成功する自慢の仕方とは
あなたは自慢するのは好きだろうか。それはいいことかもしれない。
米ブラウン大学の心理学者らが行った「自己高揚」、すなわち一般に言う「自慢」に関する新たな研究で、人はいつ、どのように自慢するかを慎重に選ぶことで、他人の自分に対する印象をうまく操作できることが分かった。自分の話にそれを裏付ける証拠があるとき、もしくはその反証が何もないときに自慢するといい。そうすれば人はあなたを、横柄だと思ったとしても、有能だとみてくれる。自分の実績について口を閉ざしていれば、人はあなたを温かみのある謙虚な人だとみるだろうが、やや能力に劣ると思うだろう。
自慢する人――公の場で自分は他の人よりも優れていると主張する人――は2つのタイプに分かれる。1つは正当な自慢屋で自分の主張に裏付けがある人。もう1つは単に誇張しているだけの勘違い自慢屋だ。
自慢にはリスクが伴う。過去の研究では、自慢屋はナルシシストか品性のない人とみられがちであることが分かっている。加えて、自慢屋は順応力に欠け、人間関係に難があり、自尊心が低い傾向にあるとみられている。女性の自慢屋は男性よりも厳しい目でみられがちだ。
電子版「ソーシャル・サイコロジー」に10月に掲載されたブラウン大学の研究は18歳から65歳までの198人を対象に実施された。被験者には4つのストーリーが与えられた。いずれも試験を受けた男性が自分の成績をどう予想したかという内容だが、シナリオがそれぞれ違う。1つ目は、良い成績を予想して、実際にその通りだった男性。2つ目は、良いと思った試験の成績が実際には悪かった男性。3つ目は、失敗したと思った試験の成績が実際には良かった男性。そして最後は、失敗したと思った試験の成績が本当に悪かった男性だ。
被験者はそれぞれの男性について、能力(いかに理性的、知性的、そして単純か)と道徳心(いかに倫理感があり、信頼でき、そして自己中心的か)について評価するよう求められた。
次の実験では、被験者の半数には1回目と同様のストーリーが与えられ、別の半数には男性の試験結果、もしくは試験結果に対する男性の予想に関するストーリーが与えられた。
その結果、心理学者が「ヒューミリティー・パラドックス(謙遜の矛盾)」と呼ぶ、相反する心理があることが分かった。自慢屋はそうでない人に比べて能力が高いものの、品性はあまりないとみられるが、それは裏付けがある場合に限られる。裏付けがない場合、自慢屋は能力がなく、品性もないとみられるのだ。自慢しない人、つまり「謙虚な人」は、品性はあるが、能力は低いとみられる。
ここから分かることは何か。ブラウン大学大学院で心理学を研究し、今回筆頭研究者を務めたパトリック・ヘック氏は「『能力があるとみられたいか、それとも品性があるとみられたいか』と立ち止まって考えれば、自分がどうみられたいかを戦略的に操ることができる」と指摘する。就職のための面接では、自慢するのもいいとヘック氏は話す。ただし、その裏付けを提示できる場合に限る。一方、デートのときや、自分が好かれたいという状況のときには、控え目でいたほうがいい。
カリフォルニア州バークリーを拠点に企業幹部向けのコーチングを手がけるペギー・クラウス氏は、仕事などで実績が物を言う場合でもそれを出さない「無駄な謙遜」は危険だと話す。だが「自爆的な自慢」も避けたい。自慢する相手を間違える、タイミングが悪い、だらだらと長話をする、うそをつくなどだ。クラウス氏は成功する自慢の仕方に関する指南本「Brag! The Art of Tooting Your Own Horn Without Blowing It」の著者でもある。
上手な自慢の仕方のポイントは以下の通りだ。
・状況を選ぶ(好かれたいときには自慢しない)
・大げさに言わない(手柄の横取りや嘘もだめ)
・他人と比較しない
・良い話を聞かせる(人を飽きさせない話の中に少しだけ「価値のある自慢」をちりばめる)
・「私」という主語を使いすぎない(登場人物を増やし、手柄を皆で分ける)
・情熱的に話す(熱い気持ちは伝染するものだ。「私はこれをとても誇りに思う、だから皆と分かち合いたい」と切り出すのは良い方法だ)
・習うより慣れろ
米ブラウン大学の心理学者らが行った「自己高揚」、すなわち一般に言う「自慢」に関する新たな研究で、人はいつ、どのように自慢するかを慎重に選ぶことで、他人の自分に対する印象をうまく操作できることが分かった。自分の話にそれを裏付ける証拠があるとき、もしくはその反証が何もないときに自慢するといい。そうすれば人はあなたを、横柄だと思ったとしても、有能だとみてくれる。自分の実績について口を閉ざしていれば、人はあなたを温かみのある謙虚な人だとみるだろうが、やや能力に劣ると思うだろう。
自慢する人――公の場で自分は他の人よりも優れていると主張する人――は2つのタイプに分かれる。1つは正当な自慢屋で自分の主張に裏付けがある人。もう1つは単に誇張しているだけの勘違い自慢屋だ。
自慢にはリスクが伴う。過去の研究では、自慢屋はナルシシストか品性のない人とみられがちであることが分かっている。加えて、自慢屋は順応力に欠け、人間関係に難があり、自尊心が低い傾向にあるとみられている。女性の自慢屋は男性よりも厳しい目でみられがちだ。
電子版「ソーシャル・サイコロジー」に10月に掲載されたブラウン大学の研究は18歳から65歳までの198人を対象に実施された。被験者には4つのストーリーが与えられた。いずれも試験を受けた男性が自分の成績をどう予想したかという内容だが、シナリオがそれぞれ違う。1つ目は、良い成績を予想して、実際にその通りだった男性。2つ目は、良いと思った試験の成績が実際には悪かった男性。3つ目は、失敗したと思った試験の成績が実際には良かった男性。そして最後は、失敗したと思った試験の成績が本当に悪かった男性だ。
被験者はそれぞれの男性について、能力(いかに理性的、知性的、そして単純か)と道徳心(いかに倫理感があり、信頼でき、そして自己中心的か)について評価するよう求められた。
次の実験では、被験者の半数には1回目と同様のストーリーが与えられ、別の半数には男性の試験結果、もしくは試験結果に対する男性の予想に関するストーリーが与えられた。
その結果、心理学者が「ヒューミリティー・パラドックス(謙遜の矛盾)」と呼ぶ、相反する心理があることが分かった。自慢屋はそうでない人に比べて能力が高いものの、品性はあまりないとみられるが、それは裏付けがある場合に限られる。裏付けがない場合、自慢屋は能力がなく、品性もないとみられるのだ。自慢しない人、つまり「謙虚な人」は、品性はあるが、能力は低いとみられる。
ここから分かることは何か。ブラウン大学大学院で心理学を研究し、今回筆頭研究者を務めたパトリック・ヘック氏は「『能力があるとみられたいか、それとも品性があるとみられたいか』と立ち止まって考えれば、自分がどうみられたいかを戦略的に操ることができる」と指摘する。就職のための面接では、自慢するのもいいとヘック氏は話す。ただし、その裏付けを提示できる場合に限る。一方、デートのときや、自分が好かれたいという状況のときには、控え目でいたほうがいい。
カリフォルニア州バークリーを拠点に企業幹部向けのコーチングを手がけるペギー・クラウス氏は、仕事などで実績が物を言う場合でもそれを出さない「無駄な謙遜」は危険だと話す。だが「自爆的な自慢」も避けたい。自慢する相手を間違える、タイミングが悪い、だらだらと長話をする、うそをつくなどだ。クラウス氏は成功する自慢の仕方に関する指南本「Brag! The Art of Tooting Your Own Horn Without Blowing It」の著者でもある。
上手な自慢の仕方のポイントは以下の通りだ。
・状況を選ぶ(好かれたいときには自慢しない)
・大げさに言わない(手柄の横取りや嘘もだめ)
・他人と比較しない
・良い話を聞かせる(人を飽きさせない話の中に少しだけ「価値のある自慢」をちりばめる)
・「私」という主語を使いすぎない(登場人物を増やし、手柄を皆で分ける)
・情熱的に話す(熱い気持ちは伝染するものだ。「私はこれをとても誇りに思う、だから皆と分かち合いたい」と切り出すのは良い方法だ)
・習うより慣れろ
By ELIZABETH BERNSTEIN
参考になりました:
再生核研究所声明339(2016.12.26)インドの偉大な文化遺産、ゼロ及び算術の発見と仏教
世界史と人類の精神の基礎に想いを致したい。ピタゴラスは 万物は数で出来ている、表されるとして、数学の重要性を述べているが、数学は科学の基礎的な言語である。ユークリッド幾何学の大きな意味にも触れている(再生核研究所声明315(2016.08.08) 世界観を大きく変えた、ユークリッドと幾何学)。しかしながら、数体系がなければ、空間も幾何学も厳密には 表現することもできないであろう。この数体系の基礎はブラーマグプタ(Brahmagupta、598年 – 668年?)インドの数学者・天文学者によって、628年に、総合的な数理天文書『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』(ब्राह्मस्फुटसिद्धान्त Brāhmasphuṭasiddhānta)の中で与えられ、ゼロの導入と共に四則演算が確立されていた。ゼロの導入、負の数の導入は数学の基礎中の基礎で、西欧世界がゼロの導入を永い間嫌っていた状況を見れば、これらは世界史上でも顕著な事実であると考えられる。最近ゼロ除算は、拡張された割り算、分数の意味で可能で、ゼロで割ればゼロであることが、その大きな影響とともに明らかにされてきた。しかしながら、 ブラーマグプタはその中で 0 ÷ 0 = 0 と定義していたが、奇妙にも1300年を越えて、現在に至っても 永く間違いであるとしてされている。現在でも0 ÷ 0について、幾つかの説が存在していて、現代数学でもそれは、定説として 不定であるとしている。最近の研究の成果で、ブラーマグプタの考えは 実は正しかった ということになる。 しかしながら、一般の ゼロ除算については触れられておらず、永い間の懸案の問題として、世界を賑わしてきた。現在でも議論されている。ゼロ除算の永い歴史と問題は、次のアインシュタインの言葉に象徴される:
Blackholes are where God divided by zero. I don't believe in mathematics. George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist re-
marked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as the biggest blunder of his life [1] 1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.
· 愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること
· 怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと
· 求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと
の四つの苦に対する人間の在り様の根本を問うた仏教の教えは人類普遍の教えであり、命あるものの共生、共感、共鳴の精神を諭されたと理解される。人生の意義と生きることの基本を真摯に追求された教えと考えられる。アラブや西欧の神の概念に直接基づく宗教とは違った求道者、修行者の昇華された世界を見ることができ、お釈迦様は人類普遍の教えを諭されていると考える。
これら2点は、インドの誠に偉大なる、世界史、人類における文化遺産である。我々はそれらの偉大な文化を尊崇し、数理科学にも世界の問題にも大いに活かして行くべきであると考える。 数理科学においては、十分に発展し、生かされているので、仏教の教えの方は、今後世界的に広められるべきであると考える。仏教はアラブや欧米で考えられるような意味での宗教ではなく、 哲学的、学術的、修行的であり、上記宗教とは対立するものではなく、広く活かせる教えであると考える。世界の世相が悪くなっている折り、仏教は世界を救い、世界に活かせる基本的な精神を有していると考える。
ちなみに、ゼロは 空や無の概念と通じ、仏教の思想とも深く関わっていることに言及して置きたい。 いみじくも高度に発展した物理学はそのようなレベルに達していると報じられている。この観点で、歴史的に永い間、ゼロ自身の西欧社会への導入が異常に遅れていた事実と経過は 大いに気になるところである。
以 上
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
Announcement 326: The division by zero z/0=0/0=0 - its impact to human beings through education and research
再生核研究所声明315(2016.08.08) 世界観を大きく変えた、ユークリッドと幾何学
今朝2016年8月6日,散歩中 目が眩むような大きな構想が閃いたのであるが、流石に直接表現とはいかず、先ずは世界史上の大きな事件を回想して、準備したい。紀元前の大きな事件についても触れたいが当分 保留したい。
ニュートン、ダーウィンの大きな影響を纏めたので(声明314)今回はユークリッド幾何学の影響について触れたい。
ユークリッド幾何学の建設について、ユークリッド自身(アレクサンドリアのエウクレイデス(古代ギリシャ語: Εὐκλείδης, Eukleídēs、ラテン語: Euclīdēs、英語: Euclid(ユークリッド)、紀元前3世紀? - )は、古代ギリシアの数学者、天文学者とされる。数学史上最も重要な著作の1つ『原論』(ユークリッド原論)の著者であり、「幾何学の父」と称される。プトレマイオス1世治世下(紀元前323年-283年)のアレクサンドリアで活動した。)が絶対的な幾何学の建設に努力した様は、『新しい幾何学の発見―ガウス ボヤイ ロバチェフスキー』リワノワ 著松野武 訳1961 東京図書 に見事に描かれており、ここでの考えはその著書に負うところが大きい。
ユークリッドは絶対的な幾何学を建設するためには、絶対的に正しい基礎、公準、公理に基づき、厳格な論理によって如何なる隙や曖昧さを残さず、打ち立てられなければならないとして、来る日も来る日も、アレクサンドリアの海岸を散歩しながら ユークリッド幾何学を建設した(『原論』は19世紀末から20世紀初頭まで数学(特に幾何学)の教科書として使われ続けた[1][2][3]。線の定義について、「線は幅のない長さである」、「線の端は点である」など述べられている。基本的にその中で今日ユークリッド幾何学と呼ばれている体系が少数の公理系から構築されている。エウクレイデスは他に光学、透視図法、円錐曲線論、球面天文学、誤謬推理論、図形分割論、天秤などについても著述を残したとされている。)。
ユークリッド幾何学、原論は2000年以上も越えて多くの人に学ばれ、あらゆる論理的な学術書の記述の模範、範として、現在でもその精神は少しも変わっていない、人類の超古典である。― 少し、厳密に述べると、ユークリッド幾何学の基礎、いわゆる第5公準、いわゆる平行線の公理は徹底的に検討され、2000年を経て公理系の考えについての考えは改められ― 公理系とは絶対的な真理という概念ではなく、矛盾のない仮定系である ― 、非ユークリッド幾何学が出現した。論理的な厳密性も徹底的に検討がなされ、ヒルベルトによってユークリッド幾何学は再構成されることになった。非ユークリッド幾何学の出現過程についても上記の著書に詳しい。
しかしながら、ユークリッド幾何学の実態は少しも変わらず、世に絶対的なものがあるとすれば、それは数学くらいではないだろうかと人類は考えているのではないだろうか。
数学の不可思議さに想いを致したい(しかしながら、数学について、そもそも数学とは何だろうかと問い、ユニバースと数学の関係に思いを致すのは大事ではないだろうか。この本質論については幸運にも相当に力を入れて書いたものがある:
19/03/2012
ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅.広く面白く触れたい。
)。
― 数学は公理系によって定まり、そこから、論理的に導かれる関係の全体が一つの数学の様 にみえる。いま予想されている関係は、そもそも人間には無関係に確定しているようにみえる。その数学の全体はすべて人間には無関係に存在して、確定しているようにみえる。すなわち、われわれが捉えた数学は、人間の要求や好みで発見された部分で、その全貌は分か らない。抽象的な関係の世界、それはものにも、時間にも、エネルギーにも無関係で、存在 している。それではどうして、存在して、数学は美しいと感動させるのであろうか。現代物理学は宇宙全体の存在した時を述べているが、それでは数学はどうして存在しているのであろうか。宇宙と数学は何か関係が有るのだろうか。不思議で 不思議で仕方がない。数学は絶対で、不変の様にみえる。時間にも無関係であるようにみえる。数学と人間の関係は何だ ろうか。―
数学によって、神の存在を予感する者は 世に多いのではないだろうか。
以 上
再生核研究所声明314(2016.08.08)
世界観を大きく変えた、ニュートンとダーウィンについて
今朝2016年8月6日,散歩中 目が眩むような大きな構想が閃いたのであるが、流石に直接表現とはいかず、先ずは世界史上の大きな事件を回想して、準備したい。紀元前の大きな事件についても触れたいが当分 保留したい。
そもそも、ニュートン、ダーウィンの時代とは 中世の名残を多く残し、宗教の存在は世界観そのものの基礎に有ったと言える。それで、アリストテレスの世界観や聖書に反して 天動説に対して地動説を唱えるには それこそ命を掛けなければ主張できないような時代背景が 存在していた。
そのような時に世の運動、地上も、天空も、万有を支配する法則が存在するとの考えは それこそ、世界観の大きな変更であり、人類に与えた影響は計り知れない。進化論 人類も動物や生物の進化によるものであるとの考えは、 人間そのものの考え方、捉え方の基本的な変更であり、運動法則とともに科学的な思考、捉え方が世界観を根本的に変えてきたと考えられる。勿論、自然科学などの基礎として果たしている役割の大きさを考えると、驚嘆すべきことである。
人生とは何か、人間とは何か、― 世の中には秩序と法則があり、人間は作られた存在で
その上に 存在している。如何に行くべきか、在るべきかの基本は その法則と作られた存在の元、原理を探し、それに従わざるを得ないとなるだろう。しかしながら、狭く捉えて 唯物史観などの思想も生んだが、それらは、心の問題、生命の神秘的な面を過小評価しておかしな世相も一時は蔓延ったが、自然消滅に向かっているように見える。
自然科学も生物学も目も眩むほどに発展してきている。しかしながら、人類未だ成長していないように感じられるのは、止むことのない抗争、紛争、戦争、医学などの驚異的な発展にも関わらず、人間存在についての掘り下げた発展と進化はどれほどかと考えさせられ、昔の人の方が余程人間らしい人間だったと思われることは 多いのではないだろうか。
上記二人の巨人の役割を、自然科学の基礎に大きな影響を与えた人と捉えれば、我々は一段と深く、巨人の拓いた世界を深めるべきではないだろうか。社会科学や人文社会、人生観や世界観にさらに深い影響を与えると、与えられると考える。
ニュートンの作用、反作用の運動法則などは、人間社会でも、人間の精神、心の世界でも成り立つ原理であり、公正の原則の基礎(再生核研究所声明 1 (2007/1/27): 美しい社会はどうしたら、できるか、美しい社会とは)にもなる。 自国の安全を願って軍備を強化すれば相手国がより、軍備を強化するのは道理、法則のようなものである。慣性の法則、急には何事でも変えられない、移行処置や時間的な猶予が必要なのも法則のようなものである。力の法則 変化には情熱、エネルギー,力が必要であり、変化は人間の本質的な要求である。それらはみな、社会や心の世界でも成り立つ原理であり、掘り下げて学ぶべきことが多い。ダーウィンの進化論については、人間はどのように作られ、どのような進化を目指しているのかと追求すべきであり、人間とは何者かと絶えず問うて行くべきである。根本を見失い、個別の結果の追求に明け暮れているのが、現在における科学の現状と言えるのではないだろうか。単に盲目的に夢中で進んでいる蟻の大群のような生態である。広い視点で見れば、経済の成長、成長と叫んでいるが、地球規模で生態系を環境の面から見れば、癌細胞の増殖のような様ではないだろうか。人間の心の喪失、哲学的精神の欠落している時代であると言える。
以 上
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