2016年11月16日水曜日

電気自動車普及も裏目?減少率全国一 東京のガソリンスタンド過疎地化問題

電気自動車普及も裏目?減少率全国一 東京のガソリンスタンド過疎地化問題

今般、自動車離れが進んでいると言われます。特に、可処分所得が少ない若年層は自動車にお金を費やすことができないため、自動車を購入するどころか自動車そのものへの関心が薄れています。自動車離れが進んだ結果、自動車を製造するメーカーや販売するディーラーなどの売上が減少することは間違いありません。ほかにも、自動車離れで大きな打撃を受けているのがガソリンスタンドです。

人口減少だけでなく……燃費向上、電気自動車普及もスタンド経営に影響

 経済産業省は「ガソリンスタンドが自治体内に3か所以下」「人が居住する地域からガソリンスタンドが15キロメートル以上離れている」といった状態にある市町村をサービスステーション過疎地(SS過疎地)と定義しています。経産省によると、2016(平成28)年度末においてガソリンスタンドがひとつも存在しない市町村内は全国に11あります。さらに、3か所以下の市町村は288にのぼります。SS過疎地の大半は、人口減少が著しい地方都市や離島に偏在しています。

 10年ほど前から、地方都市ではガソリンスタンドの廃業が相次ぐようになりました。地方都市において、自動車は日常生活に欠かせません。ガソリンスタンドが消失してしまえば、生活にも支障をきたします。資源エネルギー庁資源・燃料部石油流通課の担当者は、こう話します。

 「ガソリンスタンドの廃業が相次いでいる背景には、いくつか理由があります。少子高齢化に伴い自動車に乗る人が減ったこと、自動車の燃費が著しく向上してガソリンの消費量が抑制傾向にあることなどです。最近はガソリンを使用しない電気自動車も普及していることが、ガソリンスタンド経営の厳しさに拍車をかけています」。

都市圏で進むSS過疎地化 自動車は生活必需品じゃない

 “過疎”という言葉の響きから、SS過疎地問題は地方都市の問題として語られがちです。地方都市が置かれている状況は危機的ですが、人口が多く自動車もたくさん走っている東京都にとってもSS過疎地問題は対岸の火事ではありません。

「ライフスタイルの変化に伴い、都市圏では自動車は生活必需品ではなくなっています。特に、東京や大阪では鉄道がきめ細かく整備されているので、自動車を所有せずとも出かけることに不便ではなくなりました。そうした変化によって、自動車ユーザーが減り、結果としてガソリンスタンドの経営が厳しくなっているのです」。

都市に適した電気自動車の“ちょい乗り”需要も影響?

 また、技術革新によって電気自動車が普及したことも、都市圏のSS過疎を加速させている要因です。ガソリン車と比べると、電気自動車は一回の充電で走行できる距離が短いという欠点があります。しかし、航続距離が短くても東京や大阪といった都市圏では“ちょい乗り”と呼ばれる、わずかな移動のみで使われることも少なくありません。そうした都市圏での“ちょい乗り”需要が、電気自動車の普及に一役買っています。それがガソリン車離れにつながり、都市圏のSS過疎地化に拍車をかけているのです。

 2005年度から2014年度までの10年間、東京都では700か所以上ものガソリンスタンドがなくなり、減少率は37.9%にも及びます。これは、47都道府県ワースト1減少率です。

震災時で必要とされたガソリンスタンドが持つ「燃料基地」の役割

 このまま電気自動車の普及が進めば、さらにガソリンスタンドは消失していくでしょう。ガソリン車が減っているのだから仕方がないと思われるかもしれません。しかし、ガソリンスタンドが果たす役割は自動車の燃料を補給するだけではありません。灯油販売や農業機械への給油といった役割も担っているのです。

 「東日本大震災や熊本地震でも、ガソリンスタンドは燃料基地として大きな役割を果たしました。暖房器具や発電といった燃料全般において、ガソリンスタンドは重要な役割を有しています。ガソリン車が減少しても、ガソリンスタンドは必要不可欠な拠点であると考えています」(同)。

 ガソリンスタンドを維持することは住民生活を守ることにもつながります。そうした視点から、地方自治体は補助金を出したり、経営を公営に切り替えるなどしてガソリンスタンドの支援に乗り出しています。本来、ガソリンスタンドは民間事業です。そのため東京や大阪といった都市圏では、自治体が公金を投じて維持するという機運は高まっていません。

経産省は経営多角化を奨励 カフェやコンビニを併設するところも

 そうした状況を踏まえて、経産省はガソリンスタンドを維持していくために経営の多角化を積極的に奨励し、油外収入を増やすことを勧めてきました。これまでのガソリンスタンドは、タイヤ交換や洗車、保険の販売などで油外収入を拡大させてきました。最近は、カフェやコンビニを併設するガソリンスタンドが増えています。

 「給油待ちの間にカフェでお茶をする、コンビニに寄るついでに給油していく。そうした併設店舗による相乗効果は、ガソリンスタンドの経営を安定化させます。ガソリンスタンドを維持していくためにも、経営の多角化は今後の課題と言えます」(同)。

 カフェやコンビニを併設したガソリンスタンドは集客が期待できますが、どうしても広い敷地が必要になります。都市圏では、広い敷地を確保することがネックになって多角化が進んでいません。また、「仮に広い敷地があっても『儲からないガソリンスタンドを経営するより、マンションを建てた方が手っ取り早く儲けられる』と考える経営者や地主も多く、都市圏でもガソリンスタンドの廃業が深刻な問題になっています」(同)。

 私たちが口にする食料品や手にする日用品は、トラックによって各店舗に配送されています。自動車による物流が、私たちの生活を支えていると言っても過言ではありません。年々、日常的に自動車を運転しない人は増えていますが、SS過疎地は自動車を運転しない人にとっても大きな影響を及ぼす問題とも言えるのです。

小川裕夫=フリーランスライター

再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観

ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、ゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、

関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が 原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。

経過などは 次を参照:

再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案

これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば

F = G mM/r^2。

rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係を捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、正と負、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:

[PDF]
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。

における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。

文献:

M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.

S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAM

以 上
 
再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界

(12月10日16時 論文精読を一通り通読したら無性に書きたくなって始めたものである)
これは声明166の延長にあるので、まず、その要点を振り返っておこう: ―
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観:
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、あるいは割り算の固有の意味から、何でもゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が数値で0、すなわち、原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係と捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。―
ゼロ除算の、無限とゼロの微妙な関係に驚嘆している間に、空がどんどん晴れてくるように新しい世界の、視野がどんどん広がり、驚きの感情が湧いている。言わば、明暗が、両極端のように、明、暗と分けられたものではなく、微妙な密接な、関係である。その内容は広がりと深さを持っていて簡単に表現できるものではない。また、みえた世界をそのまま表現すれば、現在でもなお、天動説が地動説に変わったときのように、また、非ユークリッド幾何学が出現したときのように 世は騒然となるだろう。そこで、注意深く、各論を、断片を 折をみて、表現しよう。
そこで、初回、生命の本質的な問題、生と死の問題をすこし触れたい。
食物連鎖の生物界の冷厳な事実、食われるものと食うものの立場。声明36で大きな命の概念で全体を捉えようとしたが、それらは殆ど等価の立場ではないだろうか。実際、猫がねずみをくわえて誇らしげに通りすぎていくのを見た。ところが奇妙にも、ねずみは歓喜の喜びにひたって悠然としてくわえられているようにみえた。自然の理。蛇が燕の巣を襲い、全滅させられたが、蛇は悠然と上手くいきました、ごめんなさいというような表情で消えていった。襲われた燕たちは一瞬で魔神に掛かったように気を失い、蛇に飲み込まれてしまった。少し、経つと元気に巣立ち厳しい自然の中を南国まで飛んで行っていろいろ苦労するよりは、蛇のお腹で 安らかな終末の方がよほどましだというような情感を覚えた。もちろん、ヒナを襲われた親鳥は切なく天空を舞っていたが、やがて、ヒナたちは最も良い生涯を終えたと、本能的に感じて、新しい生命活動に、励み出している。このようなことを何万年と繰り返してきたのが、燕と蛇の関係である。暗(あん)という面には ちょうど明(めい)と同じような明るい面があるのではないだろうか。明暗は対立概念ではなくて、微妙に調和がとれているのではないだろうか。ユニバースにおける全体の調和を観、述べている。人類が生命のただ延長を志向しているとすれば、それは、古い世界観に基づく無明の世界だろう。夜明けを迎えた、在るべき世界観とは 生も死も殆ど等価であり、共に愛すべきものであるということである。在るも良い、消えるも良い。ゼロ除算の驚きは そのような感性を育てているように感じられる。死からの開放に寄与するだろう。生命の誕生は素晴らしく、喜びと夢が湧いてきて、大きな光が差してくるようである。世界が開かれてくる。われわれの終末も似たようなものではないだろうか。大きな世界、私たちをこの世に送り込んだものの 大きな愛に満ちた世界にとけこんでいくようなものではないだろうか。この意味で、あらゆる生命は 大きな愛に包まれて、 支えられていると感じられるだろう。これは神の予感を述べている。 私たちは、愛されている(愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/

再生核研究所声明 692011/09/27)  単細胞人間 ― 単細胞的思考

(背景: 2011/09/22  宿舎で朝食をとっている最中に 突然閃いた考えです。 単細胞人間という言葉を聴いたのは 恩師がゼミの学生に言われた言葉として、伺って来ました。
類語辞典には 近視眼的な ・ 目先の利益だけ考えた~ ・ せっかちな(結論) ・ (単なる)向こうみず ・ 単線思考の ・ 単細胞(人間) とある。 また、 ツイッターで、 恩師が、単細胞人間 と言った ということを 思い出させます。 小さな真実を見て、 全体が見えないのですね。 愚かさの表れ ではないでしょうか。 脱原発デモ なども そうではないでしょうか と呟いた後です。)

単細胞的思考とは
小さな事実を それに関係する全体の中での 位置づけができず、その局所的な、断片的な事実をもって全体に普遍させてしまう愚かさであると表現したい。

まず、現実的な問題で考察し、しかる後に一般論を展開したい。
脱原発デモ、脱原発運動、これはどれほどの意味があるでしょうか。そのまま主張を全て受け入れたら、どのようになるでしょうか。長年かけて膨大な資金を注ぎ、人と設備を整えたものを活用できないとなれば、電力会社は 膨大な損失である、相当に電気料を課しても経営が成り立たないのは 素人の目にも明らかではないだろうか。電力会社は どの程度の損失に当たるかを明らかにして 国民に理解を求めるべきである。天災の事故で、恐ろしいは 分かるが、何十年も続けてきたことをいきなり、中止せよ反対、このような要求は 子供の要求と同じで、単細胞的思考の典型的な例と考えられる。まともな考えとは、くれぐれも慎重に運営して欲しい。場合によっては、在り様は 分かれるが、段階的に縮小して欲しいという意見ではないだろうか。
これについては、再生核研究所声明 67  脱原発デモ ― 非現実的な貧しい二律背反の発想と飛躍した議論 を参照。

相当の人が、国防の在り様について、敵地攻撃能力の整備を と主張している。自分は強く、相手を罰せられるので安全になると考えているのであろうか。 しかし、逆に考えてみれば、当然、公正の原則で 相手も敵地攻撃能力を高めて、直ちに軍拡競争に入ってしまう。場合によっては、逆襲され、先に攻撃して、壊滅させてしまえ となりかねない。 経済的にも大変で、危険性を増大させる、それこそ、単細胞的思考ではないだろうか。空母が欲しい、軍事的には、南シナ海、東シナ海を「日本海」にすることだ、そのためには原子力潜水艦を持つことに尽きる 等も同じような考えではないだろうか。 
次を参考: 再生核研究所声明 49: アジアの愚か者、アジアの野蛮性。

次に、有名な蓮舫氏の発言について「研究は1番でないといけない。“2位ではどうか”などというのは愚問」とは おかしいと考える。 そのような質問をせずに、切りなくお金を注げば、第一 他の いろいろ大事な研究費を圧迫してしまう現実。 研究費は 無限ではないので、 どのように配分するかは、 国家の大事な問題。 戦艦大和のように 時代遅れの兵器を、研究でも、お金を掛ければ、大きければ、世界第1位でなければ、の発想は おかしい。 蓮舫氏は、 決めつけているのではなく、 なぜかと問うているのだから、 きちんと答えるのは、 研究者の 国民に対する義務であり、また、他の多くの研究者や、若い研究者も、どうしてそちらばかりお金をかけるか、知りたい 自然な 質問ではないだろうか。 蓮舫氏の質問は,政治家として、当然の立派な質問だと評価したい。専門家は日本国が破産を迎えても、自分のところの研究費だけはと 要求するだろう。 これは専門家の独善と大局に想いを致せない単細胞的思考の現れと言え、 専門化、局所化した現代社会の本質的な問題と考える。高度に専門化して、自分たち仲間でしか議論も話しも通じず、他の価値さえ理解できず、本当に生体の中の ほんの一部の細胞の役割しか 果たせなくなっている。 人事の進め方、評価なども 結局 仲間同志の中でしか、考えられない 現実である。 検察や弁護士も法律の条文にばかりに囚われていて、法の精神や生きた社会や世界的な視野に欠けて、おかしな判断をすることが多い(再生核研究所声明 31:法の精神と-罪と罰)。

上記 事例で分かることは 愚かさの故の行為と 背後に利害が絡んでいて 理に反しても強弁している場合とがあるということである。 何れも人間の本質的な弱点であると自戒したい。 そこで、 単細胞的な思考 に陥らない心得を 次のように纏めて置きたい。

1)絶えず、逆の立場、反対を考えて、みる。
2)その意見を 徹底的に進めたら どうなるかを考えてみる。
3)みんなが、それに賛成、実現したら、どうなるかを考えてみる。
4)特に関係の無い第3者や 素人の意見も参考にする。
5)世の問題は、真か偽か、正しいか正しくないか、赤か白かのように きちんと分けられるものでは ないものであり、微妙に入り混じっている複雑な在り様であり、在り様の在り様を 多様に考える 幅の広さに心がける。
6)一度決めるとそれに拘り、その意見に固執しがちであるから、絶えず高い立場の見解、良い意見に止揚していく心構えを柔軟に持つ。
7)くれぐれも派閥、仲間、専門家あるいは、地域、職業、宗教などの集団の枠、組織に囚われない。 また、考えを固定化したり、人を分け隔てたような考え方をとらない。
8)ある程度時間をかけて、大事な問題ほど、影響が大きい問題ほど じっくり考える。 全体の状況が 見えるまでは 謙虚な態度で臨む。

これらを 単細胞的思考から抜け出す心得としたい。しかしながら、人間は 本質的に愚かであり、予断と偏見に満ちた存在であること を肝に銘じて置きたい。

なお、個人と社会の在り様については 次を参考にして頂きたい: 再生核研究所声明 35:  社会と個人の在りよう ー 細胞の役割(この声明の趣旨は 人体と細胞のように国家と個人は、社会と個人は有機体の存在として、 調和ある存在 になろう ということにある。 実際、一個の人間の存在は 細胞が生体の中で有機的な存在であるように、本来社会の中で有機的な存在ではないだろうか。 生体が病んでしまったら、個々の細胞の存在はどのようになるかに 想いを致したい。 実際、人類の生存は、如何なるものをも超えた存在である(最も大事なこと:声明13)。
                                    以 上

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