Aristotle: One of western culture’s greatest
This year is the 2,400th Anniversary of the birth of Aristotle at Stagira in the north of Classical Greece in 384 BC. He was arguably the greatest philosopher who ever lived.
His anniversary has been celebrated in Greece, Cyprus and in Classics Departments in universities throughout the Western world. In Ireland there was a seminar on aspects of his work in Trinity College, Dublin, and the publication of this collection of essays.
In his introduction O’Rourke provides a charming account of his early years on a small farm and suggests that the habit he developed of closely observing nature prepared him for his subsequent personal encounter with Aristotle, whose philosophy is based on the observance of nature and reality.
This theme – the direct contact between the individual and nature/reality – is pursued in all the essays, which range across all of Aristotle’s thought: his metaphysics, natural philosophy, psychology, ethics and aesthetics.
Attitude
In the opening essay O’Rourke discusses the philosopher’s ‘wondrous’ outlook upon the universe, an attitude shared with the poet.
Philosophy and poetry are both characterised by their universal openness to reality. But he notes how the poet has also licence to affirm things not only as they are, but also as they might be or could be imagined. The essay ‘Human Nature and Destiny in Aristotle’ provides an overview of the philosopher’s understanding of human beings, both as they resemble and differ from other animals. The author emphasizes the unity for Aristotle of soul and body as co-constituents of a single substance and comments on his tentative arguments for the immortality of the soul.
The essay ‘Knowledge and Necessity in Aristotle’ discusses his grounding of knowledge in the action of sensible beings upon our sense faculties and since these by their nature respond to material objects the knowledge they mediate is immediate and infallible.
The essay concludes with a summary of Aristotle’s reasoning to the necessity of a first mover. In ‘Aristotle and the Metaphysics of Metaphor’ O’Rourke suggests that the philosopher has articulated the most satisfactory explanation for metaphor as a fundamental feature of everyday language and he echoes Aristotle’s emphasis on its importance for biology and metaphysics.
‘Aristotle’s Political Anthropology’ examines a number of questions arising from Aristotle’s definition of man as a political animal. For instance: how may the primacy of the state be reconciled with the fact that the citizen is somehow independent, with autonomous activities and an individual purpose?
Other essays consider Aristotle’s philosophy in the context of evolutionary theory. The final essay is on the influence of Aristotle on James Joyce.
At Newman’s University Joyce was imbued by the spirit of Aristotle. He acknowledges this in A Portrait of the Artist and it is also evident in the mental framework of Stephen Dedalus in Ulysses.
The careful reader of these essays will be richly rewarded. They illustrate some of the most profound metaphysical insights to be found in the philosophy of Aristotle and their contemporary relevance.
Not the least of these is the fact that things are, and our knowledge is firmly grounded on reality.http://irishcatholic.ie/article/aristotle-one-western-culture%E2%80%99s-greatest-minds
大変興味深く読みました:
再生核研究所声明308(2016.06.27)
ゼロ除算とは何か、始めてのゼロ除算、ゼロで割ること
相当な記録、解説が蓄積されてきたので、外観する意味で表題の下で簡単に纏めて置こう。
先ず、ゼロ除算とは 加,減,乗,除の四則演算において 割る時にどうしてゼロで割れないかの問題を広く表す。ゼロで割ることを考えることである。西暦628年インドでゼロが文献上の記録として現れて以来議論されてきた。ある専門家によればアリストテレスが物理的にゼロ除算を最初に考え、不可能であるとされたという。割り算を掛け算の逆と考えれば、ゼロで割ることは 割られる数がゼロでなければ、不可能であることが簡単に証明されてしまうが、物理法則などには、分数式が現れて、分母がゼロである場合興味深いとして、現代でもいろいろ問題にされ、インターネット上をにぎわしている。この件では、ブラックホールの理論や相対性理論の関係からアインシュタインの人生最大の懸案の問題であるという言葉に象徴される。他の大きな関心として、計算機がゼロ除算にあって計算機障害を起こした事件から、ゼロ除算障害回避を目指して新しい数体系を考えている相当なグループが存在する。
このような永い歴史に対して、ゼロ除算を可能にする自然で簡単な体系が山田体として確立され、四則演算は 簡単な修正で ゼロ除算を含めていつでも可能であることが明らかになった。しかしながら、ここには分数,割り算の意味を自然に拡張して、可能になったという、新しい概念があるので、扱いには大いに気を付ける必要がある。分母がゼロである場合、ある意味で考えられるという、考え方である。ここは、従来、分数で、分母がゼロになる場合、微分学の基礎概念である、極限で考えるに対して、新しい意味付けを与える方法が発見された。これは、無限級数f(x) = \sum_{n= -\infty}^{\infty} C_n (x –a)^n に対して f(a)=C_0 と簡単に述べられる。具体例で述べれば、関数e^{xt}/(x^2)の原点における値はt^2/2として,関数cos(xt)/(x^3)の原点での値は恒等的にゼロとして意味を有する。このような値の実際的な意味が、幾何学、解析学、解析幾何学,微分方程式など広範に現れて、従来分母がゼロになる場合に避けてきたところ、いろいろな意味と解釈が可能であることが分かってきた。
新しい、状況とは何かであるが、第一には、我々の空間に対する考えに新しい世界が現れたことである。基本的な関数y=1/z の原点での値がゼロと定義されることから、従来無限遠点.無限と考えられていた想像上の点が 実はゼロで表されることになる。そこで、無限が関与する数学が改められることである。極限値として、+、マイナス、無限、あるいは複素平面で、無限は考えられるが、それらは定まった数ではなく、定まった数としての無限の存在を否定する数学になっている。
それで、古典的な結果、原点の原点に中心をもつ円に関する鏡像は 無限遠点ではなく、ゼロであること、無限遠点はゼロで表されることなど、 基本的な変更が 要求される。ゼロ除算は可能であり、我々の空間の認識は間違っているということになる。
解析関数は孤立特異点で、極と言って、無限遠点の値を取るという考えは改められ、特異点の近くで、幾らでも無限遠点の近くの値を取るものの、特異点では、有限確定値を取ると改められる。
このような有限確定値の具体的な意味付けがいろいろ現れた。顕著な例は、(x,y) 直交座標系で y軸の勾配はゼロで、微分学で微分係数が +、マイナス、無限として極限値が存在するとき、その時、微分係数はゼロであると定義すると、解析学も幾何学も上手く調和して、微分学の多くの公式が付加条件なしに一般的に成り立ち、解析幾何学と調和がとれていることが明らかにされた。数学の相当な部分の修正が必要であり、数学をより美しく、統一的にスッキリと纏められる。
典型的な例として、半径Rの円を考えてRを無限に飛ばすことを考えると、円の面積は当然、限りなく大きくなるが、Rが更には大きくできないとき、円の面積は突然ゼロになることが、解析幾何学とゼロ除算で導かれた。これはRが更には大きくできないときが、円板が半空間、円が直線になる場合で、半平面の面積がゼロであることを示している。このことはある大きな世界を覗かせていて、破壊現象の記述や無限の考え方に大きな変革をもたらす。平行線の概念と空間の概念は、新しい世界観であるから、次でより詳しく触れている:
再生核研究所声明306(2016.06.21)平行線公理、非ユークリッド幾何学、そしてゼロ除算
以 上
再生核研究所声明296(2016.05.06) ゼロ除算の混乱
ゼロ除算の研究を進めているが、誠に奇妙な状況と言える。簡潔に焦点を述べておきたい。
ゼロ除算はゼロで割ることを考えることであるが、物理学的にはアリストテレス、ニュートン、アンシュタインの相当に深刻な問題として、問題にされてきた。他方、数学界では628年にインドで四則演算の算術の法則の確立、記録とともに永年問題とされてきたが、オイラー、アーベル、リーマン達による、不可能であるという考えと、極限値で考えて無限遠点とする定説が永く定着してきている。
ところが数学界の定説には満足せず、今尚熱い話題、問題として、議論されている。理由は、ゼロで割れないという例外がどうして存在するのかという、素朴な疑問とともに、積極的に、計算機がゼロ除算に出会うと混乱を起こす具体的な懸案問題を解消したいという明確な動機があること、他の動機としてはアインシュタインの相対性理論の上手い解釈を求めることである。これにはアインシュタインが直接言及しているように、ゼロ除算はブラックホールに関係していて、ブラックホールの解明を意図している面もある。偶然、アインシュタイン以後100年 実に面白い事件が起きていると言える。偶然、20年以上も考えて解明できたとの著書さえ出版された。― これは、初めから、間違いであると理由を付けて質問を送っているが、納得させる回答が無い。実名を上げず、具体的に 状況を客観的に述べたい。尚、ゼロ除算はリーマン仮説に密接に関係があるとの情報があるが 詳しいことは分からない。
1: ゼロ除算回避を目指して、新しい代数的な構造を研究しているグループ、相当な積み重ねのある理論を、体や環の構造で研究している。例えて言うと、ゼロ除算は沢山存在するという、考え方と言える。― そのような抽象的な理論は不要であると主張している。
2:同じくゼロ除算回避を志向して 何と0/0 を想像上の数として導入し、正、負無限大とともに数として導入して、新しい数の体系と演算の法則を考え、展開している。相当なグループを作っているという。BBCでも報じられたが、数学界の評判は良くないようである。― そのような抽象的な理論は不要であると主張している。
3:最近、アインシュタインの理論の専門家達が アインシュタインの理論から、0/0=1, 1/0=無限 が出て、ゼロ除算は解決したと報告している。― しかし、これについては、論理的な間違いがあると具体的に指摘している。結果も我々の結果と違っている。
4:数学界の永い定説では、1/0 は不可能もしくは、極限の考え方で、無限遠点を対応させる. 0/0 は不定、解は何でも良いとなっている。― 数学に基本的な欠落があって、ゼロ除算を導入しなければ数学は不完全であると主張し、新しい世界観を提起している。
ここ2年間の研究で、ゼロ除算は 何時でもゼロz/0=0であるとして、 上記の全ての立場を否定して、新しい理論の建設を進めている。z/0 は 普通の分数ではなく、拡張された意味でと初期から説明しているが、今でも誤解していて、混乱している人は多い、これは真面目に論文を読まず、初めから、問題にしていない証拠であると言える。
上記、関係者たちと交流、討論しているが、中々理解されず、自分たちの建設している理論に固執しているさまがよく現れていて、数学なのに、心情の問題のように感じられる微妙で、奇妙な状況である。
我々のゼロ除算の理論的な簡潔な説明、それを裏付ける具体的な証拠に当たる結果を沢山提示しているが、中々理解されない状況である。
数学界でも永い間の定説で、初めから、問題にしない人は多い状況である。ゼロ除算は算数、ユークリッド幾何学、解析幾何学など、数学の基本に関わることなので、この問題を究明、明確にして頂きたいと要請している:
再生核研究所声明 277(2016.01.26):アインシュタインの数学不信 ― 数学の欠陥
再生核研究所声明 278(2016.01.27): 面白いゼロ除算の混乱と話題
再生核研究所声明279(2016.01.28) : ゼロ除算の意義
再生核研究所声明280(2016.01.29) : ゼロ除算の公認、認知を求める
我々のゼロ除算について8歳の少女が3週間くらいで、当たり前であると理解し、高校の先生たちも、簡単に理解されている数学、それを数学の専門家や、ゼロ除算の専門家が2年を超えても、誤解したり、受け入れられない状況は誠に奇妙で、アリストテレスの2000年を超える世の連続性についての固定した世界観や、上記天才数学者たちの足跡、数学界の定説に まるで全く嵌っている状況に感じられる。
以 上
考えてはいけないことが、考えられるようになった。
説明できないことが説明できることになった。
Matrices and Division by Zero z/0 = 0
再生核研究所声明311(2016.07.05) ゼロ0とは何だろうか
ここ2年半、ゼロで割ること、ゼロ除算を考えているが、ゼロそのものについてひとりでに湧いた想いがあるので、その想いを表現して置きたい。
数字のゼロとは、実数体あるいは複素数体におけるゼロであり、四則演算で、加法における単位元(基準元)で、和を考える場合、何にゼロを加えても変わらない元として定義される。積を考えて変わらない元が数字の1である:
Wikipedia:ウィキペディア:
初等代数学[編集]
数の 0 は最小の非負整数である。0 の後続の自然数は 1 であり、0 より前に自然数は存在しない。数 0 を自然数に含めることも含めないこともあるが、0 は整数であり、有理数であり、実数(あるいは代数的数、複素数)である。
以下は数 0 を扱う上での初等的な決まりごとである。これらの決まりはxを任意の実数あるいは複素数として適用して構わないが、それ以外の場合については何も言及していないということについては理解されなければならない。
加法:x + 0 = 0 +x=x. つまり 0 は加法に関する単位元である。
減法: x− 0 =x, 0 −x= −x.
乗法:x 0 = 0 ·x= 0.
除法:xが 0 でなければ0⁄x= 0 である。しかしx⁄0は、0 が乗法に関する逆元を持たないために、(従前の規則の帰結としては)定義されない(ゼロ除算を参照)。
実数の場合には、数直線で、複素数の場合には複素平面を考えて、すべての実数や複素数は直線や平面上の点で表現される。すなわち、座標系の導入である。
これらの座標系が無ければ、直線や平面はただ伸びたり、拡がったりする空間、位相的な点集合であると考えられるだろう。― 厳密に言えば、混沌、幻のようなものである。単に伸びたり、広がった空間にゼロ、原点を対応させるということは 位置の基準点を定めること と考えられるだろう。基準点は直線や平面上の勝手な点にとれることに注意して置こう。原点だけでは、方向の概念がないから、方向の基準を勝手に決める必要がある。直線の場合には、直線は点で2つの部分に分けられるので、一方が正方向で、他が負方向である。平面の場合には、原点から出る勝手な半直線を基準、正方向として定めて、原点を回る方向を定めて、普通は時計の回りの反対方向を 正方向と定める。これで、直線や平面に方向の概念が導入されたが、さらに、距離(長さ)の単位を定めるため、原点から、正方向の点(これも勝手に指定できる)を1として定める。実数の場合にも複素数の場合にも数字の1をその点で表す。以上で、位置、方向、距離の概念が導入されたので、あとはそれらを基礎に数直線や複素平面(座標)を考える、すなわち、直線と実数、平面と複素数を1対1に対応させる。これで、実数も複素数も秩序づけられ、明瞭に表現されたと言える。ゼロとは何だろうか、それは基準の位置を定めることと発想できるだろう。
― 国家とは何だろうか。国家意思を定める権力機構を定め、国家を動かす基本的な秩序を定めることであると原理を述べることができるだろう。
数直線や複素平面では 基準点、0と1が存在する。これから数学を展開する原理を下記で述べている:
しかしながら、数学について、そもそも数学とは何だろうかと問い、ユニバースと数学の関係に思いを致すのは大事ではないだろうか。この本質論については幸運にも相当に力を入れて書いたものがある:
19/03/2012
ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅.広く面白く触れたい。
複素平面ではさらに大事な点として、純虚数i が存在するが、ゼロ除算の発見で、最近、明確に認識された意外な点は、実数の場合にも、複素数の場合にも、ゼロに対応する点が存在するという発見である。ゼロに対応する点とは何だろうか?
直線や平面で実数や複素数で表されない点が存在するであろうか? 無理して探せば、いずれの場合にも、原点から無限に遠ざかった先が気になるのではないだろうか? そうである立体射影した場合における無限遠点が正しくゼロに対応する点ではないかと発想するだろう。その美しい点は無限遠点としてその美しさと自然さ故に100年を超えて数学界の定説として揺るぐことはなかった。ゼロに対応する点は無限遠点で、1/0=∞ と考えられてきた。オイラー、アーベル、リーマンの流れである。
ところが、ゼロ除算は1/0=0 で、実は無限遠点はゼロに対応していることが確認された。
直線を原点から、どこまでも どこまでも遠ざかって行くと、どこまでも行くが、その先まで行くと(無限遠点)突然、ゼロに戻ることを示している。これが数学であり、我々の空間であると考えられる。この発見で、我々の数学の結構な部分が修正、補充されることが分かりつつある。
ゼロ除算は可能であり、我々の空間の認識を変える必要がある。ゼロで割る多くの公式である意味のある世界が広がってきた。それらが 幾何学、解析学、代数学などと調和して数学が一層美しい世界であることが分かってきた。
全ての直線はある意味で、原点、基準点を通ることが示されるが、これは無限遠点の影が投影されていると解釈され、原点はこの意味で2重性を有している、無限遠点と原点が重なっている現象を表している。この2重性は 基本的な指数関数y=e^x が原点で、0 と1 の2つの値をとると表現される。このことは、今後大きな意味を持ってくるだろう。
古来、ゼロと無限の関係は何か通じていると感じられてきたが、その意味が、明らかになってきていると言える。
2点から無限に遠い点 無限遠点は異なり、無限遠点は基準点原点の指定で定まるとの認識は面白く、大事ではないだろうか。
以 上
再生核研究所声明41(2010/06/10):世界史、大義、評価、神、最後の審判
声明36(恋の原理と心得)で、元祖生命体(本来の生命、生物界全体)は 永遠の生命を有し、人間的な意識と自由意志を有し、存在すること、知ること、美を求めることなどを目標に生命活動を続けている。 人類の発展の先は いまだ不明である。 確かに言えることは、生存を続けること、知ることを求めること、感動することを希求しているということである。
と述べて、人類は 人間存在の原理(人間である限り否定できない、不変的な原理を述べているもので、人間である限り、存在していること、そして、存在していることを知っていること、そして、求めているという三位一体の、デカルトのコギトエルゴスム(我れ思う、故にわれ在り)を基礎に置いた考え方: 夜明け前 よっちゃんの想い:211ページ)によって、世界の歴史を発展、拡大、深化させていくであろう。
ここで、世界史とは 人類が得たあらゆる知識、情報を意味するが、世界史は過去の一切のことについても真相の究明を続けていくであろう。これは真実を知りたいという人間存在の原理に他ならないからである。
個々の人間の目標は、 人生における基本定理 (声明12) に述べられているように 生きること、感動できるように生きることであるが、人間は同じ元祖生命体の分身であり、個々の人間は1個の細胞のような存在であり、個々の人間の存在は 元祖生命体の雄大な存在からみれば 大河の一滴 (五木 寛之) と考えられるが、しかしながら、それは同時に全体に関係し、全体を内包しているから、限りなく貴い存在である (声明36)。
そこで、人間にとって真に価値あることとは、人類の目標のために貢献することではないだろうか。 人類の営みは世界史によって、表現されるから、世界史のため、人類のため、元祖生命体のために貢献することこそが、真の意味における大義と言えよう。 人類が、世界史が進化していけば、過去の元祖生命体の営みの総体を次第に明らかにして、物事の真相と評価、位置づけ、位置関係を明瞭にしていくであろう。- すでに、グーグルの世界に それらの初歩を見ることができる。
神とは全知、全能の存在とされるが、世界の全体を捉えられるのは現在、人類以外に存在せず、未来において、進化した元祖生命体こそが、神に相当する存在ではないであろうか。
進化した未来人は 現代人の能力のレべルを あたかも幼稚園生くらいとみ、現在のコンピュータのレベルを 手動計算機程度くらいとみるだろう。
そのとき、世界の歴史は、個々の人間の存在の関係 (評価) をきちんと明らかにするであろう。
この声明の趣旨は、先ずは 世界の政治家の皆さんに、世界史に耐えられるような上記大義に基づいて、行動して頂きたいと要請しているのです。 小さな自分たちの立場ではなくて、より大きな世界のために高い志の基に、行動して頂きたいということです。 同時に、不正や不義は 歴史的に明らかにされ、真実は必ず、明らかにされるということに注意を喚起することにある。 研究者や芸術家たちは 近視眼的なことに拘らず、己が道を進めばいいのであって、適切な評価は必ず下されると考えるべきです。 マスコミ関係者や解説者の皆さん、思想家たちの皆さん、世界史の評価に耐えられるような高い視点と志で、重要な職務を果たして頂きたいと考えます。 人間にとって価値あることとは、小さな自己の世界に閉じこもらず、上記大義の基に努力することではないであろうか。
将来、世界史が明らかにする、世界史の全体における個々の関係こそが、最後の審判ではないだろうか。 それは同時に 未来ではなく、現在、いまの 個々の人間の 深奥に普遍的に存在する神性と良心 に通じていると考える。 それらを捉え、それらに調和し 忠実に生きることこそ、良く生きることに他ならない。 悪いことは苦しいことである。必ず、良心の呵責として、その深奥から湧いてくるからである。他方、大義に生きることは 上記永遠の生命の中に生きることを意味するから、楽しいことである。 滅ぶことも消えることもない。
以上
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