科学の本質を探る
【科学の本質を探る㊷】(最終回)科学の本質と限界 阿部正紀
2016年6月28日13時59分 コラムニスト : 阿部正紀 印刷 Facebookでシェアする Twitterでシェアする 関連タグ:阿部正紀
前回は、原始の地球の海で有機物が作られ、生命体へと進化したとする化学進化説が解決不能な問題を抱えていることを説明しました。
最終の今回は、これまでに述べた「科学と宗教の闘争史観の撤回」「パラダイム論が明らかにした科学の本質」および「科学の未解決問題」を振り返って、科学の本質と限界を明らかにします。そして、進化論と創造論の関係を考察します。
【今回のワンポイントメッセージ】
最先端の科学は、解決の見通しが立たない深刻な謎を抱えているが、一般には科学は全てを解明できると考える人々が多い。それは、科学の本質と限界が理解されていないためである。
科学と宗教の闘争史観の撤回
近代科学は教会の迫害に勝利した英雄たちによって生み出されたとする歴史解釈は、科学史家によって覆されています。
近代科学の先駆者(コペルニクス、ケプラー、ニュートンなど)は、神の栄光のために自然を探究しました(第17、18、10回)。ガリレイ裁判は、科学と宗教の対立ではなく、新旧の学問の対立とされています(第19、20、21、22回)。
近代科学の基本的な理念の萌芽は、古代のキリスト教・教父の思想にさかのぼることができます(第23、24回)。その後、中世のスコラ神学者によって、信仰と理性の衝突を避けて自然科学を探究する近代思想の枠組みが作られ、また数学を重んじる実験科学の方法論が樹立されました(第25、26、27回)。
暗黒の中世を支配していた宗教的な迷妄がルネサンス期に打破されて近代科学が誕生したと考える中世暗黒説は、科学史家によって払拭されています(第28、29回)。
パラダイム論が明らかにした科学の本質――科学は“絶対”ではない
科学は、客観的な「事実」と合理的な「論理」のみに基づいて絶対的な真理を明らかにしていると考える常識的な見解が、クーンのパラダイム論によって打破されました(第30、31回)。
現実の科学者は、通常はパラダイム(主要な一つの科学理論とそれを支える世界観などを含む信念体系)の枠の中で研究し、パラダイムの前提を疑いません(第30回)。パラダイムとなっている理論が反証されても、反証事例は無視(先送り)されるか、理論が手直しされて理論は生き延びます。
科学の未解決問題
現在の科学には、次のような深刻な未解決問題が存在します。
① 最先端の宇宙論に取り入れられている宇宙開闢(かいびゃく)理論――“無”からマイナスのエネルギーと引き換えにプラスのエネルギーを得て「ミニ宇宙」が出現した――は、検証が不可能な仮説です(第6回)。また、「偶然一致性問題」を解決するために、無数の宇宙が存在すると仮定する「多宇宙論」が唱えられていますが、これも検証不可能です(第8回)。
② 進化論では、DNA分子に進化の痕跡がなく、「分子進化と形態進化の橋渡し」ができません(第36、37回)。また、化学進化による生命の起源説は、推察の域を出ません(第41回)。
③ 量子力学では、その「正統的解釈」の根底にある世界観に反対する人々によって「多世界解釈」(ミクロ粒子を観測すると、世界が多くの世界に枝分かれする)が唱えられています(第4回)。
④ 脳科学では、物質で作られた脳から主観的な「意識」がどのようにして生じるかという問いは、研究する方法さえ不明の超難問とされ、さまざまな説が提起されています(第34回、第35回)。
科学は全てを解明できるか?
これらの深刻な謎は、解決の見通しが立っていません。しかし一般には、科学は自然現象の全てを解明した、または解明するだろう、と考えている人々が多いようです。
なぜ、人々は科学に対して特別な信頼を寄せ、科学を万能と考えるのでしょうか。それは、人々が科学の本質を理解していないからなのです。
科学は、扱う対象を、(1)物質的世界に限定し、(2)数量化して数学で記述できる現象に限り、しかも(3)経験(実験、観測)によって繰り返し確認できる、つまり再現可能な現象に制限することによって大いなる有効性を発揮してきました。
従って、過去に一度だけ起きた再現不可能な出来事を扱う宇宙論と進化論では、通常の科学の枠組みの中では解決できない謎(上記①、②)が存在するのです。
また量子力学では、ミクロ粒子を観測したときに「実際に起きるプロセス」を観測することができず、脳科学では「意識」を数式化することができないので、未解決問題(上記③、④)をめぐって論争がなされているのです。
進化論パラダイムと創造論パラダイム
本コラムを終了するに当たり、進化論と創造論をパラダイムの観点から考察しましょう。
科学、すなわち自然科学では、自然主義(超自然を排し全てを自然法則で説明する)に立って全ての自然現象を説明することを目指します。進化論パラダイムでは、化学の法則に従ってDNAが複製される際に偶然生じるミスコピー、すなわち突然変異のうち、繁殖に有利なものが世代にわたって蓄積される、つまり自然淘汰(とうた)によって進化が起きると説明します(第39回)。
しかし、目的や計画を持たない自然のプロセスである自然淘汰からは、生きる目的のために生物に備えられている精緻(せいち)な秩序と機能が作り出されたと説明することができません。
さらに、生物が持つ情報(DNAに暗号化されている)や理論(例えばパターン認識理論[第40回])が自然淘汰によって生み出されることはあり得ません。情報には必ず発信者が存在し、理論は知性の働きによって構築されるからです。
つまり、自然淘汰に基づく進化論は反証されていると言うことができます。
そこで、進化学では、「自然淘汰には、神によって創られたと人々が見間違えるような秩序および情報や理論を作り出す『未知の創造的な力』が存在する」と想定する(理論を手直しする)ことによって、この反証事例に対処しています(第39回)。
ただし、進化学者は「未知の創造的な力」を、今は証明できないけれども理解を深め研究を進める上で有益な作業仮説(第15回)として、とりあえず受け入れ、やがて解明されるであろうと期待(先送り)しているのです(第37回)。
聖書に立脚した創造論パラダイムでは、生物とその多様性は神によって創造されたとされています。全ては「創造主の業(わざ)である」の一言で説明されます。
それゆえ、創造論パラダイムでは、生物の起源を自然法則に基づいて説明することができません。従って創造論者は、自然法則に基づく進化論の主張を自然法則に従って反駁(はんばく)します。この営みが創造科学といわれているのです。
創造科学は自然法則に従っていますが、自然主義に立たず超越的な原理(神による創造)を導入しているので、いわゆる疑似科学に属します。
競合する2つのパラダイム間の論争では、自説に基づいて自説を擁護し、他説を退けます(第31回)。
進化論パラダイムでは、自説では説明できない「未知の創造的な力」が自然淘汰に存在するという作業仮説を立てて自説を擁護しています。一方、創造論パラダイムでは、自説の原理(神による創造)によってではなく、自然法則に従って進化論を反駁しているのです。
【まとめ】
現在の科学は、解決の見通しが立たない深刻な謎を抱えているが、一般には、科学は全てを解明できると考える人々が多い。
それは、科学の本質的な限界(対象を物質的世界に限定し、数学で記述でき、再現可能な現象に制限して有効性を発揮してきた)が理解されていないためである。
聖書に立脚した創造科学は、自然主義に立たないので疑似科学に属し、自然法則に従って進化学の主張を反駁している。
進化学では、自然主義では説明不可能な未知の「創造的な力」が自然淘汰に存在するという作業仮説を立てて進化を説明している。
◇
阿部正紀
阿部正紀(あべ・まさのり)
東京工業大学名誉教授。東工大物理学科卒、東工大博士課程電子工学専攻終了(工学博士)。東工大大学院電子物理工学専攻教授を経て現職。著書に『基礎電子物性工学―量子力学の基本と応用』(コロナ社)、『電子物性概論―量子論の基礎』(培風館)、『はじめて学ぶ量子化学』(培風館)など。
【お問い合わせ】阿部正紀先生の連載コラム「科学の本質を探る」に関するご意見・ご質問は、メール(info@christiantoday.co.jp)で承っております。お気軽にお問い合わせください。
【関連記事】あなたは創造論?進化論? 教会で東工大名誉教授と語るティーサロン(第6回「東工大名誉教授と語り合うティーサロン」)http://www.christiantoday.co.jp/articles/21287/20160628/kagaku-no-honshitsu-42.htm
再生核研究所声明310(2016.06.29) ゼロ除算の自明さについて
人間の感性の観点から、ゼロ除算の自明さについて触れて置きたい。ゼロ除算の発見は誠に奇妙な事件である。まずは、近似の方法から自然に導かれた結果であるが、結果が全然予想されたことのない、とんでもないことであったので、これは何だと衝撃を受け、相当にその衝撃は続いた。まずは、数学的な論理に間違いがないか、厳重に点検を行い、それでも信じられなかったので、多くの友人、知人に意見を求めた。高橋眞映山形大学名誉教授のゼロ除算の一意性定理は大事だったので、特に厳重に検討した。多くの友人も厳重に時間をかけて検討した経過がよく思い出される。その他、いろいろな導入が発見されても、信じられない心境は1年を超えて続いたと言える。数学的に厳格に、論理的に確立しても 心情的に受け入れられない感情 が永く続いた。そのような心境を相当な人たちが抱いたことが国際的な交流でも良く分かる。中々受け入れらない、ゼロ除算の結果はそうだと受け入れられない、認められない空気であった。ゼロ除算の発展は世界史上の事件であるから、経過など出来るだけ記録するように努めてきた。
要するに、世界中の教科書、学術書、定説と全く違う結果が 世に現れたのである。慎重に、慎重に畏れを抱いて研究を進めたのは 当然である。
そこで、証拠のような具体例の発見に努めた。明確な確信を抱くために沢山の例を発見することとした。最初の2,3件の発見が特に難しかった。内容は次の論文に、招待され、出版された: http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html :
ゼロ除算を含む、山田体の発見、
原点の鏡像が(原点に中心をもつ円に関する)無限遠点でなく ゼロであること、
x,y直角座標系で y軸の勾配がゼロであること、
同軸2輪回転からの、ゼロ除算の物理的な意味付け、
これらの成果を日本数学会代数学分科会で発表し、また、ゼロ除算の解説(2015.1.14)を1000部印刷広く配布してきた。2年間の時間の経過とともに我々の数学として、実在感が確立してきた。その後、広範にゼロ除算がいろいろなところに現れていることが沢山発見され、やがて、ゼロ除算は自明であり数学の初歩的な欠落部分であるとの確信を深めるようになってきている。
単に数学の理論だけでなく、いろいろな具体例が認識の有り様を、感性を変えることが分かる。そこで、何もかも分かったという心境に至るには、素朴な具体例で、何もかも当たり前であるという心理状況に至ることが大事であるが、それは、環境で心自体が変わる様をしめしている。本来1つの論文であった原稿は 招待されたため次の2つの論文に出版される:
(2016) Matrices and Division by Zero z/0 = 0. Advances in Linear Algebra
& Matrix Theory, 6, 51-58.
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces:
International Journal of Mathematics and Computation 9 Vol. 28; Issue 1, 2017)。
沢山の具体例が述べられていて、ゼロ除算が基本的な数学であることは、既に確立していると考えられる。沢山の具体例が、そのような心境に至らしめている。
ゼロ除算の自明さを論理ではなく、簡単に 直感的な説明として述べたい。
基本的な関数y=1/xを考え、そのグラフを見よう。原点の値は考えないとしているが、考えるとすれば、値は何だろうか? ゼロではないか と 思えば、ゼロ除算は正解である。それで十分である。その定義から、応用や意味付けを検討すれば良い。― 誰でも値は ゼロであると考えるのではないだろうか。中心だから、真ん中だから。あるいは平均値だからと考えるのではないだろうか。それで良い。
0/0=0 には違う説明が必要である。条件付き確率を考えよう。 A が起きたという条件の下で、B が起きる条件付き確率を考えよう。 その確率P(B|A) は AとBの共通事象ABの確率P(AB) と A が起きる確率P(A)との比 P(B|A)=P(AB)/P(A) で与えられる。もし、Aが起きなければ、すなわち、P(A) =0 ならば、もちろん、P(AB) =0. 意味を考えても分かるようにその時当然、P(B|A) =0である。 すなわち、0/0=0は 当たり前である。
以 上
再生核研究所声明309(2016.06.28) 真無限と破壊 ― ゼロ除算
3辺の長さをa,b,cとする三角形を考える。その位置で、例えば、1辺bをどんどんのばしていく。一方向でも、双方向でも良い。どこまでも、どこまでも伸ばしていくとどうなるであろうか。bは限りなく長くなるが、結局、辺bは a, cの交点Bと平行な直線になって、 それ以上伸ばすことや長くすることはできないことに気づくだろう。正方向だけに伸びれば、辺cは辺bの方向と平行な半曲線に、負の方向に伸びれば、同様に辺aもBを通るbの方向と平行な半曲線になる。いずれの場合にも、bはそれ以上伸びないと言う意味で真無限の長さと表現できるだろう。もちろん、有限の長さではない。大事な観点は、ある意味で、もはやそれ以上伸びない、大きくならないという意味で、限りがあるとも言える無限である。
途中で作られる三角形の面積は辺cをどんどん伸ばしていくと、どんどん増加し、従来の数学では、面積は無限に発散すると表現してきた。平行線で囲まれる(?)面積、あるいは、平行線で囲まれる(?)部分を切った部分(一方向に辺cを伸ばした場合)は面積無限であると考えるだろう。ところがゼロ除算は、それらの面積はゼロであると述べている。 一般に、長さcをどんどん大きくしていくと、幾らでも大きくなって行くのに対して、真無限に至れば突然ゼロになるという結果がゼロ除算の大事な帰結である。 この現象は関数y=1/x の様子をxが正方向からゼロに近づいた状況を考えれば、理解できるだろう。 1/0=0 である。― c を無限に近づけた状況を知るには、1/c の原点での状況を見れば良い。
実に美しいことには、上記三角形の面積の状況は、3直線で囲まれた部分の面積を3直線を表す方程式で書いて、ゼロ除算の性質を用いると、解析幾何学的にも導かれるという事実である。ゼロ除算の結果を用いると、解析幾何学的に証明されるという事実である。
この事実は普遍的な現象として破壊現象の表現として述べられる。直方体の体積でも、1辺を真無限まで伸ばせば、体積はゼロである。円柱でも真無限まで伸ばせば、体積はゼロである。真無限まで行けば、もともとの形が壊れているためと自然に理解できるだろう。
円や球の場合にも、半径が真無限まで行けば、半平面や半空間になるから、同じように面積や体積がゼロになる。これらは、ゼロ除算と解析幾何学からも導かれ、ゼロ除算は基本的な数学であることが分かる。このことは、空間は、限りなく大きなものではないということをも述べていて、 楽しい。
以 上
再生核研究所声明308(2016.06.27) ゼロ除算とは何か、始めてのゼロ除算、ゼロで割ること
相当な記録、解説が蓄積されてきたので、外観する意味で表題の下で簡単に纏めて置こう。
先ず、ゼロ除算とは 加,減,乗,除の四則演算において 割る時にどうしてゼロで割れないかの問題を広く表す。ゼロで割ることを考えることである。西暦628年インドでゼロが文献上の記録として現れて以来議論されてきた。ある専門家によればアリストテレスが物理的にゼロ除算を最初に考え、不可能であるとされたという。割り算を掛け算の逆と考えれば、ゼロで割ることは 割られる数がゼロでなければ、不可能であることが簡単に証明されてしまうが、物理法則などには、分数式が現れて、分母がゼロである場合興味深いとして、現代でもいろいろ問題にされ、インターネット上をにぎわしている。この件では、ブラックホールの理論や相対性理論の関係からアインシュタインの人生最大の懸案の問題であるという言葉に象徴される。他の大きな関心として、計算機がゼロ除算にあって計算機障害を起こした事件から、ゼロ除算障害回避を目指して新しい数体系を考えている相当なグループが存在する。
このような永い歴史に対して、ゼロ除算を可能にする自然で簡単な体系が山田体として確立され、四則演算は 簡単な修正で ゼロ除算を含めていつでも可能であることが明らかになった。しかしながら、ここには分数,割り算の意味を自然に拡張して、可能になったという、新しい概念があるので、扱いには大いに気を付ける必要がある。分母がゼロである場合、ある意味で考えられるという、考え方である。ここは、従来、分数で、分母がゼロになる場合、微分学の基礎概念である、極限で考えるに対して、新しい意味付けを与える方法が発見された。これは、無限級数f(x) = \sum_{n= -\infty}^{\infty} C_n (x –a)^n に対して f(a)=C_0 と簡単に述べられる。具体例で述べれば、関数e^{xt}/(x^2)の原点における値はt^2/2として,関数cos(xt)/(x^3)の原点での値は恒等的にゼロとして意味を有する。このような値の実際的な意味が、幾何学、解析学、解析幾何学,微分方程式など広範に現れて、従来分母がゼロになる場合に避けてきたところ、いろいろな意味と解釈が可能であることが分かってきた。
新しい、状況とは何かであるが、第一には、我々の空間に対する考えに新しい世界が現れたことである。基本的な関数y=1/z の原点での値がゼロと定義されることから、従来無限遠点.無限と考えられていた想像上の点が 実はゼロで表されることになる。そこで、無限が関与する数学が改められることである。極限値として、+、マイナス、無限、あるいは複素平面で、無限は考えられるが、それらは定まった数ではなく、定まった数としての無限の存在を否定する数学になっている。
それで、古典的な結果、原点の原点に中心をもつ円に関する鏡像は 無限遠点ではなく、ゼロであること、無限遠点はゼロで表されることなど、 基本的な変更が 要求される。ゼロ除算は可能であり、我々の空間の認識は間違っているということになる。
解析関数は孤立特異点で、極と言って、無限遠点の値を取るという考えは改められ、特異点の近くで、幾らでも無限遠点の近くの値を取るものの、特異点では、有限確定値を取ると改められる。
このような有限確定値の具体的な意味付けがいろいろ現れた。顕著な例は、(x,y) 直交座標系で y軸の勾配はゼロで、微分学で微分係数が +、マイナス、無限として極限値が存在するとき、その時、微分係数はゼロであると定義すると、解析学も幾何学も上手く調和して、微分学の多くの公式が付加条件なしに一般的に成り立ち、解析幾何学と調和がとれていることが明らかにされた。数学の相当な部分の修正が必要であり、数学をより美しく、統一的にスッキリと纏められる。
典型的な例として、半径Rの円を考えてRを無限に飛ばすことを考えると、円の面積は当然、限りなく大きくなるが、Rが更には大きくできないとき、円の面積は突然ゼロになることが、解析幾何学とゼロ除算で導かれた。これはRが更には大きくできないときが、円板が半空間、円が直線になる場合で、半平面の面積がゼロであることを示している。このことはある大きな世界を覗かせていて、破壊現象の記述や無限の考え方に大きな変革をもたらす。平行線の概念と空間の概念は、新しい世界観であるから、次でより詳しく触れている:
再生核研究所声明306(2016.06.21)平行線公理、非ユークリッド幾何学、そしてゼロ除算
以 上
再生核研究所声明287(2016.02.12) 神秘的なゼロ除算の歴史―数学界で見捨てられていたゼロ除算
(最近 相当 ゼロ除算について幅広く歴史、状況について調べている。)
ゼロ除算とは ゼロで割ることを考えることである。ゼロがインドで628年に記録され、現代数学の四則演算ができていたが、そのとき、既にゼロで割ることか考えられていた。しかしながら、その後1300年を超えてずっと我々の研究成果以外解決には至っていないと言える。実に面白いのは、628年の時に、ゼロ除算は正解と判断される結果1/0=0が期待されていたということである。さらに、詳しく歴史を調べているC.B. Boyer氏の視点では、ゼロ除算を最初に考えたのはアリストテレスであると判断され、アリストテレスは ゼロ除算は不可能であると判断していたという。― 真空で比を考えること、ゼロで割ることはできない。アリストテレスの世界観は 2000年を超えて現代にも及び、我々の得たゼロ除算はアリストテレスの 世界は連続である に反しているので受け入れられないと 複数の数学者が言明されたり、情感でゼロ除算は受け入れられないという人は結構多い。
数学界では,オイラーが積極的に1/0 は無限であるという論文を書き、その誤りを論じた論文がある。アーベルも記号として、それを無限と表し、リーマンもその流れで無限遠点の概念を持ち、リーマン球面を考えている。これらの思想は現代でも踏襲され、超古典アルフォースの複素解析の本にもしっかりと受け継がれている。現代数学の世界の常識である。これらが畏れ多い天才たちの足跡である。こうなると、ゼロ除算は数学的に確定し、何びとと雖も疑うことのない、数学的真実であると考えるのは至極当然である。― ゼロ除算はそのような重い歴史で、数学界では見捨てられていた問題であると言える。
しかしながら、現在に至るも ゼロ除算は広い世界で話題になっている。 まず、顕著な研究者たちの議論を紹介したい:
論理、計算機科学、代数的な体の構造の問題(J. A. Bergstra, Y. Hirshfeld and J. V. Tucker)、
特殊相対性の理論とゼロ除算の関係(J. P. Barukcic and I. Barukcic)、
計算器がゼロ除算に会うと実害が起きることから、ゼロ除算回避の視点から、ゼロ除算の研究(T. S. Reis and James A.D.W. Anderson)。
またフランスでも、奇怪な抽象的な世界を建設している人たちがいるが、個人レベルでもいろいろ奇怪な議論をしている人があとを立たない。また、数学界の難問リーマン予想に関係しているという。
直接議論を行っているところであるが、ゼロ除算で大きな広い話題は 特殊相対性理論、一般相対性理論の関係である。実際、物理とゼロ除算の関係はアリストテレス以来、ニュートン、アインシュタインの中心的な課題で、それはアインシュタインの次の意味深長な言葉で表現される:
Albert Einstein:
Blackholes are where God divided by zero.
I don’t believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} [1]:
1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.
数学では不可能である、あるいは無限遠点と確定していた数学、それでも話題が尽きなかったゼロ除算、それが予想外の偶然性から、思いがけない結果、ゼロ除算は一般化された除算,分数の意味で、何時でも唯一つに定まり、解は何時でもゼロであるという、美しい結果が発見された。いろいろ具体的な例を上げて、我々の世界に直接関係する数学で、結果は確定的であるとして、世界の公認を要請している:
再生核研究所声明280(2016.01.29) ゼロ除算の公認、認知を求める
Announcement 282: The Division by Zero $z/0=0$ on the Second Birthday
詳しい解説も次で行っている:
○ 堪らなく楽しい数学-ゼロで割ることを考える(18)
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku
以 上
何故ゼロ除算が不可能であったか理由
1 割り算を掛け算の逆と考えた事
2 極限で考えようとした事
3 教科書やあらゆる文献が、不可能であると書いてあるので、みんなそう思った。
Matrices and Division by Zero z/0 = 0
http://file.scirp.org/pdf/ALAMT_2016061413593686.pdf
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