2016年12月25日日曜日

究極のコーヒーとは?科学者の飽くなき探求心 流体力学や応用化学も導入:完璧な一杯は「哲学的コンセプト」

究極のコーヒーとは?科学者の飽くなき探求心

流体力学や応用化学も導入:完璧な一杯は「哲学的コンセプト」


ドリップからパーコレーター、そしてポアオーバーまで。コーヒー愛好家たちは数世紀にわたりさまざまな方法を試し、究極の一杯を探求し続けてきた。中にはイタリアのコーヒー界の巨匠、レナート・ビアレッティ氏のように、直火式エスプレッソメーカーへのこだわりから自らの遺灰をその中に納めて埋葬されている人もいる。
 今、究極のコーヒーを追求する最前線に立っているのは大学の研究者たちだ。彼らはカフェインを量子力学の観点から解析し、コーヒーメーカーの蒸気の熱的性質を学ぶ。さらには「コーヒーリング効果」(コーヒーの水滴が乾燥する際に残る跡)と毛管作用の関係や、ホットコーヒーの低液体粘性にも着目する。
ビアレッティ社製のコーヒーメーカー 
 コーヒー好きで知られ、確率論の研究で名をはせたハンガリーのアルフレッド・レーニイ氏は、「数学者とは、コーヒーを定理に変える機械だ」と語ったことがある。ダンキンドーナツとキャリアビルダーによる2011年の調査によれば、米国内で最もコーヒーを消費するのは科学者と検査技師だという。
 一部の研究者はアロマこそがコーヒーのうまみを左右すると結論づける。一方、水の中に含まれるイオンがコーヒーの味を決めると主張する声もある。究極のコーヒーを求める中で1番の驚きに値するのは、その答えが極めて難しいということだ。
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レナート・ビアレッティ氏の遺灰が収められたコーヒーメーカー PHOTO: AP
コーヒーの味を決める1800種類の物質
 マサチューセッツ工科大学(MIT)の計算化学者クリストファー・ヘンドン氏は、コーヒーが「これまでに見た中で最も難しい応用化学」の問題だと話す。同氏はコーヒーと水の関係について134ページの学術論文を共同で執筆。「完全なコーヒーには、ありとあらゆる要素が関わっている」と言う。
 英ポーツマス大学の応用数学者、ウィリアム・リー氏は先月、コーヒー用のドリップフィルターに関する論文を発表。その中では豆の粒間の気孔率やコーヒーの固体密度など、22種類の変数を使った方程式を取り入れている。
 「コーヒーのごくわずかな部分だけにズームインすれば、それは極めてシンプルなものだ」と語るリー氏。「しかしそれらをまとめて考察するとなると、複雑さが一気に爆発する」ため、研究のためには代数学の処理を行う新たなプログラムを書く必要があったという。
 コーヒーにはスキムミルクを入れる派だと話すリー氏によれば、コーヒーの味は約1800種類の物質によって形成される。それが少なくなれば「単にスモーキーな味の水」になり、逆に多すぎれば苦味が増えることになる。
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英ポーツマス大学のウィリアム・リー氏 PHOTO:CREDIT: HELEN YATES PHOTOGRAPHY
 17世紀になって世界各地で飲まれるようになったコーヒーは、消費量が右肩上がりに増加してきた。近年はスターバックスなどの企業が専門的な抽出による飲み方も広めたことで、消費が一段と増加。国際コーヒー機関によれば、今後5年でコーヒーの需要はさらに25%近く伸びる見通しだ。
 ニューヨーク大学で工学を教えるエミリー・ドレッセア氏は、スターバックスでの体験を元にある研究を進めている。ラテの飲み口をふさぐマドラーをバリスタにお願いしたところ、ラテはレギュラーコーヒーのようにこぼれたり飛び散ったりしないので必要ないと助言を受けたことがきっかけだ。
 その言葉をヒントにドレッセア氏は、液面揺動の研究に着手。ラテが安定している理由は、ミルクフォームの中に含まれる小さな泡が相互作用することに関係があると結論づけ、それが液体の動きを抑えていると分析した(ちなみにビールの泡も同様に作用する)。現在、この発想を燃料タンカーや貨物船のコンテナなどに応用できないか研究を進めている。
おいしいコーヒーの概念
 コーヒーをおいしいと感じる理由に関しては、いまだ多くが謎のままだ。MITのヘンドン氏は砂糖がコーヒーの味に与える化学的な変化や、低圧力で抽出した場合のエスプレッソへの影響、そしてフィルター部分にコーヒーを詰める量なども研究する。しかし「完全なコーヒー」とは、毎回同じ方法で作り、そのたびに同じ基準に達している一杯を指すのではないかと話す。
 ヘンドン氏は「化学的な概念上に完全なコーヒーは存在しない」とし、「それは主観によるものであり、どちらかと言えば哲学的なコンセプトだ」と主張。「私にとっての最高の一杯は、ほぼ間違いなく他人の最高の一杯とは別のものだ」と語る。
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マサチューセッツ工科大学のクリストファー・ヘンドン氏 PHOTO: ROBERT LEE HOTZ
 コーヒーの味はカップの色によって変化すると結論付けた研究もある。オックスフォード大学とオーストラリアのフェデレーション大学がフレーバー誌で発表した論文によれば、青いカップでラテを飲んだ場合は白いカップで飲むよりも大幅に甘く感じられるという。
 コーヒーに関するこれら研究の中から得られた成果も多い。ポーツマス大学のリー氏はコーヒー豆の粒子の間を水がどのように流れるのかを調べた結果、粒子の理想的な大きさと味の関連性をピンポイントで発見できたという。この公式をコーヒーメーカーを作る企業が取り入れ、器具のノズル部分に応用される可能性もある。
 究極のコーヒーを求める研究は、たくさんのコーヒーブレークを挟みながら今後も続くことになる。
 1日にコーヒーを2杯飲むと話すMITのヘンドン氏は、研究室でしかコーヒーを楽しまないという。自身にとって最適である業務用コーヒーミルと水のろ過システムが、自宅に導入するには大きすぎるからだ。http://jp.wsj.com/ARTICLES/SB11484601320931144569304582507422327120252
再生核研究所声明80(2012.03.20)  挑戦 とは 何か

(この声明は 朝日新聞 『天声新語』 募集の課題 「挑戦」から ヒントを得て、考えられたものである)
およそ、人生も世界も慣性の法則で動いているものと言える。これは 世の中は物理学の慣性の法則に従っているように、大きな流れの上にあるということである。実際、人は気づいてみたらこの世に生を享け、ある流れの上で生かされていると言える。今日在るは昨日の延長上にあり、昨日はその前の延長上にあると遡って行ける。明日の多くは連続性に従って今日の延長として、相当に決まっていると言える。人間が生きたいと思うのは 今まで生きてきたから、明日も生きたいと 慣性の法則で志していると言える(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)。
しかしながら、面白いことには、人間存在の神秘性であるが、人間には自由意志があって、その流れに少し逆らうような有り様が可能である。 顕著な例が、挑戦である。すなわち、戦い挑む、やってみる、試みるということは 人間の自由意志の顕著な例である。冒険、競争、求道、研究、芸術などの営みは、人間であることの証であるとも言え、挑戦とは人間としての存在の本質を表しているところの、人間固有の人間らしい営みである。 
されば、人間の存在の意義とは何か? まず、生きること、生きて存在しなければ始まらない ― 生命の基本定理、人生、世界、生物界において 実際これくらいしか、確かなことは、無い。 逆に考えてみよう、生きて、存在しなければ、生まれて来る前のように 何も認識できず、したがって何も知らず、何も伝えられず、全ての前提は 消えてしまうだろう(再生核研究所声明13: 第1原理 ― 最も大事なこと)。
さらに1歩進めて、人間として生きることの意義とは何だろうか。 それは、つきるところ、人生の意義は感動することにある ― 人生の基本定理 にあると言える。 人間が何に感動するかは、個性にもよるが、本能に基づくものは当然として、真、善、美、聖などを求めているときであると言え、知ることと、自由を求めることが それらの基礎である。 その本質は、気づくことと、喜びを感じることに他ならない。 人間として生きることの本質ではないだろうか(再生核研究所声明12: 人生、世界の存在していることの意味について)。 
そこで、いま、日本国において、取り組むべき挑戦課題を提案したい。
まず、国家財政を立て直すこと、国だけの債務をみても、1000兆円に迫り、3年続けて 歳入の2倍を超える歳出である。 更に大震災、原発事故、放射能対策の膨大な経費である。このような財政を続けていける道理は 世に無いから、国は大胆に財政問題を国民に明らかにして、官民挙げて 財政問題に挑戦すべきである。もちろん増税だけではなく、国民に理解を求めるための 節税や行政改革なども断行すべきである。ここで大事な観点は、縮小方向ばかりではなく、財政再建の積極的な展開も多方面に志向すべきであるということである。新しい職場の開拓、ビジネス効果志向などである。国の活動に人材の活用によるビジネス感覚の導入も必要ではないだろうか。これらは、同時多発的に広範に取り組む必要があり、ここでの挑戦とは、正しく時間との戦いであると言える。何事も追い込まれる前に先手を打つのが 賢明な対応の在りようではないだろうか。世界は 世界混乱前夜の状況にあると言えるのではないだろうか(再生核研究所声明 45: 第2次世界大戦と第3次世界混乱)。
次に、原発事故を鎮圧して、放射能対策をしっかり行うこと。これは当然であるが、より真剣に取り組むべきではないだろうか。世に 反原発についての意見やデモ等が行われているが これほど無意味で、無駄な行動は無い。誰でも原発など無いにこしたことはないと考えるのは当然であり、また、東電その他関係者自身が、一般国民よりははるかに、原発事故の重大さと危険性を明確に自覚していることは 当たり前である。 世に騒がれるまでもない当然のことではないだろうか。当然のことを騒いでいて、何か建設的、生産的なことが有るだろうか。 逆に、原発を何とか活用すべく、挑戦的に取り組むことは 自明ではない、やりがいのある挑戦課題ではないだろうか。それこそが、およそ人間存在の原理ではないだろうか。 実際、人類は、未知の世界に冒険し、新世界を開拓し、次々と世界を拡大、深化させてきたのではないのか。不可能と思えることを可能ならしめ、宇宙の隅々まで、神の意思までをも 究めたいというが、そもそも人間存在の原理ではないだろうか。もちろん、これは安易に取り組むことを意味せず、慎重に、慎重に進めるのは当然であるが、原発を諦めるということは、それに対する人類の敗北を意味し、人間存在の本質に抵触すると言わなければならない。何時かは原子力ネルギーを自由に制御して、広大な宇宙に飛び出し、新天地を拓こうではないか(再生核研究所声明 32: 夜明け―ノアの方舟)。
次に教育の問題である。 日本の教育は何を目指しているのかと問いたい。 ただ大学受験を目指して、大学に入る為の勉強に ほとんどの部分を占めているように見える。受験のための塾、専門の学校の繁茂がそれらを示してはいないだろうか。 教育を教育の在るべき姿に戻って、検討し直すことが 中長期的には日本国における大事な挑戦課題ではないだろうか。 教育の在るべき姿などは既に教育基本法その他で 確立しているが 弊害は、本末転倒の教育の在り様になっている実情、実体にある(再生核研究所声明 70 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず)。教育の原理についても注意を喚起したい(再生核研究所声明76 教育における心得、教育原理)。
挑戦とは人間の自由意志の明確な表現として、決断による情熱の伴った生命の燃焼であり、志である。 そこに良い感動が伴えば、より良い人生と言えるだろう。

以 上

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