市民が死刑を判断する時代「情報公開の徹底が必要」裁判員経験者・田口真義さんに聞く
裁判員制度が始まって5月21日で8年。裁判員裁判で死刑判決を受けた被告人はすでに30人に達したが、「市民が裁判員として死刑の判断に直面する時代だから、死刑に関する情報公開の徹底や国民的議論が必要」と訴えるのは、裁判員経験者の交流団体「LJCC(裁判員経験者によるコミュニティ)」の世話人、田口真義さん(41)。そう考える理由を聞いた。(ルポライター・片岡健)
●不全な情報で人の生死を決めた裁判員は心が揺れ動く
――田口さんは2014年2月、他の裁判員経験者19人と連名で死刑執行停止を求める法務大臣宛ての要請書を法務省に提出しています。
要請書は、死刑という刑罰が日本に「あるからある」と無批判に受け入れるのではなく、一度立ち止まって死刑の執行を停止したうえで、死刑に関する情報の公開を徹底し、死刑に関する国民的議論を促すように求めたものでした。中でも一番のポイントは、死刑に関する情報公開の徹底を求めていることです。署名してくれた19人の中には、裁判員として死刑判決に関わった人や死刑制度に賛成の人もいますが、この部分は誰もが賛同してくれました。
――死刑に関する情報の公開は現状のままでは不十分だと?
裁判員として死刑判決に関わった人たちと話していると、最初のうちは「きちんと議論して出した結論なので、間違いはない」と言っているのですが、あとから迷いが出てきて、「もしも間違っていたらどうしよう」と心が揺れ動くようになります。実際、控訴審で裁判員裁判の死刑判決が破棄された事件で裁判員を務めた人の中には、「自分の考えが否定された」と捉える人もいますが、「それで良かったのかもしれない」とほっとしていた人もいます。
そんなことになる一因として不全な情報で人の生死を決めていることがあります。死刑判決が出るような事件でも裁判官が死刑について、裁判員に説明するのは「日本の死刑は絞首刑です」「死刑の執行は確定から6カ月以内です」という法律に書いてあることだけなのだそうです。裁判官も死刑に立ち会うわけではないので、それ以上のことは知らないのだと思います。
――では、死刑に関し、具体的にどんな情報を公開すべきだと?
たとえば、死刑確定者の一日の生活のタイムテーブル。死刑確定者は何を食べ、何を考えているのか。執行された際、最後の言葉は何だったのか。制度のことで言えば、なぜ執行が本人に事前に告知されず、当日に告知されるのか。そしてなぜ、執行法が絞首刑なのか。さらに根源的なところでは、なぜ日本に死刑はあるのか。
あとは死刑の順番ですね。再審請求をしている死刑確定者は執行が先送りされると言われますが、そんなことが法律で定められているわけではなく、都市伝説の域を出るものではありません。「死刑のどんな情報を公開すべきと思うか」というのはよく聞かれることですが、そう聞かれると逆に「僕らが死刑について何を知っているのだろうか?」と思います。
●ジョニー・デップの抗議運動も死刑情報が事前公開だからこそ
――田口さんたちが2014年2月に先の要請書を提出した後も情報公開などの進展はとくに無いまま、死刑は執行されています。2015年12月には津田寿美年死刑囚(当時63)が死刑執行され、裁判員裁判で出た死刑判決が初めて執行された事例になりました。
「LJCC」にもその事件で裁判員を務めた人がいます。その人は執行の第一報を聞いた時は何をどう受け止めていいかわからず、整理がつかない状態で、そこにマスコミからどんどん取材の電話がきて、余計混乱したそうです。津田さんより前に死刑が確定している人もいる中、なぜ津田さんが執行されたのか、と。できれば執行はして欲しくなかったと言っていました。
――死刑に関する情報公開が進めば、制度の運用なども変わりうるのでしょうか。
先進国の中ではアメリカも死刑存置国ですが、日本と決定的に違うのは、死刑に関する情報が公開され、喧々諤々(けんけんがくがく)の議論をして、やっぱり死刑はあるべきだという結論に行き着いているか否かです。アメリカでは、死刑執行の現場をマスコミも取材できるなど、徹底的に死刑の情報を公開しています。だからこそ、執行法も絞首刑から電気椅子、薬殺へと移り変わっています。日本も死刑の情報公開が徹底されれば、そういうことがあるかもしれません。
――アメリカといえば、先日もある州で死刑執行に使う薬物の使用期限が迫ったために11日間で8人の死刑を執行する計画を発表され、俳優のジョニー・デップらが現地で抗議運動を行いました。
そういうことが起こるのもアメリカが死刑執行の情報を単に公開するだけでなく、事前に公開しているからです。日本では、死刑の執行が発表されるのは執行後ですから、今回のアメリカのような「駆け込み執行」があっても後手に回るしかありません。
●死刑に関する議論は一般市民がしないと意味がない
――死刑に関する国民的議論が具体的にどんな形で実現することを期待しているのでしょうか。
死刑に関する議論については、国民の代表である国会議員たちがすでにしているだろうという意見もあります。しかし、裁判員法で国会議員は裁判員をできないことになっていますから、そういう人たちが死刑に関して議論しても机上の空論にしかなりません。裁判員として死刑に関わるかもしれない一般市民が議論しないと意味がありません。
僕が夢想するのは、これまで刑罰や刑事司法に何ら関与していなかった人でもきちんと死刑について議論できる社会です。一般市民が海外に対し、「日本ではこういう議論を重ね、こういう理由で死刑があったほうがいいという結論になったんだ」と胸を張って説明できるならいいのですが、今はそうではない。議論の場所はファミレスでも電車の中でもいいのですが、死刑の執行があった時、「この死刑どう思う?」「絞首刑って残虐じゃないの?」みたいな議論が巷でなされるようになれば、日本の死刑への意識は変わってくると思います。
【取材協力】
田口真義(たぐち・まさよし)さん
1976年生まれ。2010年に裁判員を経験後、2012年に「LJCC(裁判員経験者によるコミュニティ)」を発足させ、各地で交流会を開くなど様々な活動を展開。更生支援や児童福祉なども行う。編著に「裁判員のあたまの中 14人のはじめて物語」(現代人文社)。5月27日(土)に広島市で講演を行う(詳細は以下のURL)
【ライタープロフィール】
片岡健:1971年生まれ。大学卒業後、フリーのライターに。全国各地で新旧様々な事件を取材している。編著に「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(鹿砦社)。広島市在住。
再生核研究所声明 16 (2008/05/27): 裁判員制度の修正を求める
素人の意見を広く求めることは、古来から行われてきた重要な考え方である。しかしながら、それらを型にはめて、一律に行う制度は、制度として無理があり、社会の混乱と大きな時間的、財政的、行政的な無駄を生み、更に良い結果を生むどころか、大きなマイナスの結果を生むだろう。 幾つかの問題点を具体的に指摘すると
(1) 制度を実行し、進めるには大きな行政的な手間と時間が掛かる。特に財政厳しい状況で大きな無駄を生む。
(2) 一般の人が裁判に関与することは、はなはだ問題である。その様なことで、時間を費やす事を好まない人や、ふさわしくない人、また希望しない人が相当数現れることが考えられる。多くの人は、そのようなことで時間をとられたり、関与することに、耐え難い苦痛を感じるだろう。
(3) 選ばれた少数の人による判断が、全国的なレベルで公正さを維持するのは難しく、また公正な裁判を要求し、期待することには無理があると考えられる。それを要求するには 大きな負担を一般の人たちにかけ過ぎる。
(4) 大きな社会で、裁判において、一律一様の考えには、無理があり、ある程度の専門性を取りいれないと、運用上も、無理が生じると考えられる。
(5) 戦後60年以上も経っていながら、裁判が遅れることに対する批判はあっても、裁判制度や裁判結果に対する批判が殆どないのは異例であり、この観点からも日本の裁判制度自身は高く評価されるべきであって、改めるべき本質的な問題は生じていないと考えられる。
上記のような状況に鑑み、例えば一律の考えを改め、裁判に参加を希望する者を公募して登録しておき、その中から選んで参加して頂く等の修正を速やかに行うべきであると考える。少なくても、裁判に強制的に参加させるべきではなく、参加しない権利を明確に認めるべきであると考える。また裁判制度の問題は別にして、一般の裁判についても、従来は、密室で判決が検討されてきているが、広く意見を聞くことは必要であり、また逆に人々が意見を述べることができるようにしておくのが良いのではないかと考える。ご検討を期待したい。 以上。
アメリカの陪審員制度みたいに、
陪審員が決めた判決内容で結審って感じになれば話も違ってくるかもしれないが、
上級審に持って行って判決内容をひっくり返せるシステムでは、
やるだけアホらしいと思うわなw
ホント、日本の司法制度ってロースクールもそうだが、
カッコだけ外国の真似をして中身スカスカってパターンが多いわなw
陪審員が決めた判決内容で結審って感じになれば話も違ってくるかもしれないが、
上級審に持って行って判決内容をひっくり返せるシステムでは、
やるだけアホらしいと思うわなw
ホント、日本の司法制度ってロースクールもそうだが、
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