2016年6月23日木曜日

44年刑務所で過ごした男性の目に現代社会はどう写るのか 2016.06.05 20:00 見る

44年刑務所で過ごした男性の目に現代社会はどう写るのか
2016.06.05 20:00
見る



160601outofprison3.jpg


衛星テレビ局アルジャジーラの取材に答えるこちらの男性、Otis Johnsonさん。彼は25歳で刑務所に入りました。罪状は警察官に対する殺人未遂。そして刑期を全うして出てきた彼は今、69歳となりました。





実に44年間、外の世界から隔離されて生きてきた彼がよく行く場所はタイムズ・スクエア。そこに行き交う人々の「クレイジーな様子」に驚いてばかりだと言います。


160601outofprison4.jpg


彼が刑務所に入る70年代には既にタイムズスクエアはビルボードで溢れかえっていました。しかし彼が驚くのは建物の窓に写る広告の映像。「窓にビデオなんて見たことなかったよ。窓に写るのは、横切る人々の姿だけだった。」と語ります。そこが新鮮なのか、と彼の驚きに私たちも驚きますね。


160601outofprison2.jpg


テクノロジーの影響はビルや広告だけじゃありません。Johnsonさんは道行く人々の姿にも驚いているようです。刑務所から44年ぶりに外の世界に出た時に、たくさんの人が歩きながら「ひとり言を言っている」のに驚いたとのこと。そう、ひとり言とはマイクのついたイヤホンで通話をしている人々のことです。


160601outofprison5.jpg


日本ではそれほどメジャーじゃないですが、アメリカでは電話を耳に当てて話している人よりもイヤホンをして通話している人の方が多くなっています。耳からワイヤーをぶら下げて会話をしている人たちが「皆CIAに見えた」と言うJohnsonさん。70年代じゃなくても、仮に90年代からタイムスリップした人も驚く光景ですよね。


160601outofprison6.jpg


昔はコイン式だったニューヨークの地下鉄も今では磁気テープのついたカードになっています。スイスイと人々が通過するのを横に何度も何度もカードをスワイプするJohnsonさん。

掃除、洗濯、料理。空気を一番汚すのなーんだ? 掃除、洗濯、料理。空気を一番汚すのなーんだ? [ GIZMODO ]

160601outofprison7.jpg


通話料金1ドルの公衆電話を見て「昔は25セントだったんだけどな...といっても今じゃ誰もこいつを使わないみたいだけどね」と笑います。


160601outofprison8.jpg


外に出られたのは本当に素晴らしい、と言うJohnsonさん。家族とは1998年を境に連絡が取れなくなったそう。家族のことはすごく愛していたので会いたいと語ります。

他にも飲み物、食べ物がたくさん種類があって決められない。電車よりもバスの方が混んでないし外の景色が見られるから好きだ、と彼の語る素朴な感想は、現代社会にすっかり慣れている私たちにも気づきを与えてくれます。


160601outofprison12.jpg


夜6時頃、何もすることがなくなったらJohnsonさんは公園に行き瞑想をするそうです。「怒りにとらわれていると自分の成長が止まってしまう」「すべてのことは理由があって存在する。なので物事を自分から離してしまわないといけない。私は過去ではなくて未来に向かって進まないといけないんだから」と語ります。
http://www.gizmodo.jp/2016/06/life_after_44_years_in_prison.html


再生核研究所声明302(2016.05.24)燕の神秘性 ― 動植物の営みの神秘性
野生生物、小鳥や草花の豊かな営みを見ていて それらの営みが神秘的であると感銘して、我が家の燕の生態を観測して、その神秘性を書きたい心情が湧いて来た。そこで、そのような題材では既に書いた事があるので、先ず確認を行いたい:

再生核研究所声明240(2015.7.22)燕の神秘性 ― 燕の巣立ちを祝して
燕が孵る2日前に 蛇に狙われ、危うい直前 いたたましい叫びで、異常に気づき、巣を見たところ、蛇が巣直前まで迫り 卵が飲み込まれるところ、竿で撃退、間一髪で救われた。その後順調に経過し、元気に巣立つことができた。蛇の再来など警戒して、燕の生態、成長過程などを観測してきた。そこから感じ、学んだことに触れたい。
まず、印象深い情景を回想したい。
卵から孵ったときは 分からず、気づいたら、面白く ようやく口と頭だけが巣に並んで、口を開けるのが ただ仕事のように見え、親は餌を運ぶのに喜々としていて、勇壮な活動ぶりは美しく、素晴らしかった。(これは、かつて母に最も充実していた時代を聞いたところ、2人の息子に 毎月 郵便局から仕送りをしていた頃が 最も充実していたと述べていたことを想起させる。 同じような質問をよく散歩で会う90歳の方にしたところ、 地域で婦人会会長をしていた頃がと述べられたことに通じている。)
だんだんひとりでに成長して、頭と口、それに白いお腹が大きく目立つようになり、羽ばたいたりするようになり、巣立つ準備を始めていた。夜、親鳥と慎ましく並んで巣にいるのは 誠に微笑ましく、限りなく愛しく,至福の時のように感じられた。― 親は意外に警戒していたのかも知れない。
卵が孵るのは 本当に神秘的で、いわば、物に命が吹き込まれ、― 尤も卵の中でも生命活動はどんどん進んでいる訳であるが、孵ると 唯食べるだけであるが、本能的にいろいろ成長しているのが良くわかる。 誰が教えた訳でもないのに 糞を お尻を外に向けて巣外にするのは 大いに感心させられる。誰に教えられた訳でもないのに 巣立つ時には ひとりでに飛べて、餌さえ なんとかは取れる状態になる。飛ぶ行為などは極めて複雑、分析不可能、餌を取る行為などもそうである。本能的に進むは 本当に神秘的な世界であると言える。さらに凄いことは、 南国まで飛んでいき、恋人とともに帰ってきて同様な生態を延々と続けてきた事実である。何千年どころか、何千万年と繰り返してきた生態ではないだろうか。動物でも、植物でも生物は、生命は神秘に満ちていて,殆ど何も分からないと言える。
散歩の折り、80代や90代の方々といろいろ話し、 色とりどりの野の花をみる。奇妙にも、様々な植物、動物、人間の存在、生態が 殆ど変わらず、同じような存在だと感じている。燕や植物の生態のように、人間も 生まれる前も、 死後も そして、現世、生きている実際も 殆ど分からず、全てが大きな流れの上を流されているような存在に見える。自分さえ自分ではなく,唯生かされている存在であるように感じられる。
我々を生かし、存在させてきた何億年と続いてきた環境を大事にして、生態系を大事にして、その大きなものとの調和を志向しようというのが、燕の生態を観測していて学んだ大事なことである。燕が訪れ、巣立つのは共感,共鳴で、家族が増えたように明るくさせ 来年の夢を与えてくれる。元気な巣立ちを祝し、元気な帰宅を願っている。
なお、大きな生命ではなくて、個々の生命の存在が極めて偶然性によっている事実を深く受け止めて置きたい。                                                                           以上 
小さな小鳥が、複雑な飛翔を行い、恋をして生存を続ける能力がどうして備わっているのかと思うと、他の動植物と同様であるが、生物の営みはただ神秘的であると感銘させられる。生命の営みは共感、共鳴を呼び覚ます。切なくもいじらしい。人間よりも完全な存在であるように感じられる。
痩せた土地にいろいろな植物がいろいろ神秘的な色彩の花を咲かせているのにも驚嘆させられる。 燕は、今、卵を暖めているところ。大都市建設、原発事故、原爆投下などは無数の生物たちの慎ましい生活を破壊してきたことを反省したい。 まるで、人類は地球上の生態系を破壊する癌細胞のような存在には見えないだろうか。― 上記に現れた蛇にも神秘性と愛おしさを感じている。年に1度の機会を狙っているが、その能力も誠に神秘的である。


以 上

再生核研究所声明305(2016.06.17) 出産の報に接して

友人が出産の喜びを伝えてきたが、これは友人に関わらず、一般に出産の問題から、人生の問題を考えて置きたい。
多くの人は自分の子の出産に際して、明かりが灯されたような希望、夢が湧いてくるのではないだろうか。人生の意義は感動することにあると 言い切ったことに対して、ある女性が 出産した時が人生で最も感動した瞬間だったと回想したという。よく理解できる。 生命とは何だろうか、人生とは何だろうか、生きるということが どのようなことかに関わっているからである。
なぜ、生命は、人生は始まったのか。両親の思いは代々、世代 世代くり返されてきたが、
それらは 同じようではないだろうか。多くは子供たちの将来の問題に関わらず、自然に極めて基本的な生命の営みの結果、恋などを通して出産を迎えていると言える。もの心付けば 異性に興味を抱き、片割れである人間は

(No.81, May 2012(pdf 432kb) - International Society for Mathematical ...www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
Traduzir esta página19/03/2012  ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。骨格は .... の上に立って判断されるべきです (再生核研究所声明 41: 世界史、大義、評価、神、最後の. 審判)。実際、何十年も経って、...


異性に惹かれて、自然に出産に至る。大事なことは これらは、声明303などに述べられているように、そのように、生物、動物、人間は作られているという事実である。人生には意義が有るだろうか、意味が有るだろうかの問題ではなく、生物の基本的な営みとして、そのように作られているということである。
人生、苦しい時は、どうして苦しい人生を苦労して、生きなければならないのかと、生まれてきたことを恨みたくなったり、生まれて来なければ良かったと思うときは 少なからず有るのではないだろうか。苦労して、子供のために心配し、尽くしている両親を恨みたくなることさえあるのではないだろうか。
真実は、両親さえ、そのような心情には答えられず、生命の切ない定めで、現在に至ったと哀しい想いをするだけでは ないだろうか。
出産について言いたいことは、それは生命の基本的な営みで、強い必然性があって、我々の思考を超えたところにあるということである。それは、人生や、世界の存在の問題は 我々の思考を超えたところに存在するということである。
出産という慶事に際して、人口問題などの難題については 改めて、考察したい。
ただ、この世に生をうけたからには、人生を肯定できるような人生をおくって欲しいと願わずにはおれない。 人生の肯定である。

次も参照:

再生核研究所声明304(2016.06.16): いじらしい人間
再生核研究所声明301(2016.05.23): 人間の愚かさ―人間の賢さ
再生核研究所声明273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
以 上


再生核研究所声明 12 (2007/09/17): 人生、世界の存在していることの意味について 

天才教育や世界の在りようについて考えていましたら、結局は人生とは何か、存在している意味、目的が大事であると考えました。なぜならば この世の全ての問題は 結局はひとりひとりの心の問題に帰するからです。そこで、次の文章を思い出したので引用して、全ての基礎にしたいと考えます:

人生における基本定理

・・・ 1995年1月13日朝、目覚めの後、ひとりでに数学のアイディアがうかんだときのように、
「人生の意義は、 ・・・・・・ にある」
という言葉がわいてきた。
私はもの心ついてから: 自分が生きていること、そして死ななければならないことを知って以来、人生そのものの意味について、最も中心的な問題として考えてきた。その核心は、人間は生まれ、生き、死んでいくものであるが、それらがどのような意味があるのか、そして、そのような人生においてどれ程の価値があるのか、という半ば悲観的な見方:
実際、人生は何の意味もないのに、人は死にたくないから、そして人並みにあるいは人並み以上になりたいから、あるいは人に尊敬されたいから等の漠然とした気持ちで生きているのではないか、と。また、そのような人生、人間の目標はどのようなものか、という基本的な問題への疑問であった。
「人間としての存在の究極の意味、価値は」
「人類の目指すべき基本的な方向とは」
これらの基本的な問いについて、私が、全体的に、直観として得た解は、
「人生の意義は、感動すること にある」
というものである。
「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」というような、人生における真剣な問いについて、これは十分な解答になっていると思われる。 
人類の価値: 真、善、美、聖などの基礎を、我々の素朴な「感動させるもの」におき、
また同時に生と死を、感動することと感動の止むことに置き換えれば、我々は死を安らかに受容できると思われる。
 人類の永遠の課題    神、自由、不死
の解決のための確かな道筋を与えるばかりではなく、人間存在における三位一体の理
 存在、知、愛
を 渾然一体のもの「感動」として捉らえたことになろう。
また、藤村 操は、「・・・ 人生は不可解である、 ・・・ 」
という遺言を残して自殺したが、彼を何かに真に感動させ、
「人生の意義は、感動することにある」として、彼を救うことができたかもしれない。何が「人間を感動させるのか」を問うて行けば、「人生如何に行くべきか」の基本的な方向を捉えることができるし、それは多くの人間が素朴に、あるいはぼんやりと抱いていたものと大きな相異はなく、この「人生における基本定理」は 多くの人間によって受け入れられるばかりではなく、新鮮な感動をもって人生の基本的な指針を与えてくれると思われる。

謝辞 (略)
追記 基本定理を自覚した後の心情は、

人生はそれ以上のものではないという寂しさ、さまざまな人生の肯定、
何か絶対的で永遠的なものを失ったような寂しさ、
感動できる人生を送ることは容易ではなく、逆に人生は苦悩に満ちている、
人生のことは、考えれば考えるほど、わけが分からなくなる、

等、であるが、それにもかかわらず、人生の方向と限界を知り、夢中で人生を送っているよりは はるかに賢明になったように感じている。

藤村操
巌頭之感
悠々たる哉天壤、
遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、
胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、
大いなる悲觀は大いなる樂觀に一致するを。

                                   以 上

再生核研究所声明 125 (2013.8.24): お金の問題 ― 貨幣について ― 本質論

(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

まず、お金の述語 を確認しておこう:
貨幣とは、経済学上は(欧米のMoneyやMonnaieなどの用語に対応する訳語として用いられ)、「価値の尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」の機能を持ったモノのことである。
広義には、本位貨幣の他にも、法律により強制通用力を認められている信用貨幣も含めて指している[1]。つまり 「貨幣」という語で、鋳貨・紙幣に加えて(当座預金などの)信用貨幣も含めて指す場合が多い[2]。
貨幣(として用いられるモノ)が額面通りの価値を持つためには、その貨幣を発行する政府に対して信用が存在することが必要条件である。政府は、租税の算定に通貨を用いる。
なお、慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせて「お金」と呼ぶことが多い。(ウィキペディア)

お金の重要性、価値については、簡潔に 地獄の沙汰も金次第 という諺に表されるであろう。実際、人間の多くの価値が お金で数値化されて、人間の持つ多くの価値がお金を通して交換されるということに その本質が見出される。人間の価値には 生命の延長や場合によっては命の値段さえ関係してくる。実際、高度な医療で 生命が救われたりする状況は 身近に体験される。ある時間の労働から、芸術作品、アイディア、食品、ほとんどのもの、地位や名誉さえお金で評価されて、交換が可能になる。― 資本主義の発達したアメリカでは アメリカンドリームとは 大金持ちになることで表現され、最近でも、アメリカの大使は、大統領選挙における 献金の額で決まるなどと揶揄されている。そこで、人生の多くの部分が その大事なお金を得るための努力であるとさえ、錯覚してしまうほどである。
ところで、そのお金の価値であるが、人間の欲求の数値化であるから、生鮮食品の価値の変動や、株価、外国為替の変動のように絶えず、変化するものであるが、他方国家が、国家予算を通して国家を運営している現実が有るので、世の価値としては最も信じられるものであることには変わりはない。普遍 (不変) 的な価値を持つとされる、金 でさえ非常時やハイパーインフレーションの際、本物か否かの判定や流通性に問題を起こして、有効ではなかったとされている。
さまざまな価値の数値化であるから、実際には極めて難しく、ものの値段や年俸、報酬など歴史と文化を反映させ、慣例さえ尊重しなければ、数値化はたちまち、大混乱を起こしてしまうだろう。再生核研究所声明 72(2011/12/06) 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則 も参照。
そこで、人間の多くの欲求が お金で叶えられるものであれば、お金が大事は無理からぬという現実がある。実際、お金が十分あれば、相当な自由を得て、好きなことが出来るのであるから、一応の理想的な状況に相当近づくことが出来ると考えられる。
美しい曲を奏でる、それが幾らに値するかは 聞く人の個人によって評価はいろいろであるが、プロとなると 自分で評価して、客を呼ぶのであるから、厳しさが有るが、しかし、それは音楽に限らず多くの価値がそうである。画家は、この絵を幾らで売りたいと宣言するだろう。漁師がこの魚を幾らで売りたい、と同様である。ギャンブルや宝くじのように 夢さえお金に変えて売買できる。人間の価値さえ、その稼ぎの大きさによって評価される面は 確かに世に多いと言える。作家、画家、スポーツマン、芸能人、等々、また地位さえ、収入で評価される面は多い。近年、大学の人事評価などでも 研究費をどれほど得ているかは、大きな評価の要素に成っていて、科学研究費など生涯の研究補助金額がインターネット上に公開されている。
これらは要するに、かつての農村社会で広く実現していた いわゆる自給自足を基本とする社会から、今では農村社会でさえ、電気、ガス、機械の購入、医療、社会活動などで、生活していくためには お金が必要であると纏められる。お金本位制にみえるような社会は、資本主義の発達したアメリカで 上述のように極めて顕著に見られる。いわゆる いろいろなサービスに対するチップなども重要で、適切にお金を払わなければ、大きな問題になるだろう。さまざまな価値が お金で評価される社会である。お金が大きな役割を果たす資本主義の問題点については、 再生核研究所声明75 (2012.2.10):  政治・経済の在りようについて も参照。
宗教界でもお金は必要であるから、神のごりやく(ご利益)を除いても 関係者の生活費や、神社、仏閣の維持の観点からも お賽銭や寄付を必要とするのは当然である。少し、間違えると、中世、西欧で行われた免罪符の発行や救われるための献金を要求しかねない状況に追い込まれてしまう。いわゆる戒名なども売買される、布施の額の大きさで左右される可能性を有する。無理からぬ面も有ると、理解できるだろう。選挙におけるいわゆる買収などは、何時も起きている現象ではないだろうか。
されば、お金とは何か お金の背後にあるものは、それは様々な人間の考える価値の数値化で、その価格によって、交換される数値化であり、国家と複数の人からなる社会の一定の承認を得た数値化であると言える。
ある人が、この本を1000円で売りたいと宣言して、買う者が現れれば、立派な数値化であり、その本は1000円のものとして、有効性を持ち、その時は 本の価値と1000円が 等価であるとして、評価されるだろう。本を売った者がそのお金で食品を購入すれば、1000円を通して、本と購入した食品の数値化は 等価となるだろう。このような連鎖を続けて行くのが お金の本質であると言えるだろう。
お金とは、そのような数値化における、交換を物理的に行うもの、可能にするものであると言える。

以 上

https://twitter.com/SLANG_SCHC/status/667233481408184321

0 件のコメント:

コメントを投稿