2016年6月15日水曜日

記事 THE PAGE2016年06月14日 10:00あなたは先祖代々の墓を“処分”できるか? 関心高まる「墓じまい」とは

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THE PAGE2016年06月14日 10:00あなたは先祖代々の墓を“処分”できるか? 関心高まる「墓じまい」とは




 誰にでもいつかは訪れる人生のエンディングをより良いものにしようという考えのもと、高齢者を中心に関心が高まっている「終活」。自分の生い立ちや残る家族に伝えておく情報をまとめたエンディングノートを書いたり、お葬式の準備や遺影撮影をしたり、財産処分や相続の準備をしたりなど、その内容は多岐に渡っています。その中、注目を集めているのが、お墓を建てるのではなく、先祖代々受け継いできたお墓を処分するという「墓じまい」。その背景にはどのような意図や課題があるのでしょうか。NPO法人終活サポートセンターが主催した終活イベント「終活大学」の会場で取材しました。

“お墓が見捨てられる”~ 地方で増加する無縁墓

「自分のお墓は、いつか無縁墓になる」と考える人の割合(第一生命経済研究所 調べ)

 「墓じまい」に注目が集まっている背景には、過疎化が進む地方を中心に「無縁墓(むえんぼ)」が増加しているという課題が挙げられるといいます。無縁墓とは、何年もの間に渡ってお墓の維持管理料が墓地やお寺などに支払われず、そしてお墓に眠る故人に縁のある人に一切連絡が取れなくなってしまったお墓のこと。墓地に放置されてしまったお墓です。長期間放置されたこうした無縁墓は最終的には処分されて、遺骨は無縁仏として合葬。その跡地は更地化されるのですが、増加する無縁墓への対応に地方自治体も苦慮しているのだそうです。

 加えて、この無縁墓の問題は地方だけに留まらないといいます。青山霊園や多磨霊園など都内の大規模な公営霊園でも、身寄りのない無縁墓は無数に存在しているほか、第一生命経済研究所が行ったアンケート調査でも、50代以上の半数以上の人が「自分のお墓は、いつか無縁墓になる」と考えているのだそうです。

 「終活大学」の会場で、こうした「墓じまい」をテーマにしたプレゼンテーションを行った、墓石販売などを手掛ける「まごころ価格ドットコム」代表の石井 靖さんは、「こうした動きの背景には、人口構造の変化(少子高齢化)によってお墓を引き継ぐ人が減少していることが考えられる。今の出生率を踏まえると、家を継ぐ直系の男子は1人に満たない。お墓が無縁になる可能性は誰にでもあり、実は今のお墓を将来どうするのかという課題はすぐそこに迫っている」とこの課題の深刻さを説明。終活をしている高齢者の中には、「残される子どもにお墓のことで負担を掛けたくない。いつか無縁墓になるのならば、今のうちに適切に処分したい」という思いから墓じまいをしようとする人も増えているのだといいます。

 同社では、この墓じまいに関する手続きの代行、墓石の撤去と処分、遺骨の移転先の紹介などを行うサービスを4月から開始しているそうですが、墓じまいに関する問い合わせや相談はサービス開始以前から多く寄せられていたのだそうです。

「お墓を処分する」実際に何をすればいいのか
 ただ、一言で「墓じまい」といっても、その詳しい方法はあまり知られていません。実際に何をする必要があるのでしょうか。プレゼンテーションを行った石井 靖さんに詳しいお話を伺ってみました。

 石井さんによると、墓じまいとは「お墓から遺骨を取り出し」「墓石を撤去・処分し更地に戻し」「遺骨を新たな場所に埋葬する」という一連の手順のこと。遺骨を取り出すためには、お墓がある自治体から「改葬許可証明書」という許可書を取得しなければならず、そのためにはお墓を管理する墓地や寺院が発行する「埋葬許可証明書」と移転先の墓地が発行する「受入証明書」という2つの書面が必要になるといいます。勝手に遺骨を取り出してお墓を処分してはいけない仕組みなのです。必要な行政手続きが完了して初めて、お墓を処分することができるようになります。


墓じまいの大まかな流れ

 ここで気になるのは、取り出した遺骨はどうするのかという点。上述の通り、遺骨を取り出すためには必ず移転先を決めなければなりません。その方法にはお寺が遺骨を永久に管理して将来的には合葬する「永代供養墓」や「納骨堂」への埋葬、墓地の中で墓石ではなく樹木のそばに遺骨を埋葬する「樹木葬」、そして海などに遺骨を撒く「散骨」といったもの。そして、最近では夫婦両家のお墓をひとつにまとめる「両家墓」も増加しているのだといいます。「今後の供養をどのように行っていくかという視点で、次の埋葬方法を選ぶことが重要だ」(石井さん)。

墓じまいで後悔しないために、事務手続き以上に重要な準備とは



遺骨の一部を携帯用の小さなカプセルに入れることもできる(写真はライターとの大きさ比較)

 しかし石井さんは、墓じまいをする上で重要なのはこうした事務手続きだけではないといいます。

 ひとつは、お墓を長年管理してきた寺院への配慮だといいます。「地方の寺院にとって、檀家離れ(離檀)は死活問題。適当な気持ちで墓じまいを伝えるだけでは後々トラブルになる場合もあるので、しっかりと墓じまいの理由や目的を説明して誠意と(これまで供養してくれた)感謝の意をもって対応すべき」と石井さんは説明します。また同じように、故人と縁のある親戚への説明と合意形成も重要だといいます。「墓じまいをしたあとに、それを知らなかった親戚から叱責されトラブルになるケースもある」(石井さん)。

 加えて、墓石を処分する際の業者選びも重要だと石井さんは説明します。墓じまいをする際の墓石の処分は、一般的に解体業者が行うことが多いそうですが、中には作業中に近隣の墓石を傷つけてしまったり、悪質な業者の中には引き取った墓石を不法投棄してしまったりするケースもあるのだとか。「中には、墓石を神社やお寺に寄贈してタイルなどに再利用するケースもあるが、基本的に墓石の取り扱いは専門の墓石業者に依頼するのが適切ではないか」(石井さん)。

 そして何よりも重要なのは、“自分自身の心のケア”だと石井さんは説明します。「墓じまいをして後悔しないために、遺骨の次の安置場所を考えることは非常に重要。例えば、墓じまいをして遺骨を散骨を行い、その後“どこに手を合わせれば故人のことを感じられるのかわからない”と心の拠り所を失ってしまったケースもある」と石井さん。石井さんによると、こうしたニーズに対して同社では処分した墓石をプレートにして家に飾ったり、遺骨の一部を小さいカプセルに入れて自宅の仏壇に安置できる商品を提供しているのだそうです。「遺骨の一部を自宅など別の場所に保管するためには、(墓地の管理者が発行する)分骨証明書があれば行政手続き的には問題ない」(石井さん)。

 大事な個人の仏を無縁にしないために行う墓じまいによって、お寺や親戚に迷惑を掛けたり、自分自身が故人との縁を失ってしまうことのないように、どうすれば故人のことを末永く想える形ができるかを考えて墓じまいを行う必要があるというのが、石井さんの考えです。

大切にしなければならないのは「お墓」か「仏」か
 石井さんによると、こうした墓じまいへの関心が増加している背景には、冒頭に紹介したような少子高齢化や家族形態の変化による“お墓の跡継ぎ不足”があるといいますが、そもそも団塊の世代あたりから、「お葬式」「お墓」といった自分の死後に待っている伝統的なしきたりに対して、「自分や子どもたちの負担になるくらいならやらなくてもいい」と疑問を持つようになってきたのだと言います。この世代の人々は、お葬式や法事などを通じて、自分の父母が行き過ぎた古い価値観に苦労している様子を目の当たりにしています。そうした姿を見て、「自分の子どもたちには同じ苦労をさせたくない」という意識変化が生まれているのかもしれません。

 もちろん、墓じまいと聞いて「代々受け継いできたお墓を潰すなんて、罰当たりだ」と思い人も依然として多いはずです。しかし石井さんは、「墓じまいをしようとしている人たちは、決して故人の仏を軽んじているわけではない。むしろ、お墓に収めたあとにそのまま放置されて無縁墓になっていくほうが、よっぽど仏を軽んじているのではないか。本当は、仏を粗末にせずに永代まで大切に管理できる環境を整えてあげることが大事ではないか」と語ります。今を生きている私たちにとって、お墓とは亡くなった故人へ思いを伝える大切な場所ですが、そこで重要なのは墓石という形ではなく、故人を思い続けるという心だと言えるのではないでしょうか。今後、墓じまいの拡大によって、“故人を供養する”ということに対する世の中の価値観は、大きく変わっていくのかもしれません。

(取材・執筆:井口裕右/オフィス ライトフォーワン)http://blogos.com/article/179373/


再生核研究所声明 120 (2013.5.24): 終末の在りようについての 総合的な検討を、遅れている面での 文化を進めよう ― 個人の自由意志の尊重に基づく  肯定死の保証 と 方法の確立を

人間の終末の在りようは、生きたいという生命の本能に抵触するように感じられるから、誰とて、考えたくない課題であると言える。しかしながら、伝統、習慣、宗教などの永い役割は 自然科学的な精神の影響をうけて、大きな変革が起きていると考えられる。
これは 社会の在り様の問題であるから、まずは、再生核研究所声明1(良い社会を作るには)における、公正の原則を基本に考えるべきであると考える。他の重要な要素とは 基本的な人権に基づく、個人の自由意志の尊重である。客観状況としては、世界に70億を超える人口を有す地球規模における 人口抑制の視点で 今後大きな問題に発展すると考えられる。もちろん、この世の何事をも 再生核研究所声明13: 第1原理 ― 最も大事なこと に 抵触、背馳してはならない。

再生核研究所は、再生の理念を進める研究所であるから、その原点である死の問題を 再生と一体の問題として 一貫して重要視してきている。
生も死も一体のものと 捉えられるようになれば、ただ1日でも、少しでも長く生きれば良いとは考えず、肯定死も肯定できると考える(再生核研究所声明 47: 肯定死)。また、次も参照: 再生核研究所声明 118: 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ― 再生核研究所声明 19 : 超越への道、悟りへの道 をおし進めると ― 
人間は自分の生命をも選択する自由を有し、自己の全人生に責任を果たすことが出来る 高貴な存在であると考える。
ところが 有史以来、肯定死を肯定し、どのように保証し、実現を保証するかという社会制度は、在りようは 検討されたことさえ無いようである。
そこで、基本的人権として、肯定死を肯定し、実現させる方法の総合的な検討を提案する。公正の原則と個人の自由意志の尊重を基本に 将来の問題として検討すべきではないだろうか、提案したい。
関連問題として、
終末医療の在りよう、
最期の時を迎える、在りようの検討、
葬儀の在りようの検討、
墓など その後の在りようについての 総合的な検討。
それらは、文化や伝統、習慣、宗教、個人の考え方によって大きな影響を受けるので、上記 公正の原則と個人の自由意志を尊重する形で、慣性の法則(再生核研究所声明 72:慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)なども 参考にして、慎重に しかし、総合的な検討が求められる時代を迎えているのではないだろうか。
人生についての総合的な見方については (再生核研究所声明74: 人生・生命の肯定について) を参照。
フランスでも同性婚が認められ、ポルトガルでは 既に法律で認められているが、 公正の原則に背馳しない限り、個人の自由意志を尊重し、多様な世界を志向するのが良いのではないだろうか。上記検討課題についても、個人の自由意志の尊重である。


以 上

再生核研究所声明 63 (2011.05.25) : 
解脱; 神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得

人が世に生まれ、終末を迎えるに当たって、できれば、人生を肯定的にみて、安らかな終末を迎えたいと考えるのは 相当に基本的な願いではないかと考える。そこで、再生核研究所声明においても、 再生核研究所声明19: 超越への道、悟りへの道、再生核研究所声明 57:人生とは何か、人生如何に生きるべきか などで、ふれ、人生の意義などについても、再生核研究所声明12: 人生、世界の存在していることの意味について などでふれている。 しかるに、

2011.5.14.08:40 宿舎から研究室に向かっているとき、無意識に歩けるとは 何と素晴らしいことだろう、と思い巡らして歩いていたら、 突然、 解脱という言葉が 湧いてきて、 その意味を理解できました。 その意味は 暫く、検証するとして、効果は、死の現象をのりこえて、 永遠の生命に 帰依することが できるだろうと 直観した。

と 直ちに書き留めておいたように、理由もなく解脱の言葉が湧いてきて、その本質を直観したような経験をした。 そこで、 その背景を言葉で表現して、解脱への暗示、ヒントとしたい。 このような見方が、神、自由、不死に至る道、1種の悟り、安らかな終末を迎える心構えになると考える。

人間とは何だろうか、 人生とは そもそも何だろうか。 多くの人は毎日歩いているが、 しかし、 考えて歩いているのは、意識して歩いているのは殆どないと言える。 すなわち、私たちは無意識のうちに歩いているのである。 それと同じように、 恋をして子供を儲けたり、育ててきたりしていますが、 人生の殆どは 本能のような 何かに動かされて生きてきているとも言えます。 我々の意識する世界とは、 我々の大きな生命のいとなみからすると、ほんの僅かな部分に過ぎないことが分かる。 なぜ生まれてきて、 どうなって行くのかも分からないのが、 人間であり、 人生と言えます。 我々を世に送り、その本質部分を動かしているのは、元祖生命体の 生命のいとなみ自身 ではないでしょうか。 その雄大な生命の一部を ほんの少し、担っているのが 人生ではないでしょうか。 雄大な生態系の ほんの一部を になっている のが人生であり、人間ではないでしょうか。
私たちは、その雄大な生命、元祖生命体のほんの一部ですから、我々の仮想的な部分が消えてもその本質である元祖生命体は永続していく 雄大な存在と言えます。 解脱とは、 仮想的な個人、 人間を離れて、超えて、その雄大な生命に帰依することではないでしょうか。我々のうちには、元祖生命体の本質が内在していて、ここの固体を超えた 大きな生命に通じているのではないでしょうか。 ここの固体から、その永遠の生命を直観するには 世の現象を真面目に見つめ、 自分の内なる世界を見つめれば、自然に湧く信仰として、実現するのではないでしょうか。 ここに朽ち果てていく 自分の生体がある、 その魂は 上記 雄大な生命の一部として、永続していくが、 元祖生命体の乗り物である生物個体としては、滅びていかざるを得ない。 また、元祖生命体の いとなみの全貌、目標などは 知ることもできない。 しかしながら、人間、人生が雄大な生命活動のほんの一部の活動であり、我々が知り、感じ、想像する世界は 実は幻のように儚い 小さものであることを知ることは、 神、自由、不死を感得し、悟りへの道になると考える。
個々の人間の生体は、元祖生命体の、 たとえば、人体の中の一細胞のような存在と考えられよう。
多くの芸術家や数学者は、己が生命の活動として、作品や理論を創作しているが、実は、それらは厳然として実在していたものを 生命活動としての情念によって 内なる生命が働きかけて 形に成ったもので、 実は 自分が創造したものでも、努力して作ったものでもないと言えるのではないでしょうか。 それらの背景には 元祖生命体の 生命体の発露 の一部を見ることができる。
もしわれわれが、 大いなる生命を実感したいと思うならば、絶壁に立ったり、死の面前に立って、われ死するべきかと自らに問えば、 内なる生命は、 単なる自己の意識や感情を越えて、否、それを阻止する 大いなる生命の叫び を感得することができるだろう。 また、親族や民族や友人や親しむ動物や植物に、 それと同じような、共感と共鳴を感じるならば、自己を越えた、大いなる大義に目覚めるときでもあると言える(再生核研究所声明 41:世界史、大義、評価、神、最後の審判)。 ― このような文章自体、私が書いたものではなくて、実は、上記 元祖生命体の生命の叫びとして、私を通して、表現しているものと言える。
以 上

再生核研究所声明 47(2011.02.08):  肯定死

(2011年1月5日 9時10分、 浅草に近づき、電車の窓外の空を見たときに電光のように閃いた考えです。 新しい声明の案がひとりでに、わきました。 全構想は瞬時にできていましたが、それを検討し、成文化したものです。 題名は肯定死、という 現代では問題のある思想です。人間の終末に対する新しい考え方です。これは社会的影響が大きいと考えられるので、全文は 当分、公表を差し控えたい。)

そもそも人生とは何か、これを内からみれば、人生とは、個人の考え、知り、感じ、予感し、想像する、すなわち、知覚する全体であり、それらが良いと感じられれば、それだけ良い人生であると言える(声明12: 人生における基本定理)。 しかしながら、我々はまず、個々の人間を越えて、存在し、生き続けていく、 元祖生命体の考え (声明36) をしっかりととらえ、 生命の基本定理 (声明42) - 生きて存在しなければ、 何も始まらない - 元祖生命体の生存に心がける、 最も大事なこと(声明13)に思いを致すべきである。しかしながら、個々の人間は、遺伝子の乗り物のように滅びていくのが、事実であり、それはあらゆる生物の運命であると考えられる。 しからば、その人間の終末は如何にあるべきか。 それはちょうどあらゆる生物の終末のように、意識の存在の有る無しに関わらず、生物個体の生命として、人事を尽くして、少しでも生命を長引かせると考える、伝統的な考えは それなりの固有な意義を有するものであると考える。 否定するものではない。(以下 当分非公開)

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