面接官が聞く「あなたの最大の弱みは」への切り返し方
Liz Ryan ,CONTRIBUTOR
「あなたの最大の弱みは何ですか?」という問いは、採用面接の質問の中で最も無意味で失礼なものの一つだが、これを聞く面接官は毎日現れる。
こうした面接官は、礼儀をわきまえた人間は赤の他人からその人の弱みを聞き出したりしないということに気付いていない。
「あなたの最大の弱みは?」と聞くことは、私は無知で規則通りにしか仕事ができない人事/採用担当者ですと露呈しているようなもの。これに気付かない面接官には哀れみを感じざるを得ない。
この不快な質問は、少なくとも20年前には企業・組織の採用教則本から消えるべきだった。これが面接における最低の質問の一つだと考える理由は5つある。
1. 面接官はセラピストではない。弱みが何かは面接官にはまったく関係ない。
2. 自分の弱みを共有することなく、相手に弱みは何かという個人的な質問をするのは、ひきょうな行為。「私は自分では答えたくないことも、あなたには喜んで聞きます。私の方が地位は上なのだから!」と言っているも同然だ。
3. 人には誰しも弱い部分があるという考え方は、文化的な構築物にすぎないとの見方もある。米国では人には弱みがあるという考え方が一般的だが、他の国々では、人間には地球上での使命を果たすための完璧な能力が備わっていると信じる人が多い。
4. もし「弱み」という言葉が、自分が今よりも上達したいと思っているものを指すのだとしたら、あなたができることよりもできないことの方がはるかに多いのに、いったいその中のどれが弱みだと言えるのか? 興味があるものは時間をかければ上達するが、興味がなければ上達はしない。
5. 「最大の弱みは?」は非常に陳腐な問いであり、これだけでも惨めな質問である理由としては十分だ。使い古された退屈な面接質問集に頼る面接官は、半世紀前の面接対話集を改善する分析力も創造性も私にはありませんと公言しているようなもの。なんとも悲しいことだ!
面接で「弱み」に関する質問をされたら、選択肢は二つある。立ち上がって面接の場を去るのが一つ。これが最善の場合も実際あるが、その場にとどまりたい場合は回答しなければならない。
「最大の弱みは?」と聞かれたときは、本当は強みであることを「弱み」として答えよう、と聞いたことがある人は多い。仕事に打ち込み過ぎること、自分に厳し過ぎることなどがその例だ。
こうした退屈で使い古された答えは、元の退屈で使い古された質問と同じくらい低劣だ。ここでは「最大の弱みは?」に対する別の答え方を紹介する。
面接官:ではアンディーさん、あなたの最大の弱みを教えてください。
アンディー:私は昔、自分がもっと改善すべきだと思うことが多く、ストレスを感じていました。大学を卒業後、最初に就いた仕事では表計算ソフトのスキルを磨かなければと感じました。そこでエクセルの授業を受けてさまざまなことを学びましたが、時間がたつと本当はエクセルのことなどどうでも良かったことに気づきました。
その後、転職するたびにクリエーティブな仕事に近づいていきました。表計算ソフトのスキルが足りないという当初の懸念は、自分の力を探求するのが本当は怖かっただけだったのです。
今は、自分は弱みがある人間だとは思っていません。自分が得意になれないことは多くありますが、それでいいのです。こうしたことを上達させようとすることは、悪い時間の使い方だと思います。私の仕事は自分の好きなこと、つまりアートディレションやデザインなど、私がすでに得意なことを究めることです。
(回答はここまで)
ここではアンディーが「弱み」の質問に新鮮な切り口で回答し、面接官を考えさせることに成功している。これこそ面接での最高の展開だ。
もし面接官がここできちんと考えていなければ、面接官は他のことに気を取られてすっかり上の空だと思って間違いない。面接後2分もすればあなたのことは忘れているだろう。
アンディーは、弱みという概念自体に疑問を投げ掛けることで会話のレベルを一段階引き上げている。「私の弱みは仕事に対して真面目過ぎることです!」などと答えて、次から次へと現れる従順な求職者の仲間入りはしていない。
面接官はアンディーの回答を気に入るだろうか? 一方のアンディーは、面接官に好かれるのか嫌われるのかは、まったく気にしていない。
彼は自分のブランドを気に入ってくれる人だけと働きたいと思っている。彼が仕事に費やす時間は、自分のことを理解しない人、つまり自分に値しない人たちと共に過ごすにはあまりにも多過ぎる。
あなたも同じく、仕事に多くの時間を費やしている。ならば、自分を理解してくれる人と共に働くべきではないだろうか?
「あなたの最大の弱みは何ですか?」という問いは、採用面接の質問の中で最も無意味で失礼なものの一つだが、これを聞く面接官は毎日現れる。
こうした面接官は、礼儀をわきまえた人間は赤の他人からその人の弱みを聞き出したりしないということに気付いていない。
「あなたの最大の弱みは?」と聞くことは、私は無知で規則通りにしか仕事ができない人事/採用担当者ですと露呈しているようなもの。これに気付かない面接官には哀れみを感じざるを得ない。
この不快な質問は、少なくとも20年前には企業・組織の採用教則本から消えるべきだった。これが面接における最低の質問の一つだと考える理由は5つある。
1. 面接官はセラピストではない。弱みが何かは面接官にはまったく関係ない。
2. 自分の弱みを共有することなく、相手に弱みは何かという個人的な質問をするのは、ひきょうな行為。「私は自分では答えたくないことも、あなたには喜んで聞きます。私の方が地位は上なのだから!」と言っているも同然だ。
3. 人には誰しも弱い部分があるという考え方は、文化的な構築物にすぎないとの見方もある。米国では人には弱みがあるという考え方が一般的だが、他の国々では、人間には地球上での使命を果たすための完璧な能力が備わっていると信じる人が多い。
4. もし「弱み」という言葉が、自分が今よりも上達したいと思っているものを指すのだとしたら、あなたができることよりもできないことの方がはるかに多いのに、いったいその中のどれが弱みだと言えるのか? 興味があるものは時間をかければ上達するが、興味がなければ上達はしない。
5. 「最大の弱みは?」は非常に陳腐な問いであり、これだけでも惨めな質問である理由としては十分だ。使い古された退屈な面接質問集に頼る面接官は、半世紀前の面接対話集を改善する分析力も創造性も私にはありませんと公言しているようなもの。なんとも悲しいことだ!
面接で「弱み」に関する質問をされたら、選択肢は二つある。立ち上がって面接の場を去るのが一つ。これが最善の場合も実際あるが、その場にとどまりたい場合は回答しなければならない。
「最大の弱みは?」と聞かれたときは、本当は強みであることを「弱み」として答えよう、と聞いたことがある人は多い。仕事に打ち込み過ぎること、自分に厳し過ぎることなどがその例だ。
こうした退屈で使い古された答えは、元の退屈で使い古された質問と同じくらい低劣だ。ここでは「最大の弱みは?」に対する別の答え方を紹介する。
面接官:ではアンディーさん、あなたの最大の弱みを教えてください。
アンディー:私は昔、自分がもっと改善すべきだと思うことが多く、ストレスを感じていました。大学を卒業後、最初に就いた仕事では表計算ソフトのスキルを磨かなければと感じました。そこでエクセルの授業を受けてさまざまなことを学びましたが、時間がたつと本当はエクセルのことなどどうでも良かったことに気づきました。
その後、転職するたびにクリエーティブな仕事に近づいていきました。表計算ソフトのスキルが足りないという当初の懸念は、自分の力を探求するのが本当は怖かっただけだったのです。
今は、自分は弱みがある人間だとは思っていません。自分が得意になれないことは多くありますが、それでいいのです。こうしたことを上達させようとすることは、悪い時間の使い方だと思います。私の仕事は自分の好きなこと、つまりアートディレションやデザインなど、私がすでに得意なことを究めることです。
(回答はここまで)
ここではアンディーが「弱み」の質問に新鮮な切り口で回答し、面接官を考えさせることに成功している。これこそ面接での最高の展開だ。
もし面接官がここできちんと考えていなければ、面接官は他のことに気を取られてすっかり上の空だと思って間違いない。面接後2分もすればあなたのことは忘れているだろう。
アンディーは、弱みという概念自体に疑問を投げ掛けることで会話のレベルを一段階引き上げている。「私の弱みは仕事に対して真面目過ぎることです!」などと答えて、次から次へと現れる従順な求職者の仲間入りはしていない。
面接官はアンディーの回答を気に入るだろうか? 一方のアンディーは、面接官に好かれるのか嫌われるのかは、まったく気にしていない。
彼は自分のブランドを気に入ってくれる人だけと働きたいと思っている。彼が仕事に費やす時間は、自分のことを理解しない人、つまり自分に値しない人たちと共に過ごすにはあまりにも多過ぎる。
あなたも同じく、仕事に多くの時間を費やしている。ならば、自分を理解してくれる人と共に働くべきではないだろうか?
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再生核研究所声明167(2014.6.21)大学などで アカデミックなポストを得る心得
(本声明は あるポスドクの方の パーマネントポストに就く心得を纏めて欲しい との要望によるものである。安定した職に就きたいは 一 若い研究者の切実な願望ではないだろうか)
上記の観点で、また、安定した収入を得る心得、方法を纏めて欲しいとの要望も寄せられているが、研究者などは 大学などに きちんとした職を得ることが、生活を安定させる基本である。 一応、常勤職につけば 生涯生活は保証されるとして、極めて重要な人生の観点である。
これは人事権を有する、関与する人々、多くは関係教授の判断に左右されるが、一般的な観点と意外な観点も有るので、経験してきた、人事を顧みながら、触れてみたい。
まず、 アカデミックポストには、多くは 採用したい希望が述べられた、公募要項が有るのが普通である。 最近の人事では、多数の応募が有るから、それらの基準に達していることは、相当に必要であり、それらの基準に達しない場合には、相当に厳しいのではないだろうか。少なくても公募を公正に行なえば、厳しいと言える。多くの機関では、基準として、博士号を有すること、出版論文数など いろいろな基準が内規で定められている場合が多い、その時は、それらに達していることが 書類選考の段階でも 必要条件になってしまう。逆にみれば、そのような基準を軽く越えているように、整えて置くのは、研究者の処世の第1歩といえる。
しかし、社会も 大学もそう公正にいくものでは無く、担当者によっては、仲間を優遇したり、特別なコネが 公募精神の公正さを越えて、担当者の都合で、自分の都合で人事を行うことは結構多い。これには、研究課題が細分化し、高度化し 特別な仲間でしか、通じず、通じる仲間をとらざるを得ない状況を反映させていると言える。もっと進めれば、実権ある教授が、共同研究できる人物を、自分に寄与できる人物を探すような実状さえ 多く有するだろう。これは、公のポストでさえ、公正の原則に反するとは言えない。教授は研究を推進する大きな義務を負う者、共同研究者を探すのは大事である という観点が有るからである。 しかしながら、これも行き過ぎると、組織が専門的に偏りの人事構成に成るなど、弊害が出て来る面もある。組織や研究機関の理念に反して、機関において異質の人事構成になることは 結構多い。- 職を探す者は、そのような特殊性が有る場合には、公募要項を越えて、応募する機会があると考えるべきである。さらに進めれば、私をとれば、組織は、あなたは、このような利益を得ることができると、具体的に暗示することは、書類の作成段階でも良いのではないだろうか。
そのような面では、研究課題で、採用する者が決まる、強い要素がある。採用する側の研究課題と採用される者の研究課題の相性の問題である。研究組織は、抜群の業績と才能を有する者でなければ、研究組織内で 研究交流できない研究者を採用することは、 組織の拡大、カリキュラムの大きな変更など 余程のことが無い限り、ないのではないだろうか。このような観点からも、研究課題を、あまりにも狭い範囲に限定しないで、研究課題でも対話が広い分野で成り立つように 広げて置くのは良いことではないだろうか?
人事は採用する側にとっても極めて重要であるから、採用に責任ある者は、採用する者の人物評価を真剣に行うだろう。採用する人物の周辺についてもいろいろ意見を求め、人物についての良い定評があれば 人事を進める場合に極めて有効で、書類選考などでも大いに効果が出るだろう。これは国際会議や、研究発表場面などで 研究内容と人物評価を何時もされていると心得るべきである。そのような場面で、採用責任者の好感が定着されていれば、人事に相当に有効であろう。単に書類や文献で知る人物と、面識が有って、人物と研究課題で評価されている人物とでは 大きな評価の差が出て来ると考えられるから、研究交流は 大事な機会と捉えるべきである。その時、配偶者も交えて、良い評価が得られれば、強い印象を与えると言う意味で、さらに良い効果を生むだろう。採用責任者は 人物の背後状況にさえ、大いに気を回すだろう。人事は、いわゆる書類に現れた評価を越えて、人物評価、全人格が大きな評価の基準になると考えられる。― ここで、優秀過ぎる人材は、自分の存在を脅かす観点から、敬遠される要素もあると言う、適当な謙虚さは必要かも知れない。
コネや人脈などは 大いに大事にすべきであり、研究仲間を広げ 大きな機会の場を作るように研究活動、日常生活で心がけるべきである。相当な人事は そのような人脈、研究仲間を通して行われるのは 公募、公募、公正、機会均等と言っても、そう簡単には行かないのが 現実ではないだろうか。また、博士課程における指導教授の影響は、永く相当に強いのではないだろうか。
以 上
(本声明は あるポスドクの方の パーマネントポストに就く心得を纏めて欲しい との要望によるものである。安定した職に就きたいは 一 若い研究者の切実な願望ではないだろうか)
上記の観点で、また、安定した収入を得る心得、方法を纏めて欲しいとの要望も寄せられているが、研究者などは 大学などに きちんとした職を得ることが、生活を安定させる基本である。 一応、常勤職につけば 生涯生活は保証されるとして、極めて重要な人生の観点である。
これは人事権を有する、関与する人々、多くは関係教授の判断に左右されるが、一般的な観点と意外な観点も有るので、経験してきた、人事を顧みながら、触れてみたい。
まず、 アカデミックポストには、多くは 採用したい希望が述べられた、公募要項が有るのが普通である。 最近の人事では、多数の応募が有るから、それらの基準に達していることは、相当に必要であり、それらの基準に達しない場合には、相当に厳しいのではないだろうか。少なくても公募を公正に行なえば、厳しいと言える。多くの機関では、基準として、博士号を有すること、出版論文数など いろいろな基準が内規で定められている場合が多い、その時は、それらに達していることが 書類選考の段階でも 必要条件になってしまう。逆にみれば、そのような基準を軽く越えているように、整えて置くのは、研究者の処世の第1歩といえる。
しかし、社会も 大学もそう公正にいくものでは無く、担当者によっては、仲間を優遇したり、特別なコネが 公募精神の公正さを越えて、担当者の都合で、自分の都合で人事を行うことは結構多い。これには、研究課題が細分化し、高度化し 特別な仲間でしか、通じず、通じる仲間をとらざるを得ない状況を反映させていると言える。もっと進めれば、実権ある教授が、共同研究できる人物を、自分に寄与できる人物を探すような実状さえ 多く有するだろう。これは、公のポストでさえ、公正の原則に反するとは言えない。教授は研究を推進する大きな義務を負う者、共同研究者を探すのは大事である という観点が有るからである。 しかしながら、これも行き過ぎると、組織が専門的に偏りの人事構成に成るなど、弊害が出て来る面もある。組織や研究機関の理念に反して、機関において異質の人事構成になることは 結構多い。- 職を探す者は、そのような特殊性が有る場合には、公募要項を越えて、応募する機会があると考えるべきである。さらに進めれば、私をとれば、組織は、あなたは、このような利益を得ることができると、具体的に暗示することは、書類の作成段階でも良いのではないだろうか。
そのような面では、研究課題で、採用する者が決まる、強い要素がある。採用する側の研究課題と採用される者の研究課題の相性の問題である。研究組織は、抜群の業績と才能を有する者でなければ、研究組織内で 研究交流できない研究者を採用することは、 組織の拡大、カリキュラムの大きな変更など 余程のことが無い限り、ないのではないだろうか。このような観点からも、研究課題を、あまりにも狭い範囲に限定しないで、研究課題でも対話が広い分野で成り立つように 広げて置くのは良いことではないだろうか?
人事は採用する側にとっても極めて重要であるから、採用に責任ある者は、採用する者の人物評価を真剣に行うだろう。採用する人物の周辺についてもいろいろ意見を求め、人物についての良い定評があれば 人事を進める場合に極めて有効で、書類選考などでも大いに効果が出るだろう。これは国際会議や、研究発表場面などで 研究内容と人物評価を何時もされていると心得るべきである。そのような場面で、採用責任者の好感が定着されていれば、人事に相当に有効であろう。単に書類や文献で知る人物と、面識が有って、人物と研究課題で評価されている人物とでは 大きな評価の差が出て来ると考えられるから、研究交流は 大事な機会と捉えるべきである。その時、配偶者も交えて、良い評価が得られれば、強い印象を与えると言う意味で、さらに良い効果を生むだろう。採用責任者は 人物の背後状況にさえ、大いに気を回すだろう。人事は、いわゆる書類に現れた評価を越えて、人物評価、全人格が大きな評価の基準になると考えられる。― ここで、優秀過ぎる人材は、自分の存在を脅かす観点から、敬遠される要素もあると言う、適当な謙虚さは必要かも知れない。
コネや人脈などは 大いに大事にすべきであり、研究仲間を広げ 大きな機会の場を作るように研究活動、日常生活で心がけるべきである。相当な人事は そのような人脈、研究仲間を通して行われるのは 公募、公募、公正、機会均等と言っても、そう簡単には行かないのが 現実ではないだろうか。また、博士課程における指導教授の影響は、永く相当に強いのではないだろうか。
以 上
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