2017年5月2日火曜日

『SMAP×SMAP』コント演出家が語る「慎吾くんは放置すると面白いんですよ」 『SMAP×SMAP』コント演出・小松純也さんインタビュー #3 - てれびのスキマ

『SMAP×SMAP』コント演出家が語る「慎吾くんは放置すると面白いんですよ」 『SMAP×SMAP』コント演出・小松純也さんインタビュー #3 - てれびのスキマ
『ごっつええ感じ』や『笑う犬』シリーズなどで、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンといったお笑いの天才たちのコント作品演出をした小松純也さん。実は『SMAP×SMAP』のコントコーナー演出も担当していたことをご存じだろうか。コントの時代を牽引した小松さんの目にSMAPのメンバーたちはどのように映ったのか。『笑っていいとも!』で起きたある“事件”や“戦友”たちの秘話も交えて語ってもらった。

©三宅史郎/文藝春秋

SMAPの5人はコントでの個性もバラバラ

――ダウンタウンのようなお笑いのスペシャリストの演出と、『SMAP×SMAP』でSMAPというアイドルを相手にコントを演出するやり方は、やはり違うものですか?
小松 違いますね。SMAPは本当に才能ある人たちでしたけど、どちらかというとこっちできちんと台本を作って、それを思いっきり演じてもらうという作り方でしたね。個人によってもまた違うんですけどね。本当にあのグループは個性が全然違いますから。バラバラです。例えば木村(拓哉)くんは、本をしっかり読み込んで、意図は何かということに真摯に向き合ってやりたいタイプです。だから、こっちの思っていることを実現するべく全力でやってくれる、すごく気持ちのいい人。

逆に(香取)慎吾くんは、ある程度の彼なりの裁量というか、「台本ではこれで一応終わりだけど、最後に大きい笑いになったらそこで終わるから」って言って任せると、アドリブの部分を自分で考えて全力でやる。彼の凄みが一番出るところでしたね。あの人は放置すると面白いんですよ(笑)。
――笑いに貪欲なんですか?
小松 貪欲だし、天才肌なところがあって、思いがけないことをやるんですよ。それがただ突飛なだけじゃなく、ちゃんとコントとして成立する。中居(正広)くんは自分で考えたい人だから、いろいろ相談しながら作っていく。草なぎ(剛)くんは、わりと忠実にやってくれる人ですけれども、あの人もどちらかというと「何とかしなさい」っていう状況に追い込まれると面白い。っていうか、人柄が出る。彼はやっぱりその人柄が出ることが面白い。

稲垣くんは、たぶん自分が面白いことをやることがそんなに得意ではないと思っている人なんですけど、それを一生懸命やった時に出てくる脇の甘さが面白い。もちろん芝居はできるし、上手。でも、自分の中で抵抗があるんですよ、人を笑わすことに。「ゴロクミ」とか、自分がそんなことをやるのかっていう抵抗が表に出ちゃうんです。その結果、愛嬌が生まれる。笑いっていろんな要素でできてるから、愛嬌が笑いになる場合もあるし、カッコよさが笑いになることもある。

©細田忠/文藝春秋

木村拓哉が見せた『TV's HIGH』での“座長の責任”

――印象に残っているコントは何ですか?
小松 僕が『スマスマ』で一番やったのは、「竹ノ塚歌劇団」っていうコント。毎回オリジナル曲を作ってやる、ものすごく金のかかるコントなんですけど、男が男役を演じるために必死でやるっていう訳の分からない話。それはやっぱりかっこいいからできる。最後、歌劇の舞台のシーンになるんですけど、そこできちんと歌って踊れるから笑いに作品性が生まれ、クオリティーが高いものになる。これはSMAPにしかやっぱりできないですよね。演出という意味では、その人にしかできないことを常にやれるようにするというのを心がけてましたね。もちろんSMAPの番組は、彼らが素敵に見えなきゃいけないっていうところがあるので、そこを考慮しつつなんですが。ネタの発想とかはこちらがやる。そこをメンバーにきちんと演じてもらうという感じ。そう考えると『笑う犬』は僕らと演者がお互いにアイデアを出し合っていましたから『スマスマ』と『ごっつ』の中間くらいのイメージですね。
――木村さん主演のドラマ仕立てのバラエティ『TV's HIGH』(2000年~01年)では脚本家の三木聡さんや宮藤官九郎さんと一緒に番組を作られていましたよね。
小松 それぞれの持ち味がありますね。あの番組は夜中に会議をやってその場でバンバン作っちゃうっていう作り方をしてました。三木さんは小ネタ大魔王みたいな人ですから、やっぱり一番ぶっ飛んでる。それは間違いない。でもあの人の言うとおりに全部作ったら番組がメチャクチャなことになっちゃう(笑)。ぶち壊しにするようなことばっかり言うんです。まあ、スゴいです、発想が。じゃあ自分が監督をやる時はどうなるんだろうと思ったら、ちゃんとまとめてるから腹立つんですけど(笑)。天才だと思います。宮藤くんは、どっちかというと手堅いというか、カッチリ作るし、仕事が早いという印象ですね。そしてもちろん面白い。
――木村さんは結構ノッてやっているという感じだったんですか。
小松 そうですね。代官山の喫茶店で打ち合わせして作るんですけど、「今度こんなことやろうと思ってる」って、彼も結構アイデアを出すんで面白かったですね。すごく楽しんでやってたと思います。ちょうど主演していた月9の『HERO』で忙しかったタイミングだったけど、クソ忙しいのに最終回の収録の最後の最後までいようとするんです。『TV's HIGH』の最後のカットはYOUさんが演じてた「のっち」が、道で薬を拾って飲んでしまって騒動が起こるっていう場面でした。のっちが中島みゆきのメロディーで「道に落ちているお薬を飲んだことがありますか~♪」って歌うシーンなので、木村くんはそこにいなくてもいい。なのに木村くんは座長の責任でずっとそれが終わるのを待ってるんですよ。こんなしょうもない番組でも(笑)。ホントにいい人なんですよ!


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再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
つくられた人間、考えてみれば、人間は気づいたら生まれていた。いつもお腹が空くから、空腹を満たしたい、できれば美味しく気持良いものを頂きたい。寒さも暑すぎるのも嫌で 快適な環境で過ごしたい。これらの気持ちは 多くの動物と同じように 誰でも懐く基本的な要求ではないだろうか。人生の意義は 感動することにある と人生の基本定理で述べた。 しかし、何故、どうして、感動するかと問えば、実はそれらは既に 定められていると言える。空腹を満たしたい、いい感動をしたい、年頃になると恋に目覚めて、注目されたり、思われたりしたい という情念がひとりでに 湧いてくる。これらのほとんどが、定められていて、われわれは多くはそのような情念に動かされて生きていると言える。すなわち、われわれの道は、生きる道は、実は定まっていて、その道を歩まされていると言える。人は何故生きているのかと問えば、多くの人は、 死にたくないから、上記のように生物の本能を満たしたいから、と答えるだろう。もし人間が、生きたくない、死にたいと 本当にそのように感じる心がつくられていれば、人間は生きず、当然、生存できず、人間は滅んでしまうだろう。だから、人間をつくったものは、人間を生かすような仕組みをわれわれに備えているのは当然である。
われわれがつくられた存在であることは 歴然である。誰ひとりとして、自分をつくったものはいなく、基本的なものは与えられ、定められている。われわれが自分で、自分の自由意思で決めた、判断したと言っても、それは良い気持ちや、感動するためなど、天賦のものに従うように働いていると言える。
人間が自由といっても、そのような意味で、われわれはつくられたものの意思に従っているだけの存在であるとも言える。そのような意味で、われわれば だだ生かされているだけの存在だとも言える。少し、哀しくもなるが、良く生きるとは、帰するところ、われわれをつくったものの意思に忠実に従って生きる、ということになる。そこで、われわれが如何につくられているかを よく知ること、そして、それに良く従って生きるのが 良いということになる。
例えば、空腹を満たしたいは、相当に基本的な要求であるから、見方を変えれば、われわれは胃の要求に縛られ、終生胃の要求を満たすように働かされているとも言える。
恋の要求、愛されたい、仲間を増やしたい、友人が欲しい、家族が欲しい、真理を追求したい、などなどみな人間の存在の仕組みに織り込まれていて、我々はそれらに支配されて働かせられていると言える。
人間が、自分が どのようにつくられているかを問うことは、なんじ自らを知れの核心ではないだろうか。人生如何に行くべきかについて、私はどのようにつくられているかと問うのは 良い方法ではないだろうか。この観点では 相当に客観的に科学的な解明を進めることができるのではないだろうか。地についた考え方であると考える。
ここには、人間如何に生きるべきかの原理ばかりではなく、人間が自分をつくったものから完全に解放され、完全な自由を得る原理さえ確かにある。

以 上

再生核研究所声明291(2016.03.07) 心の微妙さ

人間とは何かと問い、少なくとも人間はなにものかによって作られたものであると述べ(
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か)、再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得 の中で、それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流されるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。
と述べた。作られたものとは 本能原理に基づいているのは確かであるが、心の中枢にある感動する心、志、使命感、神性,良心など本能、生命の発現は極めて微妙で深いので、心の動きの微妙さに軽く触れておきたい。深いものは、それこそ、芸術、文学、音楽、宗教、あらゆる文化活動の根源になるので、きりのない深い、神秘的なものであるからである。それこそ、本能原理に従う、人間以外の生物と人間の違いをなす、ところのものであると言える。
まず、祈りの心をあげたい。ここでの祈りとは 既成の宗教的な形式ではなく、心のそこから湧くところのものである。自覚するも しないでも その心は神の概念に通じていると考えられる。
次に分かりやすい、恋の微妙さ、深さ、神秘さに思いを致したい。恋の目覚めなど、神秘的で、発現はそれこそ多くの文芸、映画、ドラマ、音楽などの主題である。恋をして生きる喜びが湧くかと思いきや、失恋して、自殺に追い込まれることさえ、世に多い現象である。― 小説とは 男と女の物語であると表現したことがある。
族のために、命を掛けるは本能原理にあるが、家族のため、大義のため、国のため、名誉のため、主君のためになど、命を掛けてきたのは世に多く、現在でも少しも変わらないと言える。
志に生きて、殉ずる精神は、人間の本質に根ざしていると言える。帰依したいとは大きなもの、愛するものに命をかけたい心ではないだろうか? 志の中枢とも言える。消えるものが消えまいとする原理から出ているものと考えられる。
人間の大きな喜び、創造は、新しく考える、気づく、発見とともに、また真智への愛とともに人間存在の原理であるとさえ言える。その心は人間の神性から出ていると言える。
日本を始め、アジア地域に見られる、無常観、寂寥感、切なさ、哀しみ、などなどは固有な人間の深い想いとして、心の微妙さの最たるものではないだろうか。
生まれながらに、巨大素数の構造に興味があるなど、生まれながらの好みや天才、才能、個性なども極めて興味深い。言葉の学習過程についても同様である。
以 上

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