SMAP「100%ない」と言われてきたNHK紅白に一転、出場へ
SMAPの5人
解散が目前に迫る中、SMAPの木村拓哉と草なぎ剛は1月から放送が始まるドラマの撮影で忙しい毎日を送っている。かねてから注目されていた大晦日の動向だが、なんとここにきてSMAPの紅白出場が濃厚になったという。
「12月7日にNHKからタモリさんがゲストとして出演するという発表がありました。これで状況が大きく変わりましたね。頑なに司会のオファーを断っていたタモリさんが紅白に出るというのはよほどのこと。SMAP出場に関係があるという話なんです」(NHK関係者)
幾度となく“SMAPメンバーが出演を嫌がっている”と報道されてきたが、実際は違ったらしい。
「秋ごろから交渉をスタートさせて、1度は出場が決まりかかったと聞いています。ただ、結局のところは流れてしまったようですが……。原因はメンバー間の意思疎通ができなかったという話ですけどね」(前出・NHK関係者)
わだかまりはあるものの恩のあるタモリから説得され考え直したということなのか。
「ファンが解散撤回の署名を集めたり応援広告を出したりしているのはメンバーも知っています。“SMAPはファンがあってのSMAP。最後はファンに向けて、ちゃんとお別れを言おう。すべてはファンのために”ということで最終的に意見が一致したそうです」(芸能プロ関係者)
紅白に出場はするものの、ステージで生の姿を見せるわけではなく、中継で歌を歌うのだという。
「SMAPは紅白出場を“クリスマスプレゼント”としてもうすぐ発表するようです。NHKの希望としては3曲を歌って、最後が『世界にひとつだけの花』という構想もありました。最悪でもコメントだけの出演を目指していましたが、ここにきて道が開けた形になりました」(前出・NHK関係者)
紅白で花道を飾り、年が明ければソロ活動が始まる。
*『週刊女性』2017年1月3・10日号(一部、内容を修正しております)
解散が目前に迫る中、SMAPの木村拓哉と草なぎ剛は1月から放送が始まるドラマの撮影で忙しい毎日を送っている。かねてから注目されていた大晦日の動向だが、なんとここにきてSMAPの紅白出場が濃厚になったという。
「12月7日にNHKからタモリさんがゲストとして出演するという発表がありました。これで状況が大きく変わりましたね。頑なに司会のオファーを断っていたタモリさんが紅白に出るというのはよほどのこと。SMAP出場に関係があるという話なんです」(NHK関係者)
幾度となく“SMAPメンバーが出演を嫌がっている”と報道されてきたが、実際は違ったらしい。
「秋ごろから交渉をスタートさせて、1度は出場が決まりかかったと聞いています。ただ、結局のところは流れてしまったようですが……。原因はメンバー間の意思疎通ができなかったという話ですけどね」(前出・NHK関係者)
わだかまりはあるものの恩のあるタモリから説得され考え直したということなのか。
「ファンが解散撤回の署名を集めたり応援広告を出したりしているのはメンバーも知っています。“SMAPはファンがあってのSMAP。最後はファンに向けて、ちゃんとお別れを言おう。すべてはファンのために”ということで最終的に意見が一致したそうです」(芸能プロ関係者)
紅白に出場はするものの、ステージで生の姿を見せるわけではなく、中継で歌を歌うのだという。
「SMAPは紅白出場を“クリスマスプレゼント”としてもうすぐ発表するようです。NHKの希望としては3曲を歌って、最後が『世界にひとつだけの花』という構想もありました。最悪でもコメントだけの出演を目指していましたが、ここにきて道が開けた形になりました」(前出・NHK関係者)
紅白で花道を飾り、年が明ければソロ活動が始まる。
*『週刊女性』2017年1月3・10日号(一部、内容を修正しております)
見てみたいですね:
再生核研究所声明 273(2016.01.06):
つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
つくられた人間、考えてみれば、人間は気づいたら生まれていた。いつもお腹が空くから、空腹を満たしたい、できれば美味しく気持良いものを頂きたい。寒さも暑すぎるのも嫌で 快適な環境で過ごしたい。これらの気持ちは 多くの動物と同じように 誰でも懐く基本的な要求ではないだろうか。人生の意義は 感動することにある と人生の基本定理で述べた。 しかし、何故、どうして、感動するかと問えば、実はそれらは既に 定められていると言える。空腹を満たしたい、いい感動をしたい、年頃になると恋に目覚めて、注目されたり、思われたりしたい という情念がひとりでに 湧いてくる。これらのほとんどが、定められていて、われわれは多くはそのような情念に動かされて生きていると言える。すなわち、われわれの道は、生きる道は、実は定まっていて、その道を歩まされていると言える。人は何故生きているのかと問えば、多くの人は、 死にたくないから、上記のように生物の本能を満たしたいから、と答えるだろう。もし人間が、生きたくない、死にたいと 本当にそのように感じる心がつくられていれば、人間は生きず、当然、生存できず、人間は滅んでしまうだろう。だから、人間をつくったものは、人間を生かすような仕組みをわれわれに備えているのは当然である。
われわれがつくられた存在であることは 歴然である。誰ひとりとして、自分をつくったものはいなく、基本的なものは与えられ、定められている。われわれが自分で、自分の自由意思で決めた、判断したと言っても、それは良い気持ちや、感動するためなど、天賦のものに従うように働いていると言える。
人間が自由といっても、そのような意味で、われわれはつくられたものの意思に従っているだけの存在であるとも言える。そのような意味で、われわれば だだ生かされているだけの存在だとも言える。少し、哀しくもなるが、良く生きるとは、帰するところ、われわれをつくったものの意思に忠実に従って生きる、ということになる。そこで、われわれが如何につくられているかを よく知ること、そして、それに良く従って生きるのが 良いということになる。
例えば、空腹を満たしたいは、相当に基本的な要求であるから、見方を変えれば、われわれは胃の要求に縛られ、終生胃の要求を満たすように働かされているとも言える。
恋の要求、愛されたい、仲間を増やしたい、友人が欲しい、家族が欲しい、真理を追求したい、などなどみな人間の存在の仕組みに織り込まれていて、我々はそれらに支配されて働かせられていると言える。
人間が、自分が どのようにつくられているかを問うことは、なんじ自らを知れの核心ではないだろうか。人生如何に行くべきかについて、私はどのようにつくられているかと問うのは 良い方法ではないだろうか。この観点では 相当に客観的に科学的な解明を進めることができるのではないだろうか。地についた考え方であると考える。
ここには、人間如何に生きるべきかの原理ばかりではなく、人間が自分をつくったものから完全に解放され、完全な自由を得る原理さえ確かにある。
以 上
再生核研究所声明291(2016.03.07) 心の微妙さ
人間とは何かと問い、少なくとも人間はなにものかによって作られたものであると述べ(
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か)、再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得 の中で、それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流されるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。
と述べた。作られたものとは 本能原理に基づいているのは確かであるが、心の中枢にある感動する心、志、使命感、神性,良心など本能、生命の発現は極めて微妙で深いので、心の動きの微妙さに軽く触れておきたい。深いものは、それこそ、芸術、文学、音楽、宗教、あらゆる文化活動の根源になるので、きりのない深い、神秘的なものであるからである。それこそ、本能原理に従う、人間以外の生物と人間の違いをなす、ところのものであると言える。
まず、祈りの心をあげたい。ここでの祈りとは 既成の宗教的な形式ではなく、心のそこから湧くところのものである。自覚するも しないでも その心は神の概念に通じていると考えられる。
次に分かりやすい、恋の微妙さ、深さ、神秘さに思いを致したい。恋の目覚めなど、神秘的で、発現はそれこそ多くの文芸、映画、ドラマ、音楽などの主題である。恋をして生きる喜びが湧くかと思いきや、失恋して、自殺に追い込まれることさえ、世に多い現象である。― 小説とは 男と女の物語であると表現したことがある。
族のために、命を掛けるは本能原理にあるが、家族のため、大義のため、国のため、名誉のため、主君のためになど、命を掛けてきたのは世に多く、現在でも少しも変わらないと言える。
志に生きて、殉ずる精神は、人間の本質に根ざしていると言える。帰依したいとは大きなもの、愛するものに命をかけたい心ではないだろうか? 志の中枢とも言える。消えるものが消えまいとする原理から出ているものと考えられる。
人間の大きな喜び、創造は、新しく考える、気づく、発見とともに、また真智への愛とともに人間存在の原理であるとさえ言える。その心は人間の神性から出ていると言える。
日本を始め、アジア地域に見られる、無常観、寂寥感、切なさ、哀しみ、などなどは固有な人間の深い想いとして、心の微妙さの最たるものではないだろうか。
生まれながらに、巨大素数の構造に興味があるなど、生まれながらの好みや天才、才能、個性なども極めて興味深い。言葉の学習過程についても同様である。
以 上
再生核研究所声明337(2016.12.19) 人間、人生について
物心付いて以来 人生の意味について知りたいと考えてきた。そのために声明でも相当にとりあげてきた:
再生核研究所声明304(2016.06.16) いじらしい人間
再生核研究所声明291(2016.03.07) 心の微妙さ
再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得
再生核研究所声明288(2016.02.19) 戦友達 ― 共生、共感、共鳴
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
再生核研究所声明 266(2015.12.25): 地球上に繁茂する 愚かな人類
再生核研究所声明 265(2015.12.24): 全ての願いが叶えられたとき ー 自由な境地 ― その時人間は
再生核研究所声明244(2015.9.4)不完全な人類、恥ずかしい世界史 ― 心得
など。
最近、ライフワークの研究著書が出版され、いろいろ人生で目指してきたこと、期待されてきたことが実現して、心に変化が起こり、人生全体に対する感じに新しい感覚が湧いてきたので、触れて置きたい。人間の心は変わっていくものである。
雑草に覆われた野の一部を見る。コスモスの花たちを見る。人生も 人間も同じ様な存在ではないだろうか。コスモスは年年同じ様な生態を繰り返している。生きることを繰り返し、仲間と共感、共鳴をしたり、争ったりして共生している。人間の家族でも本質は殆ど同じ様なものであると言える。家族が元気で、社会の中で上手く生きていければ 慎ましい幸せを得ることが出来るが、人間社会は相当に厳しい状況が見える。人間が賢いとぼんやり考えてきたが、実際に気づいてみると、人間の知能も、心の程も 大したことはなく、本質的に視野も、考えも、世界も狭く、予断と偏見に満ち、動物や生物と本質的に変わらない様を見ることができる。若い頃、生命力に満ち、憧れや感動,予感から志を立て、人生を生ききっても、結局は始めも、終わりも分からず、歩んでいた時さえも本能で夢中で生きていたということになるだろう。
始めも、終わりも、その先も分からず、生きていた時さえも本能のままに生きていたとなれば、人間も動物も、その他の生物もみんな本質的に同じ様な存在であると言える。つくられた人間と発想したが、それはまことで、作られたように、定められたように生きていると言える。それで、いじらしい人間となる。
そこで、生命の、人生の基本とは何だろうか。自分の周りの小さな環境に順応して、共感、共鳴して、共生して存在している存在であると言える。順応してとは自己の本能と環境との調和のための戦いが本質的に存在している。実際、生命も、人生も生存のための戦いの要素が本質的で、エントロピー増大の原理にさからう存在として、生命や人生が存在していると言える。生命が環境の中で必死に生きようとしている姿は普遍的であり、本質的であると言える。多くの人にとっては ただ生きることが 人生の殆どであると言える。
しかしながら、いわゆる志をもって、日々その志の精神で生き、言わば日々精進している姿も多く見られる。何かに愛を感じ、求めていく姿である。芸術でも、スポーツでも、政治でも、研究でも、その他いろいろな趣味なども、そうであるが 積極的に求めていくものがあれば、それだけ豊かな人生であると言えるのではないだろうか。感動のある人生である。
しかしながら、繰り返される生命の営みは、いろいろな感動さえ、やがてポテンシャルが、生命のエネルギーが減少して 大いなる自然との調和を独りでに、自然に受け入れられるようになるだろう。
― 山間部の散歩中、上品な90歳を超えたおばさんとよく話してきたが、いろいろ全体的に話していたら、おばさんと周りに咲く花たちも 全く同じ様な存在に映った。
この最後の文章がこの声明の書きたかったことであるが、それではもの淋しく終わるだろう。そこで、人間として生きる意義を人生の原点に戻って述べて置きたい。― 人生とは真智への愛であり、真智とは神の意思のことであり、大自然の、万物の、ユニバースのことを知りたい、感知したいということである。
以 上
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