2014年9月3日水曜日

記事 片岡 英彦2014年09月01日 16:12「24時間テレビ」は「偽善」なのか?「偽善でない」のか?あるいは「偽善であっても善は善」なのか?

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片岡 英彦2014年09月01日 16:12「24時間テレビ」は「偽善」なのか?「偽善でない」のか?あるいは「偽善であっても善は善」なのか?


写真:24時間テレビホームページより
ことしも24時間テレビが終わり、いろんな人がいろんなことを言っている。
「私は司会を断った」と言っている人・・・(いったいいつの時代の話だい??)
現職の国会議員が「チャリティーランにすれば?」とか民放の編成内容に口出してみたり・・・(誰も聞いちゃいない!)
マラソンで渋滞ができたとか・・・
毎年「恒例」ともいえる「ヤラセ」の疑惑のネタ
こちらも毎年「恒例」となった出演者の「ギャラ」のネタ
こんな番組「偽善だ!」とか、
「偽善でも善は善だ!」とか。。。
毎年、だいたい、ほぼ同じ「切り口」で賛否両論が放送直後(最近では放送中から)ネット上で盛り上がる。。。まるで「笑点」の歌さん&木久ちゃん&円楽さんの大喜利の掛け合いを見ているようだ。浮き沈みの激しいテレビ業界で、何はともあれ35年以上続けている。
私の記憶にあるかぎり、1978年の初回放送の頃には、まだ日本に「チャリティー」という言葉自体が、あまり定着してなかった。そういう活動していた印象があるタレントさんはトットちゃんくらいだった。紅白の司会の途中で「手話」をしていた。番組の放送開始当時、私は8歳で小学2年生だったけど、ドリフよりも欽ちゃんが好きだったから母親に頼んで近くの郵便局に小遣いから1000円持って寄付しに行った。そうしたら、郵便局に欽ちゃんがいて握手してくれると思っていた。ところが、郵便局には郵便局員しかいなくて(当たり前ですが・・・)家に帰ってから大声で泣いた。
郵便局に欽ちゃんがいなかった!!・・・っと、大泣きしましたよ。
でも郵便局員に「いい子だね!」って褒められたから、少し救われた気分だった。そして、「あー、自分は『いいこと』したんだ。」と初めて思って泣くのをやめた。そうしているうちに、父と母が私に1000円札を1枚くれて、また来年も寄付してきなさいと言って慰めてくれた記憶がある。
そんなことがあったので、小学生以来、本当に少しの額だけど、24時間テレビには毎年寄付するようになった。中学生にもなると、寝たきり老人やら、アフリカの子どもやら、障がいを持つ人やら、とにかく自分の周りには色々と複雑な事情がある人がいるんだなーと思うくらいの学生にはなった。そうこうしているうちに・・・
いつの間にか、この番組の番組宣伝に関わるようになったことがある。初めて仕事で黄色いTシャツ着るようになった時、このTシャツは自腹で買うものなのかと真顔で部長に聞いてみたりもした。
やがて24時間テレビには直接関わらない会社へと転職した。その後も、毎年自分の子どもたちにはTシャツを「オソロ」でスーパーで買ってチャリティーってどういうことかを、少し偉そうに(親として)教えてみたりもした。
そうこうしているうちに、今では自分が国際NGOの職員になった。団体のPR素材を作ったり、広報活動をしたり、大学生に向けて団体の活動内容のレクチャーを行ったり、時に自分でプレスリリース書いたり、翻訳したり・・・。「ボランティア」ではなくて「有給職員」なので、あくまで「仕事」として行っている。
24時間テレビに出演するタレントが、「ボランティアじゃないじゃないか!ギャラ貰っているなんてけしからん!」とか言われてるのをみると、ついつい有給職員として働いている自分たちまで、給料返上して「ボランティア」で活動しないといけないのか?と「肩身が狭く」思ってしまう。
さて、この番組が「偽善」なのか?「偽善でない」のか?
あるいは「偽善であっても善は善」なのか?
仮に「偽善」であったとして、日本の社会に「プラス」「マイナス」のどちらの影響を多く与えてきたのか?
テレビ放送は決して視聴者に「結論」を押し付けるべきではない。番組を視る人によって意見は様々であろう。それで良いと思う。このコラムに対しても様々な意見を持つ方がいることだろう。
とにもかくにも、一度自分で「寄付」という行為をしてみるか、「ボランティア活動」に参加してみるか、あるいは何らかの「社会貢献団体」に勤務してみるか、何より「当事者」になってみると、今までとはまた違った視点を持てるようになることだろう。
さもなければ・・・
年に一度のチャリチー番組なんて、仮に「文句言うほど視たくない」のであれば、別に視なければ良いではないか。と、放送業界とも広告代理店業とも、あまり関係ない第三者的な視線で、私はそう思うのです。
私は8歳からずっと続けていることなので、ことしも少額の寄付をしました。番組自体はあまり視られませんでした。来年はなるべくならば番組も視るようにします。これは「賛否両論」ある「チャリティー」に関する社会的関心事として。
寄付も少額ではありますが、これからも続けていくと思います。これは8歳の時の自分の両親との約束事として。
※Yahoo!ニュースからの転載http://blogos.com/article/93600/

再生核研究所声明 69(2011/09/27)  単細胞人間 ― 単細胞的思考
(背景: 2011/09/22 宿舎で朝食をとっている最中に 突然閃いた考えです。 単細胞人間という言葉を聴いたのは 恩師がゼミの学生に言われた言葉として、伺って来ました。
類語辞典には 近視眼的な ・ 目先の利益だけ考えた~ ・ せっかちな(結論) ・ (単なる)向こうみず ・ 単線思考の ・ 単細胞(人間) とある。 また、 ツイッターで、 恩師が、単細胞人間 と言った ということを 思い出させます。 小さな真実を見て、 全体が見えないのですね。 愚かさの表れ ではないでしょうか。 脱原発デモ なども そうではないでしょうか と呟いた後です。)
単細胞的思考とは
小さな事実を それに関係する全体の中での 位置づけができず、その局所的な、断片的な事実をもって全体に普遍させてしまう愚かさであると表現したい。
まず、現実的な問題で考察し、しかる後に一般論を展開したい。
脱原発デモ、脱原発運動、これはどれほどの意味があるでしょうか。そのまま主張を全て受け入れたら、どのようになるでしょうか。長年かけて膨大な資金を注ぎ、人と設備を整えたものを活用できないとなれば、電力会社は 膨大な損失である、相当に電気料を課しても経営が成り立たないのは 素人の目にも明らかではないだろうか。電力会社は どの程度の損失に当たるかを明らかにして 国民に理解を求めるべきである。天災の事故で、恐ろしいは 分かるが、何十年も続けてきたことをいきなり、中止せよ反対、このような要求は 子供の要求と同じで、単細胞的思考の典型的な例と考えられる。まともな考えとは、くれぐれも慎重に運営して欲しい。場合によっては、在り様は 分かれるが、段階的に縮小して欲しいという意見ではないだろうか。
これについては、再生核研究所声明 67: 脱原発デモ ― 非現実的な貧しい二律背反の発想と飛躍した議論 を参照。
相当の人が、国防の在り様について、敵地攻撃能力の整備を と主張している。自分は強く、相手を罰せられるので安全になると考えているのであろうか。 しかし、逆に考えてみれば、当然、公正の原則で 相手も敵地攻撃能力を高めて、直ちに軍拡競争に入ってしまう。場合によっては、逆襲され、先に攻撃して、壊滅させてしまえ となりかねない。 経済的にも大変で、危険性を増大させる、それこそ、単細胞的思考ではないだろうか。空母が欲しい、軍事的には、南シナ海、東シナ海を「日本海」にすることだ、そのためには原子力潜水艦を持つことに尽きる 等も同じような考えではないだろうか。 
次を参考: 再生核研究所声明 49: アジアの愚か者、アジアの野蛮性。
次に、有名な蓮舫氏の発言について「研究は1番でないといけない。“2位ではどうか”などというのは愚問」とは おかしいと考える。 そのような質問をせずに、切りなくお金を注げば、第一 他の いろいろ大事な研究費を圧迫してしまう現実。 研究費は 無限ではないので、 どのように配分するかは、 国家の大事な問題。 戦艦大和のように 時代遅れの兵器を、研究でも、お金を掛ければ、大きければ、世界第1位でなければ、の発想は おかしい。 蓮舫氏は、 決めつけているのではなく、 なぜかと問うているのだから、 きちんと答えるのは、 研究者の 国民に対する義務であり、また、他の多くの研究者や、若い研究者も、どうしてそちらばかりお金をかけるか、知りたい 自然な 質問ではないだろうか。 蓮舫氏の質問は,政治家として、当然の立派な質問だと評価したい。専門家は日本国が破産を迎えても、自分のところの研究費だけはと 要求するだろう。 これは専門家の独善と大局に想いを致せない単細胞的思考の現れと言え、 専門化、局所化した現代社会の本質的な問題と考える。高度に専門化して、自分たち仲間でしか議論も話しも通じず、他の価値さえ理解できず、本当に生体の中の ほんの一部の細胞の役割しか 果たせなくなっている。 人事の進め方、評価なども 結局 仲間同志の中でしか、考えられない 現実である。 検察や弁護士も法律の条文にばかりに囚われていて、法の精神や生きた社会や世界的な視野に欠けて、おかしな判断をすることが多い(再生核研究所声明 31:法の精神と-罪と罰)。
上記 事例で分かることは 愚かさの故の行為と 背後に利害が絡んでいて 理に反しても強弁している場合とがあるということである。 何れも人間の本質的な弱点であると自戒したい。 そこで、 単細胞的な思考 に陥らない心得を 次のように纏めて置きたい。
1) 絶えず、逆の立場、反対を考えて、みる。
2) その意見を 徹底的に進めたら どうなるかを考えてみる。
3) みんなが、それに賛成、実現したら、どうなるかを考えてみる。
4) 特に関係の無い第3者や 素人の意見も参考にする。
5) 世の問題は、真か偽か、正しいか正しくないか、赤か白かのように きちんと分けられるものでは ないものであり、微妙に入り混じっている複雑な在り様であり、在り様の在り様を 多様に考える 幅の広さに心がける。
6) 一度決めるとそれに拘り、その意見に固執しがちであるから、絶えず高い立場の見解、良い意見に止揚していく心構えを柔軟に持つ。
7) くれぐれも派閥、仲間、専門家あるいは、地域、職業、宗教などの集団の枠、組織に囚われない。 また、考えを固定化したり、人を分け隔てたような考え方をとらない。
8) ある程度時間をかけて、大事な問題ほど、影響が大きい問題ほど じっくり考える。 全体の状況が 見えるまでは 謙虚な態度で臨む。
これらを 単細胞的思考から抜け出す心得としたい。しかしながら、人間は 本質的に愚かであり、予断と偏見に満ちた存在であること を肝に銘じて置きたい。
なお、個人と社会の在り様については 次を参考にして頂きたい: 再生核研究所声明 35:  社会と個人の在りよう ー 細胞の役割(この声明の趣旨は 人体と細胞のように国家と個人は、社会と個人は有機体の存在として、 調和ある存在 になろう ということにある。 実際、一個の人間の存在は 細胞が生体の中で有機的な存在であるように、本来社会の中で有機的な存在ではないだろうか。 生体が病んでしまったら、個々の細胞の存在はどのようになるかに 想いを致したい。 実際、人類の生存は、如何なるものをも超えた存在である(最も大事なこと:声明13)。
                                    以 上
再生核研究所声明 115(2013.4.26): 
枯れ木も山の賑わい ― 現状と存在に理由あり
(2013.4.19.08:30 8時、宿舎を出る前に 新しい声明の題材が閃く, quatanion analysis を論じて興奮していた翌朝)
(枯れ木も山の賑わい: つまらないものでも、無いよりはましであるということ。また、役に立たない者でも、いないよりはいたほうがましだということのたとえ。)
この声明は一見何にもならない、無駄なようなものでも、意外に存在価値があるなどの所見を表現しょうとするものである。極論をすれば、何でも存在するものは それなりに価値が有るということ、存在する現状は それなりの原因が有って存在するということである。 現状を肯定、 まずは尊重すべきものではないだろうか。
悪も、不正義も、暗闇も それなりの理由が有って、存在しているということである。― ボストン・マラソンにおいて 卑劣なテロ事件が起きて、罪なき人を 無差別に巻き込むなど 理解できないのが 世の常識であろうから、その動機と真相、経過を徹底的に調べるべきである。― ここで、オバマ大統領が ビンラディン氏を裁判もかけずに しかも家族の前で公然と虐殺した事件を想い出し、家族の心情は 如何なるものであったかと 想いを巡らすのは当然である ― 公正の原則(再生核研究所声明1: 良い社会を作るには)(再生核研究所声明 61:ビンラディン氏殺害 ― アメリカの名誉と大義を傷つけた オバマ大統領)。
声明
再生核研究所声明 71:  菅 暗黒政権 を総括する
で、菅元首相の 貢献ある盟友 と 党の公約に対する 明確な背信行為を批判して来たが、それとて、菅氏にとってみれば、苦労の末、とうとう首相になれた 何とか権力を維持したい、また、首相になったら、国の状況はとてもやっていける状況ではなかったなどと、それなりの理由が有るのは当然である。しかし、菅氏と野田氏の上記背信行為が 嫌な感情を国民に与えてしまい、どのように弁明しても もはや信頼回復は 難しいのではないだろうか。 実際には そんなには悪意のあるものでは ないのではないだろうか。 残念である。世の中とはそのようなものではないだろうか。明智光秀にも、吉良上野介にも相手の身になれば、それなりのやもう得ない事情が有ったのではないだろうか。
組織には いわば、組織の落ちこぼれ組に属するような人がいるものである。ところがそのような人が 組織にいろいろ重要な役割をしているのは 世に多い。逆に、一様な組織こそ、偏り、変な方向に気づかずに走っている場合が世に多い。 このようなことは、多様性の重視、広い視点と幅を持たせることの重要性を示していると言えるだろう。
ニートなどと批判する世相、弱い者、貧しい者、悪者を厭う気持ちが世に有ると考えられるが、 逆にそれらの存在が人間社会を偉大な存在にして、いろいろな役割を果たしていることを積極的に発見して行きたい。優秀な人たち、美しい人たちだけでは社会は構成できず、 多様な人が居て、良い社会ができるのではないだろうか。全体的なバランスが 大事ではないだろうか。
いわば、負の部分にも価値を見つけ出し、大きな視野を持って、寛容な社会を志向したい。 白、黒ではなく、敵、味方ではなく、相手にもそれなりの立場があるという、広い見方である。
人生についても言える。 大事な時に、重病を患い、入院生活をやむなくされたが、それが反って、違った視点を与え 幅を持たせ、人生や、専門、仕事の上でも大いに良い影響を与えたことは 良く見られる現象である。ポルトガルでは 同性婚が法律で認められているが、これは出来るだけ、自由を尊重し、多様な在り様、世界を志向しようという意味で、その精神を高く評価したい。 独断と偏見で 単細胞的思考(再生核研究所声明 69:単細胞人間 ― 単細胞的思考)に陥らないように注意したい、
以 上
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、ゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が 原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。
経過などは 次を参照:
再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係を捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、正と負、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
[PDF]
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAM
以 上

善(ぜん、希: ἀγαθὸν, 羅: bonum, 英: goodness)は、道徳的な価値としての良さ。道徳的に正しい事、多くの人が是認するようなもの。
善とは社会的な規範に是とされる存在、行為などである。
社会規範はありたいにいえば所属する集団のルールのことである。
宗教では戒律や宗教指導者の教えのことである。ゾロアスター教においては善と悪の対立によって世界を捉え、のちの一神教に影響を与えた。一神教では善の存在である神と悪の存在である悪魔の存在が信じられ、善に生きることで天国への扉が開かれるとされる。一神教のうち特にキリスト教は欧米の倫理、イスラム教は中東の倫理の礎となった。 西洋哲学において「善とは何か」を議論探求する学として倫理学がある。 道徳的な卓越の事、プラトンの言う「アレテー」(卓越性)。相対的なより良いではなく、絶対的な良さといえるものの事。
西洋思想では「善」の反対概念は「悪」であるが、東洋の仏教思想においては「善」の反対概念は「煩悩」である。すなわち、仏教思想では「善」は心の問題である。ただし、メタ倫理学の立場からは、仏教的な「善」の概念も「善」を記述する上での立場の一つとして相対化される。
エミール・デュルケームによれば、道徳の要素には、義務と善とがある。義務は強制により実現されるが、善はそれを遵守すれば社会から果実を得られるものであるとした。
関連項目[編集]
ウィクショナリーに善の項目があります。
良心
価値論
慈善活動
勧善懲悪
偽善
独善
正義

偽善
偽善(ぎぜん)とは、善良であると偽ることをいう。また、これを行う者は偽善者とよばれる。外面的には善い行為に見えても、それが本心や良心からではなく、虚栄心や利己心などから行われる事を指している。腹黒いやゴマすりや食わせ物という表現もある。 また、和英辞書では偽君子(snob)も hypocrite とされている場合がある。
語源[編集]
英語のhypocrite(偽善者)はギリシャ語hypokrisis 「舞台の見せかけの役」から来ている。 英語hypocriteは「見せかけの役を演じる役者」という意味であり、行動が心の底からの行いではないので「偽善者」の意味になった。
心理表象にみる偽善[編集]
まず、自分の事を「偽善者」だと思う人は、外面的には自分を善と見せかけていても、実は内面的に悪であると知っている。したがって「偽善」とは、自己の悪の自覚を含む主観であり、自己の善性に対する懐疑から深い思索を生み出す事もある。逆から言えば、自己の善性に対する懐疑のない「善」は、時には「偽善」となってしまうことも、仕方が無いと言える。
一方、自己ではなく他者を「偽善者」と非難する人もいる。外面的には善と見せかけているが、その他者の内面の悪を見抜いてしまっていると言う場合と、善行に対する思慮の浅さを指摘する場合がある。前者の場合、他者の内面というのは外から簡単に分かるものではないから、その他者の中に悪を推定するだけで、善行に対して猜疑心を向けているに過ぎない事も多い。後者の場合、善行自体があまりよい結果を生み出さなかったことを指摘していることがあり、そうした場合は謙虚に受け止め、思慮の浅さを反省すべきである。
別の可能性として、内面的な事柄を度外視しても「偽善」が指摘されうる事もある。つまり、目立つところでは善い事を言ったり行ったりしていても、目立たないところでは悪事を行い、表面上の善を無にして余りあるような害悪をばらまいているような場合である。こうした時には表面上の善はいわゆる「きれいごと」であり、むしろ社会的に善行として評価されることなどによる自己利益が企図されていることもある。このとき「偽善者」という批判は、隠蔽された悪事を暴露して問題の本質を明らかにする。
ところが、こうした「きれいごと」を非難する声の中には、実質的な悪への関心が見られない事も稀ではない。人に先駆けて行う事を臆するあまり、結局は何も出来ないでいる者たちが、目立った行いをする者を「偽善者」だと嘲笑する(似非ニヒリズム)。ボランティア活動などは常にこうした困難に直面するが、「偽善」への深い思索に裏打ちされ、常に自分の行為の及ぼす影響に留意してなされる継続的な行為は、たんなる主観的な善悪の次元を超越したものになりうる。[要出典]
関連項目[編集]
善 - 悪
ニヒリズム - ニーチェ
ノブレス・オブリージュ
集団主義
大きな政府

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