2016年11月18日金曜日

閉鎖的な福井県人が日本一幸せな理由

閉鎖的な福井県人が日本一幸せな理由


 

幸福とは、自己肯定

2016年度版の47都道府県幸福度ランキングで、僕の故郷である福井県がまた総合1位になりました(http://www.pref.fukui.jp/doc/furusato/ranking.html)。「健康」「文化」「仕事」「生活」「教育」の5分野で構成されているようですが、福井県は別に給料の高い仕事がたくさんあるわけでもないし、東大などへの進学者数も特に多くありませんが、「仕事」と「教育」の分野でも1位でした。つまり、底上げができていたり、安定感のようなものがあったりするんだと思います。

北陸地方最西端にある福井県
 
僕も福井で生まれ育ったので、その実態をよく聞かれます。最近では毎月福井に帰っていることもあるし、自分なりの勝手な視点で考えてみることにしました。
福井には、空路も新幹線もありません。日本海側に位置して、みごとなまでに山に囲まれた閉鎖的な地域です。それでも、今ではテレビやインターネットなんかは都会と変わらない条件で整っているし、県庁所在地やその周辺であれば日常的なものはなんでも手に入ります。つまり、福井はある程度「自己完結できる環境」だと言えます。
それに関連してもうひとつ、東京と福井を行き来して感じたことは、あまり他と「比較」しなくてすむ環境だということです。なんというか、必要以上に他の県よりも上に行こうというような意識がありません。幸福度1位も、そう「だった」から掲げている、というような感じです。
面白いことに、福井の人の多くには「自分たちはすごく田舎に住んでるけど、別に悪くないじゃん」という開き直りに似た「自己肯定の感覚」があります。どんな指標においても、他と比べだしたら満足度にはキリがないと思います。今ある環境やありのままの日常を受けいれ、その中から生きがいややりがい、充実感を見出すことができる。それが、指標以上に県民一人ひとりの幸福度に反映されているような気がします。
そもそも、「幸福」というのは主観的な感覚であり、「あなたは幸福だよ」と言われても、「自分は不幸だ」と感じていたら、その人は不幸であるということになります。今の日本社会を見渡すと、所得やポジション・ステータスの高い人たちが、必ずしも「幸福」を感じているとはかぎりません。絶えず比較と競争のなかで戦っていれば、所得や社会的ステータスは自分の価値を相対的に決める「条件」となり、それに縛られます。上には上がいて、「もっとレベルアップしなきゃ」とか「なんで自分はこんなもんなんだ」という比較意識から解放されないと、いつまでたっても「今の自分のこと」を肯定できなくなってしまうのです。

「無条件幸福」が求められる時代

生活レベルの貧しい社会環境においては、比較・競争意識もバネになり、物理的な豊かさを手に入れて原動力になるのだと思います。でも、今の日本のようにこれだけ物があふれ成熟すると、比較や競争そのものに意識が振り回されてしまいます。もっと稼いで、もっとレベルアップして……。「社会的条件」に縛られるかぎり、競争相手が消えることはありません。そうなると、自分の主観的感覚である「幸福」を得るためには、比較や競争の意識から解放されることが必要になってきます。
所得やポジションなどの社会的な条件がそのまま生活の幸福度につながったような時代から、自分がどんな条件であってもその中から生きがいや存在意義を見いだし、ありのままの自分を肯定できる。そんな「無条件幸福」が求められる社会に変わってきたのかもしれません。
福井に限らず、地方のまちや田舎にくらす子どもたちは、ある程度「無条件」の社会に守られているように感じます。僕もそうでしたが、田舎のまちには都会のような小中学校受験などはほとんどありません。公立か私立といった選択もほとんどないし、受験のために放課後は塾でしのぎを削るというようなこともほとんどありません。同じ学区の子どもたちは、基本的にみんな同じ小中学校に通います。だから、そこで所属の階層意識を持つようなこともありません。いろんなやつがいて、勉強ができなくても、おもしろいことを言って人を笑わせたりできれば、人気者になれる。
もちろん高校受験くらいはあるし、いずれは序列が生まれます。しかし、このような「僕は僕でいいんだ」という自己肯定の意識は、中学生くらいまでの日常や体験によって基礎ができあがるんだと思います。さらに福井の場合には、無条件の自己肯定感や幸福感を育むと思われる地域特有の理由が見あたりました。

孫を無条件に肯定する。
 
福井は地理的にも閉鎖的な雪国という地域柄、昔から内職なども含めて仕事を分業しており、夫婦共働きが今でも一般的です。そして、今でも大家族が多く、祖父母と一緒の環境で育ちます。学校から帰ってきた子どもの面倒は、同居または同じ敷地内に住む祖父母が見るのが一般的です。
今でもそうです。親は学校の成績やテストの点数などの条件で子どもを評価するので、子どもは親の顔を見て、いい成績を取らなきゃと思う。でも祖父母は「テストの点数がどうだった?」とは聞きません。子どもが元気で健康で、無事に帰ってきてくれればいい。ただ存在するだけで「満点」なんです。この祖父母と孫の関係こそが、子どもの「無条件肯定感」を育んでいるのではないか。

格差になって広がっていく


若新雄純(わかしん・ゆうじゅん)
人材・組織コンサルタント/慶應義塾大学特任講師
福井県若狭町生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程(政策・メディア)修了。専門は産業・組織心理学とコミュニケーション論。全員がニートで取締役の「NEET株式会社」や女子高生が自治体改革を担う「鯖江市役所JK課」、週休4日で月収15万円の「ゆるい就職」など、新しい働き方や組織づくりを模索・提案する実験的プロジェクトを多数企画・実施し、さまざまな企業の人材・組織開発コンサルティングなども行う。
若新ワールド
http://wakashin.com/

 
そう考えると、無条件幸福の格差は、今後ますます広がっていくと思います。なぜなら、無条件に幸福になれるかどうかは、育った環境に基づくと考えられるからです。すなわち、子どもの頃に無条件で自分に価値を感じることができた人は、大人になって社会的な差が生じても、「おいしいものが食べられて、家族と幸せに過ごせれば満足」と思える。
一方で、子どもの頃から条件や比較の世界で育った人は、大人になっても条件や比較の縛りから解放されることがありません。もっと上を目指してもキリがないので、満たされることがない。そうやって不幸のスパイラルに陥っていくことになります。
こうした格差は、世代を超えて連鎖していきます。すでに条件に縛られている人は、残念ながら自分を条件から解放することは難しいかもしれませんが、連鎖を断ち切ることはできるかもしれません。
それは、子どもへの接し方を変えることです。学校の成績やテストの点数などの条件で子どもを評価することを止めて、祖父母が孫に接するように、子どもの存在自体を認めてあげることです。http://blogos.com/article/198040/

一理あると思います:

世界の平和と問題は 国連の精神を尊重して、国連常任理事国に委ね、日本国は慎ましくし、もっぱら、国の内実に努力すべきである。 人口減は前向きに捉え、万葉の美しい自然環境の回復に 意を 注ぐべきである。神道はその核になり得る。
 
再生核研究所声明 11 (2007/09/14): 国の構成について
           
まず 国家の意味について、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用しておこう http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6
法学政治学においては、以下の「国家の三要素」を持つものを「国家」とする。これは、ドイツの法学者・国家学者であるゲオルク・イェリネックの学説に基づくものであるが、今日では、一般に国際法上の「国家」の承認要件として認められている。国家の三要素:

領域(Staatsgebiet:領土、領海、領空)- 一定に区画されている。
人民(Staatsvolk:国民、住民)- 恒久的に属し、一時の好悪で脱したり復したりはしない。
権力(Staatsgewalt)ないし主権 - 正統な物理的実力のことである。この実力は、対外的・対内的に排他的に行使できなければ、つまり、主権的で(souverän)なければならない。
このモデルにおいては、国家とは、権力が領域と人民を内外の干渉を許さず統治する存在であると捉えられているのである。領域に対する権力を領土高権(Gebietshoheit)、人民に対する権力を対人高権(Personalhoheit)という。国際法上、これらの三要素を有するものは国家として認められるが、満たさないものは国家として認められない。この場合、認めるか認めないかを実際に判断するのは他の国家なので、他国からの承認を第四の要素に挙げる場合もある。

声明10において、絶対的な世界の平和が実現したとき、いわば世界が全体として1つの国のような存在になるから、そのときには国の構成はそれほど重要な意味を為さない時代を迎えることになる。そのときの国とは、その構成員たる人民の自由な意志によって、国が構成され、如何なる国といえども、その力によって強制されるべきではなく、また強制すべきではない。これを保証することは地球防衛軍の基本的な任務であり、目的である。すなわち国家とは、全ての人民のために存在するのであって、如何なる人民も犠牲にしたり、強制したりしてはならないのであって、人民は国家に対して不満を有するときには自由に望む国家を構成できるものと考えよう。歴史上武力によって成し遂げられた所謂独立戦争は、平和な民主的な自由な意志によって、今後は自由に独立を認めていくべきである。国際機関が このように自由な国家を構成する権利を 全ての人間に基本的な人権として生存権ともに保障することを求めます。みなさん、これは決して難しいことではなくて、世界全体が日本国のようになり、国々が日本国の都道府県のようになればよいのです。このような世界を実現させ、暴力のない世界をつくり、世界の愚かな軍事費を 美しい世界の営みにまわそうではありませんか。
以 上


再生核研究所声明192(2014.12.27) 無限遠点から観る、人生、世界

(これは、最近、夢中になっているゼロ除算の発想から湧いた、逆思考である。要するに遠い将来から、人生や世界をみたら、考えたら、どのようになるかという視点である。)

主張が明確に湧いたので、結論、趣旨から述べたい。人は我々の目標や希望が未来にあり、そのためにその目標に向かって、努力、精進などと志向しているは 多いのではないだろうか。そのような意味で、我々の関心が、先に、先に有るように感じるのではないだろうか。これは自然な心情であろうが、別の視点も考えたい。成長や発展、変化には適切な有り様が有って、早ければ良い、急いで進めれば良いとはならないということである。現在は、未来のためにあるのではなく、現在、現状はそれ自体尊いという視点である。先、先ではなく、 いま、いまが大事であるという視点である。生物の成長には固有のリズム、
成長のペースがあるということである。我々は、生物としての枠、構成されている状況によって制限があり、適切な有り様が存在する:

再生核研究所声明85(2012.4.24)食欲から人間を考える ― 飽きること

理想的な有り様には 自然な終末もあり、大局的にみれば、大きな流れにおける調和こそ
大事ではないだろうか。次の声明

再生核研究所声明1443013.12.12) 人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程である

の題名も真実だろうが、そこで述べた、

そこで、 ここでの教訓は、目標や先は、そんなに良くはないのだから、何事無理をするな、自分のペースで、急がず、慌てず、 自分の心の状態を尊重する ということである。人生の一つの原理は、ゲーテの 絶えず活動して止まないもの、 アインシュタインの 人生は自転車に乗っているようなもの である、 止まったら、倒れてしまう、 岡本太郎氏の 芸術は爆発だ、どんどん爆発を続けて行くのが芸術だ。 これらは、誠 至言である。

は真実としても、活動を進める情念も結局、自己のペースが大事であって、あまり外の影響を強く受けるべきではないと言う、視点が大事ではないだろうか。

言いたいことは、個人の心持ちもそうであるが、経済活動、社会活動、科学の進歩も、全体的な流れにおける調和が大事であるということである。例えば

磁気浮上式電車の開通の是非は 妥当であろうか。
原子力発電所の開発促進は適切であろうか。
グローバリゼーションは 急ぎ過ぎではないだろうか。
成果主義は行き過ぎではないだろうか。
経済の成長、発展 優先も大いに気になる。

などと難しい問題に対する広く、深い、総合的な評価の検討も要請したい。 次の声明も参照:

再生核研究所声明117(2013.5.10): 時,状況が問題; タイミングの重要性 、死の問題、恋の問題。

以 上
再生核研究所声明 13 (2008/05/17): 第1原理 ― 最も大事なこと

世界の如何なるものも 環境内の存在であり、孤立した存在は在り得ない。世界の如何なる芸術も真理もまた一切の価値は、人類が存在して始めて意味のある存在となる。従って人類の生存は、如何なるものをも超えた存在であり、すべてに優先する第1原理として、認識する必要がある。よって環境や戦争については 多くの人間の関与すべき重要な問題と考えなければならない。21世紀は、近代科学の進歩によって 地球の有限性が顕わになり、人類絶滅の可能性を感じせしめるようになってきた時代とも言える。

国が栄えなければ、地方の栄えは考えられず、県などが栄えなければ 市町村などの発展は望めない。市町村などが健全でなければ 地域は栄えず、住民や家庭の健全な生活は不可能である。しかしながら、現実的な対応としては、逆方向の発展を考えざるを得ない。すなわち私たち個人、および個人の近くから、より良い社会、環境になるように努力していくことである。孤高の存在は所詮空しく、儚いものである。それゆえに われわれは各級のレベルにおける環境と社会に思いを致すことに努力して行こうではありませんか。

特に、われなき世界は 存在すれども、何事をも認識できず、知ることもなく感じる事もできない。よって、われ存在して始めて、世界を知ることになるから、健全なる個人の存在は、個人にとっては最も大事な第1原理に考えざるを得ない。これは言い古されてきた、 まず健康ということ、 に他ならない。われなき世界とは 自分が影響を与えない世界のことである。この個人と社会の関わりは、 愛とよばれている、 愛の本質である。それは男女の愛と親子の愛が基本になっている。それはまた じんかん と よばれる人間存在の本質でもある。

この声明は 地球環境を限りなく大事にし、世界の平和を確立し、社会を大事に思い、世界の拡大と深化を、 個人を尊重しながら、 積極的に進めることを、各級のレベルで努力することを要請しているものである。その原理は、 人間存在の本質である、 人間存在における三位一体の理存在、知、愛の、存在して、始めて知り、求める事ができる という原理を、いわば当たり前のことを、
確認しているに他ならない。(しかしながら、実際にはこの自明な、重要な原理は、解析接続のように必然的に 新しい価値観と考え方を限りなく発展させ、雄大な世界を拓くのであるが、私個人はこの古い世界で生涯を閉じようとしていて、その世界には立ち入らない事にしたいと思う。不思議にも 少年時代に宇宙論と共にその世界を覗いたのですが、怖くなって覗かないようにしました。それはガウスが非ユークリッド幾何学を発見したが、世の反響の大きさを恐れて発表を控えたのと同じ心境です。) 以上。

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