大前研一「入試なし。猫も杓子も大学、の逆を行くドイツ式教育」
【第7回】今、日本の「教育」が行き詰まっている。日本の高度成長を支えた、「正解」をいかに早く覚え、再現するかという従来の教育は、「答えのない時代」を迎えた今、うまくいかなくなった。日本の国際競争力を高める人材を育成する上で、障害となっているものは何か。21世紀の教育が目指すべき方向は何か。本連載では、世界からトップクラスの人材が集まる米国、職業訓練を重視したドイツ、フィンランドの「考える教育」など、特色ある教育制度を取り入れている先進国の最新動向から、日本の教育改革の方向性を導き出す。
ビブリオン
本連載では大前研一さんの著作『日本の未来を考える6つの特別講義』より、国際競争力を高める人材を育成するための日本の教育改革について解説します。
ドイツの大学は出入り自由、転学も自由
次に、ドイツの大学制度を見ていきます。
日本では想像もつかないようなシステムですが、ドイツの大学には入学試験がありません。高校卒業資格というのがあって、その資格さえあれば、全国どこの大学のどの学部にも、自由に入学することができる。転学も自由です。
学生は自分の学習計画に合わせて授業を履修し、カリキュラムが終われば卒業です。タイミングを含めて出入り自由ですから、入学式もなければ卒業式もありません。いわゆる「名門大学」もありません。「どうしてもあの先生のところで勉強したい」という希望があれば、1学期間だけ別の大学で学ぶことも可能です。
ワンダーフォーゲル (渡り鳥)のようにさまざまな大学を転々とすることが珍しくありません。もちろん、本人の希望によって、ずっと1カ所にいてもいい。それだけでは不足だという人は、1つの大学、1人の指導教授の下、ドクターコースに行きます。これがドイツの大学です(図-16)。
日本では想像もつかないようなシステムですが、ドイツの大学には入学試験がありません。高校卒業資格というのがあって、その資格さえあれば、全国どこの大学のどの学部にも、自由に入学することができる。転学も自由です。
学生は自分の学習計画に合わせて授業を履修し、カリキュラムが終われば卒業です。タイミングを含めて出入り自由ですから、入学式もなければ卒業式もありません。いわゆる「名門大学」もありません。「どうしてもあの先生のところで勉強したい」という希望があれば、1学期間だけ別の大学で学ぶことも可能です。
ワンダーフォーゲル (渡り鳥)のようにさまざまな大学を転々とすることが珍しくありません。もちろん、本人の希望によって、ずっと1カ所にいてもいい。それだけでは不足だという人は、1つの大学、1人の指導教授の下、ドクターコースに行きます。これがドイツの大学です(図-16)。
このような仕組みですから、ドイツの場合、「大学卒就業者が何%」などという統計はそもそも存在しません。「30歳くらいまでに自分の天職が見つかればいい」というのが、欧州の平均的な職業観です。
イギリスでも、大学を出てすぐに就職が決まる人は30%程度しかいません。大卒の就業率が90%を超えているのに大騒ぎする日本は、欧州の価値観から言えば異常です。
イギリスでも、大学を出てすぐに就職が決まる人は30%程度しかいません。大卒の就業率が90%を超えているのに大騒ぎする日本は、欧州の価値観から言えば異常です。
教育と職業訓練を同時に進める「デュアルシステム」
図-17を見ていただきたい。ドイツの教育制度の構造を図式化したものです。
幼稚園、基礎学校を経て、10歳から16歳の間に、自分たちで将来の方向を決めるオリエンテーションを繰り返し行います。その上で、ギムナジウムに行って大学に進学するか、職業学校に行くかを選択します。
ドイツは職業意識が非常に高いので、高校卒業者の約半数が、大学ではなく職業学校で手に職をつけることを選びます。
幼稚園、基礎学校を経て、10歳から16歳の間に、自分たちで将来の方向を決めるオリエンテーションを繰り返し行います。その上で、ギムナジウムに行って大学に進学するか、職業学校に行くかを選択します。
ドイツは職業意識が非常に高いので、高校卒業者の約半数が、大学ではなく職業学校で手に職をつけることを選びます。
職業学校に行った人は、デュアルシステムによる職業訓練を受けます。
週のうち1~2日は職業学校で座学、理論的なことを教わります。残りの3~4日は企業で実務に取り組みます。
旋盤工を目指すなら、旋盤工の職業訓練と並行して、機械工学を学ぶということを繰り返します。
このようにして、約350の職種の中から、「自分はこの仕事で一生食べていきたい」という仕事を選びます。学校を出た段階でみんな腕に覚えがあるので、間違いなく食べていけます。社会も安定します。職業学校へ行く道を選んだ人と、大学へ進学する道を選んだ人の間で、生涯給もあまり差がありません。
週のうち1~2日は職業学校で座学、理論的なことを教わります。残りの3~4日は企業で実務に取り組みます。
旋盤工を目指すなら、旋盤工の職業訓練と並行して、機械工学を学ぶということを繰り返します。
このようにして、約350の職種の中から、「自分はこの仕事で一生食べていきたい」という仕事を選びます。学校を出た段階でみんな腕に覚えがあるので、間違いなく食べていけます。社会も安定します。職業学校へ行く道を選んだ人と、大学へ進学する道を選んだ人の間で、生涯給もあまり差がありません。
圧倒的に低いドイツの失業率
そのような背景があるので、ドイツの失業率は欧州でとても低い水準にあります。すべての業種でとにかく人が足りないので、スペイン、ポルトガル、ギリシャなど南欧から人を集め、職業教育とドイツ語教育を施した上で、労働力として活用しています。
一方で、「猫も杓子も大学」という国では学歴インフレが起こり、大学を卒業した人たちが路頭に迷っています。図-18、右側のグラフを見ていただきたい。EU全体で、若年失業率は23%(2012年)に達しています。
翻って日本ですが、大学を卒業しても実務で役に立たないという大きな問題があります。入学者が減少している地方の大学などが、企業と連携してドイツ式のデュアルシステムを導入すれば、学生の獲得につながるかもしれません。
一方で、「猫も杓子も大学」という国では学歴インフレが起こり、大学を卒業した人たちが路頭に迷っています。図-18、右側のグラフを見ていただきたい。EU全体で、若年失業率は23%(2012年)に達しています。
翻って日本ですが、大学を卒業しても実務で役に立たないという大きな問題があります。入学者が減少している地方の大学などが、企業と連携してドイツ式のデュアルシステムを導入すれば、学生の獲得につながるかもしれません。
スイスでは3分の2が職業訓練学校に進む
スイスの教育制度は、ドイツとまったく同じです。
ただ、スイスの場合には、大学に進学する人がだいたい20%くらいです。3分の2くらいの学生が、高校に進学するタイミングで職業訓練学校を選びます。時計職人、パン職人、チョコレート職人からIT分野まで、多岐にわたる技術を身につけ、大卒者に劣らない、世界最高レベルの給料をもらって働き続けることができる環境があります。
ですから、米国の例からも分かるように、「大学さえ出ておけば」という考え方で大学に学生が殺到すると、卒業しても意味のない大学が増えるだけです。
戦後、米国の大学制度をそのまま導入した日本も、米国と同じ状況に陥っていますね。手に職のない、実務で役立たない大卒者を量産するよりも、ドイツ・スイス型の安定した人材、腕に覚えのある人材を育てる方が社会にとって有益です。 (次回へ続く)http://blogos.com/article/199135/
読んでためになりました:
再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察
世の中は 慣性の法則で動いているものであり(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)、教育や教育の在りようなどは 国の文化や社会の影響で簡単には変えられない実情がある。しかしながら、それらは 国家の 真に重要な要点であり、絶えず検討、改善を志向すべきものである。
そもそも大学受験制度とは、自由競争の典型的な表現として、大学を自由に選択し、公正な評価で選別しようとの 普遍的な背景に基づいていると言える。 主にアジアにおける入試制度は 有名な科挙の制度など古代から存在する制度に その原型を見ることができる。
共通テスト以来の問題は、相当に客観的な数値によって、全国的な序列の鮮明化が進み、いわゆる受験戦争の言葉さえ世相になっている。価値の一元化、共通化、一様化は、重要な多様性の視点 から好ましくはないとして、入試の在りようについて検討を求めている:
上記 声明で、 受験勉強が過熱化すると、 本来の教育の理念から、大きく外れ、無駄で有害な特訓のために 有能な才能、感性、創造性、全人的な成長発展を阻害する状況が出て来ると考える(再生核研究所声明 76 教育における心得 ― 教育原理)。何でもほどほどが良いのに、行き過ぎ、過熱化している状況が既にあると考える。 また年齢によって、準備されなければならない大事なことが ないがしろにされている と考えられる。
再生核研究所声明 20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する
センター試験は1988年 共通テストの試行から始められ、いろいろな変遷を経て、現在は大学入試センター試験と改称されて、20年もの歳月を経ている。 発足時のときの議論では、数年で破綻し、結局は元の形に戻るという観測が多かったが、その後 何時も批判的な意見が多く出されているものの 組織が出来てしまったためにか 惰性的に続けられてきている。そこで、次のような状況を考えて、このような入試の在りようを検討し、大学入試センター試験の見直しを行うように提案いたします。
1) センター試験は 多額の経費と人件費をかけながら、悪い効果を生み、いわば大きなマイナスの仕事を 教育界に課していると考えられる。試験の影響としてはマイナス効果の方が大きいと考えられる。 その最大の理由は 共通テスト開始時にも 既に指摘されていたように そのような試験では パターン化して、知識の積み込み方式になり、考える力を落とす という危惧であった。 実際、このような弊害はいたるところに現れ、数学の教科でさえ、型を沢山覚え、時間内で解く方法の技術ばかりが、学校教育や受験勉強においても重視されていて、本来の教育のあるべき姿からの大きな乖離が見られる。センター試験は 日本の教育を軽薄な教育にさせている元凶である と考えられる。そのような試験結果は 軽いデータぐらいの重さしか果すべきではない。しかるに教育界は そのような試験に対応すべく、多くの無駄、悪い教育をおこなっている。
2) 教育においては本来、多様性と個性を活かす事が大事であるはずなのに、型にはめ、一様な水準を作り、貧しい特色のない大学を一様に育てている弊害が顕わになって来ている。センター試験の目指す教育とは およそ人物たる人間教育や善良な市民を育てる重要な本来の教育とはかけ離れたものであり、日本国を覆っている無責任とモラルの著しい低下の結果を生み出している。教育とは本来何であるかの議論さえ忘れて久しい状態で、魂の抜けた教育であると言える。感性豊かな人間性を高める教育や創造性豊かな教育からは程遠い教育と言える。
3) センター試験の影響は 世に数値化と標準化、規格化を進め、社会の多様な価値や個性を失なわしめ マイナス効果を世に氾濫させている。
4) 永い間 同じような入試制度が続いたため、入試が専門的な技術を要求するような弊害が現れ、不要な特殊な訓練を得た者が有利になるような弊害が現れてきている。
その結果、このようなことに柔軟に対応できる特定の学校に人気が集中して、公立高校の人気が落ちてきている。そのために 経済的な豊かさが もろに教育条件に反映するような状況を生み出している。このようなことが進めば、広範な生徒達から多様な才能を引き出せない状況を進めると危惧される。 また、そのような特殊な教育を受ける者が個性を伸ばし、幸せになるとは限らないと考えられる。
5) 2日間にわたって、多くの教職員をいわば ロボットのように 画一的に働かせて、また多額の国費と人件費を費やして、大きなマイナスの仕事を行うのは 好ましくないと考える。
6) センター試験は、世の生徒達にあまりにも細々とした過重な入試対策を要求して、生徒達のみずみずしい才能の開花を疎外し、生徒達の自由な成長を妨げている。 学校教育には、人生や世界や、自然の事をじっくりと想いをいたし、 友情が芽生え、育つような余裕が求められる。 大学入試にはより柔軟に、余裕をもって考えられるような社会へと変革が少しずつ進むことが期待される。 理想としては、個人の個性を活かせるような多様な可能性を広げるような変革である。もちろん、そのうちには、世の秀才達を集めるような所があっても良いが、そこに殺到するような事は望ましく無いと考える。
7) センター試験は、所謂 世の秀才や優秀な人達の才能もわざわざ鈍化させ、活かされていないと考えられる。日本でも秀才教育や天才教育ができるような柔軟な制度の確立が求められる。
8) 共通テスト開始のとき、多くの危惧と問題点が指摘されたものの これで多くの人が 大変な入試業務から解放されると期待されたものであるが、それは空しく、逆に個別入試を行い、また第二次入試や、追試入試、さらに外国人入試や推薦入試、社会人入試、などと多くの入試が始められ、多くの教員は年中入試業務に振り回される状況になっている。大学の法人化の後には、社会貢献や教員評価、受験生確保のために多くの仕事に追われ 教育研究費の大幅減額とともに 悪い、教育、研究環境に陥っていると考えられる。
以上の理由などから、センター試験を見直しする方向での 真剣な検討と対応を求めます。現実的な対応としては、入試そのものが日本国の文化に根ざしている以上、そう簡単ではないと考えて、広範な検討や改革を考えていく事を求めたいと考えます。方向性としては
1) 大学入学資格試験と考える方向で、そのときには センター試験を簡素化し、センター試験に対する特別な対策はしないですむような状況になることが求められる。
2) 逆に個別入試を廃止して、センター試験の一部と他の要素、例えば高校の評価や、推薦状や面接で入試を行う。
3) センター試験を原則廃止して、時々高校生の学力のデータ、状況を得る為やその他いろいろな業務を行うことに センターの組織と機関を使う。
等が検討されるべきであると考えます。教育の在りようについては 絶えず検討を重ねていく事として、教育というと直ぐに学力と考える傾向が強いが、全人的な教育や人物たる人間教育等の面を考えていく必要があると考えます。
以上
特に次の観点を指摘して置きたい:
1)教育本来の全人的な発達を、過熱な学習が 歪めている事情はないか。
2)あまりにも 競争をあおって、 友情や人間関係の基本が おかしくなっていないか(再生核研究所声明 4: 競争社会から個性を活かせる社会に) - 友情も育たないで、競争 競争で 美しい 瑞々しい社会を築けるだろうか. 結果として、 日本はあまりにも競争意識が強い、ぎすぎすした社会になっていないだろうか。:
3)勉強だけが、人生でも 社会でもなく、多様な生き方、多様な価値観を持たせ、幅広い、生き方の視点を重視した教育をすべきではないだろうか。
4)優秀な人材を早くから、永い間型にはめて束縛し、創造性や全人的な発展を阻害しているのではないだろうか。
5)ここで、アングロサクソン系の大学では、 自由、平等、博愛を掲げているものの 奇妙にも知的階層の固定化で、多難な入試の努力を必要とせずに 大学に進学でき、 余裕を持っている事情があるのではないだろうか。 その代り、優秀な人材を補給すべく広く世界から集めている事情がある。ここでも、日本には、ドイツ流の教育制度が 国情に合っていると考えられる。
6)簡単に述べれば、理想と考えられるのは、教育本来の教育に専念し、特別な入試勉強をせず、多様な大学に人材が、富士山型ではなく 八ツガ岳方式に展開し、多様な在り様を展開することである。 その意味でも、共通テスト以前の方式の方が 多様性の観点からも良いのではないだろうか。
7)大きな社会に活力を与えるのには、多様な価値、多様性の重視が必要である。 創造性も、そのような多様性の中から、より生まれる基礎ができると考える。
8)大学院を出るころには、既に疲れてしまっているような状況が有るように見える。 体力や、思想、情操教育、全人的な基礎をしっかりさせなければ、永い人生をうまく生きてはいけないのではないだろうか。
上記公正な受験といっても、現実には、特殊な高校や、学校で特殊な教育をうけた者だけが、良い大学に入れるような状況は、傾向は 一段と強まっていき、日本の教育界を 歪め、貧しい社会を 構成して行くのではないかと 危惧している。
学校も教師も、家族も できるだけ好きな 良い大学に 生徒や子弟を進学させたいとの思いは 当然であるから、 入学させる立場の大学や、文科省は 海外の状況なども参考にして、 大学受験制度が教育界に与える影響の大きさを自覚され、 絶えず、検討,改善を進めて頂きたいとの 希望を述べておきたい。
もちろん、社会も、いわばブランドで 画一的に 評価せず、 また多様な人材を採用、活用すべきではないだろうか。 社会でも組織でも 多様な人材がいた方が、 活力を有し、良いのではないだろうか。 公務員なども、 いろいろな評価によって、 いろいろな人材を積極的に採用するように 努力すべきではないだろうか。
以 上
再生核研究所声明283 (2016.2.8) 受験勉強が過熱化した場合の危惧について
再生核研究所は 教育の在るべき姿について、関心が強く、次のような見解を述べて来た:
再生核研究所声明2:中国古代の教育
再生核研究所声明9:天才教育の必要性を訴える
再生核研究所声明20:大学入試センター試験の見直しを提案する
再生核研究所声明44: 梅の木学問と檜学問-日本の研究者育成についての危惧
再生核研究所声明60:非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会
再生核研究所声明76(2012.2.16):教育における心得 ― 教育原理
再生核研究所声明90(2012.5.18):日本の大学受験体制についての一考察
再生核研究所声明147(2013.12.27): 創造性についての 第二考察
再生核研究所声明218(2015.3.19): 興味、関心、感動;人間とは
再生核研究所声明254(2015.11.2) : 愛が無ければ観えない ― について、 更に
再生核研究所声明260(2015.12.07): 受験勉強、嫌な予感がした ― 受験勉強が過熱化した場合の弊害
最近、奇妙に気になる存念がわいてきたので、率直に表現したい。
もちろん、教育の理念は 良き社会人の育成と個人の生命を生かす為の補助にある。そこで、問題は、それらの教育の本質的な目標から乖離して、現実的な問題として、大学おける選抜の
技術的な観点から、受験のための特訓が永く続く状況が 顕になってきている現実である。次のような客観的なデータから見られる問題点を考えたい:
ある相当に有名な国立大学では、入学者の東京都出身の割合が80%を超えたということ、
また、有名高校や塾の入学者 の割合いの増大。
まずは、このようなデータの解析を 詳しい調査を、日本の教育のあり様の現実を正確に把握できるように 行うことを関係機関に要請したい。それらが、弊害と考えられる点は:
1) 特訓のやりすぎで、創造性の精神や感性を傷つけ、才能を殺してしまっている現実はないだろうか。優秀な才能の持ち主で、思考や思索を深めたいのに 当分受験勉強で気を回せないで苦しんでいる現実がある。
2) 地域や経済的な豊かさが受験の有利さに反映して、多様な世界からの入学者を制限してしまう危惧はないだろうか。
3) 厳しい受験となると選抜される学生の均一さを招き、多様な才能や性格の人間を集めることが難しくなるのでは。
4) ある程度の競争は 現実には避けられず、必要でもあるが、過熱化すると 生涯競争意識ばかり強い、人格の歪みを大きくするようなことはないだろうか。
5) 人生の晩年で、受験勉強のやりすぎの影響で、健康を害したり、活力を失ってしまう現実はないだろうか。
いわゆる名門大学の卒業生が 必ずしも幸せな人生を送っていなく 逆に不幸な人生を送っているような状況は無いか、関係機関は教育の現状を把握するために調査する必要があるのではないだろうか。
以上の危惧は 要するに 勉学のやりすぎで、全人的な人間としての成長を歪めているのではないかと言う、危惧である。何事、長期に亘る、やりすぎ、集中しすぎは良くはないのではないだろうか。
大学のあり様としても、富士山型の大学の序列よりも、八ヶ岳方式に 分散型の方が良いとは、かつて尊敬していた物理学者の 言葉であるが、何時も思い出される。
再生核研究所声明260(2015.12.07)で述べた危惧の纏めを述べて置こう:
1) 1): みずみずしい感覚を有する青少年の 健全な成長を 偏った知識の詰め込みや解法の技術の特訓のような勉強が歪めはしないか、真理を求めたいという好奇心を疎外しないか、
2) 2): 創造性豊かな生徒の才能が 活かせない状況はないか、入試のような勉強が 必ずしもいろいろな才能を持つ者の育成に適当ではない面があるのではないだろうか、 もちろん、基礎力の確立は当然必要であるが、行き過ぎると である。
3) 3): 優秀な者が型にはまった勉強や入試に反感を懐き、高校を中退したり、先生と上手く行かない例は 世に結構多い現実、
4) 4): 特殊な才能や、特訓を受けた者が集中する大学、組織は良い面もあるが、他方、悪い面も多くあるのではないだろうか、
5) 4): 厳しい入試を乗り越えて希望の大学に入学した者の その後、必ずしも良い人生を送っているようには見えない場合が結構多く見られ、入試がマイナスの影響を与えている状況も多いのではないだろうか。 上手く学歴社会(学校歴社会)を乗り越えた者でも 人生で成功とは言えない状況は 世に多いのでは?
6) 5): 入試の勉強が 逆に人生でマイナスに働いているような状況は 結構多く見られる、
7) 危惧の念とは、やりすぎで いわばマイナスになっている面が 相当多いのではないかとの念である、
等等である。 なんでも程々が良いのではないだろうか。
以 上
再生核研究所は 教育の在るべき姿について、関心が強く、次のような見解を述べて来た:
再生核研究所声明2:中国古代の教育
再生核研究所声明9:天才教育の必要性を訴える
再生核研究所声明20:大学入試センター試験の見直しを提案する
再生核研究所声明44: 梅の木学問と檜学問-日本の研究者育成についての危惧
再生核研究所声明60:非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会
再生核研究所声明76(2012.2.16):教育における心得 ― 教育原理
再生核研究所声明90(2012.5.18):日本の大学受験体制についての一考察
再生核研究所声明147(2013.12.27): 創造性についての 第二考察
再生核研究所声明218(2015.3.19): 興味、関心、感動;人間とは
再生核研究所声明254(2015.11.2) : 愛が無ければ観えない ― について、 更に
再生核研究所声明260(2015.12.07): 受験勉強、嫌な予感がした ― 受験勉強が過熱化した場合の弊害
最近、奇妙に気になる存念がわいてきたので、率直に表現したい。
もちろん、教育の理念は 良き社会人の育成と個人の生命を生かす為の補助にある。そこで、問題は、それらの教育の本質的な目標から乖離して、現実的な問題として、大学おける選抜の
技術的な観点から、受験のための特訓が永く続く状況が 顕になってきている現実である。次のような客観的なデータから見られる問題点を考えたい:
ある相当に有名な国立大学では、入学者の東京都出身の割合が80%を超えたということ、
また、有名高校や塾の入学者 の割合いの増大。
まずは、このようなデータの解析を 詳しい調査を、日本の教育のあり様の現実を正確に把握できるように 行うことを関係機関に要請したい。それらが、弊害と考えられる点は:
1) 特訓のやりすぎで、創造性の精神や感性を傷つけ、才能を殺してしまっている現実はないだろうか。優秀な才能の持ち主で、思考や思索を深めたいのに 当分受験勉強で気を回せないで苦しんでいる現実がある。
2) 地域や経済的な豊かさが受験の有利さに反映して、多様な世界からの入学者を制限してしまう危惧はないだろうか。
3) 厳しい受験となると選抜される学生の均一さを招き、多様な才能や性格の人間を集めることが難しくなるのでは。
4) ある程度の競争は 現実には避けられず、必要でもあるが、過熱化すると 生涯競争意識ばかり強い、人格の歪みを大きくするようなことはないだろうか。
5) 人生の晩年で、受験勉強のやりすぎの影響で、健康を害したり、活力を失ってしまう現実はないだろうか。
いわゆる名門大学の卒業生が 必ずしも幸せな人生を送っていなく 逆に不幸な人生を送っているような状況は無いか、関係機関は教育の現状を把握するために調査する必要があるのではないだろうか。
以上の危惧は 要するに 勉学のやりすぎで、全人的な人間としての成長を歪めているのではないかと言う、危惧である。何事、長期に亘る、やりすぎ、集中しすぎは良くはないのではないだろうか。
大学のあり様としても、富士山型の大学の序列よりも、八ヶ岳方式に 分散型の方が良いとは、かつて尊敬していた物理学者の 言葉であるが、何時も思い出される。
再生核研究所声明260(2015.12.07)で述べた危惧の纏めを述べて置こう:
1) 1): みずみずしい感覚を有する青少年の 健全な成長を 偏った知識の詰め込みや解法の技術の特訓のような勉強が歪めはしないか、真理を求めたいという好奇心を疎外しないか、
2) 2): 創造性豊かな生徒の才能が 活かせない状況はないか、入試のような勉強が 必ずしもいろいろな才能を持つ者の育成に適当ではない面があるのではないだろうか、 もちろん、基礎力の確立は当然必要であるが、行き過ぎると である。
3) 3): 優秀な者が型にはまった勉強や入試に反感を懐き、高校を中退したり、先生と上手く行かない例は 世に結構多い現実、
4) 4): 特殊な才能や、特訓を受けた者が集中する大学、組織は良い面もあるが、他方、悪い面も多くあるのではないだろうか、
5) 4): 厳しい入試を乗り越えて希望の大学に入学した者の その後、必ずしも良い人生を送っているようには見えない場合が結構多く見られ、入試がマイナスの影響を与えている状況も多いのではないだろうか。 上手く学歴社会(学校歴社会)を乗り越えた者でも 人生で成功とは言えない状況は 世に多いのでは?
6) 5): 入試の勉強が 逆に人生でマイナスに働いているような状況は 結構多く見られる、
7) 危惧の念とは、やりすぎで いわばマイナスになっている面が 相当多いのではないかとの念である、
等等である。 なんでも程々が良いのではないだろうか。
以 上
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