2016年11月22日火曜日

テレビは何を失った?「テレビ衰退」6つの理由


テレビは何を失った?「テレビ衰退」6つの理由

高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
***
地上波テレビはどんどん見られなくなっている。民放に限って言えば2005年にテレビの広告シェアが34%だったものが、2015年は29%。対してインターネットは5%から19%への4倍増である。テレビは依然として広告シェアの1位であるもののこの傾向は回復せずシェアは漸減していくだろう。
筆者の大好きなテレビはなぜ、流されるままに衰退していっているのだろうか。さてこの論考で対象にするのは、バラエティやバラエティ化してしまったニュース情報番組であることをまずお断りしておく。本来あるべきテレビニュースの調査報道に関しては筆者は希望を持っている。
以下に、「テレビ衰退の原因」として6つの理由を書いてみたい。
<理由1>テレビ界は護送船団方式で政治に守られてきた。
許認可事業であるテレビは、電力業界が護送船団で守られ慢心してきた轍を踏み、同じく慢心してきた。競争相手は登場しないであろうと長い間、高をくくってきたのである。ケーブルテレビの登場も、衛星専用放送の登場も退けてきたが、これは護送船団方式だったからである。
しかし、自分たちの業界の実力だと勘違いしてしまった。護送船団方式には当然マイナス面もある。政治の都合で、電機業界の主力製品テレビが売れるようにと、BSデジタル放送の設備を導入させられ、地上波もデジタル化を余儀なくされた。膨大な資金が必要になったがこれには反対できない。護送船団だからだ。護送船団なので権力を忖度することも求められる。番組はどんどんつまらなくなる。
<理由2>テレビ界はマーケティングの使い方を間違った。
テレビ界でもマーケティングは流行っている。だが、コーポレート・アイデンティティ(CI)など、自局宣伝のために巨額のコンサルティング料金を払い良い恰好をしたがっただけだった。
あるプロのコンサルタントに「コンサルを導入するとテレビはよくなるか」と聞いたことがあるが答えは「ダメだろう、コンサルタントのノウハウが増えるだけだ」ということであった。本来のマーケティングは未来を読むものだが、テレビ局は過去のデータとして使う方法しか知らなかった。視聴率を読む(分析する)と、若い人がどんどんテレビを見なくなっていることが分かる。
さてこのデータをどう使うべきか。テレビ局は広告代理店などの強硬な姿勢に騙された。「購買力のある若い人テレビを見ないとCMを勝ってくれるスポンサーがどんどん離れて行く。年寄りの見る番組をつくっても売れない」本当にそうか確かめないままに言うとおりにした。若い人がテレビを見なくなっているのに「若い人に向けた番組を量産」した。最も凋落が激しいテレビ局がそうだが、他局も似たり寄ったりである。ますます、視聴率が下がった。テレビ離れが進んだ。
TBSラジオは早くに年寄り向けにシフトしてもう15年も聴取率トップを走っているが、それを「ラジオはたかが2%の広告シェア」と侮ってきちんと検討していない。タイムシフト視聴率という録画視聴率も採用され始めたがテレビ局はこの視聴率の統計的な分析放送を知っているのか。統計的な有意性を判定できる人材はテレビ局にはいるのか。
<理由3>テレビ局はテレビ番組を作るのが自分たちの一番の使命であることを忘れた。
いまのところ、依然として、テレビ局は日本最大の番組製作会社である。そのことを忘れてしまったのはいつなのか。いま、テレビ局は自局でのソフト製作にあまり力を入れていないように見える、番組を外注するために局員はただの管理者に成り下がり、クリエイターとして育っていかない。局内では看板として目立つクリエイターが重用はされるが、地味な縁の下で支える形のクリエイターは大事にされない。
ドラマは、もっと海外に売ることも考えて作るべきだが、ちまちまとまと内向きのものしかないのはマーケティング理論で言えば、いまやもう間違いである。
<理由4>テレビ局はコンプライアンスを勘違いした。
コンプライアンスとは臆病になることなのか、やらない方がよい理由を100個考えることなのか。違う。ソフト制作者としてのコンプライアンスとはそれをやるためにはどうすれば良いかを考えることだ。ずっと前から「ソフトはこれからどんどん必要になる」と言われてきた。その通りであった、しかしテレビはソフト制作者を育ててこなかった。
<理由5>テレビ局は芸能プロダクションに牛耳られてそのくびきから逃れられなくなった。
芸能界を牛耳る有力プロダクションのトップは皆、高齢である。テレビ局はこれらの人々に遠慮するあまり、また、恐れおののくあまり自由に番組が作れなくなった。敬礼の人がいなくなれば代わるのだろうか。芸能プロダクションのオーナー経営者に定年はない。
基本的に番組の企画はテレビ局のものである。その企画をもう一度やりたいときにはプロダクションに遠慮などすることはない。同じ主役が使えなければ他の俳優でやる権利はテレビ局のほうにある。
<理由6>テレビ局のトップにテレビの未来に対する愛情と大局観が感じられる人物がいない。
最後に、これが最大の理由であるように感じる。http://blogos.com/article/198794/ 
再生核研究所声明318(2016.08.31) 映像の危険性 ― テレビの弊害

声明317 完成の折りに 2016.8.29.06:00 完成、公表、NHK の愚かさについての考えが湧いた。の考えの先を進めよう。 まず、3年前の声明を復習して置きたい:
再生核研究所声明109(2013.2.8) 中国の出軍は、道理であり、日本の出軍は憲法違反である - 公正と法とは何か、おかしな日本のNHKと世相:

― 趣旨:それで、尖閣諸島の領有権を巡って緊張関係が 続いている:
沢山の艦船が 永く尖閣諸島でにらみ合いを続ける可能性もある。西部戦線異状なし、十字軍遠征のように。日・中とも 艦船の派遣、警護などで 大変な出費が嵩み、さらに、両国の緊張関係で、経済的な損失は 甚大、島を買い上げた20数億円などの損失どころではない。 - 領有権問題の法則:勝っても、負けても、対峙しても、騒いでも損するだけ。得する人は 悪い政治屋、高級軍人、軍需産業、馬鹿騒ぎが好きなマスコミ関係者 くらいである。― 再生核研究所声明103

このような事態を憂慮して、一貫した考え方を発表してきた: 略
島の領有権問題には 慣習と総合的な意味での力の均衡が大事である。したがって、関与する国々の諒解と、和が決定的に大事である。しかるに、一方的に 安定していた諒解事項を破った日本に 非が有るのは歴然であり、権利保持の立場から、中国や台湾など領有権を主張する国々が 軍を派遣するのは道理であり、実際、そうしなければ 一方的に領土を失ったことになるから、いかなる国の政権も危ういことに成るだろう。 論理的には 軍事対立になるが、日本は憲法の精神で、国際紛争の解決のためには武力を行使しない、交戦権も放棄しているから、日本国憲法によって、日本軍が出動できないのは明らかである。さらに、軍備を増大させることも 憲法の精神に著しく反しているのは 明らかである。
どうして、このような奇妙な状況に追い込まれたのか。そもそも 日本国憲法の精神とは、世界の平和を希求して、和によって 世界の進化を図ろうとするところにあって、武力での考えを放棄したはず である。そのような高邁な精神に逆らって、 微妙な領土問題に 藪蛇的に侵略的行為を行い、国際関係を意図的に、軍事的にも緊張させているのは、世に驚くべき、不祥事である。しかるに総選挙の結果、最高責任者 野田首相の退陣は 当然としても、島問題に姑息で、陰気なちょっかいを出した石原氏など いわゆる右傾化勢力が拡大したのは、誠に遺憾である。
再生核研究所声明1において、社会の、国家の規範は 公正の原則に基づくべきだ としているが、日本の一方的な国有化宣言は 戦後体制や、安定していた諒解事項を破った侵略的な行為であり、日本国憲法の精神に著しく反していることを確認して置きたい。しかるに、NHK放送でも,世論も 中国の軍事増強の脅威や、領海侵犯などとして、繰り返し報道し、軍事的緊張を扇動しているのは、真実を歪めた、全くあべこべの実状であると批判せざるを得ない。日本が侵略的な行為に出たので、やむを得ず、軍を出しているのである。中国などの軍の出動は 当然である。― 常に逆の立場を考え、相手の立場に想いを致すは、 公正の原則の基本である。また、相手を知るは 軍略の基本であるはずである。― 逆に、中国の自制には、大いに敬意を表したい。アジアに緊張をもたらしても何も良いことが無いこと(再生核研究所声明 49: アジアの愚か者、アジアの野蛮性)を、日本以上に冷静に 高い見識と良識、自制心を以て 耐えていると見るべきである。今や国力ばかりではなく、世界の在りようについての見識においても、中国は、 集団的自衛権や、軍拡、憲法改正などを志向している 日本の見識を凌いでいるように見える。
実際、日本は実に、情けない。上記のような大それたことを アメリカの諒解も無く進められるはずもなく、アメリカ従属の姿勢を深め、軍事費の増大すら図っている。
EUや世界は進化しているのに、日本は東西冷戦時代や戦前のような 集団防衛構想など、全般的に古い時代を志向しているように見える。アメリカの傘の中での、国防安全を志向したり、いまさらの軍備増強の風潮である。日本は 高い文化力、経済力で、和の精神を基本に 平和憲法の精神で、世界に展開できると考える。世界は大きく開かれているのだから、優秀な人材を育成し、世界と世界史に誇れる日本国憲法の精神に回帰し、世界に貢献できる国家を志向しようではないか。(この声明はヨーロッパの田舎で暮らしている時に書かれたものであるが、感性に違いがあるだろうか? 少し事情も変わってきている?)。

百聞は一見にしかず の諺のように 映像の影響は大である。中国の出軍或いは尖閣の占領も驚くべきことでは 上記のようにないのに、その理由を明らかにせず、まるで一方的に 中国が侵略を企てているように 中国の戦艦や漁船の映像を流せば、中国の侵略と誤解し、世に保守化の影響を与え、実際,そのような世相になっていると考えられる。なぜ中国の漁船や戦艦が出没しているかの原因を隠して、表面的な映像を繰り返し報道しているのは、国民を欺き、真相を隠して、変な世相の素を作っていると考えざるを得ない。
なるほど、 平和,平和の貴さを訴える番組、戦争の悲惨さを訴える番組は多い。しかしながら、如何にしたら、どうしたら、平和な世界が築けるかの、どうしたら、具体的に平和な世界を築けるかの道を探らなければ、何のための 番組かと問われかねない。
現状に置ける平和運動全般についても、悲観的に見ざるを得ない。戦争反対、平和が大事は自明のことである。それらを求めて、運動するのは意味が無く、平和のためには具体的にどうすれば良いかの 具体的な問題を問題にすべきである。
何か日本の平和を脅かすのか、何か危険なのかを明らかにして、問題をしぼり、具体的に提案すべきである。 再生核研究所は下記のように提案している:

再生核研究所声明317(2016.08.29) 尖閣、竹島、北朝鮮のロケット問題についての提言:
みんな 賢くなって、仲良くし、EUのように、漢字圏 文化国家地域を築こう。
上記、島の扱いについては 関係国共同の管理区域と定め、基本的にその地域に立ち入りを禁じ、自然保護区域として運用しよう。 人間がそのような区域に立ち入らなければ、豊かな自然は 周辺に豊かな幸をもたらすだろう。
軍艦などを無粋にも美しい海に駆り出して、警戒したり、沢山兵器を購入したり、兵隊さんたちに無用な仕事をさせる必要のない、 最も賢明な在り様であると考える。 逆を考えれば、如何に愚かなことをしているかが 良く分かるだろう。
このような在り様に反対する者として、虚栄を張ったり、強がりを言ったりして、人気を得ようとしたり、自分の保身のために、人々を煽る悪い政治家が 民主体制国家では現れがちであるから、大いに警戒する必要がある。

北朝鮮のロケット発射の報道も大げさであり、わざわざ危機を煽っている状況が見える。
具体的には声明317を参照。
テレビが普及し始めた時代、テレビが総白痴化を招くとの危惧の念が起きたが、根本的にそのように危惧される要素はあり、映像は断片的,局所的,単細胞的である。扱いが軽薄に成りやすいので、映像を流すものはその影響など慎重に検討して、世相の軽薄化に陥らないように絶えず、自戒して精進して欲しい。討論番組などでも時間が限られ、薄っぺらな議論に成りがちであり、テレビの影響が大きいだけに、それだけ大きな役割について省察を深めて欲しい。番組の選択も大いに問題である。長々長時間放映が必要かと思われる番組も多いように感じられる。番組の内容などの検討ももちろん大事である。映像は虚像に成りやすく、人間は環境に影響されるから、映像を作るものも、見るものも大いに気を付けたい。
以 上

再生核研究所声明1752014.8.8)  人間の擁く 大きな虚像

どのレべルで人間を捉えるかで、表現の基調は自ずから変わるが、湧いた直観で成文化してみたい。
虚像だから、実状、実体でない架空の像、イメージ、誤解、思い込みなどである。
そもそも人間は 本来、多くは運命づけられ、何者かによって、作られ、操られているのにその実体を知らず、気づかず、好きなように相当に自由に自分で生きている、行動していると思っている。 そのことが、そもそも虚像の最たるものである。我々のやりたいこと、行動の殆どが 生物繁茂の原則に従う、本能原理から出てきていて、自分のこととは、実は自分のためではなく、いわば遺伝子の乗り物の役割りを果たすための要請に従っていると言える。 人間はそのためのシモベのような存在であるとも言える。大事な、恋、育児、それらの愛は この原理の最たるもので、遺伝子の健全な移転現象に操られている人間の基本的な在りようである。食欲も本能の基本であるが、生体が維持できなければ、遺伝子の存在さえ危うい。生存の原理。
人間を上手く、支配する原理として、死を嫌がる、畏れさせる精神を備わせたのは当然である。 死を良きものとしては、生命は保持できず、遺伝子は、最も困る状況に追い込まれるからである。人間が少し賢くなれば、この虚像を見破り、死こそ、生命の解放であり、これ幸いと悟りの心境に至るだろう。 死の恐怖、忌み嫌う心情は備えられた、大きな人間の虚像である。
世間では、多くは 名誉は大事だと考えられている、死後のことでも名誉に拘わるは世に多く、また人生の大きな要素にもなっている。しかしながら、それらは何か とよくよく考えて見ると、多くは虚像で、殆ど意味のないものである実体を知るであろう。あまりに愚かに進むと浅ましさというより、憐みさえ感じてしまうだろう。虚栄心など さらに虚像である。勝ち負けの情念や闘争心、優劣観など、たわいもない空しい虚像である。ドラマ、ニュース、多くの情報さえ、虚像の虚像と言える。
多く描く目標幸福な状況の想像的な世界は 多くは虚像であり、 到達したり、叶えたりするとやがて空しく感じられ、さらに先に虚像が出来て、どんどん変わって行くことを知るだろう。人間の心は絶えず変化して、喜びや感情さえ変化していく。まるで、霧の中の存在のように見える。
このような世界観は、達観や超越的な生き方を暗示しているが(

再生核研究所声明19 (2008/09/14): 超越への道、悟りへの道;
再生核研究所声明 63(2011.05.25) : 解脱; 神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得; 
再生核研究所声明85(2012.4.24):  食欲から人間を考える ― 飽きること;
再生核研究所声明86(2012.4.25):  未だ おめでたい人類 - 先史時代;
再生核研究所声明 118 (2013.5.16): 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ― 
再生核研究所声明 145(2013.12.14) 生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察;
再生核研究所声明149(2014.3.4) 生きること、生命の本質、活動して止まないもの;
再生核研究所声明155 (2014.4.25) 生きる意味は 文学者にも分からない??;
再生核研究所声明158(2014.5.22) 生命と人生
)、

一段と高い視点で人生、世界を観る意味で良いのではないだろうか。
しかしながら、上記虚像とは、火の無いところに煙が立たない の喩の通り、裏には、核には、実は なにか実があり、本質的なものもあるとも言える。 また、人間は所詮 造物主 には逆らうことはできない。
人間とは、何者か? 人間として生きる意味は何か? と問う。
以 上


再生核研究所声明211(2015.2.22) ドラマとは何か ― 人の心を弄ぶドラマ 
まずは 言葉を確認して置こう:
ドラマ(Drama)とは、登場人物の行為・行動を通して物語を紡いでいく、芸術表現の一形態。日常会話で「ドラマ」といった場合、テレビドラマを指す場合が多い。
作品としてのドラマの特徴は、物語の一切が登場人物の行動によって描かれる点と、登場人物が何らかの目的を持っている点に特徴がある。その目的への障害に直面することで、登場人物は葛藤する。障害への直面は、往々にして、登場人物同士の精神的・物理的衝突の形で提示される。登場人物が行動を積み重ねていった末に、障害を最終的に乗り越えるか、乗り越えられないかが、物語の大きな山場となる。こういった過程そのものを、ドラマと呼ぶ場合もある。
映画が生み出されて以降は、上記の定義のようなドラマを主に描く映像作品を、ドラマとジャンルづける場合もある。
かつてドラマは演劇や戯曲の代名詞でもあった。しかし近代以降、葛藤や、行動の因果関係のない非ドラマの演劇作品・戯曲も数多く生み出されており、演劇や戯曲をドラマと呼ぶのは現代においては不正確と言える。
現実世界においても、現実の人物が上記のような状況に陥っていること指して、ドラマ、もしくはドラマティックと呼ぶ場合もある。(ウィキペディア)
上記 説明で 芸術表現の一形態、演劇や戯曲の代名詞 という部分は 言語の確認として大いに参考になるのではないだろうか。 これらの言葉の背景には、創作者や演出家、関係者の多くの生命の表現としての要素が本質的に存在するということである。 絵画や作曲者が絵画を描き、曲を創作するように ドラマを制作するということである。 なるほどそうならば、今NHK大河ドラマや朝ドラなど みなそれぞれに素晴らしく輝いていて 実に素晴らしいと賞賛でき、感銘できる。 芸術作品となれば、それは本質的に自由であり、生命の活動として 生命の表現として みなされる。
テレビドラマを指す場合が多い には、美術館で美術を楽しむ、映画館で映画を楽しむ、会場で音楽を楽しむというような相当に自由な表現の芸術作品と少し違った要素を有するのではないだろうか。 具体的には、
1)    広範に公開される。
2)    多くの場合、何かの素材に基づいた場合が多い。
3)    繰り返し、日常 連続的、定期的に続けられる。
などである。 ドラマについて何か書きたいと考えた動機は、ドラマを見ることが、人生でどのような意味を持つか、また、そのような観点から、ドラマは どのようにあるべきか と 問うことであった。
我々はなぜ、ドラマを見るのだろうか。 楽しいから、面白いから、感銘するから、 展開が楽しみだから、新規な世界が、珍しい、世界が覗けるから、知識や新しい情報が入って有益だから、共感、共鳴するから、など、などであろうか。― ドラマを通して 人生、世界を考察して、哲学したいからなどの 高級な視点も大事ではないだろうか。連続ドラマなど楽しく、次の展開が楽しみで、生活の張りになっているは 世に多いのではないだろうか。次が楽しみで、生活の張りになっているは好ましく、 それはそれで良いと評価できるが、それが現代のように沢山のドラマが賑わっていると、生活が逆に乱され、楽しいドラマ見て暮らして、人生それで良いかという気持ちが湧いてくる時がある。 素晴らしい映画や、ドラマの後で、虚しさを覚えることもある。― それは何を意味するだろうか、それは現実の生活、社会から離れて、言わば作られた虚像の世界にいることの虚しさを表しているのではないだろうか。― それに対して、何か 為になったという印象の残るドラマ は良いと言えるのではないだろうか。
ドラマの製作者が 露骨に視聴者の関心、人気を集めようとして、意図的に場面を整えれば、我々の心を意図的に弄んでいると感じ、気づけば 空しい、トリックの世界で、心を意図的に弄ばれていると感じるであろう。
視聴者は人生の意味を、自分の世界、心をしっかり捉えて、ドラマに弄ばれないように、のまれないように心がける必要があるのではないだろうか。
また、テレビドラマ製作者には、上記 何かの素材に基づいた場合、 実際、史実と創作の部分の大きな乖離は、真実、歴史、事実を歪めて 歴史が虚像化する危険性があるので、そのような観点について、注意を喚起して置きたい。また、視聴者は、この観点から批判的に見る必要が大事ではないだろうか。 テレビ普及時、テレビで1億総白痴化の言葉が騒がれたのを回想したい。次も参照:
再生核研究所声明208(2015.2.14) NHK 朝ドラ マッサン ― 許されない約束違反、公共放送としての問題。

以 上

0 件のコメント:

コメントを投稿