2016年6月30日木曜日

57才男「仲間を裏切れない」とネトゲプレイし続け緊急入院 2016.06.29 16:00

57才男「仲間を裏切れない」とネトゲプレイし続け緊急入院
2016.06.29 16:00



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「周りよりも自分」「主張よりも調整」「少年らしさは美徳」──。今の時代の50代の男性たちは、そんな思考を持っているという。精神科医の香山リカさんは、子供っぽくて、曖昧を好む50代男性を“50オトコ”と呼び、著書『50オトコはなぜ劣化したのか』(小学館)も話題になった。

 そこで、女性たちには理解しがたい、50オトコの“あるある奇行”を集めてみた。はて、“50オトコ”に女性たちはどう対処すればいいのか?

【ネトゲで廃人】
 55才で会社の早期退職に応募して毎日家でゴロゴロしていた夫(57才)。マンションを貸していたため、毎月家賃収入が入ってくる。それで働かなくても、夫婦ふたりが食べていくくらいはなんとかなっていました。

 ところが、子供が独立して、そろそろ夫婦の生活を楽しもうと思った矢先、夫はネットゲームにハマり、ほとんど部屋から出てこなくなったのです。そのうち食事もとらず、顔を見るのはトイレの時だけ。

「いい加減にして!」て怒ったら、「おれ1人が抜けただけで、ゲームができなくなるんだぞ。仲間を裏切るなんて最低だ!」と逆ギレしてわめきまくる始末。さすがに愛想が尽きて、私は家を出ました。

 すると4日後に病院から私のケータイに電話が。「ご主人が栄養失調で緊急入院されました」だって。まじめだけが取り柄だったエンジニアだったのに。凝り性の夫は何事も限度を知らなさすぎる…。
(主婦・52才)

【さすがパパ】
 夫(57才)の言うことに少しでも「そうかな」と否定的なニュアンスで答えると、たちまち不機嫌になります。暴力をふるったり怒鳴ったりすることはありませんが、だまりこくって、家の空気はどよ~ん。その代わり「さすがパパ!」とよいしょすると、大喜び。どこまで単純なんだと思うけれど。

 そんな夫が、最近は会社の同僚とももクロのファンクラブに入ったらしく、ももクログッズを買いまくっている。小学生の娘は「ばっかみたい~」と。あ、それをパパの前で言ったら、空気がまた重くなるので禁止だよって言い聞かせてます。
(会社員・47才)

※女性セブン2016年7月7日号http://www.news-postseven.com/archives/20160629_424040.html

再生核研究所声明288(2016.02.19) 戦友達 ― 共生、共感、共鳴

(ある構想が湧いたのであるが、大きな課題 纏めて表現は難しいが その時の直感を表現してみたい)
人間は作られたものであり、本質は動物も、生物も変わりはない。生物共通の課題は生、死で、それはゼロ除算におけるゼロと無限のように紙一重で微妙な関係にある。人間に与えられた意識の中における、滅することに対する存念、畏れは、生命作用の裏腹なる存在である。
恥ずかしい人類の世界史とは、ほとんど生命の本能に基づく 生存と基本的な欲求のために、不条理で、愚かな戦いを繰り返してきた事実にある。地球規模で見れば、人類は地球の生態系を破壊する癌細胞のように見えるだろう。人類は野生動物にも劣る、猿知恵以下の悪しき知能で、分を弁えない失敗作となっている可能性も高い。恥ずかしい。
戦争や戦いは、暗い人類の先史時代の物語として、恥ずかしい世界史上のこととして終わらしめ、明るい新しい時代を切り拓きたい。神をも震撼させるような美しい文化、世界史を描きたいものである。
この世に生を享けて、盲目的に戦場に駆り立てられ、生命を肯定することもできずに、亡くなって行った人々、それは敵、味方なく、我々の戦友たちであり、生命と定めを共有する我々の仲間たちである。人間は動物、生物と同様であり、生物の本能を満たしたい、そのために空腹を満たし、快適な環境で暮らし、家族や仲間たちと共感、共鳴したい。しかしながら、悪しき時代にはそれらの基本も満たされず、人生を閉じて行った人々は世に多い。それらの仲間たちに、彼らの無念さを 戦友たちへの思いのように、人類の世界に対する無念さとともに頭を垂れてしまう。今尚、そのような意味で、悪しき時代が続いていると言える。
しかしながら、そもそも人生とは、平和で文化が進んでも、生活がいくら改善されても、本質的に 戦場そのものであり、世代交代の様は 何ら戦場と変わりないことを示していることが実感される。
そこで、ある年代に至れば、仲間たちが次々とこの世から去っていき、上手く人生、世界を肯定して、安からに魂を天に返すことができただろうか という、情感が湧いてくる。
いろいろ共通の出会いや関係を持った人々、同じ時代を生きた人々に 共通の運命を感じ、同じ時代を生きたものとして、共感、共鳴し、人生、世界を肯定し、大いなるもののうちに上手く回帰されたか との想いが湧いてくる。
そのとき、もはや、過去の競争、諍いなど余りにも小さく、愚かしいことのように感じられる。
そこで、人々よ、そこから、人間として誇れる、新しい 世界史を、世界を切り拓いて行こうではないか。その原理は気づいてみれば ゼロ除算のように当たり前であり、公正の原理に基づく、生命の共感、共鳴、共生の原理で 十分である。思えば、2000年以上も前に 既に諭されていた聖人たちの教えそのものではないだろうか。まこと、聖人たちの教えに回帰したい。

以 上

再生核研究所声明182(2014.11.26) 世界、縄張り、単細胞、宇宙

(初秋、猿の家族が2日間 20頭くらい訪れ まだ渋い 3本の甘柿を食べ尽くして 近くの山に姿を消した。2014.11.9 仕事の区切りがついて、研究室から山を眺めていて 今頃どこで何をしているだろうかと気遣って 人生を想って構想が湧いたが、焦点が絞れなかった。)

猿の1団には 生息領域が 相当にしっかり有ると言える。人間でも、江戸時代以前では概ね、終日歩いて行ける距離 概ね半径40キロメートル以内くらいに 普通の人の生活圏は限られていたと言えよう。生涯でもそれを越えた世界に立ち入るのは、希なことであったのではないだろうか。婚姻なども その範囲に多くは限られていたと言える。 多くの動物には 縄張りなどの生活圏が存在していると言える。
そこで、一人の人間Aの存在範囲に思いを巡らしたい。A の存在し、想像し、活動する世界全体を Aの世界Bとして、それは、B の世界、宇宙と考えよう。勿論、B はいわゆる外なる大きな 世界と複雑に関係しているが、A が認知できる一切の世界を Bと考えよう。

何が言いたいのか。それは、大きな世界に於ける 個人の存在の小ささである。特に、個人が大きな世界、人間社会に与える影響は 普通は極めて小さいと言うことである。基本的に次のように捉えられる:

再生核研究所声明 35: 社会と個人の在りよう ― 細胞の役割
再生核研究所声明85: 食欲から人間を考える ― 飽きること

言わば、個人の物理的な制限である。
歌の世界で例えてみよう。 日本には素晴らしい歌があって、歌謡界のレヴェルは高く、愛好者も実に多く、歌については 日本は世界最高の文化ではないだろうか。俳句や、生花、盆栽、折り紙などについても言えるのではないだろうか。 
そこで、Aの好みであるが、美空ひばり様の多くの歌などは、多くの日本人を感動させるだろうが、好みには個性が有って、人それぞれ、また、好みはA 自身でも時や、状況、年代でも変化して、 共感,共鳴出来る人、真の理解者は ほとんど探せない状況ではないだろうか。 これは同じく、共感、共鳴している間でも微妙に感じるところが 違うのではないだろうか。言語、文化、習慣の違う外国人などには、美空ひばり様の歌の受け止め方は相当に違っている。 そう、この声明の趣旨は見えてきた:
世界B は Aにしか分からず、本質的に人間は孤独であり、己の世界をしっかりと捉える(治める)ことの重要性 の確認である。
しかしながら、人間は本能的に、共感、共鳴し、群がりたい存在であるから、自分の世界と相手の世界の調和、相性、関係をよく捉えて、 交流を図るべきである。 その時の鍵は 社会は多様であり、個性は様々であるから、相手の選択が大事だという視点である。
声明の題名にある縄張りとは、2つの世界が交流するときの お互いの干渉に於ける、相手の世界に与える影響の微妙な評価に対する気遣いである。― これは要するに、自分の価値観や世界観を押し付けないという配慮である。
そこで、類は友をなす諺のように、いろいろ気の合う仲間による いろいろな絆を大事に育てて行くのが、人生であるとも言える。
以 上


再生核研究所声明35(2010/04/23): 社会と個人の在りよう―細胞の役割

声明 33:民主主義と衆愚政治 の中で、民主主義

( : 諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制 ― 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 )

の在りよう、 特に一般選挙で代表者を選出する方法、及び多数決で決定する方法 について考察し、民主主義の問題点を考察した。 そこで、(1)まず、代表者の選出過程、重要事項の決定過程に 多くの労力を有し、時間と手間がかかること。(2)投票者が 代表者の行使する行動について、良く理解できず、適切な代表者の選出ができず、いわば考えている代表者とあべこべの代表者を選出する可能性が高いこと。(3) また、代表者の本来の要務以外の能力で、たとえば感じがいいから等で、代表者を選出しがちであること。(4)また、候補者に名演説などで いわば騙されてしまうこと。(5)何でも多数をそろえて、政治その他を推し進めようとなりがちなこと。(6)会議で、多数決で議事を決定する際、投票者が議事に対する理解と公正な判断能力を有しないために言わば数の結果で悪い決定がなされる。(7)さらに、難しい問題を多数の人が理解できるか、判断できるかという観点。 難しい問題を素人の多くの人に判断を求めるのは 逆に無責任で、危険であるということ。

として、次の時代には、より進んだ政治体制が考えられなければならないが、当分は適切に適用できる方法が現実的に見当たらないから、現状の体制を維持するとして、民主主義の弊害を少なくするために、運用の在りようについて:

1) 代表者の選挙については、 選挙の広報をきちんと行うのは当然であるが、 投票しない権利を明確に認め、いわゆる投票率を上げるような行動は慎むこと。 これは投票に興味と関心を有する人に参加して頂き、興味や関心を持たない人に無理に投票して頂くのは 無責任につながりかねないからである。特に政治や社会に関心のない人への勧誘による投票は慎むべきである。投票の案内は当然であるが、投票しましょうという勧誘は良くないと考える。これは、いわば真面目な投票人による選挙を意図していて、いわば無責任な人の投票を排除しようとする意図があることを肯定するものである。
2) 代表者の身分が民主主義ゆえに不安定では 責任ある政治を行うことができないから、在任中は特に厚く身分を保証して 本務に専念できるように配慮すること。
3) 代表者は 広い視点に立って、自分の立場より、公の立場を優先させて考え、評価については 近視眼的ではなくて、歴史的な評価を大事にすること。
4) 代表者の投票者(有権者)は 日ごろ研鑽を行い、投票に責任が負えるように努力すること。
5) 特に 代表者の選出過程や代表者の立場が、マスコミの影響を受け易いのが、民主主義の特徴であるから、マスコミ関係者は 高い見識を持つように 特に努力して 報道の5原則にいつも留意すること。

とした。そして、民主主義は何時でも衆愚政治 に陥り易いので、 衆愚政治に落ち入らないように努力して  より良い政治の下で良い社会を築いて行こうと呼びかけている。
上記考察のうちで、政党政治の形をとるのが 民主主義の必然的な形態と考えられるが、政党政治は本来もつべき国家や社会についての大きな視点から、 往々にして、政党間の競争、あるいは無用の権力闘争に陥り易い弊害があることも指摘されなければならない。 本来考えるべき国家や社会の問題をないがしろにして、権力闘争に明け暮れるさまは 戦国時代と何ら本質的に変わらない形相と云える。 いわゆる派閥や仲間を作り、公の立場よりも、そのような派の利害を優先した行動がとられ、民主主義が空洞化してしまうのはよく見られる現象である。 また、公人を選出するのに 自己の利益や自己の所属する集団の利益の観点から、代表者を選出しようとするのは、本質的な間違いであるのに 多くの人はそれすら克服できない恥ずかしい状況にあると言える (衆愚政治とは、有権者の大半が知的訓練を受けずに参政権を得ている状況で、その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな合意が得られたりする状況をさす。 また有権者がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。)  さらに、各個人の属する社会の中での 自己の立ち場に対する配慮 (保身) から、あるいは無気力や自分の専門や仕事に 埋没した多くの人が、自己の意見を表明せず、民主的な多数の意思が、実際には多数の意思を反映せず、一部の強い意見がまかり通ることが結構多いと危惧される (アビリーンのパラドックス)。  バブル崩壊後の新しい特徴として、社会の厳しさが、生活や生きていくことの困難性を生じせしめ、社会や国家について深く想いをめぐらす余裕を失ない、 国家や社会についての理解や論調が 軽薄になっているとみられる。

そこで、国家と個人は、社会と個人は 如何にあるべきかについて、 2010年4月18日 朝、
人体と細胞のように在るべきである
という考えを抱いた。 国家や社会は人体のように全体として、統一のとれた主体的な存在であるが、個人は細胞のようにそれぞれの役割をもって、国家や社会に調和する存在であるべきであるという考え方である。 個々の意思は中枢に反映され、中枢の指示は個々に反映される。 それは細胞のなす、おのおのの器官を通して 全体に調和する形でなされなければならない。 この理念を社会に活かすには、人はそれぞれに希望する形で社会に参加して、1)項のように 強制的でなく、 自発的、自由な意思での参加方式をとるのがよいと考える。
これは社会が複雑になり、人びとの関心と興味が多様になり、一律全体が との形が 逆に大きな弊害をもたらす事実をさけて、 いろいろな役割によって全体に参加することにしようと提案しているものである。 中枢の個々への指示は明瞭であるが、個々の中枢への意思の表示については尚検討の余地があるが、現状の在りようで基本的にはよいと考える。 この声明の趣旨は 人体と細胞のように国家と個人は、社会と個人は有機体の存在として、 調和ある存在 になろう ということにある。実際、一個の人間の存在は 細胞が生体の中で有機的な存在であるように、本来社会の中で有機的な存在ではないだろうか。生体が病んでしまったら、個々の細胞の存在はどのようになるかに 想いを致したい。 
実際、人類の生存は、如何なるものをも超えた存在である(最も大事なこと:声明13)。
以 上

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