2016年11月3日木曜日

公立小中学校の教職員、5万人近く削減求める案に「日本弱体化させる」と疑問の声

財務省は公立の小中学校の教職員定数を、10年後に4万9000人削減するよう文科省に求める方針を決めた。NHKニュースなどが報じた。現在の配置基準を維持すれば、少子化による児童・生徒数の減少で教職員も削減できるという。
NHKニュースによると、2016年度の児童・生徒数は959万人で、10年後の2016年度には840万人になり、119万人が減少すると財務省は見込んでいる。教職員の削減はその状況に対応したもの。
一方で、文部科学省は、発達障害の子や外国籍の子への対応が必要になり、生徒1人あたりの教員数を増やすべきだと主張してきた。文科省側は少子化を見込んでも10年後の教職員定員の削減は1万4000人に抑えるべきだとしている。教員定数をめぐる両省の折衝が、来年度予算案編成の焦点の一つになりそうだ。http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/01/to-decrease-the-number-of-teachers_n_12762528.html?utm_hp_ref=japan

 逆ではないでしょうか

再生核研究所声明 702011/09/28 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず

現代の世相を見ると、余りにも奇妙な現象が起きていて、まるで本末転倒、あべこべになっているのではないかと考えられることが多いので、それらの事象を考察して、初心を尊重して本来あるべき姿について反省を求めたい。しかしながら、時代の趨勢で、初心が本質的に変化を求められ、変遷の止む無きこともあるので、その辺の考察も行なって置きたい。

まずマスコミの現状を見てみたい。 マスコミの在るべき姿については 例えば新聞社においては、自ら天下にこうありたいと宣言している 新聞倫理綱領 を参照して頂きたい(添付資料1)。 現状は 如何でしょうか。鍵となる用語を抜粋したので、現状を考えて頂きたい:

あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される
新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によって
言論・表現の自由を守り抜くと同時に、自らを厳しく律し、品格を重んじ
正確と公正 新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である
報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない
あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない
他方、新聞は、自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する
人権の尊重 新聞は人間の尊厳に最高の敬意を払い、個人の名誉を重んじプライバシーに配慮する。

教育の在り様については、 教育の目標を教育基本法に定めている。 その最初の部分を添付資料に付けたが、あまりに素晴らしく、また、あまりにも現状がかけ離れていて、驚いてしまう。
教育の基本精神を忘れて、知識偏重、受験のための技術学習に陥ってはいないだろうか。そのような教育が 空虚な日本を作っている根本原因ではないだろうか (再生核研究所声明15: 空虚な日本の社会)。さらに、日本の公教育が 才能ある子供たちの才能を大抵、活かさず、逆に駄目にしている事実を憂慮している(再生核研究所声明9: 天才教育の必要性を訴える)
 
添付資料3 日本国憲法第9条 については、第二次世界大戦における敗戦で、再び戦争を起こさないとの固い決意のもと、発足したものであるが、朝鮮動乱、東西冷戦下の厳しい国際環境の下、繰り返し、国の最高機関で問題を議論し、司法界の一連の判断を経ながら、今日に至ったものであるから、現状を諒として受け入れる必要がある。しかしながら、その理念については 絶えず、真摯な態度で臨むべきであると考える(再生核研究所声明6: 憲法問題に対する提案 参照)。
 
上記のように、世には、始めの目標や理念が段々ずれて、何時の間にか逆転している様なことは多い、普遍的な現象ではないだろうか。 研究なども始めの素朴な動機や目標からかけ離れて、研究課題の中の展開のみが目的になってしまい、孤立化して、末期的な現象に陥っている場合が多い。 評価なども 本来は成果や、業績を評価すべきことが、逆転して、見掛け上の評価を良く飾るために 意や努力を重ね、本来期待された業績の展開を阻害している状況さえ多い(再生核研究所声明15: 空虚な日本の社会)。世界の軍事情勢なども侵略や防衛など軍事よりも、政治力の影響やビジネスの要素が強く、戦よりも商、政の性格を強くしていると言えるだろう。 多くの宗教なども、本来の救い、道、に対して、儀式や教団の業の性格を強くしていると言える。 変遷はすべて それなりの理由と歴史が有るのだから、否定的に見るよりも、初期の理念、目標と変遷を吟味するのが良いのではないだろうか。 混乱が生じたら、それらの経過をはじめから検証するのは、数学では日常行っている基本的な態度である。

以 上


添付資料1:
新聞倫理綱領
2000(平成12)年6月21日制定
21世紀を迎え、日本新聞協会の加盟社はあらためて新聞の使命を認識し、豊かで平和な未来のために力を尽くすことを誓い、新しい倫理綱領を定める。
国民の「知る権利」は民主主義社会をささえる普遍の原理である。この権利は、言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される。新聞はそれにもっともふさわしい担い手であり続けたい。
おびただしい量の情報が飛びかう社会では、なにが真実か、どれを選ぶべきか、的確で迅速な判断が強く求められている。新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によってこうした要望にこたえ、公共的、文化的使命を果たすことである。
編集、制作、広告、販売などすべての新聞人は、その責務をまっとうするため、また読者との信頼関係をゆるぎないものにするため、言論・表現の自由を守り抜くと同時に、自らを厳しく律し、品格を重んじなければならない。
自由と責任 表現の自由は人間の基本的権利であり、新聞は報道・論評の完全な自由を有する。それだけに行使にあたっては重い責任を自覚し、公共の利益を害することのないよう、十分に配慮しなければならない。
正確と公正 新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、所信を貫くべきである。
独立と寛容 新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない。他方、新聞は、自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する。
人権の尊重 新聞は人間の尊厳に最高の敬意を払い、個人の名誉を重んじプライバシーに配慮する。報道を誤ったときはすみやかに訂正し、正当な理由もなく相手の名誉を傷つけたと判断したときは、反論の機会を提供するなど、適切な措置を講じる。
品格と節度 公共的、文化的使命を果たすべき新聞は、いつでも、どこでも、だれもが、等しく読めるものでなければならない。記事、広告とも表現には品格を保つことが必要である。また、販売にあたっては節度と良識をもって人びとと接すべきである。


添付資料2:
教育基本法
(平成十八年十二月二十二日法律第百二十号)

教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)の全部を改正する。我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。ここに、我々は、日本国憲法 の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。
 前文
 第一章 教育の目的及び理念(第一条―第四条)
 第二章 教育の実施に関する基本(第五条―第十五条)
 第三章 教育行政(第十六条・第十七条)
 第四章 法令の制定(第十八条)
 附則 
第一章 教育の目的及び理念
(教育の目的)
第一条  教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(教育の目標)
第二条  教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一  幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二  個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三  正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四  生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五  伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
(生涯学習の理念)
第三条  国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。


添付資料3:
日本国憲法第9条

1日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

以 上

ウイキペディアより:

マッチポンプとは、偽善的な自作自演の手法・行為を意味する和製外来語である。マッチ(match)は元は英語ポンプ(pomp)は元はオランダ語である(英語ではpump)。

マッチで自ら火事を起こして煽り、それを自らポンプで消す」などと喩えられるように、問題や騒動について、自身でわざわざ作り出しておきながら、あるいは自身の行為がその根源であるにもかかわらず、そ知らぬ顔で巧妙に立ち回り、その解決・収拾の立役者役も自ら担って賞賛や利益を得ようとする、その様な行為を指して用いられる表現である。
日本の国会会議録にマッチポンプを用いた発言が残っている。1961(昭和36)年4月11日の衆議院本会議において、松井誠衆議院議員は「銃砲刀剣類等所持取締法の一部を改正する法律案」への質問の中で以下のように発言している。
世に、いわゆるマッチ・ポンプ方式といわれるものがあります。右手のマッチで、公共料金を上げて、もって物価値上げに火をつけながら、左手のポンプでは、物価値上げを抑制するがごとき矛盾したゼスチュアを示すのをいうのでございましょう。
— 松井誠、「第38回国会 衆議院本会議 1961(昭和36)411日」[1]
1966年黒い霧事件第1弾の田中彰治代議士事件で初めて使われ、元々は金品を巻き上げるという意味で使われた。1974年刊の「現代流行語辞典[2]」では「デスク日記3[3]1966年8月5日の項にマッチポンプの記述があると紹介している。
再生核研究所声明298(2016.05.20) 根無し草

ある存念が湧いて、言葉が先に自然に湧いたのであるが、言葉を元に少し述べて置きたい。
先ず言葉の意味を確認して置こう:ねなしぐさ【根無し草】の意味 - goo国語辞書
ねなし‐ぐさ【根無し草】
1地中に根を張らず、水に浮いている草。浮き草。
2浮き草のように漂って定まらない物事や、確かなよりどころのない生活のたとえ。「行方も知らぬ―の旅」

世間では上記2のような意味、基礎がしっかりしないでフラフラした存在で、大地にしっかり根をはった大木の逆の言わば弱い、悪い意味で表現されるのではないだろうか。また、根が無ければ、短命で儚い存在を示すと考えるのは自然ではないだろうか。
しかしながら 万物流転や世の無常の思想があるように 本質的には人間の存在も根無し草のような存在であるとしっかり捉えることが大事ではないだろうか。しかし、そのようにしっかりと存在を捉えている者は 人物であり、根無し草のような存在とは誰も思わないだろう。
批判的に根無し草を表現すれば、軽薄な存在であることも示しているのではないだろうか。人間性としては自己中心、短絡的で、軽薄、無責任な存在とも言える。
永遠性を求める人間の心は、本質的に神性を有しており、永遠的なものや哲学的に深い存在を希求しているのではないだろうか。考えの基礎があり、大局的な視野を持った、深い存在である。― 日常的な生活に追われ、マンネリ化した生活を送れば 人生の深い想いを求めるのは難しく、軽薄な存在に陥入り易いと言える。
根無し草の存在の逆を考えてみたい。
考え方の基礎と展開がしっかりしている。視野が広く、思索が深い。永続的に考えられる。
世界に対する認識がしっかりしている。このように考えると、根無し草の存在の逆は、哲学者的な存在や宗教家の存在よりは、世に言う、人物たる存在であると短く本質を表現できるのではないだろうか。
世の指導者、権力者、評価する者、上に立つ者 世の教師たち等、それらはそのような意味で人物たる人物であって欲しいものである。
公金を私用したり、仲間の利益で動いたり、仲間意識で評価する者は 根無し草のような無責任で、短期的な視野を持った浅ましい存在ではないだろうか。

以 上
再生核研究所声明299 (2016.05.21) いろいろ ちぐはぐな社会

人間社会は機械や計算機の世界のように きちんと行く道理は 生命現象としても有り得ず、いろいろ矛盾した多様で複雑な形相を本質的に持っているものであると考えるべきである:

再生核研究所声明284(2015.2.9) 世は矛盾の中に存在する、 混沌と言える。

あまりにきちんとしていれば、社会は逆に窮屈になり、息苦しいものになるだろう。戦時や独裁者国家などによく現れていると言える。もし、法でも、道徳律、習慣でさえ程よく幅をもち、反社会的と評されるものでさえ、存在して娑婆の面白みと言える面が有るのではないだろうか。それらは多様性のある豊かな社会の大事な要素ではないだろうか。
しかしながら、本末転倒、あべこべが行き過ぎるとこれもまた、おかしな社会になってしまう。そこで、行き過ぎた ちぐはぐな存在に見える、感じられることに言及して、省察、有り様について 注意を換気させたい。
最近の例だと高齢者に3万円を 苦しい財政状況の中で、ばらまいているが、国家はもっともっと、資金援助、充実させる配布先はないのであろうか? 誠に奇妙な政策と言える。多くは退職者の年齢であろうが、現役の若者たちは将来の生活の設計、やり繰りで苦労されているのではないだろうか。大学の予算不足なども大いに心を痛められる。
憲法改正の考えや軍事費の増大もこの観点では奇妙に見える。日本が自ら緊張関係を生み出して、軍拡競争を煽っているように見える。国防と安全を考えるは国家の基本であるが、新しい国防観による、平和の建設に対して、時代遅れの思考で対応を考えているように見える。今後の平和と安全の有り様を軍事費増大ではなく 異なった方向での対応を思考すべきではないだろうか。軍事、平和の問題は 創造的に先取の精神で取り組むべきことが 世界史の教えるところである。
人を適材、適所に配置するは 社会の有り様、活力を維持する基本であるが、それらの基になる、教育全般、大学入試、大学教育、就職の有り様、評価の有り様など相当にちぐはぐで、上手く人事が行っていないようなことはないだろうか。いわゆる職業選択におけるミスマッチの問題である。人材を発掘できない状況、活用できない状況など大いに気になる。例えば、公務員は人気があって、優遇される状況があるように感じられるが、公務員は公僕であり、多くは決まった安定した仕事が多いことに鑑み、優秀な人材を生きた社会で生かすような大勢は大事ではないだろうか。もちろん、国家や組織で大事な役割を果たす職種で優秀な人材の登用は古来重要である。公僕の精神を忘れて公務員が社会の優雅な人たちの層を今やなしてはいないだろうか。政治家の選択も民主主義の政治の中で、上手く機能せず、日本の政治家はEUなどの諸国に比べて少しお粗末な政治家が多いように感じられる。公や国家のことより、政争、利害対立に明け暮れている様が見えないだろうか。
研究、教育、人事、評価なども大学法人化後、特に相当に混乱していて、日本の将来には危惧の念を抱かざるを得ない。行き過ぎた過重な受験競争、成果や評価に縛られ汲々とした教育と研究の場、意図的に作られた雑用の多さ、教育と研究の乖離、形ばかりの成果にとらわれ過ぎて真に研究に値しないような小さな研究課題に細分化する傾向が進んでいるのではないだろうか。軍事と同様、研究は創造性ある新規、開拓の精神が最も重視されるべきところ、確立した分野の末梢の研究課題が重視されるような風潮はないだろうか。あらゆる研究の初期の状況を省みたい。
日本のテレビ曲の、ドラマ制作力、音楽、芸術、スポーツ関係の充実ぶりは素晴らしいものと高く評価されるが、ニュース、政治などの番組は相当に質が落ちている面はないだろうか。マスコミ、新聞などの国際評価が驚く程低いことに大いに注意しておきたい。個人の犯罪や問題など騒ぎすぎで、質を落としているような面はないだろうか。民間テレビ局などでは、科学、工科系の番組は極端に弱く、如何にも文系、芸能関係、スポーツ関係者のもののように偏っているように見える。

この声明は題名からして、世相に対する印象のような形になってしまった。

以 上

ミャンマーに8000億円支援=安倍首相、スー・チー氏に表明http://www.jiji.com/jc/article?k=2016110200613&g=pol

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