのは聴覚より視覚、視覚よりは触覚ですからね。
―つまり現在は、個人の“孤立化”が社会のサル化を促す一方で、あらためてコミュニケーションのあり方が見直されつつある、過渡期にあるわけですね。
山極 そうかもしれません。また、私が一番期待しているのは人間のアイデンティティというものが変わっていくことです。今まで僕らは、自分が生まれた家族、育った地域社会、学んだ出身校、働いている組織などにアイデンティティを持ってきました。
しかし、これだけ世の中がグローバルになるなかで、国家や民族というものにアイデンティティを据えすぎてしまうと、それが思いもよらぬもめ事や紛争の原因になることもあります。繰り返されるイラスエル、パレスチナ問題、日本と中国や韓国との関係もそうでしょう。
―最近では、ヘイトスピーチなども社会問題化していますね。文化や風習を超えたコミュニケーションが容易になっても、そうした弊害はなくならないのでしょうか?
山極 これからの時代は別のアイデンティティを持つ必要があると思います。現在はグローバル化によって国境を越えて、人や物、文化が動いているわけで、国家や土地に縛られない活動ができるわけです。
そうしたところからアイデンティティを取り入れて、自身のアイデンティティを少し薄める努力をしなければ、民族間や国家間の紛争もなくならないし、和解もできないと思うのです。ひとりの「地球市民」であるという感覚を育んでいく必要があるのではないでしょうか。
―「サル化」して閉塞している場合ではなく、アイデンティティの持ち方を地球規模にまで広げるべきである、と。
山極 そう。地球のなかでつながり合っている感覚を持つべき。ところが今は、国が率先して日本社会のサル化を進めようとしているようにみえます。支配者からしたらそうした社会は動かしやすいですからね。
ですが、これからの時代はサル化から脱して、人間が本来持っている能力や、SNSなどのツールを最大限に利用して新しいアイデンティティによる新しい世界を構築していくことが必要なのです。
(構成/友清 哲 撮影/樋口 涼)
●山極寿一(やまぎわ・じゅいち)
1952年生まれ、東京都出身。京都大学理学部卒、同大学院理学研究科博士課程修了。財団法人日本モンキーセンター・リサーチフェロー、京都大学霊長類研究所助手などを経て、現在、京都大学大学院理学研究科教授。ゴリラ野外研究に従事。10月から京都大学総長に就任予定
■『「サル化」する人間社会』
「勝ち負け」の存在しないゴリラ社会。一方、「優劣重視」のサル社会。人間社会はどちらへ向かっているのか? 「なぜ家族は必要なのか」という至上命題とともに、霊長類研究の第一人者が、サル化する人間社会に警鐘を鳴らすとともに、人類の未来を説き明かすhttp://news.livedoor.com/article/detail/9255753/

確かにそのような面が、 じっくり考えたい。どうしたら良いか。
再生核研究所声明 144 (2013.12.12) 人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程である

(2013.12.6.3時45分 夢の中で新しい原理を 情景を交えながら発見し、目を覚ましました。グローバリゼーションの危険性と、人類滅亡の原理です。 声明の案にできそうです。適切か検討します。 ― その夢は 農村地帯で、1軒の農家の畑だけが緑の野菜で覆われ、 広い農地は 灰色になって広がり、異様であったが、一人の青年が、グローバリゼーションの影響で他の農家がやって行けず、 農家では お金が入らないと言っていました。人類滅亡の概念は哲学的、根本的な大事な原理を述べているが、それは その後 夢、うつつ に考察したものである。 成文化を試みたい。)
上記の中で、閃めいた 原理は 端的に述べれば、 いわゆる進歩は 末期への進歩であって 原理的に終末に近づいている ということである。 そして 進歩には 必然的な、エントロピー増大の法則のように 必然性が有るのではないだろうか。 良く生きるということは 必然的に 終末を上手く受け入れるように 精神構造が 本能的に作られているのではないだろうか。
さらに、 人は 人間存在の原理で、いろいろ知りたい、 いろいろ原因を知りたいと 真理を追究するが、その先には、生命の空しさと 自分の無智を知らされ、結局 生命と人生の否定に繋がり、 安らかな悟りに至るという、人間観、人生観である。
人は 先に、先に進もうとしているが、それは、自滅への道であり、 夢中で生きているのが 生命の実相ではないだろうか。 ちょうど子供たちが、夢中で はしゃいでいるように。
知ることも、真理を追究するのも 危険である。 しかしながら、エントロピー増大の原理のように 追及しないではいられないのが人間で、 それは 人間の 定めであると考えられる。
そこで、 ここでの教訓は、目標や先は、そんなに良くはないのだから、何事無理をするな、自分のペースで、急がず、あわてず、 自分の心の状態を尊重する ということである。
人生の一つの原理は、ゲーテの 絶えず活動して止まないもの、 アインシュタインの 人生は自転車に乗っているようなもの である、 止まったら、倒れてしまう、 岡本太郎氏の 芸術は爆発だ、どんどん爆発を続けて行くのが芸術だ。 これらは、誠 至言である。
しかしながら、結局、人生では 始めも、終わりも分からず、夢中で、踊っているようなものであるとすれば、 やはり空しく、 寂しいものだ と考えるだろう。
この空虚を満たすには、健全な精神の 健全な進化による、悟りと神への帰依が望まれる(再生核研究所声明 132: 神を如何に感じるか - 神を如何に観るか)。
以 上
追記 参考資料(ウィキペディア):
定義[編集]
進化とは、生物個体群の性質が、世代を経るにつれて変化する現象である[2][1]。また、その背景にある遺伝的変化を重視し、個体群内の遺伝子頻度の変化として定義されることもある[3][4]。この定義により、成長や変態のような個体の発生上の変化は進化に含まれない[1][2]。
また狭義に、種以上のレベルでの変化のみを進化とみなすこともあるが、一般的ではない[3]。逆に、文化的伝達による累積的変化や生物群集の変化をも広く進化と呼ぶこともある[3]。日常表現としては単なる「変化」の同義語として使われることも多く、恒星や政治体制が「進化」するということもあるが、これは生物学でいう進化とは異なる[4]。
進化過程である器官が単純化したり、縮小したりすることを退化というが[3]、これもあくまで進化の一つである。退化は進化の対義語ではない。

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