2016年6月20日月曜日

キムタクの人気急落が無視できないレベル! イメージアップ作戦も撃沈、SMAP解散騒動再燃か!? (1/2ページ) 2016.06.19 09:00 トカナ

キムタクの人気急落が無視できないレベル! イメージアップ作戦も撃沈、SMAP解散騒動再燃か!? (1/2ページ)
2016.06.19 09:00 トカナ
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熊本地震

SMAP

木村拓哉

 SMAPの解散騒動を受け、ジャニーズ事務所と木村拓哉に対する世間からの反発は強まるばかりだ。最近はジャニーズ上層部も予想外の逆風に焦りを感じており、木村の人気回復に向けて四苦八苦している。このままSMAP解散となると、木村は分裂を生んだ張本人としてファンからの糾弾は免れないため、解散阻止に向けた動きも活発化しているようだ。

 今年1月、ジャニーズに“謀反”を起こした元マネージャーの飯島三智氏に追随した形の中居正広、稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾は、「SMAP×SMAP」(フジテレビ系)で木村に促される形で謝罪するハメになった。ワイドショー関係者は次のように振り返る。

「独立話を潰したうえに、公の場で謝罪させたことで、メリー喜多川副社長は上機嫌だった。またその娘の藤島ジュリー副社長も、天敵だった飯島氏を追い出すことに成功し、同じく上機嫌だった」

 また飯島氏を見捨て、メリー・ジュリー親娘の側についた木村も「ジャニーズの幹部コース間違いなし」(前出関係者)とまでいわれるようになったが、ここでジャニーズにとって大きな誤算が生じた。

「SMAPファンのみならずジャニーズファンの中で、メリーさん、ジュリーさん、そしてキムタクへの反発が一気に強まってしまった。非難の声はあまりにも大きく、無視できないところまできている。さすがにジャニーズも“世論”を気にせざるをえなくなっている」(前出関係者)

 事態を打開するため、木村のイメージアップ作戦の一環として行われたのが、熊本地震の被災地での炊き出しだ。木村は、石原軍団主催の炊き出しにTOKIO・長瀬智也、V6・岡田准一を引き連れて参加したが、これがさらに裏目に出てしまう。
「地震発生直後に、中居は独断で被災地入りし、その後も何度か訪れている。これに対抗するため、ジャニーズが石原軍団に頼んで木村や各グループのリーダー格を連れて行ったのです。しかし、ジャニーズの意図は完全に見透かされてしまい、イメージアップどころか焦りを表面化させただけに終わった」(芸能プロ関係者)

 木村拓哉、そしてメリー・ジュリー親娘の失墜は、SMAPの行方にも大きな影響を及ぼしそうだ。http://dailynewsonline.jp/article/1147940/


再生核研究所声明304(2016.06.16) いじらしい人間

人間とは何ものかによって 作られた存在 であり、気づいてみたら生まれていた、存在していた。夢中で生きていたら、それらはみな言わば作られた存在として、基本的なありようは定められていたといえる。気づく以前は本能原理の基で、多くは環境に左右され、環境に合ったように多くの動物のように 生きているといえる。
作ったものに意思があるとすれば、それはちょうど作ったものの意思に従って生きているだけであるともいえる。― この観点では、人間の自由意思の存在さえ疑わしくなる。自由意志の存在しないところでは是非は 問えず、全ては神域に属することになる。
人間は生物であり、動物であり、生物や動物の本能、生きること、種の繁栄を求め、そして、人間存在の原理、感動することを求め、真智への愛などが人間の基本である。
男女の愛、家族愛、真理の追究、好奇心、新規なものに興味を抱く、愛国心や名誉心、褒められたいなどの基本的な欲求も 作ったものの意図 を想像すれば、極めて当然で、人間の本性が顕にみえてくるだろう。そのような意味では、人間すらロボットや多くの動物、子供たちのようにみえてくる。
そのような意味では、善人も悪人も 分けた意味では 本質的には存在せず、みな本質的には同じような存在であるといえよう。たまたま悪い条件、環境で育ち、歪められた精神を有して、誰でも願う基本的な欲求が満たされず、自己中心的に行動してしまう状況に追い込まれてしまっているといえる。
多くの独裁者や権力者が 自分の生命、家族を守るためなど、極めて基本的なものを守るために、異常に権力を志向して おかしい状況に追い込まれてしまっている様を本質的にみることができるだろう。裕福なものや高官達も本質的には同じようではないだろうか。基本的なこと、基本的なところを守るために過剰に発想(行動)してしまい、おかしな状況に追い込まれている様を多くみることが出来るだろう。― 庶民から見れば、おかしな異常感覚にみえる状況は世に多いのではないだろうか。
そのような視点からみえてくる人間とは、いじらしい人間である。作ったものの定められた原理に忠実に従い、行き過ぎた存在、そのような意味で、いじらしい人間として、共感、共鳴、理解できれば、俗にいう悪い人も許せる大きな心を持てるのではないだろうか。広い視野と慈しみのような心を 同じ運命を共有している者として持てるのではないだろうか。
世の悪の素とは、身勝手になってしまい、自己中心に考えてしまうことではないだろうか。
それは余裕が無い状況ともいえる。そのような意味では、 良い社会を作る原理は 次に述べられている 公正の原則にあるといえる:

再生核研究所声明1(2007.1.27): 良い社会を作るには。

作られた人間、いじらしい人間といえば、生命の基本定理、生きて存在しなければ始まらない、いつまでも存在していたい、生きていたい という原理に人間は縛られていて、この原理から、解放されず、いつまでも縛られている、哀しい人間のことである。次も参照:

再生核研究所声明301(2016.05.23) 人間の愚かさ―人間の賢さ
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か

哀しくとも、浅ましい存在ではなくて、賢明で爽やかな存在になりたい。
以 上


再生核研究所声明301 (2016.05.23) 人間の愚かさ―人間の賢さ

再生核研究所では、もちろん、人間、社会、人生についていろいろな視点から意見表明をしてきている:
再生核研究所声明172(2014.8.5) 人間の愚かさについて
再生核研究所声明 180(2014.11.24) 人類の愚かさ ― 7つの視点
再生核研究所声明 273 (2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
作られた人間が、相当に運命づけられているのは歴然である。しかしながら、作られた存在で、定められていても それらに従う、 自分の様を反省して、やがて自分たちの存在、営みそのそのものが 愚かしいことと気づくようになるだろう。人間の基本的な有り様とは、本能原理によって、生きること、家族をもち、育児を行うこと、などが基本であるが、それらを可能にして、保証するために、健康維持の観点から、食、住、環境の整備、恋の問題や、愛の問題、社会内存在を安定させるために仕事や地位を確保、生活を軌道にのせるなど基本的なことに追われる生活を余儀なくされる。自由の存在であると言える状況は 中々難しく、人生で束縛された生活が永く続いているのではないだろうか。現在でも、自由な存在よりも、生きることに精一杯の状況が多いと言える。
円熟期に入って、退職などすれば、相当に生活環境が変わり、関心の対象も大きな変化を受ける。言わば夢中で環境の中で生きてきた過去が、ただ夢中な存在で、何をしていたのかと反省させられる。しかしながら、一途に真面目に生きてきた者は自らをいじらしい存在として、評価もでき、回想できる余裕が出てくるのではないだろうか。
恋も、仕事も、志も 思えば、愚かしいこと、人間の営みと表現しようとしたが、書き始めるや、そのような発想は良くなく、表現を変える必要性を感じてきた。作られた人間が、造物主の意思に逆らえず、造物主の意思に従って生きざるを得ない自らの定めを自覚して、人間は人生の大部分を夢中で生きるだろう。しかし、やがて、そのような存在に飽き飽きして、造物主の意思を超えて、自らの存在、本能をも否定できるようになれば、それは一種の解脱、超越、悟りのレヴェルに至る完成の域に達していると言えるのではないだろうか。人生を諒として、超越して行けるからである。そのときは、本能や人間存在の本質さえ、返上できる心境だからである。神と自然を超えた存在の域に達していると言える。
そもそも生物とは遺伝子の乗り物であるという現実を知って、生物は真剣にその使命を果たすように運命づけられている切ない存在であるが、それを知って、定めにしたがっている存在が人間の賢さであると言える。
この声明は始めに意図したものとは全然違う趣旨のものに ひとりでになってしまった。
以 上

再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
つくられた人間、考えてみれば、人間は気づいたら生まれていた。いつもお腹が空くから、空腹を満たしたい、できれば美味しく気持良いものを頂きたい。寒さも暑すぎるのも嫌で 快適な環境で過ごしたい。これらの気持ちは 多くの動物と同じように 誰でも懐く基本的な要求ではないだろうか。人生の意義は 感動することにある と人生の基本定理で述べた。 しかし、何故、どうして、感動するかと問えば、実はそれらは既に 定められていると言える。空腹を満たしたい、いい感動をしたい、年頃になると恋に目覚めて、注目されたり、思われたりしたい という情念がひとりでに 湧いてくる。これらのほとんどが、定められていて、われわれは多くはそのような情念に動かされて生きていると言える。すなわち、われわれの道は、生きる道は、実は定まっていて、その道を歩まされていると言える。人は何故生きているのかと問えば、多くの人は、 死にたくないから、上記のように生物の本能を満たしたいから、と答えるだろう。もし人間が、生きたくない、死にたいと 本当にそのように感じる心がつくられていれば、人間は生きず、当然、生存できず、人間は滅んでしまうだろう。だから、人間をつくったものは、人間を生かすような仕組みをわれわれに備えているのは当然である。
われわれがつくられた存在であることは 歴然である。誰ひとりとして、自分をつくったものはいなく、基本的なものは与えられ、定められている。われわれが自分で、自分の自由意思で決めた、判断したと言っても、それは良い気持ちや、感動するためなど、天賦のものに従うように働いていると言える。
人間が自由といっても、そのような意味で、われわれはつくられたものの意思に従っているだけの存在であるとも言える。そのような意味で、われわれば だだ生かされているだけの存在だとも言える。少し、哀しくもなるが、良く生きるとは、帰するところ、われわれをつくったものの意思に忠実に従って生きる、ということになる。そこで、われわれが如何につくられているかを よく知ること、そして、それに良く従って生きるのが 良いということになる。
例えば、空腹を満たしたいは、相当に基本的な要求であるから、見方を変えれば、われわれは胃の要求に縛られ、終生胃の要求を満たすように働かされているとも言える。
恋の要求、愛されたい、仲間を増やしたい、友人が欲しい、家族が欲しい、真理を追求したい、などなどみな人間の存在の仕組みに織り込まれていて、我々はそれらに支配されて働かせられていると言える。
人間が、自分が どのようにつくられているかを問うことは、なんじ自らを知れの核心ではないだろうか。人生如何に行くべきかについて、私はどのようにつくられているかと問うのは 良い方法ではないだろうか。この観点では 相当に客観的に科学的な解明を進めることができるのではないだろうか。地についた考え方であると考える。
ここには、人間如何に生きるべきかの原理ばかりではなく、人間が自分をつくったものから完全に解放され、完全な自由を得る原理さえ確かにある。

以 上

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