「本棚をみせてごらんなさい。あなたがどんな人間か言い当ててみましょう」
リンク先で、読書についてのインタビューにお邪魔しました。メインテーマは「アラフォー世代の読書」ですが、私としては、後半の「本棚の話」のほうが好きだったりします。
「本棚」って魔性のアイテムですよね。
本棚に入っている本には、その人の執着や趣味や知性やコンプレックスやフェティシズムがびっしり詰まっています。ネット通販の購入履歴などもそうだと言えますが、ただの購入履歴と違って、本棚には入れ替わりがあって、要らない本は本棚からふるい落とされて、その人が必要としている本や執着し続けている本だけが残る、という特徴があります。
だからこそ、本棚にはその人のさまざまな側面が反映されます。タイトルの、「あなたの本棚をみせてみなさい。あなたがどんな人間か言い当ててみましょう」は、ぜんぜん不可能ではありません。リンク先で喋っているとおり、本棚を他人にみせる行為は、まかり間違えば精神の裸踊りになってしまうでしょう。
もちろん本棚と言っても、リビングには「他人に見せても構わない本棚」があり、寝室や書庫には「他人には見せない本棚」があります。でも、そうやってわけて本が置いてあること自体も、その人の人となりを反映しているし、後者はもちろん、前者を眺めるだけでも面白い情報を読み取ることができます。
たとえば、仕事用の本と趣味の本、雑誌などが雑多に置いてある本棚があります。本に対してあけっぴろげな、それでいて本が動いているのがみてとれる本棚は活気があって好きです。その人の生活実態と、本のチョイスがぴったり一致していると、素直だなーと感じます。
料理のテキストブックや、子どものための絵本の並ぶ本棚も良いものです。でも、そういった本が気持ち悪いほど整然と並んでいて、動きの感じられないケースもあります。子ども向けの絵本などは、使っていればなんとなく騒がしくなるものですから、あまりにも整然としていると、気味が悪いものですね。
リビングに、小難しい本やマニアックな本がたくさん置いてある本棚もあります。それらの本は、持ち主の知識の中枢部でしょうか? それとも、自分を偉くみせるための虚栄心の中枢部だけでしょうか? このあたりは、持ち主とじかに話して、本棚の様子と照らし合わせてみると、本棚の正体がだんだん見えてくるでしょう。虚栄心といっても、他人に対して見栄を張っている場合もあれば、自分自身に対して見栄を張っている場合もあります。
あと、古い家で見かけることのある、リビングの“百科事典全集”。ほこりを被っていて、版も古く、使われていないのは一目瞭然なんだけど、まるで神棚のごとく鎮座しています。「リビングに百科事典があればご利益が得られる」と言わんばかりの雰囲気は、失われた教養主義、いや、教養信仰の名残りのようで、侘しく感じます。今の若い人達は、そんな本をそんな風に本を拝んだりはしないでしょう。ああいう本棚がみられるのも、たぶん、今のうちだけです。
「本棚」って魔性のアイテムですよね。
本棚に入っている本には、その人の執着や趣味や知性やコンプレックスやフェティシズムがびっしり詰まっています。ネット通販の購入履歴などもそうだと言えますが、ただの購入履歴と違って、本棚には入れ替わりがあって、要らない本は本棚からふるい落とされて、その人が必要としている本や執着し続けている本だけが残る、という特徴があります。
だからこそ、本棚にはその人のさまざまな側面が反映されます。タイトルの、「あなたの本棚をみせてみなさい。あなたがどんな人間か言い当ててみましょう」は、ぜんぜん不可能ではありません。リンク先で喋っているとおり、本棚を他人にみせる行為は、まかり間違えば精神の裸踊りになってしまうでしょう。
もちろん本棚と言っても、リビングには「他人に見せても構わない本棚」があり、寝室や書庫には「他人には見せない本棚」があります。でも、そうやってわけて本が置いてあること自体も、その人の人となりを反映しているし、後者はもちろん、前者を眺めるだけでも面白い情報を読み取ることができます。
たとえば、仕事用の本と趣味の本、雑誌などが雑多に置いてある本棚があります。本に対してあけっぴろげな、それでいて本が動いているのがみてとれる本棚は活気があって好きです。その人の生活実態と、本のチョイスがぴったり一致していると、素直だなーと感じます。
料理のテキストブックや、子どものための絵本の並ぶ本棚も良いものです。でも、そういった本が気持ち悪いほど整然と並んでいて、動きの感じられないケースもあります。子ども向けの絵本などは、使っていればなんとなく騒がしくなるものですから、あまりにも整然としていると、気味が悪いものですね。
リビングに、小難しい本やマニアックな本がたくさん置いてある本棚もあります。それらの本は、持ち主の知識の中枢部でしょうか? それとも、自分を偉くみせるための虚栄心の中枢部だけでしょうか? このあたりは、持ち主とじかに話して、本棚の様子と照らし合わせてみると、本棚の正体がだんだん見えてくるでしょう。虚栄心といっても、他人に対して見栄を張っている場合もあれば、自分自身に対して見栄を張っている場合もあります。
あと、古い家で見かけることのある、リビングの“百科事典全集”。ほこりを被っていて、版も古く、使われていないのは一目瞭然なんだけど、まるで神棚のごとく鎮座しています。「リビングに百科事典があればご利益が得られる」と言わんばかりの雰囲気は、失われた教養主義、いや、教養信仰の名残りのようで、侘しく感じます。今の若い人達は、そんな本をそんな風に本を拝んだりはしないでしょう。ああいう本棚がみられるのも、たぶん、今のうちだけです。
電子書籍が来て、我が家の本棚はますます“濃く”なった
ところで、最近は電子書籍が使えるようになり、大量の本が端末ひとつに収まるようになりました。我が家の本棚も、漫画やライトノベルが電子書籍に吸収されるようになり、新書の一部も電子書籍で読むようになりました。
反面、電子書籍を使いまくっても本棚は滅ばないんだな、とも思いました。
愛蔵しておきたい漫画、思い出に残ったライトノベルは、電子書籍には切り替えませんでした。紙の本として保存しておく漫画やライトノベルはそれだけ特別なわけで、本棚の“濃さ”が高まる一因になったように思います。
新書のたぐいも、電子書籍で買って良かったものを、紙の本で買い直すことがあります。何度も読みたい本・何度も調べたい本は、紙の本のほうが便利なんですよね。雑に扱っても痛まないし、電源もつけなくて良いし、読みたいページをすぐに引っ張り出せるし。
もちろん、医学書をはじめとする専門書の多くは電子書籍になっていないので、紙の本を本棚にしまっておくしかありません。
電子書籍に要らない本やたいしたことのない本が吸収された結果として、我が家の本棚はますます“濃く”なり、ますます私自身を反映した、うかうか他人に開陳できないようなものになってしまいました。電子書籍があるからといって、本棚の重要性はあまり失われていません。「本棚をみれば人間が読める」って傾向もたぶん変わっていないでしょう。
反面、電子書籍を使いまくっても本棚は滅ばないんだな、とも思いました。
愛蔵しておきたい漫画、思い出に残ったライトノベルは、電子書籍には切り替えませんでした。紙の本として保存しておく漫画やライトノベルはそれだけ特別なわけで、本棚の“濃さ”が高まる一因になったように思います。
新書のたぐいも、電子書籍で買って良かったものを、紙の本で買い直すことがあります。何度も読みたい本・何度も調べたい本は、紙の本のほうが便利なんですよね。雑に扱っても痛まないし、電源もつけなくて良いし、読みたいページをすぐに引っ張り出せるし。
もちろん、医学書をはじめとする専門書の多くは電子書籍になっていないので、紙の本を本棚にしまっておくしかありません。
電子書籍に要らない本やたいしたことのない本が吸収された結果として、我が家の本棚はますます“濃く”なり、ますます私自身を反映した、うかうか他人に開陳できないようなものになってしまいました。電子書籍があるからといって、本棚の重要性はあまり失われていません。「本棚をみれば人間が読める」って傾向もたぶん変わっていないでしょう。
信頼している人にしか見せないほうがいい
ともあれ、本棚は本当に親しい人にしか見せたくないし、また、見せるべきでもないんでしょう。
逆に考えると、本棚を大切にしている人が自分の本棚を見せてくれたとしたら、それはだいぶ信頼してくれている証拠だと思うので、ありがたく拝見して、脳裏にしまっておくのが良いのだと思います。本棚は、その人の精神、その人の執着そのものにほかならないのですから。http://blogos.com/article/198152/
逆に考えると、本棚を大切にしている人が自分の本棚を見せてくれたとしたら、それはだいぶ信頼してくれている証拠だと思うので、ありがたく拝見して、脳裏にしまっておくのが良いのだと思います。本棚は、その人の精神、その人の執着そのものにほかならないのですから。http://blogos.com/article/198152/
読んでためになりました:
再生核研究所声明332(2016.11.17) 再生核の著書: Theory of Reproducing Kernels and Applications, Developments in Mathematics 44 © Springer 2016 について ー 内容
本書は澤野嘉宏氏の凄い才能と、献身的な努力で8年以上の歳月を掛けて、出版されたので、まず澤野氏に深く感謝したい。さらに、研究と著書に 本質的に貢献された 山田正人、松浦勉、山田陽、藤原宏志 氏に、また本書謝辞欄に挙げられた多くの研究者に、英文や原稿形式について深く検討され、素晴らしい装填で本書を出版されたSpringerの方々に深く感謝したい。幾つかの観点に分けて本書について、触れていきたい。今回は内容について述べたい。
本書は再生核の一般論とその応用を広く纏めたもので、本文452ページで大著と言える。大勢であるが、理工系学部程度の知識を前提にすれば、本書の内容を殆ど記述できるのは、既に本書の特徴であると言える。実際、現在殆どの数学の研究学術書が高度化、専門家、細分化して言わば、専門外の人たちには興味、関心を持たれず、また理解できないものが殆どである実情からみれば、本書はそのような観点で特徴的な内容であると言える。実際、本書は学部での、ベクトル解析、微分方程式、複素解析、関数解析、フーリエ解析、ラプラス変換などに続く、多くは新規な研究成果の内容である。再生核の理論の内容よりも、本書を学習するとどのような効果があるのか、何ができるのかという、観点で内容を述べたい。
本書の背景に存在する精神はピタゴラスの定理の一般論、展開である。線形変換で、逆変換を確立する方法が広く議論される、微分・積分方程式を含むいろいろな方程式の近似的な解法が議論される。ここで、特に計算機で具体的に解を構成する方法が理論と共に具体的な公式の形で与えられる。ラプラス変換の実逆変換公式が確立されている。藤原宏志氏は藤原氏の無限精度の概念による計算機システムで既に8年以上も前に6000元の一般(密行列)の線形方程式を有効桁数600桁の精度で解かれて、難問とされてきた実ラプラス変換の実際的な解法に成功・可能にされた。その数学的な理論と様々な方程式の計算機による解法が与えられている ― それは、有効な新しい型の離散化法、究極離散化法として、発展、提案されている。その結果、究極と考えられるサンプリングの定理 ― 連続量を可附番無限な量で表現する原理 ― も与えられている。再生核の理論から美しいいろいろ基本的な不等式が導かれるが、具体的な例が与えられ、再生核の一般理論における深い理論の象徴として、山田陽氏の不等式における等号問題を論じている。関数の近似や極値問題 は本書の基本的な課題である。非線形変換を線形変換で捉える原理が再生核の理論で考えられている。非線形システムと線形システムの入力と出力の関係から、システムを定める同定問題が議論されている。一般分数関数の概念・表現は 最近のゼロ除算の概念 に発展させたコンボルーシオン方程式の解法を与える新規な概念で新しい研究課題である。― 特別な帰結として、ゼロで割ること、ゼロ除算はその自然な意味で可能であり、結果自体z/0=0は自明である。― 有限個のデータから、方程式の近似解を構成する方法が、計算機による解法の視点から、多くの具体的な偏微分方程式や特異積分方程式の解について与えられている。再生核に関する最近の話題も広く言及されている; すなわち、いろいろなノルム不等式、関数族の包含関係の特定問題、関数の滑らかさを計算機で判定する方法、偏微分方程式における初期値問題をそれに関係する方程式の固有関数族を用いて具体的に構成する方法、一般的な線形写像の逆写像の表現方法、超関数デルタ関数及びグリーン関数と再生核の関係など。拡張された意味にける再生核は超関数デルタの一般化と考えられ、その結果、関数族からなる可分なヒルベルト空間は一般化再生核空間と見なせることが導かれている。さらに、付録で、任意写像の逆写像を考える非常に一般的で抽象的な理論の発展から導かれた、陰関数の存在定理が保証する陰関数の具体的な陽な表現定理が述べられている。この基本的な結果は特記されるべきであると考えられる。本書は再生核の理論の総合的な著書になるように、歴史や文献が出来るだけ詳しく述べられている。再生核の理論はサポートベクトルマシン、統計的学習理論、データ解析、グラフの理論、ランダムフィールド評価問題、確率過程論、逆問題、素粒子論、量子力学などと深い関係があり、それらの様子にも触れられている。基本的で具体的な応用の豊かさから、再生核の理論は数学関係者を越えて、微積分学や線形代数学と同様に多くの数理科学の関係者に有益な数学であると考えられる。
以 上
再生核研究所声明231(2015.5.22)本を書く人の気持ち、読む人の気持ち ― 本とは何か
(最近、立て続けに良い本を紹介されて 読書して、何のために読書するのだろうかと考え、そもそも本とは何だろうかと想った。そこで、本について思いのままに述べたい。)
まず、本とは何のために存在するのだろうか。本とは何だろうか。まず、定義をウィキペディアで確かめて置こう:
狭義では、複数枚の紙が一方の端を綴じられた状態になっているもの。この状態で紙の片面をページという。本を読む場合はページをめくる事によって次々と情報を得る事が出来る。つまり、狭義の本には巻物は含まれない。端から順を追ってしかみられない巻物を伸ばして蛇腹に折り、任意のページを開ける体裁としたものを折り本といい、折本の背面(文字の書かれていない側)で綴じたものが狭義の「本」といえる。本文が縦書きなら右綴じ、本文が横書きなら左綴じにする。また、1964年のユネスコ総会で採択された国際的基準は、「本とは、表紙はページ数に入れず、本文が少なくとも49ページ以上から成る、印刷された非定期刊行物」と、定義している。5ページ以上49ページ未満は小冊子として分類している[1]。
本には伝えるべき情報が入っていて、人に伝える働きがあることは認められるだろう。そこで、本を書く立場と本を読んで情報を得る立場が 存在する。この声明の主旨は本の体裁や形式ではなく 本質的なことに関心がある。
何故本を書くか? 記録を残して伝えたい、これは生命の根源である共感、共鳴を求める人間存在の原理に根ざしていると考えられるが、伝えたい内容は、心情的な面と相当に客観性のある情報、記録、事実の表現にゆるく分けられるのではないだろうか。事実の記録、記述として ユークリッド原論のように数学的な事実、理論を 感情を入れずに客観的に述べているのは典型的な例ではないだろうか。様々な記録が本になっている場合は多い。マニュアルや辞書なども、そう言えるのではないだろうか。他方、多くの小説や物語、手記、論説、学術書、回想記などは 相当な主観や感情が表現されていて、いわば自己表現の性格の強いものが 世に多い。ここでは、主として、後者に属する本を想定している。
このような状況で、書く人の立場と、それを読む立場について、考察したい。
書く人は書きたい存念が湧いて書く訳であるが、共感、共鳴を求めて、いわば生命の表現として 絵描きが絵を描くように、作曲家が作曲するように 書くと考えられる。意見表明などは明確な内容を有し、主張を理解できる場合は多いが、詩や短歌などは より情感が強く現れる。この部分で最も言いたいことは、我々の感性も 心もどんどん時間と共に環境とともに 変化していくという事実である。従って著者がシリーズや 複数の本を出版しても、著者の書いた状況によって、相当に変化して行くということである。 若い時代に 恋愛小説を書いたり、人生についての想いを書いたものが、後になっては、とても読めない心情になる事は 相当に普遍的な状況のようにみえる。作者の心情、感性、心がどんどん変化していることをしっかりと捉えたい。
しかしながら、本は多く宣言されているように 永年保存を基本とするような、何時までも残る性格が有り、それゆえに書く者にとっては、後悔しないような、慎重さが要求されるのは 当然である。
次に如何に本を読むべきかの視点である。これは共感、共鳴したい、あるいは価値ある知識を入れたい、情報を得たい等、しっかりとした動機があるのは確かである。教科書や専門書、旅行案内書、辞書など、明確な動機を持つものは世に多く、そのような本の選択は多くの場合、易しいと言える。
ここで、特に触れたいのは、文芸書や小説、随筆など、著者の心情が現れている本などの選択の問題である。 現在、 本の種類はそれこそ、星の数ほどあり、本の選択は重大な問題になる。本には情報といろいろな世界が反映されているから、個人にとって価値あるものとは何かと真剣に、己に、心に尋ねる必要がある。いわゆる、物知りになっても いろいろな世界に触れても それが 私にとって 何になるのか と深く絶えず、問うべきである。知識や情報に振り回されないことは 大事ではないだろうか。
我々の時間には限りがあり、 我々の吸収できる情報も、触れられる世界にも大きな制限がある。
そこで、選択が重要な問題である。
本声明の結論は 簡単である。 本の選択をしっかりして、吸収するということである。
これは、自分に合ったものを探し、精選するということである。自分に合った著者のちょうど良い精神状態における本が良いのではないだろうか。社会にはいろいろな人間がいるから、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか。この文、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか は広く一般的な人間関係やいろいろな組織に加わる場合にでも大事な心得ではないだろうか。選択の重要性を言っている。上手い本に出会えれば、それだけ人生を豊かにできるだろう。
それらは、原則であるが、そうは言っても自分の好きなものばかりでは, 視野と世界を狭めることにもなるから、時には積極的に新規な世界に触れる重要性は 変化を持たせ、気持ちの転換をして、新規な感動をよびさますためにも大事ではないだろうか。 この点、次の声明が参考になるであろう:
再生核研究所声明85(2012.4.24): 食欲から人間を考える ― 飽きること。
以 上
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